11) 袁術の死、徐州の地勢
言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
河内郡、あとしまつ
以魏種為河內太守,屬以河北事。初,公舉種孝廉。兗州叛,公曰:「唯魏種且不棄孤也。」及聞種走,公怒曰:「種不南走越、北走胡,不置汝也!」既下射犬,生禽種,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之。
建安四年(199)春2月、曹操は昌邑にもどる。
張楊は、楊醜に殺された。楊醜は、眭固に殺された。眭固は、袁紹に属し、射犬にいる。
夏4月、曹操は、史渙と曹仁に黄河をわたり、眭固を撃たせた。眭固は、張楊のもと長史・薛洪と、河內太守・繆尚をルスにおく。眭固みずから、袁紹に救いをもとめた。史渙、曹仁、曹操は、眭固と斬って射犬をくだし、敖倉にもどる。
魏種を河內太守とし、河北を任せた。魏種は、兗州で曹操を裏ぎった人だが、「ただ才」を用いたのだ。
眭固の戦いは、「魏志」張楊伝、董昭伝にある。敖倉は、初平元年に盧弼が注釈した。何焯はいう。畢諶や魏種をもちいて、曹操は人材をあつめた。
ぼくは思う。張楊なきあとの河内の後始末。なぜ、このタイミングでなければ、ならないか。呂布を滅ぼした足で、直行している。地図を見ながら、後日考えて見ます。張楊と呂布の主力に、河内の兵がいた。これに関係があるのだろうか。
呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝
訳しそこねたが、この戦いの最中、曹操が黄河を北へわたった!
袁術の死
是時袁紹既並公孫瓚,兼四州之地,眾十餘萬,將進軍攻許,諸將以為不可敵,公曰:「吾知紹之為人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以為吾奉也。」
このとき袁紹は、すでに公孫瓚をあわせ、4州をもつ。10余万で、許都に進みそう。曹操は言った。「私は袁紹の人となりを知っている。袁紹は私に、ひろい土地と、ゆたかな食糧をプレゼントしてくれるのだ」と。
こうして武帝紀を読むと、献帝を奉戴したあとの、連続した戦いの一部である。武帝紀の記述が、まるで物語みたいに「いよいよ官渡だよ」と、重くなってきた。この重みが、読んでておもしろい分だけに、余計に胡散くさい。気のせい?
秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留於禁屯河上。九月,公還許,分兵守官渡。冬十一月,張繡率眾降,封列侯。十二月,公軍官渡。
199年秋8月、曹操は黎陽(魏郡)にすすむ。
臧霸らを青州に行かせ、
何焯はいう。臧覇を青州に入れたのは、袁氏の兵を分散するためだ。ぼくは思う。青州は、袁譚が袁術を受け入れるための、重要拠点である。袁氏のうごき、曹氏のうごきに、海沿いをめぐる暗闘があったに違いない。曹操は、呂布を殺したものの、東を直轄できていない。二袁が、曹操を外側からひっくり返すならば、海沿いである。
齊国、北海、東安をやぶる。
于禁を黄河にとどめる。9月、曹操は許にもどり、兵をわけて官渡をまもる。冬11月、張繍がくだった。列侯とする。12月、曹操は官渡へゆく。
袁紹伝はいう。袁紹は人をやり、張繍に降伏しろと言った。賈詡は、張繍を曹操にくだらせた。ぼくは思う。張繍の降伏は、分水嶺だ。前ページで、曹操は三面に敵があった。劉表と張繍、袁術と呂布、袁紹の3つだ。いま曹操が呂布をつぶし、袁術は死に体だ。袁術は、つぎの段落で死ぬ。時間の前後が分からないが、袁術が死んだ(もしくは、死ぬほど追い詰められた)のを見て、賈詡は曹操に降伏したのだろうか。賈詡が張繍を動かせば、曹操の敵は、袁紹のみとなる。三面の苦しい戦いが、袁紹だけに専心できる。売れる恩がでかい。
袁術自敗於陳,稍困,袁譚自青州遣迎之。術欲從下邳北過,公遣劉備、硃靈要之。
袁術は、陳国でやぶれてから、困窮して、袁譚をたよって青州にゆく。袁譚は、袁術をむかえる。
ぼくは思う。曹操が、さっさと呂布を討ったのは、袁術の進路をふさぐためでもあるだろう。曹操は、兗州と豫州を領土とする。内陸である。もし海沿いで、揚州(袁術)、徐州(呂布)、青州(袁譚)、冀州(袁紹)という同盟を確立されたら、曹操は袋ダタキである。袁紹と袁譚は親子だからいいとして、その他の連中は、反復きわまりなく、対立をくりかえす。だが、「献帝を擁する曹操」がキライな点で、利害が一致する。反復きわまりないからこそ、どんな同盟を築くかわからない。曹操が、セッカチに各個撃破した理由じゃないかな。
っていうか、曹操が、徐州を臧覇らに「委ねた」のは、海沿いの地域まで、曹操の手が回らない証拠だ。許都から、とおい。っていうか、曹魏の視点では「委ねた」のかも知れないが、実態は放置だったのかも。「戦略的撤退」が、敗北と同義であることに同じ。あとで劉備に殺される「徐州刺史の車胄」って、だれだよ。大切にされている感じがないぞ。
曹操の影響力が及ばないから、二袁が、海沿いを活用することが可能だ。袁術が北上した理由が、ほんとうに「稍困」なのか、じつは分からない。海沿いに、曹操包囲網をつくるつもりだったのかも。いつもぼくが言うことですが。正史がしるす前後関係の説明には、おとなしく従うしかないが、因果関係の説明に従う必要はない。記された理由は、歴史家の仮説にすぎない。「同時代人による仮説だから、信じるべき」とは言い切れない。
袁術は、下邳から北にゆきたい。曹操は、劉備と朱霊に、袁術を討たせる。
いま徐州は、沛国の陳珪・陳登が、曹操の支持を背景に、強めにのさばっているに過ぎない。この陳珪・陳登は、「呉志」で孫策と抗争する。陳氏は、曹操と同盟関係にあるとは言え、三公の家柄として、いつ自立しても文句は言えない。袁氏と同じ。石井仁先生の言うところの、ダークホースである。
もし劉備や朱霊が遅れたら、そして寿命が尽きなければ、袁術は、下邳を手に入れたかも知れないのですね。徐州刺史の車胄は、劉備にすら殺されるほど、弱いのだ。
ふたたび確認すると。曹操が呂布を殺したことに、「徐州を奪取した」という意義はなく、ただ「呂布の脅威を除いた」という意義しかない。そのまんまで恐縮です。呂布は、徐州の在地勢力と密着しているわけでない。徐州につよい軍が入れば、カンタンにくつがえるだろう。劉備が、もうすぐ徐州で独立するが、この情勢をふまえたものだ。
會術病死。程昱、郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱。」公悔,追之不及。備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車胄,舉兵屯沛。遣劉岱、王忠擊之,不克。
たまたま袁術が病死した。程昱と郭嘉は、「劉備をゆかすな」と言った。曹操は悔いたが、つかまらない。さきに劉備は、董承らと謀反をたくらむ。
『後漢書』献帝紀はいう。建安五年春正月、董承、王服、種シュウは、曹操を殺そうとした。もれた。袁宏『後漢紀』はいう。董承らは、曹操を殺そうとしたが、発覚した。董承らは、曹操に反したのであり、後漢に反したのでない。建安二十三年の謀反と、趣旨は同じである。種シュウは、まえに董卓を殺そうとした。荀攸伝にある。
ぼくは補う。分かりにくいが、いま武帝紀は建安四年(199)だ。董承が発覚して失敗するのは、もう少しあとだ。次で議論する。
劉備は下邳で、徐州刺史の車胄を殺した。
侯康はいう。「蜀志」は、董承の死のあとに、車胄の死をつなげる。つまり董承の死が前なのだ。『通鑑考異』はいう。「蜀志」が誤りだ。関羽伝はいう。劉備が車胄を殺したのは、建安五年の前だ。「魏志」とあう。
盧弼はいう。「魏志」袁紹伝は、劉備が車胄を殺したのを、建安五年の前におく。『後漢書』袁紹伝は、建安五年に、劉備が車胄を殺したという。どちらが正しいか分からない。おそらく侯康の説が正しかろう。
ぼくは思う。けっきょく、劉備が車胄を殺すのが、先である。先主伝と『後漢書』袁紹伝がミスった。先主伝は、徐州がらみで、ハデな時系列のミスがあった。信用しなくてよい。『後漢書』は、後世の史料だから、陳寿(武帝紀や関羽伝)を信用すべきだ。この議論は、盧弼が充分に煮つめたから、ぼくは、ふたたび言うまい。結論は、車胄が先!
劉備は、沛にいる。曹操は、劉岱と王忠をやるが、勝てない。
何焯と銭大昭はいう。青州黄巾に殺された劉岱と、別人だ。
劉岱と王忠について。必要に応じ、また後日。
廬江太守劉勳率眾降,封為列侯。
廬江太守の劉勲が、曹操にくだる。列侯となる。
『郡国志』はいう。廬江は、郡治が舒県だ。呉増キンはいう。建安四年、劉勲は郡治を、皖県にうつした。「呉志」孫策伝の注釈にある。ぼくは思う。孫策との抗争で、移したのだっけ。忘れたので、また確認する。
劉勲のことは、司馬芝伝と、そこにひく『魏略』にある。また「呉志」孫策伝にひく『江表伝』にある。潘眉はいう。劉勲は、勧進表に「華郷侯」として署名した。はぶいたが、さっきの王忠も、勧進表にある。
盧弼は考える。衛キが、塩について建策した。棗祇の屯田とおなじだ。当時の政治で、重要なことだ。『資治通鑑』は、建安四年に、塩の建策をのせる。武帝紀にない。失われたか。
200年、董承と劉備をうつ
五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅。公將自東征備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也。今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」公曰:「夫劉備,人傑也,今不擊,必為後患。袁紹雖有大志,而見事遲,必不動也。」
建安五年(200)年、春正月、董承らはバレて、誅された。
曹操は、みずから劉備を討ちに、東へゆく。みな諸将は言った。「袁紹より劉備ですか」と。曹操は言った。「劉備は、人傑だ。擊たないと、のちに患いとなる。袁紹は志は大きいが、おそい。動かないよ」と。
先主伝序盤:劉備の人柄も、史書の記述も、信用できない
孫盛『魏氏春秋』はいう。曹操は、諸将に言った。「劉備は人傑だ」と。裴松之は言う。孫盛は、デタラメだ。
二月,紹遣郭圖、淳于瓊、顏良攻東郡太守劉延于白馬,紹引兵至黎陽,將渡河。
郭嘉は曹操に、劉備を撃てと言った。曹操は劉備をやぶり、劉備の部将・夏侯博を生けどる。劉備は袁紹ににげ、関羽は下邳で降る。
盧弼はいう。劉備の妻子は、呂布や曹操につかまった。甘氏は、荊州で劉禅を生んだ。前妻の子は、すべて死んだのだろう。曹操も、曹昂を死なせた。曹操は「子を産むなら、孫仲謀」と言った。志をつがせるのは、むずかしい。
関羽は、偏将軍となり、厚遇された。
昌豨は、劉備について、曹操に反した。曹操は、昌豨を破った。曹操は官渡にもどる。袁紹は、出てこない。
次回から、官渡の戦い。がんばって、夜行バス前につめよう。110225