01) 孫氏の出自と、孫鍾
唐代の許嵩が記した『建康実録』を翻訳します。
ウィキペディアに101020時点で、
六朝期の歴史研究における史料的価値は必ずしも高くない。
しかし、『三国志』と異なる記述があるため、一部の三国志マニアにはもてはやされている。
と書いてある本です。
原文のテキストがネットで見つけられなかったので、ぼくのテキトーな和訳だけしか載せられません。ご諒承ください。無論のことですが、内容をお知りになりたければ、ご自分で原文に当たってください。
『四庫全書』を見ながら、訳しています。今回は208年まで。以下、訳文。
建康実録序:ウソっぽくても批判は受け付けない
司馬遷『史記』は、よい歴史書だと、たたえられた。
しかし班固は、『史記』の疎略さをきらった。班固の言い分は、儒教にかなうものだ。ただし班固は、いくつかの記録を隠し、『漢書』に載せなかった。
構文をとれなかったから、司馬遷と班固の対立構図を、かってに作りました。『建康実録』をお持ちの方、ご指摘をお願いします、、
わたくし許嵩は、『漢書』よりも『史記』の編集方針に共感する。つまり、正史をただすとともに、ひろく正史以外の遺文も採録して、この『建康実録』をつくることにする。
陳寿『三国志』と異なる記述があり、もてはやされるのは、この編集方針のおかげだ。唐代に、どんな伝説が生まれていたか、気になるところ!
【追記】goushuoujiさんのツイートより。正史を「質し」は、正史を「問いただす」の意味。修正するというより、検討するという意味でしょう。
『建康実録』は、後漢の興平元年(194年)に孫呉がおこってから、南朝陳の末年までのことを載せる。
時代区分論というのは、終わりのない、美味のネタです。
孫呉の黄龍元年(222年)より前は、まだ後漢の暦がのこっているが、実のところ、すでに孫呉は始まっている。太康元年(280年)西晋が孫呉を平らげてから、30余年は西晋の時代である。琅邪王の司馬睿が即位してから、東晋の時代とする。東晋は11人の皇帝がいて、102年つづいた。
南朝には、6つの王朝があり、40人の皇帝がおり、331年つづいた。西晋の時代もふくめ、孫呉が始まった194年まで含めれば、トータルで400年である。
この400年の建康のことを、20巻の書物にまとめて、『建康実録』と名づける。六朝の君臣のおこないについて、詳しく分かりやすく書こうと思う。地理的な記述については、あんまり書かない。王朝の興亡について、明らかにしたい。
矛盾した話があれば、むりにツジツマをあわせず、すべて注記しておく。読みやすく、内容がたっぷりの本にするつもりだ。
孫氏の出自は、衛の公族
太祖の大皇帝は、姓は孫氏で、諱は権である。あざなは仲謀。呉郡の富春県の人だ。
孫権の祖先は、周の武王の母の弟である、衛の康叔の後裔である。
漢文を切るところが、ちがうのだろうか。
衛の武公・子恵からみて、孫にあたる曽耳は、衛の上卿になった。曽耳は、武公の孫だから、孫氏を名のった。
春秋時代。孫武は、呉王コウリョの将軍になった。だから孫氏は、呉に移住した。この孫武の子孫が、孫権である。
衛の武公(の孫の曽耳)と、孫武は、うまくつながるのだろうか。春秋時代は、ろくに年表すら頭に入っていないから、よく分からん。衛の武公は紀元前8世紀、コウリョは紀元前5世紀の人。
孫権の祖父は、孫鍾である。父は孫堅である。
『祥瑞志』を見るに。孫鍾の家は、富春にあった。孫鍾は、はやくに父をなくした。幼くして、母と生活した。性格は至孝だった。
ところで孫鍾の名は、陳寿と裴松之には、見えません。
飢饉の歳には、倹約した。瓜を植えて、なりわいとした。
いきなり3人の少年が、孫鍾をおとずれて「瓜をくれ」と云った。孫鍾は3人を、手あつく接待した。3人は云った。
「もしキミが死んだら、この山の下に、埋めてもらえ。死後にキミは、天に出ることができるだろう。場所を教えよう。キミは山を見ながら、100歩ほどで振り返れ。そのとき私たちが立っている場所が、キミを埋めるべき地点だ」
孫鍾は、山を降りた。3、40歩で振り返った。3人が立っていた。3人は、たちまち白い鶴に変わって、飛び去った。孫鍾は、その地点を記録した。
のちに孫鍾が死んだ。
記録した地点に、孫鍾は葬られた。そこは富春県の城からみて、東にある塚である。塚には、つねに光があった。怪しげな5色の雲気が、天につながった。
孫堅の母が、孫堅を身ごもったとき。夢で、はらわたが出て、呉王コウリョの門に、巻きついた。孫堅の祖母にこれを伝えると、祖母は云った。「これが吉祥でないわけがない」
『祥瑞志』の記述、ここまでです。本文に戻ります。
孫堅が生まれた。孫堅の容貌は、奇異だった。
孫堅は後漢に仕えて、破虜将軍となり、長沙太守となった。霊帝の末年、董卓が乱をおこした。孫堅は董卓を討つため、長沙で兵を挙げた。孫堅は、董卓の軍を、陽夏で破った。
孫堅は、ながい距離を駆けて、洛陽に入った。漢皇帝の陵廟をなおし、祭った。軍を洛陽においた。洛陽の城南で、井戸から5色の気が、あがっているのが見えた。
孫堅は命じて、井戸に入らせた。漢の伝国璽を手にいれた。璽に刻まれた文はいう。「天から命を受けた。すでに、ながらく昌えることを、ことほぐ」
いま気づいたのは、璽の文が、過去形であること。しかも、とっくの昔に、天命を受けたという内容である。内容は、漢からの易姓革命を否定している。すでに長くつづいた漢が、さらに長くつづくという内容だから。
この漢のためだけの伝国璽を、孫呉の正統の裏づけに使うには、ムリがある。政策としても、物語の演出としても。
自分の彼女が、元カレにむけて書いた手紙を手に入れて「なんて一途な想いなんだ」とウットリするくらい、的はずれである。
璽は4寸四方だ。璽の上で5匹の龍が交わっている。龍の一角が欠けていた。
以下、『建康実録』の著者である許嵩による、みずからの注釈です。
『後漢記』を見ると。黄門の張讓らは、天子をさらって、逃げた。皇帝のそばの人は、分散した。璽を手にした人は、井戸に璽を投げこんだ。
璽が欠けているのは、前漢の元后が、王莽に璽をせまられて、地に投げたからだ。
のちに孫堅は、劉表を荊州に攻めた。江夏太守の黄祖が、ケン山で、伏兵をつかって孫堅を殺した。孫堅の兄の子・孫賁は、孫堅の死体をおさめ、曲阿にほうむった。孫賁は、孫堅の兵をあつめて、淮南で袁術に帰した。
『英雄記』には、ちがうことが書いてある。『英雄記』はいう。孫堅は、後漢の初平4年正月7日、劉表の部将・昌公を攻めた。孫堅の兵は、昌公のいる山を攻め上った。昌公の兵がおとした石にあたり、孫堅は死んだ。
別に伝えていう。孫堅が劉表を攻めたとき、江夏太守の黄祖は、楚水と鄧水のあいだで、孫堅をふせいだ。黄祖は、将士をふせさせ、孫堅を射殺した。
ここに挙げた2つの記述でも、孫堅の死に様はちがう。
孫堅は、あざなを文台という。わかくして県吏となった。17歳のとき、父の孫鍾とともに、銭唐のホウ里で、海賊の胡玉を討った。胡玉は、商人から財物をうばい、山分けしていた。孫堅は兵を指揮するふりをして、胡玉を斬り、財宝をうばった。
本紀になったり列伝になったり。『建康実録』の悪いくせとは、これか。
次回、孫策につづきます。