02) 兵糧を集め、1人で董卓と戦う
『三国志集解』で孫堅伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
廬江太守・陸康の従子を、越境して助ける
周朝、郭石が、零陵と桂陽で、区星に呼応した。孫堅は郡を越境して、平定した。3郡(長沙、零陵、桂陽)は粛然とした。烏程侯に封じられた。
『呉録』はいう。このとき、廬江太守は、、
呉増僅はいう。後漢の廬江郡は、郡治が舒県だ。建安四年(199)、劉勲は皖県にうつした。これは「呉志」孫策伝にある。曹魏の廬江郡は、陽泉にあり、また六安の時期もあった。 「魏志」満寵伝はいう。太和六年、陸遜は廬江にゆき、満寵と戦った。ぼくは思う。いろいろ書いてあるけど、ちょっと時期がくだる話なので、はぶく。
洪亮吉はいう。呂蒙伝はいう。孫呉は、皖城をやぶった。のちに呂蒙を廬江太守として、尋陽におく。つまり孫呉の廬江郡は、尋陽から遥領した。謝鍾英はいう。建安四年(199)、孫策は廬江をぬく。ときに廬江の州治は、皖城だ。建安五年(200)、孫権は李術を攻めて、皖城で晒し首にした。建安十九年、孫権は皖城で勝ち、黄武四年、皖口を木連理?という。黄武六年、曹休は、孫呉がおく皖城の守将・審徳を斬る。黄武七年、孫権は皖口にくる。陸遜に命じ、曹休を石亭でやぶる。嘉禾六年、諸葛恪は、廬江に屯する。赤烏六年、諸葛恪は皖城から柴桑にうつる。これは孫呉の廬江が、郡治を皖県とした証拠である。洪亮吉のいう「遥領」は、誤りである。
趙一清はいう。前漢の文帝は、淮南を分割して、廬江国をつくった。長江の南にあった。『漢書』地理志で、廬江は黄河の北にある。おそらく前漢でも後漢でも、廬江は郡治が舒県にあった。三国のとき、孫呉は曹魏の廬江太守・満寵を攻撃した。このとき、孫権は深入りを避けた。廬江の郡治は、陽泉にあったのだろう。孫呉は満寵に並行して、皖県に廬江をおいた。ぷぴー。
陸康である。
盧弼は考える。陸康のことは、孫策伝のにある。陸康は、陸績伝にある。
陳寿説+10歳で、赤壁開戦に猛反対した陸績伝
陸康の従子は、宜春(豫章)の県長だ。孫堅に救いを求めた。孫堅は、主簿を押しきり、長沙から豫章に入って、陸康の従子を救った。
荊州刺史の王叡、南陽太守の張咨を殺す
江表傳曰:堅聞之,拊膺歎曰:「張公昔從吾言,朝廷今無此難也。」
霊帝が死に、董卓が朝政をにぎる。みた董卓を討ちたい。
『江表伝』がいう。孫堅は歎いた。「私の言うとおり、張温が董卓を殺していれば。朝廷は、今のような困難に陥らなかったのに」と。
案王氏譜,叡字通耀,晉太保祥伯父也。
孫堅は挙兵した。荊州刺史の王叡は、孫堅を礼遇しない。孫堅は過って、王叡を殺した。
ぼくは思う。これ、だれの意見? 盧弼かなあ。王叡の殺害と、周喁の話は、関係ないよなあ。周喁は、袁紹の指図をうけて、袁術の勢力圏である豫州を攻めてきた。
ぼくは思う。陳寿の本文にある「過」は、どういう意味か。ちくま訳は「とおり過ぎる」としてた。ぼくは、「あやまった」だと思う。過失ね。道すがら、サクッと殺される荊州刺史じゃあ、たまらない。盧弼はいう。「魏志」劉表伝はいう。王叡のかわりに、劉表が刺史となる。
『王氏譜』を見るに、王叡は、西晋の太保・王祥の伯父だ。
『呉録』はいう。さきに王叡は、孫堅とともに、零陵と桂陽の賊を討った。孫堅が武官だから、王叡は孫堅を軽んじた。王叡は、董卓を討ちたい。王叡は、武陵太守の曹寅と、仲がわるい。王叡は、曹寅を殺したい。曹寅は孫堅をつかい、王叡を奇襲した。王叡は、自殺した。
孫堅は、長沙太守であり、黎陽と桂陽を平定し、豫章に越境し、いま武陵太守の曹寅とも仲間だ。荊州の南部は、まるます孫堅になびいたとも言える。現場をわかっていない名族の王叡と、武力で現場を切り盛りする武官たち。荊州は、前線のひとつだ。
英雄記曰:咨字子議,潁川人,亦知名。
獻帝春秋曰:袁術表堅假中郎將。堅到南陽,移檄太守請軍糧。咨以問綱紀,綱紀曰:「堅鄰郡二千石,不應調發。」咨遂不與。
孫堅は、南陽(郡治は宛城)にきた。数万。南陽太守の張咨は、孫堅がきたと聞いても、ビクともしない。
『英雄記』はいう。張咨は、潁川の人。名を知られた。
『献帝春秋』はいう。袁術は上表し、孫堅を假中郎將とした。孫堅が南陽にくると、兵糧をねだった。張咨は、綱紀に聞いた。綱紀はこたえた。「太守たちは、孫堅に兵糧をわたさない」と。張咨は、孫堅に兵糧をわたさない。
袁紹たちが戦わなかったのは、なぜか。「酒宴に明け暮れて、だらしなくも失敗してしまった」のでなく、何かポリシーがあって、攻撃しなかったのかも知れない。董卓を攻撃せず、何をしようとしたのだろう?
献帝を尊ぶなら、「洛陽にヤイバを向けるなんて、滅相もない」となる。献帝を無視るなら、「董卓の廃立を認めないよ。洛陽を外部から圧迫するから、董卓は自壊しないかなあ。後漢には、つぎの秩序が必要だなあ」となる。袁紹に連なる人々は、後者を思っていたのでは? 彼らは霊帝の宦官に、さんざん、痛い目に合わされている。孫堅の行動を見れば分かるように、毎年、叛乱が起きている。後漢、終わったなと。
董卓と直接対決しなくても、次の時代はくるのだ!
後漢初、長安に、赤眉が立てた皇帝・劉盆子がいたり、更始帝がいたりした。関東の諸将は、無視はしないものの、あまり相手にしない。これと同じ状況が、生じたかも。「献帝を無視できるはずがない」とぼくらが思い込むのは、のちに曹操が、献帝をつかって秩序を作ったからで。安易に遡及&投影しては、いかんよなあ。
吳曆曰:初堅至南陽,咨既不給軍糧,又不肯見堅。堅欲進兵,恐有後患,乃詐得急疾,舉軍震惶,迎呼巫醫,禱祀山川。遣所親人說咨,言病困,欲以兵付咨。咨聞之,心利其兵,即將步騎五六百人詣營省堅。堅臥與相見。無何,卒然而起,按劍罵咨,遂執斬之。此語與本傳不同。
孫堅は、南陽太守の張咨を斬った。孫堅は、南陽郡を思いどおりにした。
『呉歴』は、孫堅が張咨を殺すときの、ちがう逸話をのせる。
袁術と合流し、胡軫を追いはらう
孫堅は、魯陽で袁術とあう。
袁術は上表し、孫堅を行破虜将軍、領豫州刺史とする。長史の公仇稱が、荊州にもどって軍糧をつかさどる。公仇稱をおくる酒宴をしていると、董卓に攻められた。孫堅軍は乱れず。
『通鑑考異』はいう。『後漢書』袁術伝はいう。劉表は上表し、袁術を南陽太守とした。袁術が魯陽で劉表をはばむから、劉表は荊州に到達できず。『三国志』劉表伝はいう。孫堅は張咨を殺したから、袁術は南陽に拠ることができた。「魏志」武帝紀はいう。初平元年(190)2月、袁術は南陽に屯したと。
盧弼は考える。袁術は、はじめ南陽ににげた。190年春、孫堅が南陽を取ったので、袁術は南陽に拠ることができた。袁術は、魯陽にて南陽を治めた。ぼくは思う。袁術は、張咨が治める南陽で、肩身のせまい思いをしていた、という話か?曹操の卞皇后伝の記述と、一致しない。盧弼、ちがうんじゃないか。
蘇輿はいう。すでに刺史が州牧に改められたあとのことだ。しかしこの列伝は「刺史」と記す。群雄が、入り乱れたので、書き誤ったのだろうと。ぼくは思う。刺史と州牧は、一斉に切り替わったのでない。蘇輿は、何を言っているのか。笑
『英雄記』はいう。孫堅は、梁県(司隷の河南尹)の陽人にきた。東郡太守の胡軫は、大督護となる。呂布は、騎督となる。胡軫は、あざなを文才という。胡軫は言った。「太守1人(孫堅)を斬ればよい」と。
ぼくは思う。胡軫の認識では、董卓と戦う意思があるのは、孫堅だけ。『英雄記』は、同時代史料だから、信じていいかな。董卓との戦いは、ひとり孫堅のもの。オマケに曹操も参加したが、戦果ゼロ。袁紹の意図が、ますます不明!
胡軫は、広成(河南尹)にきた。呂布が妨害したので、胡軫は孫堅を討てず。
次回、董卓が遷都して、孫堅が伝国璽をひろいます。つづく。