03) 孫策は、皇帝・袁術と絶縁しない
『三国志集解』で孫策伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
1年前、孫策伝をやった。 孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない
このときは『三国志集解』を見ずにやった。
今回は、『三国志集解』をつかい、補足&整理する版です。
198年、曹操が会稽太守に任じ、味方にしたい
時袁術僭號,策以書責而絕之。
ときに(197)袁術は、僭号した。孫策は、袁術と絶縁した。
ぼくは思う。何焯の言うとおりなら。会稽太守の瞬間は、袁術の部曲である。196年、会稽太守のとき、すでに絶縁してたら、197年、新たに絶縁を言い出す必要はない。つぎに載せる『呉録』の絶縁状は、明らかに、袁術の臣下としてのものだ。
そして、何焯は語るに落ちた?のだが。孫策は、漢室の藩屏として、ひとりだちしたのだ。べつに、漢室から独立したのでない。曹操から独立したのでない。孫呉の限界を、すでに孫策は体現している。笑
吳錄載策使張紘為書曰:(省略)。典略雲張昭之辭。臣松之以為張昭雖名重,然不如紘之文也,此書必紘所作。
『呉録』は、孫策が張紘に書かせた、袁術への文書を載せる。
ページの見通しが悪くなるから、『呉録』の原文は、はぶいてしまった。笑
『典略』はいう。張昭による文書だ。裴松之はいう。張紘の文書だ。
盧弼はいう。袁宏『後漢紀』、范曄『後漢書』も、この文書を簡潔にまとめて載せる。ぼくは思う。両方とも、漢室をバンザイする本だ。そのとき、曹操もふくめた群雄をけなす、この文書は都合がよい。転載したくなる、編纂者の気持ちはわかる。しかし、建安二年(197)時点の、孫策の立場が織り込まれていない。漢室バンザイという理論を抽象化して、なんとなく反映した文書だ。現実から遊離した内容だと思う。
曹公表策為討逆將軍,封為吳侯。
曹操は上表し、孫策を討逆将軍、呉侯とした。
ぼくは思う。周寿昌は、あとの『江表伝』を根拠に、198年と言っているようだが。時期としては、そんなもんだろう。つまり陳寿の本文は、もう198年の話をしている。
つぎの『江表伝』は、197年に袁術が皇帝を称したのち、曹操が袁術陣営を切り崩しにかかった話だ。裴松之は、注釈をつける場所、間違ってるなあ。時系列が狂った。
197年時点で、まだ孫策は、曹操の言うなりになっていないことに注意。つまり孫策は、袁術が皇帝即位したら、条件反射して、袁術と絶縁したのでない。曹操が198年にかけて、切り崩さなければならないほど、袁術の臣下として結びついていた。
曹操は、袁術が孫策にあたえた官位を「上書き」して、孫策をみずからの味方に取り込もうとした。「献帝さえ手元にいれば、オレサマは正統」なんて、めでたい時代ではない。後漢の権威が失墜して、ひさしい。曹操は必死に戦いをつづけ、献帝を利用して、袁術の臣下たちを解体していったのだ。以下、読みます。
『江表伝』197年、広陵の陳瑀と戦う
『江表伝』はいう。建安二年(197)夏、議郎の王誧は、戊辰の詔書を孫策に与えた。「孫策を、騎都尉・烏程侯・会稽太守とする。もと左將軍の袁術がけしからんから、使持節・平東將軍・領徐州牧・溫侯の呂布と、行吳郡太守・安東將軍の陳瑀とともに、袁術を討て」と。
ひっかかるのは、陳瑀だ。袁術と孫策は、朱治を呉郡太守とする。曹操(献帝)の言い分では、呉郡太守は、陳瑀である。すでに1つ、孫策にとって気に食わないことが、含まれている。ご存知のとおり、朱治は、孫呉に仕え続けてくれる。朱治をおとしめる詔書は、孫策にとっておもしろくない。さっそく、ほころび。
孫策は、都尉でなく、将軍になりたい。王誧の権限で、明漢将軍にしてもらった。
そもそも、曹操が献帝を奉戴するのは、前後の文脈を無視した、突発的な事故みたいなもの。まして献帝は、董卓に即位させられたという、スネのキズを持つ。
王誧も、孫策を値踏みしているから、みずからの権限で、将軍号を発行した。いちいち曹操に聞くまでもない。っていうか、曹操は、張繍と戦って大忙しだ。
献帝を得た曹操が、四方に使者をバラまき、味方を増やしたい。王誧は、その一部。『三国志』袁紹伝では、曹操が孔融をやり、袁紹に官位を授けていた。
ときに陳瑀は、海西(広陵)にいる。孫策、呂布、陳瑀が、ともに袁術を討ちたい。孫策は、銭唐にすすむ。陳瑀が、孫策の背後を襲った。
すると、ここから確かめられるのは、徐州の陳瑀が、揚州を撹乱したことだけ。つまり陳瑀は、献帝の権威をせおって、揚州を攻略してきただけの群雄である。
陳瑀は、陳珪・陳登と同族である。呂布の徐州支配を足元からかきまぜ、呂布-袁術の同盟を機能不全にしたのは、この下邳陳氏である。孫策は単純に、袁術の敵と戦っているだけじゃん。曹操からの使者・王誧が来ていたとしても、ただ問答をするだけで、リアルな形勢には、あまり影響を与えていない。
陳瑀は、30余の印璽をくばった。祖郎、厳白虎らが動き出した。
袁術と呂布のあいだに、広陵があり、下邳の陳氏が陣取っている。陳氏は、呂布と袁術の連絡を、しょっちゅうジャマする。呂布伝にくわしい。「袁術が呂布を攻めて敗れた」というのは、語弊があって、「袁術が陳瑀を攻めて敗れた」のだと思う。呂布は個人的に、最期まで袁術との同盟を考えていた。呂布は、袁術が皇帝即位しても、絶縁しない。むしろ好意的。197年春も、呂布が袁術と対立とは、解釈しずらい。
いま思いついた。献帝は、董卓-李傕による皇帝。どちらも呂布の敵!
じゃあ、197年春に、何が起きたか。徐州牧(刺史だっけ)の呂布が、徐州の下にいる陳氏を、うまく制御できなかった事件だと思う。
いま『江表伝』で、孫策が陳瑀と戦った。おなじ197年春の戦いを指しているのでは?つまり孫策は、袁術の部将として、陳瑀と戦っただけ。孫策は、袁術を攻撃するために、陳瑀と結んだのでない。もし孫策が陳瑀と結んだのなら、陳瑀が、あっさり裏切りすぎである。孫策の背後を、かき回しすぎである。広陵の陳瑀が、(曹操にオーソライズされたかも知れない)印璽をエサに、袁術の揚州を揺さぶったのだ。わかりにくい戦闘の意義を、『江表伝』が読みかえて、孫策が袁術から独立する「意図」を、創作したのだろう。
孫策は、呂範と徐逸に命じ、陳瑀を破る。『山陽公載記』はいう。陳瑀は袁紹をたより、故安都尉(涿郡)にしてもらった。
『呉録』199年、孫策が曹操にお礼する
江表傳曰:建安三年,策又遣使貢方物,倍於元年所獻。其年,制書轉拜討逆將軍,改封吳侯。
『呉録』は、孫策から献帝への、お礼の上表を載せる。「興平二年(195)12月20日、呉郡の曲阿で、袁術から行殄寇将軍にしてもらった。あとからニセモノだと知った。私は17歳で父を失ったが、がんばる」と。
『資治通鑑』では、建安三年(198)、正義校尉の張紘が、献帝に遣いする。しかし、盧弼が言うように、張紘が遣いするのは、「呉志」張紘伝では、建安四年(199)である。『通鑑考異』は、これを誤りとする。司馬光は、199年でなく、198年とする。なぜ『通鑑考異』が198年とするか。つぎの『江表伝』によるだろう。
『江表伝』はいう。建安三年(198)、孫策から献帝へのおくりものは、建安元年(196)の、二倍だった。この歳、孫策は討逆将軍、呉侯に封じられた。
しかし、張紘伝の本文に、建安四年(199)とある。陳寿の本文と、『江表伝』のどちらを信じるんだ、という二者択一の話。 ぼくは、陳寿の本文=張紘伝を信じたい。199年である。いま袁術にからんで冷静さを失っているかも知れないが、もし目隠しされて、陳寿の本文と、『江表伝』のどちらを信じるんだ」と聞かれても、おなじ回答をするだろう。199年なら「袁術が死んだので、孫策は献帝を支持した」となる。袁術が死ぬまで、孫策は袁術をたすけた。そこまで言えなくても、袁術を攻撃してない。
『呉録』に載る孫策の年齢について、裴松之がウダウダする。
ぼくは思う。陳寿本文は、あまりに寡黙だ。袁術が皇帝即位したあと、孫策が関係を切ったとあるだけで、詳しくない。献帝から封じられた時期も、わからない。このページは、裴注で埋まった。緑字が陳寿で、青字が裴松之です。
孫呉の正統を言うために、孫策は、袁術の皇帝即位を咎めなければならない。しかし、ちゃんと咎めたわけじゃない。だから『呉書』は、最低限の記述で、逃げたのではないか。ウソは後ろめたいし、バレるから、体面だけ取り繕った。
陳瑀との戦いを見ると、孫策は袁術のために戦っている。かりに『江表伝』の言うとおり、献帝にお礼を言ったのが198年だとしても、袁術の皇帝即位への反発が、遅すぎる。袁術は、197年春に、皇帝即位した。孫策は、もっとスパッと、「袁術、最低!」と叫び、水をぶっかけ、ケイタイの番号とアドレスを変えて、袁術との連絡を断たねばならんのに。ぼくが思うに、やはり建安初期、「皇帝の袁術」が支持を集めるのか、「曹操がひろった献帝」が支持を集めるのか、よく分からなかったのだ。結果、戦争に強かった曹操が、勝ち残った。
すくなくとも孫策は、袁術と絶縁していない。『江表伝』よりも、張紘伝を信じるなら、袁術が死ぬまで、孫策は袁術の部将だった。つぎ、袁術が死にます。