表紙 > 人物伝 > 王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝

10) 死後に初めて評価された?

やっと、魯粛が死にます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

諸葛亮が、喪を発する

魯粛は46歳で死んだ。諸葛亮が喪を発した。
なぜ諸葛亮が、魯粛の死を悼んだか。徐州人として仲が良かったのは、確かでしょう。同じ、戦略家という人種として、通じ合ったのでしょう。だが、それだけではない。
諸葛亮が、魯粛にトクをさせてもらったから、親しみを込めて、喪に服したんだと思います。

すべての群雄は、ゼロサムゲームをしていない。誰かがトクすると、誰かがソンをする、という単純な図式で語れない。
魯粛が孫権のために動くと、劉備に利益をもたらした。これは確かだ。劉備が荊州で、軍事行動する基盤を与えられたんだから。
ただし、劉備がトクをしたからと言って、それを仕掛けた魯粛が、間抜けなお人よしではない。魯粛もまた、諸葛亮を利用していた。

呂蒙は、魯粛の忠実な後任

魯粛が死ぬと、呂蒙が着任する。呂蒙は、魯粛の方針を、忠実に引き継いだのだと、ぼくは思う。

周瑜は「反」劉備、魯粛は「親」劉備、呂蒙は「反」劉備。
もし正反対なら、なんでバトンタッチが成立するものか。孫権は、権力基盤がまだ弱いのに、こんなトリッキーな人事をやるわけがない。


呂蒙がやったのは、関羽を荊州から駆逐することだ。
なぜ呂蒙は、関羽を殺したか。
関羽が、傭兵としての役割を果たさなくなったからだ。

呂蒙の状況判断については、また後日やります。

呂蒙は、魯粛と矛盾しない。
もともと荊州は、赤壁後は、孫権の土地だ。これは、関羽の部下ですら、認めていることだ。だから、孫権が自ら荊州を守るのが、もっとも自然だ。だが、劉備という便利な傭兵がいたから、コスト節約のために、任せたに過ぎない。
傭兵が役に立たなければ、契約解除。当たり前だ。

王朝にとって、魯粛の意義

魯粛は、死後に初めて評価された人じゃないか。

超遅咲きの、芸術家のような境遇ですね。


のちの孫呉の王朝は、正統を主張する必要が生じた。
「漢から禅譲を受けた魏、魏から禅譲を受けた晋、
 漢を引き継いだ蜀漢は、いずれもニセモノである」
こう宣伝するとき、
魯粛のように、早くから漢室を否定し、孫権に天下統一を説いていた人は、伝説の名臣となる。生前は孫権に煙たがられていたとしても、後世人はお構いなく、魯粛を持ち上げるだろう。

ゆえに魯粛伝のカッコ良さは、割り引くべきだ。

孫呉の正統をアピールするニーズは、229年 孫権が皇帝になったあとに、初めて発生した。
まだ魯粛が生きていた時代、孫権が柔軟に外交していた段階では、正統の主張は、邪魔になるだけだ。それどころか、魯粛が発する硬直性は、亡国の原因になりうる。

孫権が、1世代上の英雄2名、曹操と劉備と張り合えたのは、ひとえに柔軟さのおかげだったと、ぼくは思います。
ゆえに孫権は、ぜったいに魯粛の言うことを、用いてはいけない。赤壁の奇跡は、2度ない。

生前の魯粛は、周瑜や孫権をはじめ、誰からも、正当に評価されなかったと思う。
魯粛は、群雄をもてあそんだ梟雄の劉備を、いちおう使いこなした。孫権が手の回らなかった荊州を、1人で切り盛りした。魯粛は、ぼくの読み方でも、充分にすごいのに。

劉備に「寄生」されて滅びなかったのは、曹操と孫権だけだ。

15年後、孫権の苦笑い

孫権は「尊号」つまり皇帝を名乗ったとき、諸臣に言った。
「むかし魯子敬は、私に皇帝になれと言った。彼は、事業の形勢について、先を見る目が、明るかったと言うべきだ
ウソをつけ!
ぼくの訳の最後「言うべきだ」は、「可謂」です。
これをどう読むか。
孫権は、本心で魯粛を褒めていない。
仮に・・・あくまで仮に、数十年の未来から、魯粛のことを第三者の目線で捉えるなら、「魯粛は偉いということに、なっちゃうのかな」と、孫権が苦笑しているんだと思う。「あくまでオレの意見は違うけどな」と、最後にもう1回、ダメ押しをしながら。

ちくま訳では、孫権のコメントを、
「事の成り行きの見える人物であったと言えよう
としている。誤訳ではないが、孫権の微妙なニュアンスが、抜け落ちているような気がする。
もし、孫権が魯粛に心から感謝しているなら、
「事の成り行きの見える人物で、あったことであるよなあ・・・
でいい。文末に詠嘆の助字でも置いて、うっとりしててくれ。自然な日本語に訳せないくらいに、むやみに感銘を受けていてくれ。

おわりに

この考察は、先週土曜の夜に、名古屋にある、
三国志的飲み家『いっぽ』で、漢文の勉強会をやったときに作ったメモが元になっています。
みさき。さん、ドミトリーさん、六花さんを初め、その場に居合わせた皆さんに、感謝いたします。100311