表紙 > 人物伝 > 周瑜は荊州で独立をねらったが、『江表伝』が隠蔽した

周瑜は、孫氏の臣ではない

周瑜について調べていて、思いました。
周瑜の目標は、荊州で独立すること!
36歳で死んでしまったので、実現しなかったが。

これは、のちに皇帝になった孫権にとって、黒い歴史です。周瑜が、逆臣になってしまう。だから、歴史家によって葬られた。
葬ったのは、おもに2人です。
1.孫晧のとき、『呉書』を書いた韋昭
2.西晋になってから、『江表伝』を書いた虞溥

いまこの文書を書くため、『晋書』虞溥伝を訳しました。
『晋書』虞溥伝を訳し、『江表伝』の作者を知る


とくに2つめ『江表伝』が、ひどい。
虞溥が、いかに周瑜を歪めているか、チェックします。
虞溥は、あたかも周瑜が、孫氏に従属するのが当然であるかのように、見せています。だが冷静に陳寿だけを読むと、周瑜は従属していないと読んでも、筋が通るように思います。

たとえ話です。陳寿の趙雲伝で、趙雲は平均的な人だ。
だが裴註の『趙雲別伝』によって、まるで英雄のようになってしまう。陳寿と『趙雲別伝』を交互に読んでいると、だんだん混同が進む。正史を見ているはずなのに、小説に翻弄される。
いちど、陳寿と『趙雲別伝』を分離&対比しておいたほうが、頭を整理できるでしょう。
趙雲と同じことが、周瑜にも起きていることを見つけました。

『江表伝』による歪曲を一覧します

陳寿:周瑜が、孫策の家族を保護してやった
虞溥:孫策の名声を聞いて、わざわざ周瑜の方から、訪問してきた

逆である。周瑜が主で、孫策が従だ。


陳寿:周瑜と合流できたから、孫策は喜んだ
虞溥:孫策は周瑜を「骨肉の分」だと呼んで、迎えた

『呉書見聞』というサイトでは、母系の血縁を勘ぐっている。
違うのだ。周瑜は孫策の保護者であり、同盟者である。骨肉だなんて、『江表伝』における孫策の妄言である。もしくは、紛らわしい比喩。


陳寿:ニ喬を得たとき、孫策と周瑜にセリフなし
虞溥:孫策が「二喬は、俺たちに嫁入りして幸せだ」と周瑜に戯れた

馴れ馴れしいよ。ほんとうの目的は、孫策と周瑜の同盟強化?


陳寿:孫策の死後も、周瑜は呉郡に残り、軍事をした(孫権を放置)

周瑜は、孫権に敵対していないが、積極的に協力もしていない。 その証拠に、孫策が死んでから8年、周瑜の記録が、ほとんどない。いちど孫瑜を連れて、山越を討っただけ。
「呉主伝」では、張昭が孫権を励まし、孫策の死後の混乱を、まとめさせたとある。だが周瑜は、孫権を励ましにきていない。

虞溥:周瑜が孫権に「曹操に人質を送らず、天下を狙え」と激励した

陳寿:周瑜は、黄祖の部将を討ち、前部大督となる

揚州を出て、孫権から距離を置いた。
のちに東晋では、揚州の首都・建康「北府」に対抗して、荊州に「西府」という独立した軍閥があった。周瑜が目指したのは、これではないか。
荊州への道が開けたのを皮切りに、赤壁から死去まで、周瑜は活発に動く。前の8年とは別人のように。

虞溥:とくに脚色せず

陳寿:曹操の書状を受けたとき、周瑜は鄱陽にいた

物語では、ヒーローは遅れてやってくるものだ。
だが実際の政治で、重臣を抜きにして、大きな決定をするわけがない。つまり周瑜は、孫権の重臣ではなかった。
鄱陽を拠点にした、独立勢力だと見たほうが、分かりやすい。鄱陽は、『江表伝』を編んだ虞溥が、赴任して史料を集めた土地だ。道理で、周瑜の話が豊富なわけだ。

虞溥:とくに脚色せず

陳寿:周瑜は公の場で、曹操への降伏に反対

曹操は漢の逆賊だから、周瑜は、曹操に反発している。陳寿の本文にあることだ。なぜ周瑜が、曹操を嫌いかと言えば、周瑜は清流&三公の家柄だから。孫権を守り立てるのが、目的ではない。
陳寿によれば、孫権も、漢を助けたいと言っている。孫と周は主従ではなくて、目的を共有した同盟者と言ったほうがいい。
さて魯粛について。
赤壁開戦について、周瑜と魯粛は結論が同じ。だが動機が違う。魯粛は、孫権に天下を取らせたい。周瑜は、孫権と共同して、曹操を倒したい。

虞溥:会議の夜、周瑜が孫権を個人的に訪問し、作戦を相談

周瑜と孫権の人間関係を、良く見せるため、密会をつくり出した。


陳寿:周瑜は赤壁へ、孫権は合肥へと、そっ気なく別行動
虞溥:孫権が「私が後方から、周瑜を支援しよう」と申し出る

孫権と周瑜は、いちども一緒に戦わない。揚州の孫権と、荊州の周瑜は、まるで連絡の悪い同盟軍のようだ。


陳寿:周瑜と程普は不仲

程普から見れば、周瑜は、孫権軍団の軍事的な脅威である。仲良くなれるわけがない。
ちなみに孫策の死後、周瑜が8年もサボっている間、孫権の支えて戦ったのが、程普だ。孫権の臣とは、程普をいう。

虞溥:周瑜と程普の対立を、性格や年齢の問題にスリ代えた

「周瑜と話すと、芳醇な酒に酔ったようで」などと、程普は、内容のないお世辞を言ったことにされた。


陳寿:周瑜は孫権に「劉備を、揚州で面倒みろ」といった

私の荊州で、劉備を面倒みるのは、イヤなんだよね」
という、周瑜の声が聞こえてきそうだ。周瑜は、劉備を梟雄だと評価する。だから、荊州をウロウロされると、困るのだ。孫権のためでなく、周瑜自身のために、劉備が邪魔である。

虞溥:とくに脚色せず

陳寿:荊州から益州、益州から天下を取りにいき、死ぬ

「揚州と同盟する。荊州を得る。荊州に益州を合わせ、涼州へ出る」
周瑜が蜀攻めの前に言ったプランは、諸葛亮と同じだ。周瑜や諸葛亮のプランは、揚州の積極的な協力がなくても成り立つ。
周瑜は「孫権さんよ。私が天下を取るのを見ていろ」と言いたげ。
ちなみに、揚州から荊州に出鎮し、益州を併せたのは、上に書いた東晋の桓温です。揚州にいる皇帝に、禅譲を迫るところまで、行きました。笑

虞溥:孫権への恩を手厚く述べ、周瑜は死んでいく

ウソばっかである。周瑜の遺言は、天下の情勢についてだ。


陳寿:周瑜の兵は世襲されず、子孫も弾圧された
虞溥:孫権が「周瑜のおかげで皇帝となれた」と追想

まるで正反対じゃないか。

おわりに

周瑜が孫策&孫権に、臣従していないことを証明しました。笑
陳寿の読み方が、偏っているという、ご反論もあるでしょう。
だが、待ってください。
陳寿は、孫呉バンザイの韋昭『呉書』を底本としました。『江表伝』ほどヒドくないが、陳寿もまた、孫権が君主で、周瑜が一臣だというバイアスを、取り込んでいるはずだ。今回のごとく、差し引かねば。
ここに書いたのは、誰にも証明できない、シロウトの仮説です。周瑜を考える材料として頂ければ、幸いです。100327

これに付随し、魯粛のプランも見直さねば。孫権に天下を取らせるため、劉備と周瑜を、荊州で競わせた。なんて話ができるかも?