01) 皇族でなく、盧植に学ばず
「蜀志」巻2より、先主伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
今回は前半、先主伝が、どれだけ中身がないか示したい。
後半は、いかに劉備が「信用できん」奴なのか、示したい。
前漢の皇族か、後漢の皇族か
先主姓劉,諱備,字玄德,涿郡涿縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞,元狩六年封涿縣陸城亭侯。坐酎金失侯,因家焉。
先主は、姓は劉、諱は備、あざなは玄徳という。
ぼくが思うに、劉備に深遠な配慮はない。小耳に挟んだ、むずかしそうな言葉を、つかっただけ。ともあれ、桓帝をはじめ、儒教帝国の国是に反して『老子』にハマった人は多い。民間信仰のレベルで、劉備は老子にかぶれた?
涿郡の涿県の人だ。
前漢の景帝の子・中山靖王・劉勝の後裔である。
盧弼がいう。『漢書』王子侯表によれば、侯に封じられたのは7人だ。
劉勝の子・劉貞は、元狩六年に涿縣の陸城亭侯に封じられた。酎金に座し、侯の爵位を失った。実家に戻された。
典略曰:備本臨邑侯枝屬也。
『典略』はいう。劉備は、じつは臨邑侯の血筋から、枝分かれした。
盧弼がいう。光武帝の兄・劉伯升の子が、劉興である。劉備は前漢の皇族の血筋でなく、後漢の血筋か。光武帝も、同じく景帝の子孫である。だが『後漢書』を読むと、劉復が封じられた臨邑は、東海郡である。劉備の故郷と違う。劉備は、後漢の皇族ではない。
先主祖雄,父弘,世仕州郡。雄舉孝廉,官至東郡範令。
劉備の祖父は、劉雄である。父は、劉弘である。代々、幽州に仕えた。劉雄は、孝廉にあげられ、東郡の範県の県令まで昇進した。
「公孫瓚と同窓」はウソだろう
先主少孤,與母販履織席為業。舍東南角籬上有桑樹生高五丈餘,遙望見童童如小車蓋,往來者皆怪此樹非凡,或謂當出貴人。先主少時,與宗中諸小兒於樹下戲,言:「吾必當乘此羽葆蓋車。」叔父子敬謂曰:「汝勿妄語,滅吾門也!」
漢晉春秋曰:涿人李定雲:「此家必出貴人。」
劉備は幼くして父を亡くした。母と、履物を売り、敷物を織った。
「わらじ」「むしろ」という日本語で親しまれるが、原文は「履」「席」
家の東南の桑の樹を、天子の乗り物に見立てた。
年十五,母使行學,與同宗劉德然、遼西公孫瓚俱事故九江太守同郡盧植。德然父元起常資給先主,與德然等。元起妻曰:「各自一家,何能常爾邪!」起曰:「吾宗中有此兒,非常人也。」而瓚深與先主相友。瓚年長,先主以兄事之。
15歳のとき、母と親戚にお金を出してもらい、学問に就いた。遼西の公孫瓚とともに、もと九江太守にして、おなじ涿郡出身の盧植に学んだ。
盧植は、あざなを子幹という。涿郡涿県の人だ。熹平4年、九江郡で蛮族が叛いた。四府(大将軍+三公府)は、盧植に文武の才覚があるから、九江太守に任じた。蛮族は、盧植に帰服した。病気で、退職した。
盧弼がいう。劉備が15歳のとき、霊帝の熹平4年だ。盧植が、九江太守を辞めて、故郷に戻ったときだ。だから「もと」九江太守というのだ。
公孫瓚と劉備は、深く友となった。公孫瓚が年長なので、劉備は、公孫瓚に兄事した。
劉備はのちに公孫瓚の下っ端の傭兵になる。これから逆にたどり、劉備を少しでも有名な人と近づけた。箔をつけるため。
公孫瓚は、郡太守の人脈を使って、盧植に習った。だが無名の劉備が、少し裕福な叔父の出資だけで、後漢を代表する学者に教われるわけがない。また、もし劉備に、それほどの財力&盧植への人脈がある親族がいたなら、劉備の創業を助け、蜀漢の皇族に列しただろうに。
先主不甚樂讀書,喜狗馬、音樂、美衣服。身長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳。少語言,善下人,喜怒不形於色。好交結豪俠,年少爭附之。中山大商張世平、蘇雙等貲累千金,販馬周旋於涿郡,見而異之,乃多與之金財。先主由是得用合徒眾。
劉備はあまり読書が好きでない。狗馬や音樂を好み、衣服を飾った。身長は七尺五寸,手を垂らしたら膝をこえ、自ら耳を顧みることができた。
呂布の命を奪ったのは、実質は劉備である。呂布に、憎憎しい悪口を言わせたいという、文筆家のニーズがあったのだ。
手が長いのは、仏様の姿。耳がでかいのも同じか。これも帝王伝説に過ぎない。真実味はないでしょうね。
劉備は口数が少なく、よく人に、へりくだった。喜怒の感情を、表情に出さなかった。
だが・・・つぎの「善下人」と対句と見なし、同じ語順だと考えれば、通説どおり「口数が少ない」が正解となる。むやみやたらと、人物像を覆すばかりが芸ではない。通説に従います。笑
劉備は、豪俠と交わった。年下の人は、争って劉備についた。
中山の大商である、張世平と蘇雙らは、劉備に金財を与えた。劉備は、兵団を組織することができた。
『華陽国志』はいう。河東の関羽と、同郡の張飛は、どちらも壮烈な人。関羽と張飛は、劉備を護衛した。
次回、黄巾の乱。裴注が混乱します。