表紙 > 人物伝 > 王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝

06) 孫権は劉備を、傭兵にした

魯粛は、曹操と孫権を戦わせるため、劉備を連れてきた。孫権は、劉備に迷惑した。だが、奇跡的に赤壁で勝った。
したたかな孫権は、劉備を傭兵として使い倒すことを思いついた。魯粛の提案だったんだろうね。孫権は、足りない兵力を劉備で補い、荊州を平定します。

孫権が荊州に乗り出す理由は「ただ今は、力をつくすのみ」という発想の延長だろう。
経緯はともかく、曹操を破ったのは事実だから、孫権は領土を広げたい。目先のチャンスを、せっせと回収するだけ。漢帝をどうにかしてやろう、というビジョンは孫権にない。

劉備は孫権の、傭兵である

赤壁後の孫権と劉備の関係を、どう捉えるか。
まとめて読める魯粛に関する考察のうち、いちばん尖っているのは『呉書見聞』なので、参照する。

巷の出版物より、よほど面白いと思うのは、ぼくだけでないはず。

「共同体」「連立政権」と表現されていた。
『呉録』によると、周瑜は、関羽と張飛を指揮すると言った。孫劉は、軍事行動のタイミングとターゲットが、きれいに一致している。ゆえに孫権と劉備は「連立政権」だったのだろう、というご指摘だ。

ぼくは違うと思います。
孫権は劉備を、傭兵として使っただけだと思う。
諸葛亮に入れ知恵された劉備は、自己認識を改めたかも知れない。
「オレは天下を狙う群雄だ」と。
だが孫権から見れば、劉備は、ベテランの傭兵隊長でしかない。
劉備が中原にいるとき、ずっと傭兵でした。劉表に養われたときも、曹操への防御として、新野に置かれた。今まで傭兵として振る舞ってきた人は、つぎも傭兵である。

のちに劉備が益州で自立することを、頭から叩き出して、208年や209年の情勢だけを見てください。


現代の日本では、いちど正社員になり損ねると、ずっと正社員になれない。仕事の能力について、優劣は関係ない。ただ労働市場が、その人に値をつけるならば、短絡的にそう判断する。
相場とは、そういうものだ。

現代日本と後漢末は、もちろん時代背景が違う。だがぼくは、駆け引きや値踏みの本質は同じだと思う。
「今まで単なる傭兵だった劉備を、私だけが傭兵以上に待遇しなければならない必然的理由が、どこにあるんですか。逆に、説明してほしいものだなあ。うわっはっは」・・・雇用主・孫権の心の声です。

孫権による、荊州平定

孫権は、劉備ファンから見れば不遜な表現だが、劉備の軍事力を使い倒した。劉備は、荊州征圧の役に立った。仕事ぶりは上々。

周瑜が関張を使ったり、劉備の動きが孫権と一致するのは、当然のことだ。雇用主・孫権の指示なんだから。雇用主はキングです。


魯粛伝が伝える。210年、劉備が孫権を「詣」でた。
気になったのは、「詣」という漢字。調べてみると、高いところに到着することを言う。天子に会いに行くこと、役所に出頭すること。学問が、高みに到ることも指す。
つまり、下の劉備が、上の孫権に会いに来たという表現である。
ちくま訳だと「やって来た」だ。劉備と孫権は対等で、プラッとお茶でも飲みに来たようなイメージを受けるが、それは「詣」ではない。ぼくはこの違いを見逃したくない。

この訪問につき、劉備の立場を2つ指摘できる。
 1.劉備は、孫権に会いに行かねばならない弱い立場
   (快不快は別として、少なくとも契約形態がそうである)
 2.孫権は劉備を脅威に思っていないと、劉備は見ている
   (殺害されるリスクがあれば、敵国に赴くわけがない)

「劉備には、趙雲が護衛に付くから大丈夫。諸葛亮の錦の知恵袋があるから大丈夫」というのは、御伽噺である。敵の本拠に乗り込むなら、死んでも文句を言えない。


傭兵と言っても、臣下みたいなものだ。
出張の報告を致します。孫権さんからご指示のあった荊州平定は、ほぼ成功いたしました。次のお仕事は何でしょうか」
劉備の台詞は、こんな感じか。

蜀漢の正統に傷つくから、書き残されないだろうが。

この場で劉備は、荊州を都督したいと申し出た。
孫権から見れば、これは劉備自らが申し出た、傭兵としての次に任せてもらいたい仕事である。

ぼくが孫権ならば、コロッと認めただろう。合肥方面に兵力を割きたいから、劉備の申し出は、渡りに船だ。
契約相手のニーズに合致した提案をできるとは、劉備は優れた傭兵である。さすがベテラン。
「劉備よ、お前の実績は充分だ。次も頼むぞ」

劉備の野心を、どう利用するか

孫権は気づかないが、劉備は、かつての劉備ではない。
ただの傭兵だった劉備は、雇い主の言いなりになるか、雇い主と気まずくなると逃げ出すか、2択しかなかった。
だがいま劉備は、荊州牧を自称している。劉表に10年弱も仕えて、遺児の劉琦から頼られる存在になっていた。劉備は、着々と自主独立の準備を進めていたんだ。

周瑜や呂範は、劉備を荊州に行かせるなと行った。
劉備を京城に縛れば、劉備が荊州で培った兵力を、合法的&平和裏に切り離すことができる。

257年の魏で、淮南に出鎮する諸葛誕が、洛陽に戻れと命じられた。地方で蓄えた兵権を剥奪し、中央で無力化する司馬昭の作戦だ。
いまの劉備のケースと、対処法は似ている。

周瑜は美女や宝物を与え、劉備を骨抜きにした・・・小説だと、どうも周瑜の作戦が、バカっぽくなってしまう。
違う。周瑜の作戦は、政治の常道だ。

周瑜に対し、魯粛は反対した。
「曹操を防ぐためには、曹操の敵を多く作っておくことが必要です。孫権さまは、単独で曹操に当たるには、まだ兵力が不足しています」
ここからは史書にないが、魯粛の真意は、
傭兵・劉備を、もう少し、使い続けたらどうですか
です。劉備を、ただの傭兵として、
ボロボロになるまでサービス残業させれば良い。成功するかは、提案者の魯粛にも分からない。劉備が、労基署に駆け込むリスクがある。
だが、もし劉備を傭兵として使うのを中止したら、孫権はたちまち曹操に負けるだろう。魯粛の認識では、やむを得ない究極の2択だ。

魯粛は、劉備を擁護したいから、荊州に行かせたのではない。劉備を傭兵として使い続けても、まだしばらく孫権の邪魔にならないと思ったから、荊州に行かせた。
周瑜と魯粛、どちらが劉備を高く評価したか。
ぼくは周瑜だと思う。次回、そのお話を詳しくやります。