表紙 > 人物伝 > 先主伝序盤:劉備の人柄も、史書の記述も、信用できない

03) 徐州を盗むが、袁術が没収

「蜀志」巻2より、先主伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

斜陽の公孫瓚を捨てて、陶謙から丹楊兵をもらう

袁紹攻公孫瓚,先主與田楷東屯齊。曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於田楷,楷與先主俱救之。時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎,又略得饑民數千人。

袁紹は、公孫瓚を攻めた。劉備と田楷は、斉国にいる。曹操が徐州を攻めた。徐州牧の陶謙は、田楷に助けを求めた。劉備と田楷は、陶謙を助けた。劉備は、兵1000人余りと、幽州烏丸の雜胡騎をひきいた。

劉備が、公孫瓚から支給された兵だろうね。公孫瓚のために働くから、貸してもらっている。会社から支給されたケイタイ電話みたいなものだ。

劉備は、公孫瓚の領土から、飢えた民を数千人、むしり取った。劉備は徐州についた。

人口=生産財=国力だ。劉備は、袁紹に負けそうな公孫瓚を見限り、徐州に行った。劉備は、タダで逃げ出さない。公孫瓚の人民を盗み、自分の資産としてしまった。もし公孫瓚と劉備が、盧植の同窓なら、ぎゃくに劉備のヒドさが際立つ。学歴の創作は、陳寿の失敗である。笑
田楷は、どうなったか知らん。のちの徐州で劉備がやることだが、曹操の部将・朱霊のように帰れたか。曹操の徐州刺史・車胄のように、劉備に殺されてしまったか。


既到,謙以丹楊兵四千益先主,先主遂去楷歸謙。謙表先主為豫州刺史,屯小沛。

陶謙は劉備に、丹楊兵4000を加えた。劉備は、陶謙の部下になった。劉備は豫州刺史にしてもらい、小沛をまもった。

胡三省が云う。豫州の州治は、小沛である。
盧弼がいう。このとき豫州刺史の郭貢がいた。陶謙は劉備を、朝廷の許可なく任命した。武帝紀の興平元年(194年)陶謙の部将・曹豹と劉備は、郯城の東にいて、曹操をふせいだ。曹操は、曹豹と劉備を破った。


袁術の徐州入りを拒む、麋竺、陳登、孔融の思い

謙病篤,謂別駕麋竺曰:「非劉備不能安此州也。」謙死,竺率州人迎先主,先主未敢當。下邳陳登謂先主曰:「今漢室陵遲,海內傾覆,立功立事,在於今日。彼州殷富,戶口百萬,欲屈使君撫臨州事。」先主曰:「袁公路近在壽春,此君四世五公,海內所歸,君可以州與之。」登曰:「公路驕豪,非治亂之主。今欲為使君合步騎十萬,上可以匡主濟民,成五霸之業,下可以割地守境,書功於竹帛。若使君不見聽許,登亦未敢聽使君也。」北海相孔融謂先主曰:「袁公路豈憂國忘家者邪?塚中枯骨,何足介意。今日之事,百姓與能,天與不取,悔不可追。」先主遂領徐州。

陶謙が重篤になった。別駕の麋竺は「劉備でないと、徐州は治まらない」と云った。陶謙が死んだ。劉備は、麋竺の招きを受けない。

麋竺は、現地の豪商だ。商人は身分が低いから、自分が恩を売った人を、出世させたい。だから麋竺は、余計な利害のからまない、外者の劉備を選んだのだろう。性格も好いたから、あとずっと従う。妹を嫁がせもした。

下邳の陳登は、劉備に勧めた。「徐州の戸数は百万。あなたが治めろ」

『続志』によると、徐州は48万6054戸だ。279万1683人だ。もともと100万戸いたのに、曹操に殺されたのだろう。
ちなみに曹操が袁譚と袁尚を破ったとき、30万人だけを得て、残りは斬った。曹操が人を斬るのは、こんな感じである。
ぼくは思う。百万は誇張である。曹操が殺して、減ったわけじゃない。割り算すると、1戸あたり6人弱になりますね。

劉備は陳登に云った。「寿春の袁術に任せましょう」

陳登が袁術を怨むのは、一族の陳瑀が恥をかかされたから。
劉備のセリフは、陶謙の死後、成り行きに委ねたら、袁術が徐州を治めたことを示す。劉備が袁術の名を出した動機が、「謙虚な本心」にしろ、「否定してもらう前提のハッタリ」にしろ、同じことだ。あり得ない選択肢をあげたら、陳登は「ジョークを云っている場合ではない」とキレる場面だ。

北海の孔融も、袁術でなく劉備を勧めた。

孔融にとって、劉備は命の恩人だしね。
徐州は、のちに曹操ですら、直轄に失敗した。利害の対立する現地勢力が多すぎる。徐州のトップは、ろくに政治できないくらいが、ちょうどいい。袁術に入ってこられると、国富をすべて袁術が回収する。それは困る。

ついに劉備は、徐州を治めることになった。

獻帝春秋曰:陳登等遣使詣袁紹曰:「天降災沴,禍臻鄙州,州將殂殞,生民無主,恐懼奸雄一旦承隙,以貽盟主日昃之憂,輒共奉故平原相劉備府君以為宗主,永使百姓知有依歸。方今寇難縱橫,不遑釋甲,謹遣下吏奔告于執事。」紹答曰:「劉玄德弘雅有信義,今徐州樂戴之,誠副所望也。」

『献帝春秋』はいう。陳登は袁紹に「劉備が徐州を継ぎました」と報告した。袁紹は、劉備の徐州支配を歓迎した。

『献帝春秋』はデタラメだ。だがこの記事は、ぼくのイメージにあう。劉備は、袁術-公孫瓚を裏切った。袁紹にしてみれば、やんわり味方である。
袁紹は、曹操に徐州を攻めさせたが、袁術の後方撹乱にあって失敗した。兗州で張邈と陳宮が、曹操に背いたのだ。
だが偶然に劉備が徐州をとり、袁術側から引き剥がした。結果オーライである。「劉備よ。この袁紹のため、よくぞ働いた」と褒めたいところだ。



袁術と劉備が、徐州をうばいあう

袁術來攻先主,先主拒之於盱眙、淮陰。曹公表先主為鎮東將軍,封宜城亭侯,是歲建安元年也。先主與術相持經月,呂布乘虛襲下邳。下邳守將曹豹反,間迎布。布虜先主妻子,先主轉軍海西。

袁術がきて、劉備を攻めた。劉備は、盱眙と淮陰で、袁術をふせいだ。曹操は上表し、劉備を鎮東将軍とし、宜城亭に封じた。
この歳は、建安元年だ。

盧弼はいう。建安元年(196年)6月、曹操は鎮東将軍となった。同じタイミングで、2人の鎮東将軍がいるのはおかしい。だが、曹操が鎮東将軍になったのは、楊奉の推挙による。
「魏志」董昭伝をみると、曹操は上表して、劉備を鎮東将軍にしている。劉備が鎮東将軍になったというのは、誤りではない。
宜城亭とは、荊州の南郡である。(なんで劉備が荊州に?)

劉備と袁術は、月をまたいで、対峙した。劉備がいないことに乗じて、呂布が下邳を襲った。 下邳の守将・曹豹が叛いて、呂布を迎え入れた。呂布は、劉備の妻子を捕らえた。劉備は、海西にのがれた。

後漢の徐州刺史は、郯城を州治とした。だが後漢末、下邳に移った。
捕まったのは、麋竺の妹である。
いま呂布が徐州に入ったが、シナリオを書いたのは、陳宮&袁術である。陶謙の死後、いちどは劉備が徐州を奪ったが、袁術が取り返した。袁術は、使い勝手のいい武器として、呂布を使った。このことは、サイト内でときどき書いております。そのうち、まとめます。


英雄記曰:備留張飛守下邳,引兵與袁術戰於淮陰石亭,更有勝負。陶謙故將曹豹在下邳,張飛欲殺之。豹眾堅營自守,使人招呂布。布取下邳,張飛敗走。備聞之,引兵還,比至下邳,兵潰。收散卒東取廣陵,與袁術戰,又敗。

『英雄記』はいう。張飛が下邳を守った。曹豹は呂布を招き、曹操を追い出した。劉備は袁術戦から撤退した。広陵にいき、また劉備は敗れた。

趙一清がいう。呂布伝がひく『英雄記』とちがう。
ぼくは思う。同じ『英雄記』の中でくらいは、ツジツマを合わてくれ。


次回、死に掛けの劉備を、呂布が救います。ぼくが思うに、呂布は「袁術に協力するなら、助けてやる」と約束した。劉備は承知して、小沛をもらった。だが劉備が大人しく、呂布との約束を守りますやら。