表紙 > 漢文和訳 > 唐代『建康実録』をだいたい和訳し、孫呉をふくらます

02) 孫策を刺したのは許昭

唐代の許嵩が記した『建康実録』を翻訳します。

孫策が袁術にへりくだり、優遇される

孫堅には、4子があった。孫策、孫権、孫翊、孫匡だ。

ここから、許嵩による、みずから注釈が始まる。

『志林』はいう。孫堅には5子があった。孫策、孫権、孫翊、孫匡は、呉氏が生んだ。その下に、母のいやしい孫朗がいた。一名を、孫仁という。

孫策は17歳のとき、父が死んだ。のちに広陵の人である張紘に、この時代をどう生きるべきか、たずねた。張紘は、こたえた。
「まず孫堅さんの恥をすすぐため、黄祖を斬れ」
張紘がズバッと言い切ったので、孫策は涙をながした。張紘は、孫策の涙を見て、孫策を評価した。孫策のカタキ討ちを、張紘は手伝うことにした。

張紘は、もっとスケールの大きなことを言わなかったか? 漢室をどうこう、という天下国家のビジョンを。ただのカタキ討ちだけとは。笑


孫策は、母と弟たちをつれて、寿春の袁術をたよった。孫策は涙を流して、袁術に云った。

よく泣く、孫策である。

「むかし父の孫堅は、長沙から立ち、董卓を攻めました。父とあなたさまは、南陽で同盟しました。不幸にして父は、勲業の途中で死にました。私は、あなたさまの父への旧恩を慕い、みずから結びつきを求めて、やってきました。あなたさまは、私の深き誠心を、お察しくださいますよう」

「あなたさま」とは、原文「明使君」である。
ぼくが捻じ曲げているのでなく(笑)孫策は袁術に、シタテなのだ。

袁術は、ひどく孫策を評価した。
袁術は、孫堅の兵を1000人と馬を、孫策に与えた。袁術は上表して、孫策を折衝校尉とした。

えらく気前がよい。話の円滑のためだろうが、孫策と袁術は、蜜月である。

袁術は孫策をつかい、廬江太守の陸康を破らせた。
これが、後漢の献帝の、興平元年(194年)である。

許嵩の解釈では、孫策が陸康をやぶったとき、孫呉が始まった。

翌年(195年)冬、袁術は孫策を、珍寇将軍とした。

珍寇、は文字が潰れて見えない。テン寇、かなあ。


呉景をたすけて出陣し、会稽と丹楊を平定

はじめ袁術は上表して、孫策のおじ・呉景を、丹楊太守とした。
袁術が寿春によると、揚州刺史の劉繇が、長江をわたって、袁術を追いはらおうとした。呉景は、丹楊をすてて、歴陽ににげた。
孫策は袁術に「劉繇を討ちたい」と申しでた。孫策は、兵千余と、馬数十匹を与えられた。賓客や楽徒ら、孫策に従う人は、数百人がいた。

孫堅の兵1000との関連が、不明である。そして、賓客や楽徒って、いつ連れてきた? ほかでも読める話なのだろうか?


興平二年(195年)12月、孫策は寿陽を出発し、歴陽にきた。

寿春ではないの? 寿陽という地名もあるのかな。

横江にくるまでに、兵はすでに5、6千にふえた。牛ショにいる劉繇を、追いはらった。劉繇を、曲阿でも負かした。孫策は、千里の道のりを闘った。郡県は、孫策にしたがった。

孫策は東へゆき、厳白虎を会稽でやぶった。厳白虎は逃げた。義士である許昭は、厳白虎をかくまった。
程普は、許昭を討とうと主張した。孫策は云った。
「許昭は、義は旧君にあり、誠は旧友にある。これこそ、丈夫たる人の志である。程普の言うように、許昭を攻めるのは、よくない」

許昭と厳白虎は、ふるくからの知り合いで、助けあっている。『建康実録』の記述は親切ではないが、そういうことだね。

ついに孫策は、許昭を攻めず、軍をひいた。
孫策は、東冶をほふった。
厳白虎が、降ってきた。孫策は、厳白虎を殺した。厳白虎のかわりに、孫策の役人を会稽に設置した。

厳白虎は、許昭のもとから自立し、東冶にいたのだろうか。話が飛びすぎていて、よく分からん。
mujinさんが書いておられる。裴松之が注を入れる場所を誤ったのか。裴注と『建康実録』をくらべると、孫策の軍事行動の前後がちがう。まず東冶を討ってから厳白虎に手を出したか(裴注)、まず厳白虎を呉あたりで討ってから東冶を討ち、そのころ厳白虎が降ってきたか(許嵩)と。


孫策は、太史慈をケイ口でやぶった。ふたたび孫策は、ケイ口にとどまった。おじの呉景に、ふたたび丹楊太守をまかせた。

太史慈のいたケイ口が、丹楊郡なのですね。
漢字が出ないので手抜きしてますが。「けいこう」です。「けいろ」じゃない。


袁術の後継あらそいと、劉表のナゾの部将

孫策は、南にゆき、豫章と廬陵を平定した。このとき、袁術は江北で、まさに僭号をしようとしていた。

タイミングは、必然である。孫策のおかげで、袁術の版図が、最大になったのだから! 原文は「将僭大号」です。まさに大号を僭さんとす。

孫策は、すぐに張紘に、袁術と絶縁する手紙を書かせた。孫策は、みずから会稽太守を名のった。張承と張紘と、心腹・謀主とした。

今日の日本語でいう「軍師」です。「心腹」「謀主」という。「股肱」ともいう。

天下の形勢をみて、孫策は曹操の漢に、みついだ。曹操は上表して、孫策を討逆将軍として、呉侯に封じた。そとで孫策は、曹操の官位を受けた。だが、うちに孫策は、三分の計をいだいていた。

よくある、記述の失敗です。三分するなら、3人目は誰だよ。劉表は仇敵だから、ぜったいに容認できない。袁紹?


袁術が敗死した。袁術の部曲や部将、家属たちは、廬江太守の劉勲をたよった。
孫策は、すでに江東を平定している。兵を引いて、周瑜とともに、長江を西に渡り、劉勲のいる皖城を襲った。皖城を、おおいに破った。
孫策は廬江で、袁術のつかった乗輿や、百工と器物を手に入れた。

皇帝への就任グッズである。孫権が皇帝を名のるときまで、いくつかは保存されていたのだろうか。

孫策は、北にもどった。李術を廬江太守にして、皖城を守らせた。

李術って、孫策の死後、孫権を裏切って、曹操とむすびます。孫権に斬られます。


はじめ荊州刺史の劉表は、黄祖と于射をおくり、劉勲を救わせた。孫策は、于射を西塞の川でやぶった。孫策は于射を追い、于射の部将・劉先と韓キを、沙羨県でやぶった。

于射のことを、ぼくは知らない。『三国志』のちくま索引には、出てこないが。

孫策はもどり、豫章を平定した。
豫章にいた華歆は、孫策に追われた。孫策の従兄・孫賁は、豫章太守となった。孫賁の弟・孫輔は、兵をひきいて、南昌にとどまった。
孫策は孫賁に云った。
僮芝は、みずから廬江太守の役所を、治めている。兄(孫賁)さんは、いま豫章郡を治めている。廬江の僮芝がいては、豫章の孫賁さんにとって、のど元を抑えられているようなものだ。状況をみて兵をふせ、僮芝を追いはらってしまうべきだ」
『江表伝』を見るに。

以下、許嵩『建康実録』が、後日談を『江表伝』でおぎなったことになっている。しかし孫賁伝の裴注にひく『江表伝』は、上の孫策のセリフも載せている。『江表伝』以外に、僮芝にかんする孫策のセリフを載せた本を、許嵩は見ていたのだろうか。

のちに孫賁は、僮芝が病気と聞いた。ただちに孫策の計略どおり、僮芝を攻めた。孫賁は周瑜をひきまねき、巴丘より遡らせ、外を守らせた。ついに孫賁は、弟の孫輔とともに、廬陵に進んで、ここを拠点とした。

上にある「孫堅には、4子があった。孫策、孫権、孫翊、孫匡だ」のあと、ここまでが、なぜか許嵩じしんによる注釈。内容的には、べつに本文でもよかろうに。
『四庫全書』で字が小さくて、判読に苦労した。つぎから、本文にもどります。


許昭に、顔を刺された孫策

ときに曹操は、すでに袁紹と睨みあっている。曹操は、孫策の行動を、取り締まることができない。そこで曹操は、弟の娘を、孫策の弟・孫匡にとつがせた。また、子の曹章は、孫策の従兄・孫賁の娘をめとった。

曹彰でいいでしょう。

建安5年4月のこと。広陵太守の陳登は、射陽にいる。ひそかに陳登は、会稽にいる厳白虎の余党に印綬を送り、孫策の背後をとろうとした。
孫策は陳登のたくらみを知った。陳登を討つため、孫策は丹楊にきた。

孫策の、最期の軍事行動のキッカケが、陳登とされている。陳登を攻めた理由が、会稽郡をおびやかされたから。他にない話か?

孫策は、曹操と袁紹が、官渡で開戦したと聞いた。孫策は、長江をわたって、献帝を迎えたいと考えた。

はじめ呉郡太守の許貢は、孫策と会ったとき、孫策が英雄だと思ったので、献帝に上表した。

許昭と許貢が、活躍する。『建康実録』の著者は、許嵩。同姓の人の登場を、増やした、、わけないよな。笑

許貢が上表するには、
「孫策の勇猛さは、天下をおおいます。まるで項羽です。もし許都に招かず、野放しにしたら、のちに曹操さんにとって、孫策は患いとなるでしょう」
孫策は、許貢がチクッたのを知った。孫策は、許貢の使者をつかまえた。孫策は、許貢を呼びつけた。孫策は、武士に許貢を拷問させ、許貢を絞め殺した。

孫策が長江を北に渡ったとき、狩りに出た。許貢の食客である許昭が、伏兵となり、孫策を刺した。

「許貢の客」の名前は、陳寿と裴松之では分からないはず。『建康実録』では、さきに厳白虎を保護した許昭に、暗殺の役割が与えられた。
ちなみに許昭は、孫策が迫害した、盛憲とも仲がいいようです。孫策の敵として、じつはキーマンかも知れない!
許靖との血縁もありそうだ。なんか許氏が気になってきた!


許昭という人物が目立ったところで、次回へつづく。