表紙 > 漢文和訳 > 唐代『建康実録』をだいたい和訳し、孫呉をふくらます

04) 周瑜の意思と、赤壁

唐代の許嵩が記した『建康実録』を翻訳します。まずは巻1だけでも。
前ページで思いついたこと。

207年まで孫呉は、呉氏の外戚政治。孫権は、名目上は君主であるけれども、あくまでお人形である。
孫策があまりに早死にした。孫権が19歳で君主を務めたとなると、すごいが、ちがうんだ。君主が幼いとき、母の一族が代行するというシステムは、後漢を支えた、もっともメジャーな安全装置じゃないか。

後漢の明帝のとき、白虎観で決めたとおり、儒教にかなっている。だれも、呉氏が政治をとる正統性を、あやしむ人はいないだろう。

どうして、こんな超アタリマエで、テンケーテキなことに、気づかなかったのだろうか。孫策が自前で動き回るから、孫権も自前で動いたと思い込んでいた。父子・兄弟の美しきバトンタッチの物語に、酔っていた。しまった。

これまで、ぼくには、疑問がつきまとっていた。
このHPの掲示板でも話題にしたように、
200年から208年、揚州の軍閥は、妙に動かないなあ。せっかく曹操が北伐して、留守なのに。もったいなあ」と。
なんのことはない。張昭とベッタリで、曹操からの官位をありがたがる呉氏が、主導権をもっていた。曹操が北伐したとき、曹操のために、揚州で留守番をしていたのが、呉氏なんだ。
ついでに、周瑜の疑問も解けた。
208年まで、周瑜が動いていなくて、不気味だった。周瑜が孫氏から自立をねらっているのか、という妄想もした。ちがうな。周瑜は曹操がきらいだ。周瑜は、呉氏と方針がちがうから、協力しなかったんだ。

もし孫権が君主権力を手にいれず、呉氏がのさばり続けたら、どうなったか。周瑜は、呉氏から自立していたかも知れないなあ。
赤壁の前夜、なぜか周瑜は、鄱陽で別行動をしていた。もしかして、この瞬間まで周瑜は、孫権を見限っていたのではないか。黄祖攻めにも、周瑜は参加していない。「孫権が周瑜を、鄱陽に行かせていた」とは、後日つくった言い訳。「周瑜は、軍事訓練をしていた」は、ただの小説。
魯粛は周瑜に、ふたたび孫権に仕えることを勧めた? 周瑜は、曹操をにくむものの、曹操に立ち向かう手段がないから、腐っていた。その不満を、魯粛が実現へと導いた。だとしたら、魯粛、すごいなあ。たいした軍を持たない孫権の手元に、劉備も周瑜も連れてきたのだから。どちらも危険な軍人だけど。笑


『建康実録』の翻訳を、さっぱりやってませんが。。
もう1段落だけ、脱線を。魯粛の話。

このページの目的が、『建康実録』を材料にして、孫呉にかんする妄想をふくらますことでした。テキストの外部に走るのは、シロウトの特権ですし、、

成長した君主が、外戚を煙たがり、外戚を追い落とすのもまた、後漢の慣例だ。成長した君主には、ひっそりと胸のうちを打ち明けられる、陪臣が必要だ。後漢の皇帝の場合、これは宦官である。
孫権にとっての陪臣は、もしかしたら、魯粛とか? 魯粛は、ふらふらして怪しい。公職につかない。孫権の、べんりな手ゴマだ。張昭から見れば、サギみたいな手口で、赤壁を開戦した。まるで宦官が外戚を奇襲して、後漢の皇帝のワガママを実現していくように。

ぼくは以前、魯粛について書きました。独立する気のない孫権を、魯粛がだまして、開戦させたと。どうだろうなあ。わからんなあ。
〔張昭や呉氏〕 A 〔孫権〕 B 〔魯粛や周瑜〕
という絵をつくるとする。曹操に降伏したくない派の境界線は、Aにひくべきか、Bにひくべきか
さいごに孫権は皇帝を名のる。つまり、Aに境界線がくる。だったら、いつBからAに移ったのか。タイミングが問題だ。
また、孫権の本音と建前を、区別して考える必要もあるだろう。うーん。
ともあれ、孫権:魯粛 = 後漢皇帝:宦官、という話は、膨らましようがあると思います。また後日。

そろそろ、『建康実録』にもどります。

黄祖を討ち、赤壁を戦う

建安十二年(207年)秋のこと。鄱陽の山賊・彭虎らは、数万人をあつめた。孫権は、将軍の董襲に、山賊を討たせた。董襲は、身長が8尺あり、武力が絶倫だ。董襲の声は、雷のようだ。山賊は、にげ散った。
建安十三年(208年)春、黄祖を江夏に攻めた。江夏の城邑をほふり、黄祖を生け捕った。黄祖を、さらし首にした。男女の数万人をとらえた。

黄祖を徹底的に攻めるには、呉氏の死を待たねばならなかった。孫権にとって黄祖はカタキだが、呉氏にとって黄祖は、カタキではない。

始新、新定、黎陽、休陽ら6県を切りとり、新都郡とした。

おなじ歳の秋、曹操は荊州に劉表を攻めた。ときに劉表は死に、劉琮は曹操に降伏した。劉備は、当陽で曹操から逃げた。曹操は船をたくさん造り、孫権に手紙をおくった。
「水軍80万を連れてきた。狩りをしよう」
孫権は郡臣らに、手紙を示した。

なんで、わざわざ見せちゃうのだろうか。『建康実録』で孫権は、まだまだ君主権力への欲望は、持っていない。もしくは、隠している。

張昭らは、曹操を迎えろと云った。ひそかに魯粛は、孫権をいさめた。
ときに周瑜は、孫権に命じられて、鄱陽にいく途中だった。まだ遠くない。孫権は周瑜を、連れもどした。

周瑜が、どこまで孫権のために動くつもりだったのか、怪しい。この点は、このページの上で書いちゃいました。周瑜は思った。「外戚の呉氏や張昭に、言いなりとなる孫権では、曹操に対抗できないぜ」と。周瑜は孫権を見限っていたのでは?

孫権は魯粛に説得されても、まだ決断せずにいた。そのとき周瑜がきて、孫権を説得した。

周瑜には「曹操に降伏するくらいなら、私が孫権さんを斬り、揚州の軍権をもらいますよ」くらいの気迫があったのかも知れない。だって周瑜にとって、孫権は、恩のある主君じゃないんだから。せいぜい、曹操をこばむための、旗印である。
孫権に非協力的だった、周瑜の直近8年間を見れば、推測できることです。

「いまなら曹操に勝てます。曹操を破り、荊州をえて、天下を三分する。長江をさかのぼれば、孫呉が荊州を、たもつことができます」と。

最後は原文「当呉有也」です。「有」は、存在ではなくて、所有だろう。


孫権は、周瑜の抗戦をゆるした。魯粛が、劉備に使いした。はじめて孫権は、曹操をふせぐため、呉郡から京口にうつった。

許嵩が、京口について、みずから注釈している。

『地志』を見るに。孫権は、京城を築いた。南面と西面に、門がついていた。京センという地名をとって、京鎮といった。建業の北にあるから、京口という。
ある人がいう。漢代に、すでに京口はあった。だが場所が分からない。『史記』がいう。始皇帝の三七年、長江を東に渡って攻めたとき、、云々。

劉備は諸葛亮を、孫権におくった。孫権は、周瑜と程普に2万をあたえた。周瑜たちは、劉備と諸葛亮をしたがえて、南に曹操をふせいだ。

劉備たちが、連れていかれてしまった! やっぱり劉備は、一将軍として扱われているんだ。同盟だなんて、おかしな話。
「劉備は袁紹と同盟し、これを解消して、劉表と同盟し」なんて話が、成り立たない。これと同様に「劉備は孫権と同盟し」なんて云ってはいけない。

孫権は1万をひきいて、後詰した。黄蓋が火攻めした。曹操は、曹仁を江陵にのこした。周瑜は曹仁を攻め、南郡太守となり、江陵を治めた。

赤壁の戦いで、ぼくは『建康実録』から、新しい話を拾えませんでした。だから翻訳も、はぶきまくってます。
mujinさん曰く「赤壁は長江北岸にあり、周瑜は軽装の精鋭を率いてこの地で曹操軍を破った」と。ぼくが読むに。周瑜が「軽鋭を率い、雷鼓して同進す。曹操軍を、赤壁の江口において、大いに破る。操は走ぐ。わずかに免がるを獲て、北に帰る」という部分だと思います。


おわりに

建安十四年(209年)以降は、また今度やります。
孫権が曹操に対抗し、ついに自立の姿勢を見せたところで、中断。

ここまで読んで思うのは、太史慈伝の引用が、やたら長かったなあ、ということ。許嵩は、なにを考えて、太史慈をピックアップしたんだろう。
今回読んで、いろいろ考えたことは、陳寿と裴松之にもどって、検討してみます。数週間、離れたから、ちょっと忘却がはげしい。笑 101021