表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

08) 袁術と陶謙を破り、兗州が反す

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
今回は、193年から194年です。袁術と陶謙を叩き、兗州が反します。

193年、陳留の戦い

四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,

初平四年(193)春、曹操は鄄城にゆく。

鄄城は、兗州の済陰郡だ。『続漢書』はいう。兗州刺史の州治は、昌邑だった。宋白はいう。献帝のとき、昌邑から鄄城にうつる。曹操は刺史となり、鄄城で治めた。趙一清はいう。曹操が州治をうつした

荊州牧の劉表が、袁術の糧道を断った。袁術は、陳留に入り、封丘に屯する。

『郡国志』はいう。荊州の州治は、武陵郡の漢寿だ。呉増キンはいう。劉表は州治を、漢寿から襄陽にうつした。ぼくは思う。曹操も劉表も、州治を動かした。州単位で、実効支配をするためだ。劉表は、すくなくとも曹操と同じレベルで、州を治める意欲がたっぷりである。「群雄として、名のりをあげた」と、見なしてもいいだろう。劉表が、州治をうつす原因は、2つかな。1.そもそも宗族の反対にあい、奥地まで入れない。2.董卓や袁術との同盟もしくは敵対。後者が気になるが、史料によって見え方がちがうので、後日考えたい。
陳留は、盧弼が前に注釈した。ぼくは思う。袁術が陳留に入れたのは、太守の張邈が手引きしたからだろう。袁術だって、目処なしで入ってこない。洛陽にちかく、兗州の西端の陳留は、とりあえず、袁術が行動できる範囲だったのだと思う。陳留より東を、曹操と争うことになる。これが今回の戦さ。
『郡国志』はいう。封丘は、陳留郡である。宋白はいう。封丘は古代、国を封じた地である。『左伝』に記述がある。だから漢代、これを県名とした。

黒山の余賊と、於夫羅は、袁術をたすけた。袁術は、部将の劉詳を、匡亭におく。曹操は、劉詳を撃つ。袁術は劉詳をすくうため、曹操と戦う。曹操は、袁術を大破した。 袁術は、襄邑ににげた。曹操は袁術を追って、大寿にきた。

ぼくは思う。於夫羅は、袁術の味方。匈奴の歴史を、くわしくこのサイトでやらねば。さきに盧弼を訳したように、於夫羅は、劉淵の祖父である。話が大きくなるなあ。
『郡国志』はいう。匡亭は、陳留郡である。襄邑も陳留郡である。太寿は、『漢書』と『後漢書』にない。だが、寧陵と襄邑のあいだだろう。くわしくは夏侯惇伝にある。


決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。

曹操は、灌城で渠水を決壊させた。袁術は、寧陵、九江ににげた。

謝鍾英はいう。睢陽の渠水を決壊させたのだ。夏侯惇伝はいう。寿水を断ったと。夏侯惇は、堤防をなおした。『郡国志』はいう。寧陵は、豫州の梁国だ。胡三省はいう。寧城を、劉邦が寧陵とあらためた。
王先謙はいう。淮水に拠って、袁術はにげた。秦は、九江の郡治を寿春とした。秦は、廬江、豫章もあわせて得て、九江郡の一部とした。ゆえに九江という名にした。前漢の淮南王は、寿春を王都とした。『続漢書』はいう。後漢の郡治は、陰陵だ。ほかの人は、後漢の郡治は寿春という。『宋書』はいう。魏では淮南郡だ。盧弼が考える。九江は、前漢は郡治が寿春だ。後漢は郡治が陰陵だ。後漢末、寿春にもどした。三国時代、魏呉が九江を分けた。孫呉は、廬江にくっつけた。曹魏は、九江から淮南と郡名をあらため、寿春を郡治とした。後漢末、揚州刺史は、寿春にいた。
ぼくは思う。陰陵から寿春に、郡治をうつしたのが、陳温。という理解でよい?

初平四年(193)夏、曹操は定陶(済陰)にもどる。

陶謙が袁術から自立する

下邳闕宣聚眾數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。

下邳の闕宣が、数千人をあつめ、みずから天子を称した。

『郡国志』はいう。徐州の下邳は、郡治が下邳だ。顧炎武はいう。讖文に「漢に代わるは、当塗高」がある。「当塗にして、高し」に該当するのは、闕氏である。だから闕宣は、天子を称した。孫メンはいう。闕姓は、下邳から出た。漢代、荊州刺史の闕翊がいた。『通鑑考異』はいう。『後漢書』陶謙伝では、ケツを別の字につくる。

徐州牧の陶謙は、闕宣とともに挙兵した。

ぼくは思う。陶謙が独自行動を始めたのは、このときか。これまでは、二袁の戦いの部将にすぎない。袁術が敗れたのを見て、独立を考えたか。天子・闕宣のナカマである。
『郡国志』はいう。徐州の州治は、東海の郯県である。呉増キンはいう。後漢末、州治は下邳にうつった。ぼくは思う。群雄は、のきなみ州治を動かす。現実の戦闘に勝つためだろう。後漢末、徐州はずっと陶謙が治める。下邳に動かしたのは、陶謙だろう。徐州から兗州をねらうために、都合がよかったか。

闕宣と陶謙は、泰山の華県、費県をとり、任城を攻略した。

任城は、『漢書』地理志にある。華県も費県も、泰山郡である。『後漢書』光武十王伝はいう。永平二年、華県を琅邪にくっつけた。明帝のとき、なお華県がある。「魏志」臧覇伝はいう。臧覇は、華県の人だ。郭班『世語』はいう。曹嵩が泰山の華県にいるとき、泰山尉の孔宙は、門生故吏をならべた。後漢にも、華県はあった。華県と費県は、曹仁伝にある。華県は、臧覇伝にある。
ぼくは思う。陶謙も、闕宣とあわさり、兗州を奪いにきたのだ。タイミングが、よく分からないように書いてあるが。陶謙の兗州攻めは、袁術との共同作戦かも知れない。袁術が、あまりにアッサリ負けたから、共同できなかったが。もしくは、曹操が袁術を追撃する空隙を、ねらったものだろうか。こちらのほうが、整合性が高いかな。陶謙は、二袁の争いから離脱して、オリジナルに兗州を奪いに行った。じっさい、東で徐州にくいこんだ泰山を、陶謙は手に入れた。陶謙、まずは成果あり。
ぼくは思う。兗州は、横にながい。曹操は、西端の陳留を袁術におびやかされた。東端の泰山を陶謙におびやかされた。曹操は、まったく休まらない。

初平四年(193)秋、曹操は陶謙を征つ。10余城をくだす。

『資治通鑑』の初平四年はいう。下邳の闕宣は、数千をあつめて、みずから天子を称した。陶謙は、闕宣を殺した。『通鑑考異』はいう。「魏志」武帝紀は、陶謙と闕宣は、ともに兵をあげて、泰山をとった。華県と費県をとり、任城をかすめた。「魏志」陶謙伝はいう。陶謙は、はじめ闕宣とむすび、のちに闕宣を殺したと。盧弼が陶謙について考えるに。陶謙は、献帝を重んじた。どうして陶謙が、闕宣とむすぶか。おそらく陶謙の別将と闕宣が、ともに曹嵩を襲った。だから曹操は、これを陶謙の罪として、徐州を攻めた。牛運震『読史糾謬』巻4はいう。陶謙は徐州牧である。どうして、賊の闕宣とむすび、兗州に攻め込むものか。『後漢書』の陶謙伝を見るとわかる。陶謙は、はじめ賊が強いから、合わさった。のちに賊を殺して、兵をうばったと。
ぼくは思う。陶謙について、2つの話を分けるべきだ。1.陶謙が兗州を攻めたことと、2.陶謙が闕宣と結んだことだ。陶謙が、だれと結び、どんな兵を使ったにせよ、兗州に食指をのばしたことは、明白。陶謙の「野心」である。徐州牧として、袁術から独立するだけで飽きたらず、兗州まで手を出した。2.闕宣のことは、小さな問題である。おそらく、盧弼がアウフヘーベンしたように、はじめ結び、あとから殺したのだろう。殺した動機は、「天子を名のりやがったから」もしくは、「天子を名のった闕宣に、支持が集まらなかったから」だ。後者なら、負け馬に乗りつづけることを、陶謙が嫌ったことになる。

陶謙は、城を守って出ない。

ぼくは思う。袁術は「徐州伯」を名のる。これと陶謙の関係を、どう説明するか。袁術の認識では、陶謙はひとりの自派に属する部将。陶謙は李傕から「徐州牧」をもらったから、袁術は重複して「徐州牧」になれない。袁術は「徐州伯」を名のり、陶謙に「徐州をよこせ」と迫った。しかし陶謙は、袁術が兗州で敗れたから、袁術に肩入れするメリットがなくなった。独自に兗州を攻めた。必要に応じて、闕宣を取りこんだ。袁術にとって誤算だ。
曹操は、父が殺される前に、徐州を攻めた。これは、曹操が袁術を執拗に追ったときと、おなじ戦い方。10余城を陥とすなんて、かなり徐州にメリ込んで戦っている。父の殺害は、ふって沸いた口実だ。っていうか、父が琅邪にいるのに、琅邪をふくむ徐州に攻めこむなんて、曹操は乱暴だなあ。父を人質に取られるし、下手したら殺される。っていうか、殺された。曹操が殺したも同然である。
『三国演義』がらみで、曹操の父の死にかんする、道義的?な問題が、どうしても話題になる。しかし曹操は、父がいようがいまいが、殺しまくった。もし袁術が、揚州まで逃亡せず、豫州で踏みとどまろうとしたら。曹操は、豫州を殺戮しつくしただろう。つぎの歳に、徐州でやったように。曹操にとって、袁術と陶謙は、線対称だ。袁術が、本貫の汝南で、再起をはからなくてよかった。汝南が、ゴーストタウンになるところだった。
曹操は、本拠を保全するよりも、果敢に外征してばかりだ。どうしてか。本拠の鄄城を、じつは自分の本拠と思っていない。大切でない。袁紹からの借り物だと思っているのではないか。もし鄄城が攻められたとしても、それを守るのは、袁紹の役目だろう、と。完全歩合制の営業マンが、契約先の会社のオフィスの維持管理に、どれだけの関心を示すものか。ほとんど、関心がないはずだ。それと同じ。


是歲,孫策受袁術使渡江,數年間遂有江東。

この歳(193)、孫策は袁術に渡河を命じられた。数年間で、江東をえた。

胡三省はいう。江東とは、建業のことだ。盧弼は考える。『漢書』項籍伝はいう。いま江西は、みな反したと。顧炎武はいう。長江は、歴陽から、斜めに北上する。京口で下る。ゆえにこの地域を、東西にわけて呼ぶ。『晋書』地理志はいう。廬江と九江をもって、合肥から北で、寿春にいたるまでを、みな江西という。


曹操の父・曹嵩の死

興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩,去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害,故太祖志在複讎東伐。

興平元年(194)春、曹操は徐州からもどる。はじめ父の曹嵩は、董卓の乱をさけ、琅邪にいた。曹嵩は、陶謙に殺された。ゆえに曹操は、復讐のために徐州を攻めた。

『郡国志』はいう。琅邪の郡治は、開陽だ。卞皇后伝にもある。
曹嵩の死は、初平四年(193)だ。武帝紀は194年の場所に、さかのぼって曹嵩の死を書いた。「魏志」陶謙伝では、193年に曹嵩が死ぬ。『資治通鑑』も同じだ。『水経泗水注』はいう。初平四年(193)、曹操は徐州を破った。睢陵、夏丘をとった。曹嵩は、難を避けようとして、殺された。泗水の流れは、曹操が殺した10万でとまった。数県で、人がいなくなった。
盧弼は考える。「魏志」荀彧伝にひく『曹瞞伝』と、「魏志」陶謙伝にひく『呉書』はいう。曹操の父は、泰山で殺された。曹操は、陶謙を伐ちたい。曹操は、陶謙の強さをおそれた。曹操は上表して、州郡に一時の停戦を命じた。だが陶謙は、停戦しない。曹操は、陶謙が停戦しないのを知り、彭城を攻めた。ここから何がわかるか。曹操はワタクシの復讐をしつつも、王命を利用して、陶謙を攻めたことが分かる。曹操は、陶謙と闕宣が、謀反を起こしたと誣告して、陶謙を攻める名目をつくった。曹操は、徐州を過酷に攻めすぎたから、張邈や呂布や陳宮が反した。もし荀彧や程昱が3城を保たなければ、曹操は終わっていた。
ぼくは思う。曹操の兗州牧は、献帝の承認がない地位だ。承認は195年まで待たねばならない。ということは、陶謙に停戦を命じる「王命」とは、袁紹のものだ。袁紹=王じゃなかろうが、発行元は袁紹である。陶謙が、したがう義理がない。陶謙は、袁術集団を離脱したが、袁紹集団と敵であることは、もとのままだ。
この戦い、曹操が悪いなあ。何について「悪い」というか。献帝を中心とする、後漢末の秩序を乱したという点で「悪い」のだ。袁紹は、別王朝をつくる気が満々だ。献帝を無視して当然なのだ。曹操も、献帝を無視してうごく。
陶謙は、李傕の任じた徐州牧。徐州に停戦を命じる権限は、むしろ陶謙にある。


世語曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兗州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以為劭迎,不設備。謙兵至,殺太祖弟德于門中。嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不時得出;嵩逃於廁,與妾俱被害,闔門皆死。劭懼,棄官赴袁紹。後太祖定冀州,劭時已死。

『世語』はいう。曹嵩は、泰山の華県にいた。曹操は、泰山太守の応邵に、曹嵩を迎えに行かせた。陶謙の騎兵が、曹嵩を殺した。

『後漢書』宦者伝はいう。曹嵩は、曹操の起兵に反対した。琅邪にひっこんだ。
『後漢書』応奉伝はいう。応奉の子は、応邵である。曹嵩と、曹操の弟・曹徳が殺されたので、冀州牧の袁紹をたよって逃げた。ぼくは思う。応奉伝を知らなかった。いま、はぶきまくったので、のちに読みたい。

応邵は、曹操をおそれて、袁紹ににげた。のちに曹操が冀州を定めたとき、応邵はすでに死んでいた。

韋曜吳書曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衛送,闓於泰山華、費間殺嵩,取財物,因奔淮南。太祖歸咎於陶謙,故伐之。

韋昭『呉書』はいう。曹嵩は、荷物たっぷり。陶謙は、都尉の張闓に、曹嵩を送らせた。泰山の華県と費県のあいだで、曹嵩を殺した。張闓は、淮南ににげた。曹操は、陶謙のせいにした。

盧弼はいう。曹嵩の荷物に目がくらんで、曹嵩を殺した。銭大昕はいう。応邵伝を見ると、陶謙は軽騎をよこして、わざわざ曹嵩を殺した。陶謙でなく張闓のせいだとする『呉書』と、ことなる。「魏志」陶謙伝は、曹操が徐州を攻めたことを正当化するため、陶謙の罪としたのだ。韋昭『呉書』は、曹操の罪とするため、陶謙の責任をなくした。沈家本はいう。裴注にひく『世語』と『呉書』をみると、『呉書』が正しい。
ぼくは思う。『呉書』が正しいなら。張闓が淮南ににげたことを、もっと注目すべきだよなあ。張闓は、陶謙の都尉でありつつ、袁術と通じていたのかも。張闓は、曹操に攻められ、陶謙にも責められても仕方ない行為をした。身元を受け入れてくれる人がいないと、こんな危険なこと、しないよ。もし張闓が、ほんとうに曹嵩の大量の財産が目的だとしたら、淮南まで持ち運ぶのが大変すぎる。っていうか、「軽騎」から逃げ切れない。曹嵩の財産を、持ち運べなくても、きちんと利益が約束されていたのではないか。袁術から。笑
後述しますが、徐州で袁術を支持した勢力は、少なくない。袁術の「徐州伯」は、まったくのフィクションでない。張闓も、その1人かも知れない。陶謙は、自身の野心のため、袁術から独立した。しかし、陶謙の独立に賛成しない勢力も残ってました、と。
袁術は、曹操と陶謙をつぶしあわせるため、曹嵩を殺したのかも知れない。そこまで、見通していたとしたら、すごいなあ。袁術版・クコドンロウの計だ。袁術に踊らされた曹操の徐州虐殺が、諸葛亮を取りこぼしたとしたら、皮肉だ。ニセクロさんが書いているが、琅邪の人を袁術はよく用いる。諸葛亮の叔父も然り。袁術の徐州への規制力を示す。


194年、兗州の叛乱

夏,使荀彧、程昱守鄄城,複征陶謙,拔五城,遂略地至東海。還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。

194年夏、荀彧と程昱に鄄城をまもらせ、曹操はふたたび陶謙を征す。5城をぬく。東海にいたり、もどって郯県をすぎる。陶謙は、部将の曹豹と劉備を、郯県の東におき、曹操を迎えうつ。曹操は、曹豹と劉備をやぶり、襄賁をぬく。おおく殘戮した。

東海の郯県は、前に盧弼が注釈した。のちに曹豹は、下邳の国相になり、張飛に殺された。「魏志」呂布伝にひく『英雄記』にある。
康発祥はいう。「殘戮」とは、陳寿が遠慮なく書いたものだ。ぼくは思う。陳寿が、西晋の人だから書けた。っていうか、蜀漢の人だから、書いたのかも知れない。
この虐殺につき、裴注で孫盛が怒っているが、はぶく。何焯が便乗しているが、はぶく。


會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也。」遂進軍攻之。布出兵戰,先以騎犯青州兵。青州兵奔,太祖陳亂,馳突火出,墜馬,燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。

張邈と陳宮が、呂布をむかえた。荀彧と程昱は、2県をたもつ。呂布は鄄城をおとせず、西へゆき濮陽にいる。呂布は、曹操が徐州から兗州に帰る道を、塞がなかった。曹操は、「呂布のバカ」と言った。青州兵は敗れ、曹操は左てのひらを焼いた。

「魏志」荀彧伝と程昱伝、典韋伝にくわしい。
何焯はいう。青州兵は、まだ訓練できてない。ぼくは思う。まだ黄巾を降して、2年だ。


袁イ獻帝春秋曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏為反間,太祖得入城。燒其東門,示無反意。及戰,軍敗。布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也。」布騎乃釋太祖而追黃馬者。門火猶盛,太祖突火而出。未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖。太祖乃自力勞軍,令軍中促為攻具,進複攻之,與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。

袁[目韋]の『献帝春秋』はいう。曹操は、濮陽の大姓・田氏に手引きされた。

著者は「袁曄」ともされ、明らかでない。ぼくは漢字変換の都合から、袁曄でゆきます。「呉志」陸瑁伝はいう。広陵の袁チュウの孫は、袁曄である。『献帝春秋』を著した。袁紹伝の注釈がいうように、袁曄や楽資のようなヤツラは、デタラメを書く。馬超伝の注釈でも、袁曄や楽資はデタラメである。ヨウ振宗はいう。時代も土地も離れた袁曄が、マトモなことを書けない。盧弼はいう。袁曄の著作はデタラメだが、『資治通鑑』が採用した。
ぼくは思う。『資治通鑑』を読むとき、袁曄が典拠の記事を見つけたら、マユツバすればよい。そして、今回の裴注も、どうせデタラメということで、訳さない。ちくま訳を見れば充分だ。

イナゴで引き分けた。

趙一清はいう。『続漢書』五行志はいう。興平元年(194)夏、イナゴ。このとき天下が大乱した。秋、長安で旱魃。ときに李傕と郭汜が、専権をほしいままにした。


呂布との泥仕合

秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兗州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖至東阿。

興平元年(194)秋9月、曹操は鄄城にもどる。呂布は、乘氏(済陰)にいる。呂布は、県人の李進に敗れて、東へ山陽にゆく。

盧弼は考える。「魏志」李典伝はいう。李典の従父・李乾は、賓客を数千家もつ。乗氏にいた。呂布が曹操を乱すと、李乾は、乗氏にもどる。またいう。李乾の宗族・部曲は、20余家あり、乗氏にいる。部曲・宗族は、1万3千余口だ。鄴にいた。これは、李姓が、乗氏の大姓だと示す。「乗氏の季氏」とする版本があるが、「乗氏の李氏」が正解である。
ぼくは思う。兗州の諸県は、ほぼすべて曹操に反したが。乗氏の李氏は、曹操に味方した。李典が、曹操に参加する。「部曲」の用例として、李典伝はよく引用されるが。こういう、ストーリー上の重要性があったのか。なるほど。

袁紹は曹操に「連和しよう」と持ちかけた。曹操は、兵糧がなくなるので、袁紹に従いたい。程昱は、曹操をとどめた。

王鳴盛はいう。袁紹が、そんなことを言うはずがない。「紹」の字が、そもそも誤りである。盧弼は考える。「紹」でよい。帝位口伝に、おなじ記事がある。『資治通鑑』も同じだ。ヨウ範はいう。このとき袁紹は、曹操を臣下として招きたい。史家がはばかって、「連和」とした。袁紹と曹操は、このとき敵対しない。なぜ「連和」する必要があろうか。盧弼もおなじ意見だ。
臧洪伝はいう。みな袁紹と曹操が、睦まじいと認識した。程昱伝から考えるに、袁紹は曹操を鄴県におきたい。このときの情勢を踏まえて、史料を正しく読むべきだ。
ぼくは思う。「紹」の字は誤りだ!と言い出すとか、すごいなあ。程昱が曹操をとどめたのは、程昱その人が、曹操と密着したからだろう。もう、あとには引けない。いくら曹操が、袁紹集団の一員だとしても。曹操が兗州にいると、いないとでは、影響力に大きなちがいがある。
たとえば、勤め先の資本比率が変更されるよりも、直属の上司が異動するほうが、インパクトがデカいのと同じだ。程昱は、資本比率に口を出さず(出す立場にもなく)、ただ直属の上司を引き止めた会社員のようなものだ。


是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者。陶謙死,劉備代之。

この歳、穀物が高騰した。吏兵をクビにして、新たに募った。陶謙が死に、劉備がこれに代わった。

次回、兗州を平定し、ついに献帝を迎える。武帝紀は、やっぱり面白いなあ。まったく話にムダがない。飽きるヒマがない。110223