表紙 > 人物伝 > 袁術の爪牙、孫策を助けた軍事マニア、呂範伝

01) 孫策の母を救う、飲み友達

「呉志」巻11より、呂範をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

巻11は、朱治、朱然、呂範、朱桓です。孫氏の創業を支えた人たちの1つ。このうち、190年代に記述があるのは、朱治と呂範だけです。


寿春に避難し、玉の輿の子・孫策と意気投合

呂範字子衡,汝南細陽人也。少為縣吏,有容觀姿貌。

呂範は、あざなを子衡という。汝南郡の細陽県の人だ。

上は袁紹、下は呂蒙と同じ郡の出身です。

若くして縣吏となった。容觀、姿貌があった。

おなじ呂範伝のなかですが。ルックスを工夫して、雰囲気だけで、相手を圧倒する人だった。呉の4姓、陸遜や全琮ですら、呂範のオーラに恐れ入った。呂範が孫策、孫権に貢献したとしたら、これが強みだ。
性好威儀,州民如陸遜、全琮及貴公子,皆脩敬虔肅,不敢輕脫。其居處服飾,於時奢靡,然勤事奉法,故權悅其忠,不怪其侈。
江表傳曰:人有白范與賀齊奢麗誇綺,服飾僭擬王者,權曰:「昔管仲逾禮,桓公優而容之,無損於霸。今子衡、公苗,身無夷吾之失,但其器械精好,舟車嚴整耳,此適足作軍容,何損於治哉?」告者乃不敢複言。


邑人劉氏,家富女美,範求之。女母嫌,欲勿與,劉氏曰:「觀呂子衡寧當久貧者邪?」遂與之婚。後避亂壽春,孫策見而異之,範遂自委昵,將私客百人歸策。

同じむらの劉氏は、家は富み、娘は美しい。呂範は、娘を求めた。娘の母は、呂範をきらい、嫁がせたくない。だた父の劉氏は云った。
「呂子衡を見ろ。貧乏のまま終わる男か?」
ついに呂範は、結婚できた。

孫堅が呉氏を娶るときも、同じエピソードがある。つまり呂範は、孫堅に劣らずに、寒い家柄の出身だと分かる。呂蒙は同じ郡出身で、出身県だけ違う。家柄の悪さは通じる。もしかして、遠い親戚かも知れない。

のちに寿春に、乱を避けた。

李傕と郭汜が、191年?に朱儁を攻めたときだろう。おなじ豫州の荀彧も、逃げた。北に逃げた人は、冀州-のち袁紹へ。南に逃げた人は、揚州-のちに袁術へ。呂範は南をえらんだ。

呂範は、孫策と会った。孫策は呂範を、とても評価した。呂範は孫策と仲良くなった。私客100人をひきいて、孫策に帰した。

孫堅が死んだ。孫策は曲阿に、孫堅を葬った。長江を北に渡り、江都にいった。陶謙に嫌われて、孫策はふたたび、長江を南に渡った。合流したのは、この時期だろうね。
孫策伝:徐州牧陶謙深忌策.策舅呉景,時為丹楊太守,策乃載母徙曲阿, 與呂範、孫河俱就景,因縁召募得數百人.


時太妃在江都,策遣範迎之。徐州牧陶謙謂范為袁氏覘候,諷縣掠考范,範親客健兒篡取以歸。時唯范與孫河常從策,跋涉辛苦,危難不避,策亦親戚待之,每與升堂,飲宴於太妃前。

孫策の母・呉氏は、江都にいた。孫策は呂範に、母を迎えに行かせた。徐州牧の陶謙は、呂範が袁術のスパイに来たとして、県で呂範を拷問した。呂範の子飼たちは、呂範を奪い返し、寿春にもどった。

孫策が母を失えば、故郷で中規模の豪族・呉氏とのつながりが切れる。絶対に失敗できない仕事だった。もし呉景と断絶したら、孫策のスタートラインは、後ろに引き直される。
孫策は呂範が、玉の輿のメリットを理解しているから、やり遂げると信じたのだろう。孫堅も呂範も、格上の名家と結婚して、逆転をねらった。
くわえて呂範が持つ、目上を圧倒する風格に、期待したのかな。
また、193年時点、陶謙と袁術の関係が最悪だった、という証拠になります。陶謙は194年に、すぐ死ぬが。

呂範と孫河は、つねに孫策と辛苦をともにした。呉氏の前で、孫策と呂範、孫河は酒を飲んだ。

ただの戦闘マニア、孫策と同類の呂範

後從策攻破廬江,還俱東渡,到橫江、當利,破張英、於麋,下小丹楊、湖孰,領湖孰相。策定秣陵、曲阿,收笮融、劉繇餘眾,增範兵二千,騎五十匹。後領宛陵令,討破丹楊賊,還吳,遷都督。

のちに孫策に従い、廬江をやぶった。孫策とともに、長江を東へもどった。横江や當利で、張英と于麋を討った。小丹楊、湖孰を降した。湖孰の相になった。

盧弼がいう。漢末、湖孰は侯国だった。だから長官は「相」という。
ぼくは考える。呂範は、孫策の会稽攻めに従っていない。湖孰は、長江べり。横江のそば。孫策の会稽攻めを、助けることができない場所だ。なぜ、わざわざ切り離したのだろう? 呉景と孫賁も、会稽に従っていない。
呉景伝:與孫賁共討樊能、于麋於橫江,又擊笮融、薛禮於秣陵.時策被創牛渚, 降賊復反,景攻討,盡禽之.從討劉繇,繇奔豫章,策遣景、賁到壽春報術.
孫策の単独行動は、よく分かりません。会稽を攻めるとき、孫策は、孫静にだけ助けてもらった。計画ゼロで突進し、孫静に救われた?

孫策は、秣陵と曲阿を平定した。笮融と劉繇の余兵を、手に入れた。孫策は呂範に、兵2000、騎50匹を増やした。のちに呂範は、宛陵令となった。丹楊の賊を討ち、呉郡にかえった。都督に移った。

盧弼がいう。このあたりの地名は、孫策伝にある。


江表傳曰:策從容獨與范釭,範曰:「今將軍事業日大,士眾日盛,範在遠,聞綱紀猶有不整者,范原蹔領都督,佐將軍部分之。」策曰:「子衡,卿既士大夫,加手下已有大眾,立功於外,豈宜複屈小職,知軍中細碎事乎!」範曰:「不然。今舍本土而讬將軍者,非為妻子也,欲濟世務。猶同舟涉海,一事不牢,即俱受其敗。此亦范計,非但將軍也。」策笑,無以答。範出,更釋褠,著袴褶,執鞭,詣閤下啟事,自稱領都督,策乃授傳,委以眾事。由是軍中肅睦,威禁大行。

沈欽韓がいう。漢魏より、兵を領する将軍の張下には、護軍と都督がいた。呂範は都督となり、将軍を助けたいと云ったのだ。
ぼくは思う。管理職にならず、係長のまま、残業代をかせぐ人がいる。それと同じだ。大きな戦略よりも、現場が好きだというタイプだと、『江表伝』は伝えている。
呂範は、大部隊の大将にならなかった。その史実からたぐり寄せ、もっともらしい逸話を『江表伝』が作ったのだろう。
きっと呂範は、孫策と同じタイプの、戦闘マニアだったんだ。だから、後方で指揮をしたくない。同類なので、孫策と意気投合した。


次回、袁術の天下をかけて、徐州に北伐します!