03) 伝国璽を得て、脳をこぼす
『三国志集解』で孫堅伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
董卓の懐柔をことわる
江表傳曰:或謂術曰:「堅若得洛,不可複製,此為除狼而得虎也」,故術疑之。
孫堅は、梁県の東にゆく。董卓に攻められた。囲みを突破した。
ぼくは思う。李旻の話は、重要な事実だから、強調したい。李旻は、煮殺された。もう一回、書いてみた。方詩銘氏の本でも、読んだなあ。
孫堅は、祖茂に幘をかぶせて逃げた。孫堅は兵を集めなおし、都督の華雄を斬った。このとき、袁術は孫堅をうたがい、軍糧をはこばず。
『江表伝』はいう。ある人は袁術に「孫堅はこわいよ」と教えた。
さっきから孫堅は、ひとりで「軍糧が足りない!くれ!くれ!」と言っている。荊州の刺史や太守を周り、兵糧を集める。袁術にせびる。きっと『孫子』が言うように、軍事行動には恐ろしくコストがかかり、孫堅はこれをまかない切れないのだろう。袁紹に連なる人々は、進軍するコストの大きさをアタマで理解しているから、けっきょく動かない。極めて現実的な計算で、足を止めたのかもしれない。
袁術だって、個人的な性格がケチだから、軍糧をとめたのでは、なかろう。「孫堅は、軍糧をハイペースで使いすぎだ」と、驚いているにちがいない。だから、補給と消費のバランスがくずれた。孫堅の機動力は、良し悪しだなあ。
術踧唶,即調發軍糧。堅還屯。
陽人は、魯陽から100余里だ。孫堅は、袁術に軍糧をくれと訴えた。袁術は、しぶしぶ孫堅に軍糧をあたえた。『江表伝』は、孫堅のセリフを載せる。「私は、呉起や樂毅のように失敗したくない」と。
ところで、いったい今は、いつだろう。袁術と合流したのは、初平元年(190)春でよかろうが。孫堅のセリフで、「袁術さんの仇討のために、私は董卓と戦っている」がある。袁隗が殺されるのは、『後漢書』献帝紀では、初平元年(190)3月戊午だ。下のほうで、董卓は洛陽に放火するが、これが『後漢書』董卓伝で、初平元年2月だ。放火の記事は、リアルタイムでないのか。時系列が、いまいち合わないなあ。
董卓は孫堅をおそれた。李傕をつかわし、「孫堅の子弟を、刺史や太守にする」と懐柔した。孫堅は、ことわった。大谷にすすむ。洛陽まで、90里。
ぼくは思う。董卓による懐柔のセリフに、後漢の利害が濃縮されているような気がする。後漢の人にとって、「権力を握る」とは、子弟を地方官にすること。宦官がそうしたし、董卓もそうした。孫堅にも、おなじ蜜を差し出した。
『山陽公載記』はいう。董卓は長史の劉艾に言った。「むかし周慎ととも西方を攻めたとき、孫堅は侮れなかった。二袁と劉表、孫堅を殺せば、天下は私に服する」と。
ぼくは思う。『山陽公載記』では、劉表は董卓の敵なんですね。なんで任命した?
董卓が洛陽を焼き、孫堅が伝国璽を得る
卓尋徙都西入關,焚燒雒邑。堅乃前入至雒,脩諸陵,平塞卓所發掘。
董卓は洛陽を焼く。孫堅は、諸陵を修復した。
吳書曰:堅入洛,掃除漢宗廟,祠乙太牢。堅軍城南甄官井上,旦有五色氣,舉軍驚怪,莫有敢汲。堅令人入井,探得漢傳國璽,文曰「受命於天,既壽永昌」,方圜四寸,上紐交五龍,上一角缺。初,黃門張讓等作亂,劫天子出奔,左右分散,掌璽者以投井中。
『江表伝』はいう。洛陽が廃墟だから、孫堅は泣いた。
『呉書』はいう。井上に五色の気がある。伝国璽だった。
栗原朋信「帝室の璽印」(『秦漢史の研究』吉川弘文館、一九六〇)
訖,引軍還,住魯陽。
諸陵の修復をおえ、孫堅は魯陽にもどる。
會稽典錄曰:初曹公興義兵,遣人 要喁,喁即收合兵眾,得二千人,從公征伐,以為軍師。後與堅爭豫州,屢戰失利。會次兄九江太守昂為袁術所攻,喁往助之。軍敗,還鄉里,為許貢所害。
『呉録』はいう。関東の州郡で、みな勢力の拡大につとめる。袁紹は、会稽の周喁を豫州刺史とした。孫堅は、なげいた。周喁は、周昕の弟だ。
公孫瓚03) 袁紹と袁術を開戦させる
『会稽典録』はいう。曹操が義兵をおこすと、周喁は2千人で曹操にあわさり、軍師となった。のちに周喁は、孫堅と豫州をあらそう。孫堅に勝てず。たまたま次兄の九江太守する周昂が、袁術に攻められた。周喁は、周昂を助けにゆく。袁術にやぶれて、郷里(会稽)にもどる。周喁は、許貢に殺された。
袁術は孫堅を陽城におき、董卓をこばんだ。袁紹は周昂をつかわし、陽城を奪おうとした。「魏志」公孫瓚伝にある。袁紹は、会稽の周昂を九江太守とした。袁術は、孫賁に周昂を攻撃させた。孫賁は、陰陵で周昂を破り、豫州刺史となった。「呉志」孫賁伝にある。これが周昂の始終である。孫賁が周昂を攻めたのは、孫堅が死んだあとである。
周喁のことは、この孫堅伝と、注釈にひく『呉録』、『会稽典録』にあることで、すべてである。3人の兄弟のことは、ゴチャゴチャになる。
ぼくは思う。上にリンクした公孫瓚伝でやったのに、ふたたび孫堅伝で、やるハメになった。ただし盧弼のおかげで、何が正解か、ハッキリしている。これは、ありがたいことです。
191年、孫堅の死、孫策伝へのつなぎ
初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊、鄧之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,為祖軍士所射殺。
初平三年、袁術は孫堅に、荊州の劉表を攻めさせる。劉表は黄祖に命じ、樊鄧の間で防がせる。孫堅は黄祖をやぶる。漢水をわたり、襄陽をかこむ。孫堅は、峴山で刺殺された。
孫堅の死去は、陳寿の誤りで、初平二年(191)が正しい。『通鑑考異』はいう。『後漢書』は、初平三年(192)春、孫堅が死んだとする。「呉志」孫堅伝とおなじだ。
『英雄記』は、初平四年(193)5月7日とする。えー!
袁宏『後漢紀』はいう。初平三年(192)5月に死んだ。『山陽公載記』は孫策の上表を載せる。「私が17歳のとき、孫堅は死んだ」と。裴松之は考える。孫策は、建安五年に26歳で死んだ。すると孫堅は、191年に死なないとおかしい。
張璠『漢紀』、胡沖、呉麻?は、孫堅が初平二年(191)に死んだとする。これが正しい。盧弼は考える。周瑜伝の建安三(198)年、周瑜は24歳だ。周瑜と孫策は、おない歳だ。さきの『山陽公載記』がのせる孫策の上表と、計算があう。孫堅は、初平二年(191)年に死ぬ。これで決定である。
典略曰;堅悉其眾攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還,堅逆與戰。祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。吳錄曰:堅時年三十七。
英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。又雲:劉表將呂公將兵緣山向堅,堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭,應時腦出物故。其不同如此也。
『典略』はいう。暗闇から、孫堅を射た。『呉録』はいう。孫堅は37歳で死んだ。
孫堅が初平二年(191)に死んだならば。孫堅は、桓帝の永寿元年に生まれた。このとき、孫策は17歳、孫権は11歳である。2人は、6歳ちがう。
『英雄記』はいう。孫堅は、脳をたれながした。
兄子賁,帥將士眾就術,術複表賁為豫州刺史。堅四子:策、權、翊、匡。權既稱尊號,諡堅曰武烈皇帝。
吳錄曰:尊堅廟曰始祖,墓曰高陵。
志林曰:堅有五子:策、權、翊、匡,吳氏所生;少子朗,庶生也,一名仁。
孫堅の兄の子は、孫賁である。袁術をたよる。袁術は上表し、孫賁を豫州刺史とする。孫堅には、4子がいる。孫策、孫権、孫翊、孫匡だ。孫権が皇帝になってから、孫堅に追諡して、武烈皇帝とした。
『呉録』はいう。孫堅の廟を「始祖」とよび、墓を「高陵」とした。
『志林』はいう。孫朗は呉氏の子でなく、仁ともいう。
つぎは孫策伝ですね。日曜日に着手する予定です。おわり。
いちばんの収穫は、孫堅の没年を191年と、固められたことかな。
これで、だいぶ、話を作りやすくなった。110409