表紙 > 人物伝 > 先主伝序盤:劉備の人柄も、史書の記述も、信用できない

04)「袁術に協力」呂布との約束

「蜀志」巻2より、先主伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

呂布は劉備を助け、袁術の与党になれと期待した

楊奉、韓暹寇徐、揚間,先主邀擊,盡斬之。先主求和於呂布,布其妻子。先主遣關羽守下邳。

楊奉と韓暹は、徐州と揚州の間をウロウロした。劉備は、楊奉も韓暹も斬った。

『通鑑考異』はいう。楊奉と韓暹は、死んでいない。のちに呂布と組み、袁術を破った。劉備伝は、誤りである。
盧弼はいう。楊奉と韓暹が袁術を破るのは、建安二年(197年)だ。「魏志」董卓伝はいう。2人は献帝を奉ることができず、徐州と揚州の間に逃げた。劉備に殺された。『後漢書』董卓伝も、劉備が2人を破ったとする。韓暹は并州に逃げて、殺された。建安二年とする。やはり誤りだ。
・・・盧弼はこの後、諸書をひく。楊奉たちに興味がないので無視、、

劉備は、呂布と和睦を求めた。呂布は劉備に、妻子を返した。劉備は関羽に、下邳を守らせた。劉備は、小沛にもどった。

『通鑑考異』がいう。関羽が下邳を守るのは、呂布の死後だ。曹操の徐州刺史・車胄を殺し、自立したときだ。
・・・ちくま訳は、この致命的な陳寿のミスを、とくに断りなく、注釈をつけず訳す。陳寿の作文らしいのに、「蜀志」のバカ野郎。笑
ついでに「蜀志」の文体について。
ぼくが「蜀志」を読んで、「呉志」「魏志」と比べて感じるのは、2つ。
まず、使役の文章の不親切さだ。「使」のあとに、使役させられた人の名を、やたら省く。次に、前文の目的語と、次文の主語に、同じ人名をおく。だから、句読点のない『集解』で読むと「術術」「操操」「先主先主」とかが頻出する。美しくない。笑


英雄記曰:備軍在廣陵,饑餓困踧,吏士大小自相啖食,窮餓侵逼,欲還小沛,遂使吏請降布。布令備還州,並勢擊術。具刺史車馬童僕,發遣備妻子部曲家屬於泗水上,祖道相樂。

『英雄記』はいう。劉備は食糧を切らし、呂布を頼った。呂布は、袁術に対抗するため、劉備を受け入れた。

『英雄記』は、あまり参考にならない。小説としてのキャラの分かりやすさを優先する。呂布は、袁術にも曹操にもつかない、野心家となっている。
ぼくは違うと思う。呂布は、袁術派である。しかも呂布は、袁術が名声を保つことに、心を砕いたかも知れない。以下、今週これを書いたページ。
袁術に徐州の経営を委任&期待された、一軍人の呂布伝


魏書曰:諸將謂布曰:「備數反覆難養,宜早圖之。」布不聽,以狀語備。備心不安而求自讬,使人說布,求屯小沛,布乃遣之。

『魏書』はいう。諸将は呂布に「劉備は裏切りやすい。早く殺せ」と云った。呂布は劉備を殺さない。呂布は劉備に、現状を教えてやった。劉備は、諸将に殺されないか不安なので、小沛に行きたいと願った。呂布は、劉備の願いを聞いた。

王沈の筆。曹操万歳の傾向には注意が必要だが、今回は信用できる。呂布が劉備に語ったのは「徐州の諸将は、お前を殺したいよ」でしょう。
呂布は、境遇の似た劉備を哀れんだ。ぼくの妄想ですが、呂布は「オレと一緒に袁術を支援するなら、命は助ける」と云ったのかも。すぐ下の行で、劉備は約束どおりに行動しないから、呂布の死に際のセリフ「一番信用できないのは、劉備だ」が出てくる。
無用に人を殺せば、袁術の名声が落ちてしまう。呂布は、袁術の名声を高め、袁術陣営を充実させるために、劉備を助けてあげた。


劉備が呂布を裏切り、袁術に叛く

複合兵得萬餘人。呂布惡之,自出兵攻先主,先主敗走歸曹公。

ふたたび劉備は兵を合わせて、1万人余りに膨らんだ。呂布は、劉備をにくんだ。呂布は自ら劉備を攻めた。劉備は敗走して、曹操を頼った。

小沛は、揚州を牽制できる戦略地点である。まえに陶謙が劉備をここに置いたのは、袁術を掣肘するため。
いま劉備が盛り返し、袁術の妨げになるリスクが出てきた。袁術派の呂布は、劉備が袁術を助けることを期待して、劉備に小沛を与えた。そのくせ劉備は、袁術に敵対した。予定と違い、ジャマである。だから追い出した。


曹公厚遇之,以為豫州牧。將至沛收散卒,給其軍糧,益與兵使東擊布。布遣高順攻之,曹公遣夏侯惇往,不能救,為順所敗,複虜先主妻子送布。曹公自出東征,

曹操は劉備を厚遇し、豫州牧とした。劉備に呂布を討たせた。高順に敗れた。夏侯惇も、高順に敗れた。劉備の妻子は捕まり、呂布に送られた。曹操は、みずから呂布を攻めた。

英雄記曰:建安三年春,布使人齎金欲詣河內買馬,為備兵所鈔。布由是遣中郎將高順、北地太守張遼等攻備。九月,遂破沛城,備單身走,獲其妻息。十月,曹公自征布,備於梁國界中與曹公相遇,遂隨公俱東征。

『英雄記』はいう。建安三年(198年)春、呂布は河内郡で、馬を買い集めた。劉備が盗んだ。呂布の中郎将の高順と、北地太守の張遼は、劉備を攻めた。9月、劉備の沛城が破られた。劉備の妻子が捕まった。

趙一清はいう。張遼伝では、張遼が呂布の部下だったとき、魯国の相だった。

10月、曹操は呂布を攻めた。劉備は、梁国の境界で、曹操と合流した。

年月が詳しいのが助かりますが、いかんせん『英雄記』だ。
河内郡には、呂布の友・張楊がいる。故郷の并州と繋がり、良い馬が手に入るのだろう。呂布の主力が河内兵というのは、『英雄記』においては正しい。


助先主圍布於下邳,生禽布。先主複得妻子,從曹公還許。表先主為左將軍,禮之愈重,出則同輿,坐則同席。袁術欲經徐州北就袁紹,曹公遣先主督硃靈、路招要擊術。未至,術病死。

劉備と曹操は、呂布を生け捕った。劉備は曹操から、左将軍にしてもらった。曹操と同席した。
袁術が、徐州を通り抜けて、袁紹につきたいと考えた。曹操は劉備に、朱霊と路招を監督させ、袁術を攻撃させた。開戦前、袁術は病死した。

『後漢書』献帝紀はいう。建安4年(199年)夏6月だ。
袁術の断末魔に、劉備の名前が聞こえていたのですね。あんなやつに、ジャマされるとは、、と。袁術の無念な心境を思い浮かべると、面白い。


劉備は、董承の曹操暗殺の謀議に加わっていない

先主未出時,獻帝舅車騎將軍董承辭受帝衣帶中密詔,當誅曹公。

劉備が徐州に出る前、献帝の舅・車騎将軍の董承は、献帝から密詔を受けた。帯の中である。献帝は「曹操を殺せ」と、董承に命じた。

臣松之案:董承,漢靈帝母董太后之侄,於獻帝為丈人。蓋古無丈人之名,故謂之舅也。

裴松之はいう。董承は、後漢の霊帝の母・董太后のオイである。董承は、献帝の「丈人」である。おそらく古代には「丈人」という名詞がないから、「舅」と陳寿が書いたのだ。

趙一清がいう。董承は、董卓の婿・牛輔の元部曲だ。
皇甫レキは、李傕の発言をひく。「董卓公の近親に、董旻、董承、董コウがいる」と。董旻は董卓の弟。董コウは董卓に兄の子だ。董承も、董卓に近い血筋だろう。のちに功績により、董承の娘が献帝の貴人になった。ゆえに献帝の舅と書かれた。
銭儀吉はいう。曹操は伏皇后を殺した。『後漢書』伏皇后紀で、董承の三族が皆殺しにされたと書いてある。董皇后紀では、三族が皆殺しになったと、書いていない。おそらく董承は、霊帝の母・董皇后の一族ではない。
盧弼はいう。董承を、董卓の親族だとする説にも、董皇后の親族だとする説にも、確かな根拠がない。分からないのだ。


先主未發。是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄,唯使君與操耳。本初之徒,不足數也。」先主方食,失匕箸。

劉備がまだ徐州に出る前、

劉咸キはいう。「先主未發」と、同じことを2回書くなよと。
「蜀志」は内容のミスが多く、書き写しの精度も悪そうだ。どうして?

曹操は従容として、劉備に云った。
「いま天下の英雄は、キミと私だけだ。袁紹は数に入らんよ」
劉備は食事中だが、匕箸を落とした。

この話、フィクションじゃないか?


華陽國志雲:于時正當雷震,備因謂操曰:「聖人雲'迅雷風烈必變',良有以也。一震之威,乃可至於此也!」

『華陽国志』はいう。劉備は「聖人ですら、、」と言い訳した。

『論語』にからめて、ウマイコトをいうお話。
ぼくはやはり、劉備は、曹操暗殺に参加していないと思う。後漢への忠誠を宣伝するためのフィクションだ。蜀漢の建国後、創作された。
劉備の人生で、献帝にもっとも接近したのが、この期間だ。題材として最適だから、実際に起こった董承たちの謀反に、劉備を結びつけた。
こういう陰謀は、大々的な合戦と違い、ほかの列伝に載っていなくても、筋が通る。誰かの胸のうちとか、未遂した事件とか、文筆家が書き放題だ。
このエピソードは、少し前の「曹操と劉備が、同乗&同席した」という元史料から、それっぽく膨らませたものだろう。新しい情報が加わっていない。劉備のセリフが、小説として出来すぎているのも怪しい。
劉備は、漢室への忠義を、旗印にしていない。ぼくが董承なら、フラフラしてる傭兵隊長に、命をかけた計画を打ち明けないしねえ。


遂與承及長水校尉種輯、將軍吳子蘭、王子服等同謀。會見使,未發。事覺,承等皆伏誅。 獻帝起居注曰:承等與備謀未發,而備出。承謂服曰:「郭多有數百兵,壞李傕數萬人,但足下與我同不耳!昔呂不韋之門,鬚子楚而後高,今吾與子由是也。」服曰:「惶懼不敢當,且兵又少。」承曰:「舉事訖,得曹公成兵,顧不足邪?」服曰:「今京師豈有所任乎?」承曰:「長水校尉種輯、議郎吳碩是我腹心辦事者。」遂定計。

董承たちは、事前に発覚して、曹操に殺された。

『後漢書』で種輯は、長水校尉じゃなくて越騎校尉。王子服は、偏将軍の王服。趙一清が任用表を見ると、李服という人がいる。王服は李服か。陳寿の吳子蘭は、『献帝起居注』の吳碩だろうか。
参加メンバーは、いずれも敗者なので、史書での残り方が悪い。分からん。


つづきは、後日。劉備が徐州で独立し、袁紹を頼ります。
袁術がもともと辿るはずだった道のりだ。関係あるのか? 100612