02) 徐州北伐、祖郎と太史慈
「呉志」巻11より、呂範をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
袁術の徐州攻めにしたがい、陳瑀を攻める
是時下邳陳瑀自號吳郡太守,住海西,與強族嚴白虎交通。策自將討虎,別遣范與徐逸攻瑀於海西,梟其大將陳牧。
このとき下邳の陳瑀は、
陳瑀は、あざなを公イという。下邳の淮浦の人。陳球の子、陳登の従父だ。陳瑀のことは、袁術伝がひく『英雄記』と、呂布伝がひく『先賢行状』と、孫策伝がひく『江表伝』にある。
これは、網羅的にチェックしなければ、なるまい!
みずから呉郡太守を号した。
『江表伝』によれば、陳瑀は、漢室が任命した呉郡太守だ。自ら号したのではない。ひそかに陳瑀は、孫策を襲おうとしていた。だから、陳瑀が朝廷の命令をカサに着たと、「呉志」が書いたのだろう。
陳瑀は海西にいる。強族の厳白虎と、陳瑀は通じた。孫策はみずから厳白虎を討った。孫策はべつに、呂範と徐逸をつかわし、陳瑀のいる海西を攻めさせた。大将の陳牧を、さらし首にした。
九州春秋曰:初平三年,揚州刺史陳禕死,袁術使瑀領揚州牧。後術為曹公所敗於封丘,南人叛瑀,瑀拒之。
『九州春秋』がいう。初平三(192)年揚州刺史の陳禕が死んだ。
『英雄記』は、揚州刺史の陳温が死んだという。名がちがう。
袁術は陳瑀を、揚州牧とした。193年に袁術は、曹操に封丘で敗れた。南の揚州の人は、陳瑀に叛した。
ぼくは思う。ここは陳瑀でも袁術でも、文はとおる。意味は変わるが。
叛瑀:陳瑀は、袁術に任じられた揚州牧だ。親玉の袁術が弱まり、追い出されそうになった。逆にいえば、南陽にいた袁術は、揚州まで実効支配が、届いていたことになる。
叛術:陳瑀は、袁術にさからった。
陳瑀は、揚州の人をふせいだ。
術走陰陵,好辭以下瑀,瑀不知權,而又怯,不即攻術。術於淮北集兵向壽春。瑀懼,使其弟公琰請和於術。術執之而進,瑀走歸下邳。
袁術は陰陵に逃げ、あまい言葉で陳瑀にくだった。陳瑀は、袁術のウソを見抜けず、また袁術に怯み、すぐに袁術を攻めなかった。袁術は、淮北で兵を集めた。陳瑀は袁術をおそれ、弟の陳公琰をやり、袁術と和睦を請うた。
袁術は、陳瑀の弟・陳公琰をとらえた。袁術は、寿春に進んだ。陳瑀はにげて、故郷の下邳に帰った。
ぼくは思う。いちど寿春から逃げた陳瑀が、いま懲りずに呉郡太守を名のった。陳瑀を後押ししたのは、徐州牧の劉備だろうか。袁術は徐州に北伐し、劉備が防いだ。陳瑀を前面に押し出してきた。劉備を支持している、陳珪と陳登は、陳瑀の身内だ。報復戦である。
呉景が広陵太守になったのも、この頃だろうね。
祖郎と太史慈を倒し、桂陽太守となる
又從攻祖郎於陵陽,太史慈於勇裏。
また呂範は、孫策にしたがい、祖郎を陵陽で攻めた。
呉夫人伝がいう。孫策と孫河と呂範は、呉景に合わさり、ケイ県の山賊・祖郎を売った。祖郎は、敗れてにげた。
孫輔伝がいう。孫輔は孫策にしたがい、陵陽で祖郎を生け捕った。
盧弼が考える。祖郎の詳細は、孫輔伝がひく『江表伝』と、孫策伝がひく『江表伝』にある。祖郎と厳白虎らは、みな陳瑀に扇動されて、孫策を攻めたのだ。
へえ!盧弼の指摘はおもしろい!そうなのか! このあたりは、時系列がほんとうに分かりにくい。どうしてくれるんだ。今週は、孫策周辺の列伝を読んでいるが、ずっと同じところをくり返している気がする。笑
呂範は、太史慈を勇裏で攻めた。
七縣平定,拜征虜中郎將,征江夏,還平鄱陽。策薨,奔喪于吳。後權複征江夏,范與張昭留守。
7県を平定した。
呂範は、征虜中郎將となった。呂範は、江夏を攻めた。
孫策が黄祖を攻めたとき、呂範は桂陽太守だった。孫策伝がひく『呉録』にあることだ。
呂範は還り、鄱陽を平らげた。
建安8年、鄱陽の山越は、叛乱した。孫権は呂範に、平定させた。晋代より後、ここは郡治となった。
孫策が死んだ。呂範は呉に奔って、喪に服した。のちに孫権が江夏郡を攻めると、張昭とともに留守をした。
おわりに
以後、省略します。いまは袁術に興味があるので。笑
つぎは、太史慈を読まねばならん!100528