表紙 > 漢文和訳 > 唐代『建康実録』をだいたい和訳し、孫呉をふくらます

03) 呉氏の外戚政治

唐代の許嵩が記した『建康実録』を翻訳します。まずは巻1だけでも。

前回、孫策の動きが書いてありましたが、行動のつながりが、分かりにくい。孫策の方針ないしは戦術を、許嵩は『建康実録』で構成しそこねた
孫策のため、方針をつくったはずの張紘は、「いっしょに黄祖を討ちましょう」としか、『建康実録』では発言していない。陳寿と裴松之を見れば、張紘のプランについて、いくらでもネタがあるのに。
ああ、
だから『建康実録』で、孫策の行動を本文にせず、許嵩みずからが書いた文章を、わざわざ注釈するスタイルで逃げたか。注釈なんだから、支離滅裂でもいいじゃん。スジが通ってなくても、責めないでくれよ、と。

この巻が「太祖」つまり孫権が主人公で、孫策はオマケだからか? いやダメだ。だったら、孫呉のスタートを194年とする、という見解を撤回すべきだ。

許嵩にアドバイスするとしたら。
孫策を主語にしても、孫策の動きは、分かりませんよ。当たり前です。主語に据えるべき人物は、、もう言うまい。笑

孫策の死は、顔面の傷と于吉

孫策は許昭に、顔を刺された。
ときに琅邪の道士の于吉は、呉で支持を集めていた。諸将のうち、孫策をおきざりにして、于吉をしたう人は、3分の2だった。孫策は、于吉をにくんだ。孫策は丹徒にきて、洪水や日照りを理由に、于吉を殺した。孫策がひとりで座っていると、つねに于吉の姿を、ちかくに見た。
許昭に刺された傷は、よくなった部分もあった。だが孫策は性格があらいから、鏡を見ると怒った。
「男たるもの、大きな手柄を立てねばならない。それなのに、こんな顔になってしまってはなあ!」
孫策は鏡を投げて、大声で叫んだ。傷がやぶれて、孫策は死んだ。26歳だった。

以下『捜神記』から、許嵩がひいている。

『捜神記』を見るに。孫策は于吉を殺した。孫策が鏡を見るたび、于吉は鏡のなかにいた。だが孫策が振り返ると、于吉はいない。こんなことが再三あった。孫策は鏡を投げて、大声で叫んだ。傷が破れて、たちまち死んだ。

ひたいの広い孫権が、つぐ

孫策が死ぬとき、あとのことを孫権に任せた。長史の張昭と張紘に、孫権を助けさせた。
孫策は、遺言した。
「外征はオレがうまい。内政はオマエがうまい」

孫策のセリフは、陳寿や裴松之のコピーだ。だから、めちゃめちゃ手をぬきました。

孫策が死んだ。張昭は孫権を炊きつけて、軍を巡察させた。

「呉主伝」からのコピーなので、これも大幅に省略。張昭のセリフも、はぶきました。つぎ、『江表記』から、孫権について注釈されてます。

『江表記』を見るに。孫堅が下邳丞となったとき、孫権は生まれた。ひたいは広く、口は大きい。目には、精光があった。孫堅は「すごいルックスの、赤子だなあ。かならず偉くなるぞ」と思った。
孫権は、孫策に従軍した。孫権が、すぐれた作戦を立てるごとに、孫策は兵たちに云った。「弟の孫権こそ、まことにお前たちが従うべき将軍だ

孫策の家が、のちに孫権によって不遇されてから、捏造されたエピソードだろう。


孫策が死んだとき、領土は会稽、呉郡、丹楊、豫章、廬陵であった。深く険しい土地だから、すべてが孫権に従っているわけじゃない。孫権との君臣たる関係は、固まっていなかった。
周瑜、程普、呂範らは、孫権の爪牙・将軍となった。魯粛、諸葛瑾、歩隲、陸遜らは、孫権の腹心・賓客となった。すぐれた人材を招き、軍を分けて、孫権は山越を討った。太史慈、韓当、周泰、呂蒙らが、県長となった。

同列に論じていいのか、よく分からない人材が、混ざりまくっている気がする。まあ、細かいことは、言いっこなしか。


孫権への集中と、呉氏の外戚政治の対決

建安六年(201年)春、孫策がおいた廬江太守の李術が、孫策の死を聞いて、孫権にそむいた。李術は、孫権に手紙を送った。
「徳のある人には従うが、徳のない人には従わない」

ものすごく、正しいと思う。笑
一般に孫策は敵をつくりやすく、孫権は味方をふやす役割である。しかし、孫策の徳には従うが、孫権には従わない人がいる。しかも孫氏が任命した、太守のレベルで。よく見ると、ちょっと以外な感じだ。

孫権は怒り、みずから李術を攻めた。李術をさらし首にした。廬江城にいた部曲3万人を、長江の東にうつした。

孫権も、孫策におとらず強硬だ。孫策と孫権、個人的なキャラのちがうだろうが、孫氏の当主として求められる行動は、同じだろう。孫策が死のうが、孫権が継ごうが、揚州の情勢はおなじなんだ。むしろ、さらなる混沌の気配すらあり。


建安八年(203年)孫権は、弟の孫翊を、呉景のかわりに丹楊太守とした。

血筋のちかい人で、要職をかためる。常套手段だ。この時代の史料を、ぼくがあまり読んでいないから、分からないが、孫権が権力をあつめる過程だろう。


建安九年(204年)孫権の属僚たちが集まり、沈友を殺すことを話し合った。
沈友は、あざなを子正という。呉の人だ。若いときから学問を好んだ。文筆と、弁舌と、刀技がうまかったので「三妙」といわれた。孫権と沈友は、王覇の大略を話した。だが沈友は、人々の恨みを買った。孫権は、属僚たちの意見を飲んで、沈友を殺した。

孫権が好み、みんなが嫌うのは、呂壱とおなじだ。沈友は、裴注『呉録』に出てくるみたいだ。孫権の名誉を守るため、沈友ひとりが性悪にされたが、実際はちがうだろう。沈友の件は、孫権の失敗ではないか。若いときから、晩年の気配はあり。


建安十年(205年)春、孫権はシュク丘にいった。都尉の賀斉をおくり、上ジョウを討った。分割して、建平県をおいた。
この歳、丹楊都尉のギ覧と、郡丞の載員らは、辺洪とともに、丹楊太守の孫翊を殺した。孫翊の妻・徐密と、孫翊の親近である孫高と傅嬰らは、ギ覧や載員をだまして、その一味を殺した。ギ覧の頸を、孫翊の墓にそなえた。

孫翊を殺したのは、オール孫氏を嫌う人たちか。もしくは、孫氏のなかの主導権あらそいか。
ぼくが、よくやる切り口では「孫権があとつぎであることを前提に、この時代を読んではいけない」となる。孫権や孫翊が、ほんとに文句なく、指導的立場だったのかなあ。呉氏が、対等に張り合っていたのでは?
呉景伝はいう。孫権がついだ直後、母の呉氏が、周瑜とともに支えたとある。これって、外戚政治じゃないか、、孫権にとって、呉氏は煙たいよな。
呉景は丹楊太守を、孫翊に奪われた。『三国志』で呉景は、建安八年(203年)に死んだ。呉景の死去と、丹楊太守の解任とは、どっちが先だろう。また「呉志」では、呉景の子の記述が、いやに少ない。
いま孫翊を殺したギ覧たちは、ながらく丹楊を治めた呉景をしたい、呉景の子とつながっていたのでは? なんか、キナくさいなあ。まえ書きました。
ほんとうは偉かった外戚、呉夫人と呉景伝


建安十一年(206年)建昌都尉の太史慈が、死んだ。

ここから、太史慈伝の丸写しが始まる。都へのおつかい、孔融の救出、劉備とのからみ、孫策との一騎打ち、走れメロス、曹操からのリクルート。はぶきます。
享年42歳というのが、新しい情報だろうか。
『建康実録』のスペースは、孫堅と孫策を合わせたよりも、ひろく使われている。なぜ太史慈が、こんなに大切にされるのか。許嵩さんの考えは、よく分からない。


建安十二年(207年)孫権の母・呉夫人が薨じた。

そういえば、称号が「夫人」のままだな。南朝の歴史を書くなら、「太后」でいいじゃん。動詞は「薨」で、「崩」ではない。うーん。もっと孫氏を敬えばいいのに。
mujinさん曰く、呉夫人の死んだのは『建康実録』がいうように207年。陳寿「呉志」が間違っている。らしい。ぼくは、裏づけをとってませんが、いちおう引用。
つぎ『建康実録』にある、呉夫人伝からの引用は、はぶく。
孫策が魏滕を殺しそうになったとき、井戸に飛びこむポーズで、孫策に辞めさせた話ものってる。これは孫策伝の裴注だったかな。

呉夫人は死にのぞみ、張昭と張紘らと会い、あとのことを頼んだ。

孫策の死を、思い出させる。呉氏は、すっかり君主気どりである。呉氏が二張に遺言した話、正史のどこから、引用したのだろう? もし許嵩の創作なら、ぼくにインスピレーションを与えてくれて、ありがとう。笑
高らかに、新しい仮説を立ち上げましょう。
孫策の死から、207年までは、呉氏の外戚政治の時代である。孫権が、おもて立った軍事行動を起こさない(黄祖を叩かず、荊州をとらない)のは、外戚政治だからだ。周瑜が、ろくに行動を起こさないのも、外戚政治だからだ。
曹操の南下と、外戚政治の解除(呉氏の死去)が、おなじタイミングなのは、偶然だろうが。ドラマチックにできてるなあ、三国志って!
もし呉氏が生きていたら、きっと問答無用に、曹操に降伏していた。なぜか。呉景が、孫氏とはべつに曹操から官位をもらっていた。張昭と同調していた。
見方を変えましょう。孫権が赤壁の前夜に悩んだのは、
「すでに手に入れていた揚州を、曹操に与えるか」
ではない。曹操という外圧を利用して、孫権が揚州を手に入れるプロセスそのものが、赤壁だ。赤壁で、いちぶの変人(魯粛や周瑜以外)が、曹操への降伏を唱えたのは、当然だ。なぜならこの時点で、孫権は君主として認められてすらいない。呉氏の死後の空白期間、だ。黄祖を討って、求心力を高めつつあるが、まだまだだ。


なんか、『建康実録』と関係ないことを書きすぎたので、改ページ。

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