02) 先主伝の不要部分を削除
「蜀志」巻2より、先主伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
安喜尉となるが、まったく自分勝手な短気で辞職する
靈帝末,黃巾起,州郡各舉義兵,先主率其屬從校尉鄒靖討黃巾賊有功,除安喜尉。
霊帝の末、黄巾が挙兵した。州郡では、義兵を集めた。劉備は、校尉の鄒靖にしたがい、黄巾を討った。功績により、安喜尉になった。
典略曰:平原劉子平知備有武勇,時張純反叛,青州被詔,遣從事將兵討純,過平原,子平薦備於從事,遂與相隨,遇賊於野,備中創陽死,賊去後,故人以車載之,得免。後以軍功,為中山安喜尉。
『典略』はいう。張純が叛乱した。青州は詔を受け、張純を討伐した。
平原の劉子平は、平原を通ったとき、劉備を推薦した。劉備は、張純の討伐に加わった。劉備は傷ついた。死んだフリをして、逃げることができた。この戦功により劉備は、中山国の安喜尉となった。
あとに陳寿の本文で、劉備は公孫瓚に任じられ、平原相となる。平原の民・劉平という人が、劉備に刺客を向ける。劉備は、生命の危機を切り抜けた。
・・・これが混同されたな。
いま劉備は、黄巾の乱の功績で、安喜尉になった。張純の乱は、関係ない。
先主伝は、三国ファンがちくま訳を買い、初めに読むページだ。無用な混乱を、させないでほしい。笑
督郵以公事到縣,先主求謁,不通,直入縛督郵,杖二百,解綬系其頸著馬枊。棄官亡命。
督郵が、公務で、安喜県を訪問した。劉備は督郵に、面会してもらえず。劉備は突入して、督郵を縛った。杖で200回叩き、自分の印綬をはずして、督郵の首にかけた。安喜尉の位を捨てて、亡命した。
現代日本の会社の、日常的な光景に例えれば、
「失礼します。部長、お時間よろしいですか」「いま忙しい。後にしろ」「なに?私を蔑ろにしやがったな!ムチで殴りつけてやる! これは辞表だ、受け取りやがれ!」である。ムチャな人だ。宮仕えはできない。
典略曰:其後州郡被詔書,其有軍功為長吏者,當沙汰之,備疑在遣中。督郵至縣,當遣備,備素知之。聞督郵在傳舍,備欲求見督郵,督郵稱疾不肯見備,備恨之,因還治,將吏卒更詣傳舍,突入門,言「我被府君密教收督郵」。遂就床縛之,將出到界,自解其綬以系督郵頸,縛之著樹,鞭杖百餘下,欲殺之。督郵求哀,乃釋去之。
『典略』はいう。劉備は、自分が解任されると思った。督郵に面会を求めた。断られたので、劉備は逆ギレして、督郵をムチで叩いた。
『典略』は、魚カンが書いたらしい。魏の正統を云うための本だ。先主伝において『典略』を読むときは、眉につばをつけねば。
何進の部下の部下として、丹楊行きに失敗する
頃之,大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵,先主與俱行,至下邳遇賊,力戰有功,除為下密丞。複去官。後為高唐尉,遷為令。
このころ大将軍・何進は、都尉の毌丘毅に命じて、丹楊に兵を集めに行かせた。劉備は同行した。下邳で賊にあい、力戦した。この手柄で、下密丞となった。ふたたび退職した。
『郡国志』によれば、下密県は、青州の北海国だ。孔融の故郷のそばだ。ここで孔融に、名を知られた? 黄巾に囲まれた孔融を助けたのは、このときか?
のちに高唐尉となった。高唐令となった。
英雄記雲:靈帝末年,備嘗在京師,後與曹公俱還沛國,募召合眾。會靈帝崩,天下大亂,備亦起軍從討董卓。
『英雄記』はいう。劉備は曹操とともに、沛国で兵を集めた。劉備と曹操は、一緒に董卓を討つ軍を起こした。
陳寿に従えば、このとき劉備は、何をしていたか。きっと、董卓戦には加わっていない。公孫瓚と、その他諸侯が青州を取り合っているとき、傭兵として軍事行動に参加していた。そんな感じ?
公孫瓚の先鋒として、袁紹の臣民を人徳で手なずける
為賊所破,往奔中郎將公孫瓚,瓚表為別部司馬,使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹。
劉備は高唐県で、賊に破られた。中郎将の公孫瓚に逃げこんだ。
ぼくは思う。張純を討ったのは公孫瓚だ。劉備はそのとき、不参加だ。
公孫瓚は、劉備を別部司馬とした。
ぼくは思う。原文では「表」つまり上表したとある。しかし誰に上表したんだか。李傕や郭汜? 違うよなあ。勝手に名乗らせたんだと思う。
公孫瓚は劉備に、青州刺史・田楷とともに、冀州牧・袁紹を防がせた。
數有戰功,試守平原令,後領平原相。郡民劉平素輕先主,恥為之下,使客刺之。客不忍刺,語之而去。其得人心如此。
劉備は、試みに平原令となり、のちに平原相となった。
微妙だが、刺史と太守の関係というのは、今回に限らず、微妙なのだ。
平原の郡民は、劉備をふだんから軽んじた。劉備に治められることを、恥じた。刺客を送り、劉備を殺させた。
「恥為之下」する種類の人間だから、袁紹の名声に弱い。
だが刺客は、劉備を殺すには忍びず、劉備と語り合って去った。劉備はこんなふうに、人心を得た。
ぼくは思う。『典略』は間違いだから、趙一清の指摘に意味はない。
それから。
この刺客の態度は、趙雲に似ている。劉備に殺しにきたとは、はじめ刺客は、袁紹派だった。だが劉備と話してみると、悪くはない。劉備&公孫瓚を積極的に支持する理由はないが、袁紹はなんとなく好かないから、当面は劉備&公孫瓚に付きますよ、と。
袁紹は、韓馥をおどしたことで、初めから評判を落とした。もっとも、評判を落としてでも冀州を手に入れないと、生き残ることができなかったが。
魏書曰:劉平結客刺備,備不知而待客甚厚,客以狀語之而去。是時人民饑饉,屯聚鈔暴。備外禦寇難,內豐財施,士之下者,必與同席而坐,同簋而食,無所簡擇。眾多歸焉。
『魏書』はいう。劉平の刺客を、劉備は手厚くもてなした。刺客は、劉備に心服した。劉備が人の心を引きつけるのは、こんな調子だった。
劉備が誰にでも手厚かったのは、公孫瓚のしたに留まる気がなかったからではないか。転職した後で、味方を増やすために、ワケ隔てなく付き合わねば。
これまでの先主伝、不要部分を削除したら、こうなる
先主姓劉,諱備,字玄德,涿郡涿縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞,元狩六年封涿縣陸城亭侯。坐酎金失侯,因家焉。典略曰:備本臨邑侯枝屬也。先主祖雄,父弘,世仕州郡。雄舉孝廉,官至東郡範令。
先主少孤,與母販履織席為業。舍東南角籬上有桑樹生高五丈餘,遙望見童童如小車蓋,往來者皆怪此樹非凡,或謂當出貴人。漢晉春秋曰:涿人李定雲:「此家必出貴人。」先主少時,與宗中諸小兒於樹下戲,言:「吾必當乘此羽葆蓋車。」叔父子敬謂曰:「汝勿妄語,滅吾門也!」年十五,母使行學,與同宗劉德然、遼西公孫瓚俱事故九江太守同郡盧植。德然父元起常資給先主,與德然等。元起妻曰:「各自一家,何能常爾邪!」起曰:「吾宗中有此兒,非常人也。」而瓚深與先主相友。瓚年長,先主以兄事之。先主不甚樂讀書,喜狗馬、音樂、美衣服。身長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳。少語言,善下人,喜怒不形於色。好交結豪俠,年少爭附之。中山大商張世平、蘇雙等貲累千金,販馬周旋於涿郡,見而異之,乃多與之金財。先主由是得用合徒眾。
靈帝末,黃巾起,州郡各舉義兵,先主率其屬從校尉鄒靖討黃巾賊有功,除安喜尉。典略曰:平原劉子平知備有武勇,時張純反叛,青州被詔,遣從事將兵討純,過平原,子平薦備於從事,遂與相隨,遇賊於野,備中創陽死,賊去後,故人以車載之,得免。後以軍功,為中山安喜尉。
督郵以公事到縣,先主求謁,不通,直入縛督郵,杖二百,解綬系其頸著馬枊。棄官亡命。典略曰:其後州郡被詔書,其有軍功為長吏者,當沙汰之,備疑在遣中。督郵至縣,當遣備,備素知之。聞督郵在傳舍,備欲求見督郵,督郵稱疾不肯見備,備恨之,因還治,將吏卒更詣傳舍,突入門,言「我被府君密教收督郵」。遂就床縛之,將出到界,自解其綬以系督郵頸,縛之著樹,鞭杖百餘下,欲殺之。督郵求哀,乃釋去之。
頃之,大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵,先主與俱行,至下邳遇賊,力戰有功,除為下密丞。複去官。後為高唐尉,遷為令。英雄記雲:靈帝末年,備嘗在京師,後與曹公俱還沛國,募召合眾。會靈帝崩,天下大亂,備亦起軍從討董卓。為賊所破,往奔中郎將公孫瓚,瓚表為別部司馬,使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹。數有戰功,試守平原令,後領平原相。郡民劉平素輕先主,恥為之下,使客刺之。客不忍刺,語之而去。其得人心如此。魏書曰:劉平結客刺備,備不知而待客甚厚,客以狀語之而去。是時人民饑饉,屯聚鈔暴。備外禦寇難,內豐財施,士之下者,必與同席而坐,同簋而食,無所簡擇。眾多歸焉。・・・ひどいことに、なりました。笑
次回、公孫瓚を裏切り、陶謙が病死します。
冀州(袁紹)と幽州(公孫瓚)の戦いから抜け出し、袁術(揚州)と曹操(兗州)と徐州(劉備や呂布)の戦場に移ってきました。つづく。