表紙 > 孫呉 > 荊州の名将が、袁術の爪牙となる・孫堅伝

01) 臧洪、朱儁、張温の部将となる

『三国志集解』で孫堅伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

孫破虜伝について

盧弼が『三国志集解』で注釈しています。
潘眉はいう。韋昭『呉書』に本紀があった。だから孫晧は、孫和に本紀を立てろと言った。陳寿は、韋昭『呉書』の本紀を、列伝として編入した。
劉咸キはいう。孫堅は黄巾を討った。もし張温が、孫堅の言うとおり董卓を殺せば、後漢は乱れなかった。もし孫堅が董卓を討てば、長安遷都はなかった。これらの行動から、陳寿は「孫破虜伝」とした。孫堅は、漢帝の陵墓を修復した。孫堅は、忠烈である。孫堅と孫策は、皇帝でない。孫呉は、孫堅に皇帝を追号した。陳寿は、この追号を列伝のタイトルとしない。生前の官職を、列伝のタイトルとした。

ぼくは思う。陳寿は、ちっとも孫堅を特別あつかいせず。


172年、臧旻と陳夤の部下として、許昌を討つ

孫堅字文台,吳郡富春人,蓋孫武之後也。

孫堅は、呉郡の富春の人だ。孫武の後裔だろう。

『漢書』地理志はいう。会稽郡の富春県だ。『郡国志』はいう。呉郡の富春県だ。『三国志』孫権伝はいう。黄武5年、孫権は東安郡をおく。郡治は、富春だ。全琮を東安太守とする。ぼくは思う。会稽、呉郡、東安と、開発がすすむごとに、区画が細分化した地域である。つまり、フロンティア出身である。
東晋の皇后の名を諱んで、「富陽」と改名された。
『宋書』符瑞志らはいう。孫堅の祖父(父)は、孫鍾である。逸話はこちら。
唐代『建康実録』をだいたい和訳し、孫呉をふくらます


吳書曰:堅世仕吳,家於富春,葬於城東。塚上數有光怪,雲氣五色,上屬於天,蔓延數裏。眾皆往觀視。父老相謂曰:「是非凡氣,孫氏其興矣!」及母懷妊堅,夢腸出繞吳昌門,寤而懼之,以告鄰母。鄰母曰:「安知非吉徵也。」堅生,容貌不凡,性闊達,好奇節。

『呉書』は、孫堅の誕生神話を載せる。

韋昭『呉書』が、孫堅に本紀を設定し、孫呉を正統化した痕跡である。


少為縣吏。年十七,與父共載船至錢唐,會海賊胡玉等從匏裏上掠取賈人財物,方於岸上分之,行旅皆住,船不敢進。堅謂父曰:「此賊可擊,請討之。」父曰:「非爾所圖也。」堅行操刀上岸,以手東西指麾,若分部人兵以羅遮賊狀。賊望見,以為官兵捕之,即委財物散走。堅追,斬得一級以還;父大驚。由是顯聞,府召署假尉。

孫堅は、17歳で県吏となる。船で銭唐にゆく。

霊帝の建寧四年(171)である。
『漢書』地理志はいう。会稽の銭唐に、西部都尉をおく。西部都尉は、前漢がおき、後漢がはぶく。中平二年(185)、朱儁を銭唐侯に封じる。おそらく、ふたたび西部都尉をおいたのだ。孫策が会稽にはいると、程普を呉郡都尉にして、銭唐においた。
「呉志」カン沢伝で、カン沢は銭唐の県長となる。建安初年(196)である。おそらく後漢末に、呉郡に南部都尉をおき、銭唐を治所としたのだ。謝鍾英はいう。「呉志」全琮伝はいう。全琮は、呉郡の銭唐の人だ。黄武元年、銭唐侯に封じられた。
ぼくは思う。銭唐は、海に面した軍事の要衝だろう。孫堅は、なんとなく故郷をうろついていて、活躍したのでない。紛争の地域に、わざわざ乗りこんでゆき、手柄を立てたのだ。

孫堅は、指揮するふりをして、賊から宝物をうばった。府に召され、假尉となる。

ぼくは思う。海賊がだまされたのは、なぜか。よく後漢の軍勢が、この地域を攻めてくるからだろう。組織だって、後漢が攻める地域でないと、孫堅の作戦は成功しない。


會稽妖賊許昌起於句章,自稱陽明皇帝,
靈帝紀曰:昌以其父為越王也。 與其子詔扇動諸縣,眾以萬數。堅以郡司馬募召精勇,得千餘人,與州郡合討破之。是歲,熹平元年也。

会稽の許昌が、句章で起兵した。陽明皇帝を名のる。
『霊帝紀』はいう。許昌の父は、越王を名のる。
許昌と、その子・許韶は、諸県を煽動する。軍勢は1万をかぞえる。

『後漢書』霊帝紀はいう。熹平元年(172)11月、会稽の許生が越王を名のる。章懐注は『東観漢記』をひく。会稽の許昭は、みずから大将軍となる。父を越王とする。賊の名が違うのは、諱んだから。許昭でよい。
孫策伝の注釈はいう。厳白虎は、許昭の軍に投じた。盧弼は考える。『後漢書』朱儁伝はいう。会稽太守の尹端は、許昭を討ったが、勝てないと。

孫堅は、許昌を討伐した。これは、熹平元年(孫堅が18歳)である。

刺史臧旻列上功狀,詔書除堅鹽瀆丞,數歲徙盱眙丞,又徙下邳丞。
江表傳曰:堅曆佐三縣,所在有稱,吏民親附。鄉里知舊,好事少年,往來者常數百人,堅接撫待養,有若子弟焉。

揚州刺史の臧洪は、孫堅を鹽瀆(広陵)丞とした。盱眙(下邳)丞、下邳丞にうつる。

臧旻のことは、「魏志」臧洪伝にひく謝承『後漢書』にくわしい。見ねば!
『後漢書』霊帝紀はいう。熹平元年(172)、揚州刺史の臧旻、丹楊太守の陳夤(『資治通鑑』は陳寅とする)は、許昭を討伐する。熹平三年(174)11月、会稽で許昭をやぶる。趙一清はいう。皇甫嵩が許昭をやぶったとする本があるが、ウソである。皇甫嵩は、黄巾をやぶったのだ。
盧弼はいう。孫策が生まれたのは、熹平四年(175)だ。孫堅が21歳のとき。孫堅が盱眙丞のときである。孫権伝にひく『江表伝』によれば。孫権が生まれたのは、光和五年だ。孫堅が28歳のとき、下邳丞のときである。

『江表伝』はいう。孫堅は、若者たちをやしなった。

朱儁の部下として、宛城の黄巾を討つ

中平元年,黃巾賊帥張角起于魏郡,讬有神靈,遣八使以善道教化天下,而潛相連結,自稱黃天泰平。三月甲子,三十六(萬)一旦俱發,天下回應,燔燒郡縣,殺害長吏。
獻帝春秋曰:角稱天公將軍,角弟寶稱地公將軍,寶弟梁稱人公將軍。

中平元年(184)、魏郡で張角が起兵した。郡県の長吏を殺した。

『後漢書』霊帝紀、皇甫嵩伝は、黄巾の乱をつたえる。はぶく。

『献帝春秋』はいう。張角は、天公将軍を名のる。

『通鑑考異』はいう。司馬彪『九州春秋』は、弟の称号がちがう。


漢遣車騎將軍皇甫嵩、中郎將硃俊將兵討擊之。俊表請堅為佐軍司馬,鄉里少年隨在下邳者皆原從。堅又募諸商旅及淮、泗精兵,合千許人,與俊並力奮擊,所向無前。吳書曰:堅乘勝深入,於西華失利。堅被創墮馬,臥草中。軍眾分散,不知堅所在。堅所騎驄馬馳還營,踣地呼鳴,將士隨馬於草中得堅。堅還營十數日,創少愈,乃複出戰。

車騎将軍の皇甫嵩、中郎将の朱儁が、黄巾をうつ。

『後漢書』皇甫嵩伝はいう。皇甫嵩を左中郎将、持節とした。朱儁を右中郎将とした。皇甫嵩は、潁川の黄巾を討った。銭大昭はいう。皇甫嵩は、北地太守から、左中郎将となった。黄巾を平定したのち左車騎将軍となった。まだ車騎将軍でない。

『呉書』はいう。孫堅が負傷した。馬が、孫堅を探知した。

帝王神話は、こうやって作ります。というロコツな例。笑


汝、潁賊困迫,走保宛城。堅身當一面,登城先入,眾乃蟻附,遂大破之。俊具以狀聞上,拜堅別部司馬。

汝南と潁川で、黄巾が宛城をたもつ。孫堅は、城壁をのぼる。朱儁は、孫堅を別部司馬とした。

續漢書曰:俊字公偉,會稽人,少好學,為郡功曹,察孝廉,舉進士。漢朝以討黃巾功拜車騎將軍,累遷河南尹。董卓見俊,外甚親納,而心忌之,俊亦陰備焉。關東兵起,卓議移都,俊輒止卓。卓雖憚俊,然貪其名重,乃表拜太僕以自副。俊被召不肯受拜,因進曰:「國不宜遷,必孤天下望,成山東之結,臣不見其可也。」有司詰曰:「召君受拜而君拒之,不問徙事而君陳之,何也?」俊曰:「副相國,非臣所堪也。遷都非計,臣之所急也。辭所不堪,進臣所急,臣之所宜也。」有司曰:「遷都之事,初無此計也,就有,未露,何所受聞?」俊曰:「相國董卓為臣說之,臣聞之於相國。」有司不能屈,朝廷稱服焉。後為太尉。李傕、郭汜相攻,劫質天子公卿,俊性剛,即發病而卒。

『続漢書』はいう。朱儁は、会稽の人。孝廉、進士にあがる。

朱儁は、「魏志」武帝紀の初平元年(190)にある。『後漢書』を去年やった。
『後漢書』朱儁伝を、狩野直禎氏の翻訳を横目に読む
梁商鉅はいう。「進士」は、後世の科挙制度である。周寿昌はいう。『後漢書』朱儁伝はいう。太守の徐珪は、朱儁を孝廉にあげる。蘭陵の県令とする。「進士」は、漢代の制度では「高第」とすべきだ。

朱儁は黄巾を討ち、車騎将軍、河南尹となる。太僕となり、董卓を補佐する。董卓の遷都に反対した。太尉となる。

徐州刺史の陶謙らは、朱儁を太師におした。「魏志」陶謙伝の注釈と、『後漢書』朱儁伝にある。初平四年(193)、朱儁は周忠に代わって、太尉、録尚書事となる。翌年、死んだ。

李傕と郭汜が、天子や公卿を人質とした。朱儁は病没した。

『後漢書』朱儁伝はいう。献帝は詔した。朱儁と、太尉の楊彪ら10余人は、李傕と郭汜を和解せよと。李傕と郭汜は、和解せず。朱儁は、その日のうちに死んだ。
ぼくは思う。上にリンクした『後漢書』朱儁伝の話で。朱儁は、袁術のライバルである。太尉の楊彪と、接点がある。孫堅の上司である。注目すべき人物である。


司空の張温に、董卓を斬れという

邊章、韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年,遣司空張溫行車騎將軍,西討章等。溫表請堅與參軍事,屯長安。溫以詔書召卓,卓良久乃詣溫。溫責讓卓,卓應對不順。堅時在坐,前耳語謂溫曰:「卓不怖罪而鴟張大語,宜以召不時至,陳軍法斬之。」溫曰:「卓素著威名於隴蜀之間,今日殺之,西行無依。」

辺章と韓遂が、涼州を乱す。中郎将の董卓は、功績がない。中平三年(186)、司空の張温が車騎将軍をかね、辺章らを討つ。張温は、孫堅を軍事に参じさせた。孫堅は、長安にくる。

胡三省はいう。参軍事という官位は、初めて登場する。杜佑はいう。後漢の霊帝のとき、幽州刺史の陶謙は、司空・車騎将軍の張温の軍事に参じた。晋代になると、軍府におく官員を、参軍事といった。魏晋に、事例はおおい。石苞は天子の軍事に参した。『資治通鑑』62で、王朗は、司空の軍事に参した。楊儀や馬謖は、諸葛亮の軍事に参した。いつを初めとするかは、諸説ある。
三国時代、参軍には定員がいない。出征するとき、置かれた。建安十九年、孫呉は、曹魏の参軍・董和を捉えた。定員がない参軍の事例である。「魏志」曹休伝で、曹休は曹洪の軍事を参した。曹操は曹休に、「曹洪の軍だが、曹休が司令官だ」と言った。参軍事が、権限を持っていた証拠である。
ぼくは思う。張温-孫堅は、曹洪-曹休で理解すればいいのか。明解!

董卓が遅刻した。張温は董卓を責めた。孫堅は董卓を斬れという。

堅曰:「明公親率王兵,威震天下,何賴於卓?觀卓所言,不假明公,輕上無禮,一罪也。章、遂跋扈經年,當以時進討,而卓雲未可,沮軍疑眾,二罪也。卓受任無功,應召稽留,而軒昂自高,三罪也。古之名將,仗鉞臨眾,未有不斷斬以示威者也,是以穰苴斬莊賈,魏絳戮楊幹。今明公垂意於卓,不即加誅,虧損威刑,於是在矣。」溫不忍發舉,乃曰:「君且還,卓將疑人。」堅因起出。

孫堅は、董卓の罪をかぞえた。張温は、董卓を斬らず。

章、遂聞大兵向至,黨眾離散,皆乞降。軍還,議者以軍未臨敵,不斷功賞,然聞堅數卓三罪,勸溫斬之,無不歎息。拜堅議郎。

辺章と韓遂は、大軍がきたので、離散して降伏した。対決しなかったので、論功はなし。孫堅は、議郎となった。

沈家本はいう。『後漢書』霊帝紀はいう。中平二年(185)、張温は美陽で、北宮伯玉をやぶった。トウ寇将軍の周慎は、ユ中で伯玉をかこむ。中郎将の董卓は、先零羌を討つが、こちらも勝てず。『後漢書』董卓伝はいう。中平三年(185)冬、張温を京師にもどす。張温は美陽で勝てず、辺章は戦わずに逃げたので、論功がなかった。『後漢書』と、『三国志』孫堅伝は、くいちがう。陳寿の誤りであろう。


荊州を越境して平定し、軍事力をたくわえる

時長沙賊區星自稱將軍,眾萬餘人,攻圍城邑,乃以堅為長沙太守。到郡親率將士,施設方略,旬月之間,克破星等。
魏書曰:堅到郡,郡中震服,任用良吏。敕吏曰:「謹遇良善,治官曹文書,必循治,以盜賊付太守。」

長沙の区星が、将軍を自称して、長沙の城を攻める。孫堅は長沙太守となり、旬月のうちに区星をやぶる。

『通鑑考異』はいう。『後漢書』は、区星でなく観鵠とする。
盧弼は考える。『後漢書』献帝紀はいう。中平四年(187)10月零陵の観鵠が、平天将軍を名のり、桂陽をせめる。長沙太守の孫堅は、観鵠を斬った。これに続く文をみると、例油尾と桂陽の賊であって、長沙の賊でない。『通鑑考異』は誤りである。ぼくは補う。区星と観鵠は、べつの賊である。
盧弼は考える。孫堅は長沙太守となる。『資治通鑑』は、いま中平四年の記事に、孫堅は33歳だとする。長沙の桓階を、孝廉にあげた。「魏志」桓階伝にある。

『魏書』はいう。長沙で孫堅は、「盗賊の処置は、私が判断する」と命じた。

なぜ『魏書』なのか。もし『呉書』なら、つまらん話だったが、『魏書』なのがおもしろい。孫堅は、盗賊をただの敵と見なさず、自分の勢力にくり入れることを、考えていたのではないか。後漢を絶対視せず、使えるものは、使ってゆく。
方詩銘氏の孫堅論「軍事力の量的形成」を抄訳する


次回、荊州で兵力をたくわえ、董卓と対決します。つづく。