表紙 > 人物伝 > 「呉志」宗室伝より:袁術をめぐる、孫氏の去就

01) 会稽を平定した、孫静

「呉志」宗室伝より、第1世代をやります。
『三国志集解』を片手に、ていねいに翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

孫静は、孫堅と「家族」ではない

孫靜字幼台,堅季弟也。堅始舉事,靜糾合鄉曲及宗室五六百人以為保障,眾鹹附焉。策破劉繇,定諸縣,進攻會稽,遣人請靜,靜將家屬與策會于錢唐。

孫静は、あざなを幼台という。孫堅のすえの弟だ。孫堅が挙兵したとき、孫静は故郷で、宗室500や600人を集めて、自衛した。

劉家立がいう。「宗室」は「宗族」のミスだろう。
「堅始舉事」とは、いつか。孫堅が役人として、本格的に初陣するのは、172年の許昌の叛乱だ。サイト『呉書見聞』さまでは、184年の黄巾の乱と解されていましたが。
孫静は、孫堅の存命中、戦わない。『呉書見聞』によれば孫静は、孫堅の家族(孫策ら)を守っていない。孫堅とは別の家として、独立した行動をしていたのだろうと。

人々はみな、孫静につき従った。

孫静がやったのは、故郷で地位を高めること。孫堅とは、違う道だ。孫堅は、呉氏と結婚し、各地を歴戦し、袁術に協力し、、と外に伸びた。
注意したいのは、孫堅は孫呉の始祖ではあるが、呉の地に影響力がないこと。孫堅は、後漢の長沙太守、袁術の兗州刺史だ。呉の地にいたのが、この孫静である。

孫策は劉繇を破り、諸県を平定した。会稽郡に進んだ。孫策は人をやり、孫静に参加をもとめた。孫静は、家属をひきいて、孫策と銭唐で合流した。

孫策の会稽平定は、袁術の命令を無視して、やったっぽい。だから孫策は、独自に兵を調達する必要があった。孫静が着目された。
もともと孫策がひきいた袁術兵は、呉景や孫賁とともに寿春に返った。劉繇の駆逐という、当初の任務に成功したのだ。帰還は当たり前だ。


孫静が、会稽郡を平定する

是時太守王朗拒策於固陵,策數度水戰,不能克。靜說策曰:「朗負阻城守,難可卒拔。查瀆南去此數十裏,查音祖加反。而道之要徑也,宜從彼據其內,所謂攻其無備、出其不意者也。吾當自帥眾為軍前隊,破之必矣。」策曰:「善。」

このとき会稽太守の王朗は、孫策を固陵でふせいだ。たびたび孫策は、水戦した。孫策は、王朗に勝てない。

固陵は、むかし范レイが築いた。固く守れる城だから、固陵という。
ぼくは思う。孫策が、水軍で大勝ちした話は、あまり聞かない。そりゃ、高速移動するために、舟は使っただろうけど。孫策の電撃を支えたのは、舟だろうけど。
「孫策が攻めあぐねる」という珍しい場面です。袁術を無視し、ひとり会稽に突っこんだが、苦戦。

孫静は、孫策に説いた。

このとき孫策は、独立のために戦っているのではない。舟などの準備が、不充分すぎる。若すぎて、手柄がほしいから、突っ走ったのだろう。
「事前に約束しても、袁術はオレを太守にしない。袁術軍を使わず、独力で会稽を切り取ったら、オレを会稽太守はしてくれるはず!」
失敗したら、間違いなく孫策はクビである。孫静は、おいの命が危ういので、仕方なく力を貸したのかな。

「王朗は、攻めにくい地形を守っています。固陵をぬくのは、難しい。査瀆は、ここから南へ数十里です。査瀆は、交通のかなめです。査瀆から内側を攻めれば、王朗の不意をつけます。私が、査瀆を抑えます。必ず王朗を破ってあげましょう」
孫策は「たのみます」と云った。

会稽平定は、孫静の功績だ。ちくまは、孫策のセリフを「よろしい」なんて訳す。だから孫策が、孫静を指揮したみたいになる。違う。孫静は、
「私の兵を孫策に託します。王朗を討ってください」
とは云わない。孫策は、兵の裏づけなく突っこむ、バカだ。固い地形をかえりみず、ゴリ押しするしか、能がない。
孫静がいなければ、いくら孫策が個人的に圧倒しても、王朗に殺されていたかも知れない。軍人でない劉表に殺された、孫堅と同じ。笑


乃詐令軍中曰:「頃連雨水濁,兵飲之多腹痛,令促具罌缶數百口澄水。」至昬暮,羅以然火誑朗,便分軍夜投查瀆道,襲高遷屯。朗大驚,遣故丹楊太守周昕等帥兵前戰。策破昕等,斬之,遂定會稽。

孫静は、軍中にウソの命令を出した。
「連日の雨で、水が濁っている。濁った水を飲み、おおくの兵士が腹痛だ。数百のカメを用意し、澄んだ水を用意させよ

『説文解字』はいう。「罌」とは、「缶」である。
師古がいう。「罌」とは、腹が大きくて、口が小さいビンのことだ。

日が暮れた。火を照らして居場所をいつわり、王朗をあざむいた。孫静は、夜に査瀆の道をゆき、高遷の屯所を襲った。
王朗は大いに驚き、もと丹楊太守の周昕らを、前で戦わせた。

周昕は、呉夫人伝のとき、注しました。

孫策は、周昕らを斬った。会稽は平定された。

孫静が王朗を討った理由は、故郷を守るため、だったのかも。孫策を助ける義理があるなら、孫堅が死んだときに、いち早く救っているはずだ。
王朗は、徐州から送り込まれた、陶謙系の名士。徐州の勢力が、呉郡を南北から挟み撃ちにするのを、嫌ったのかも知れない。


袁術に仕えず、孫策に仕えず

表拜靜為奮武校尉,欲授之重任,靜戀墳墓宗族,不樂出仕,求留鎮守。策從之。權統事,就遷昭義中郎將,終於家。有五子,暠、瑜、皎、奐、謙。暠三子:綽、超、恭。超為偏將軍。恭生峻。綽生綝。

上表して、孫静を奮武校尉につけ、重い任務を授けようとした

主語は孫策として描かれている。
「孫策が袁術に上表」した、でいいのかな。

だが孫静は、宗族の墳墓を守りたいから、出仕したくないと考えた。孫策は、孫静をみとめた。

孫策の臣でないのは、もちろん。袁術の臣もイヤ。

孫権が孫策をつぐと、孫静は昭義中郎將となった。官位にないとき、家にて死んだ。

なぜ官位にないか。『呉書見聞』によれば、長男の孫暠が謀反したからだと。なるほど!と思ったが、今日は考察しません。

孫静は、5人の子があった。暠、瑜、皎、奐、謙である。孫暠には、3人の子があった。綽、超、恭である。孫超は、偏將軍となった。孫恭は、孫峻を生んだ。孫綽は、孫綝を生んだ。

孫権の死後、権力をにぎる人たち。今日はやりません。


つぎは、孫策の従兄・孫賁伝です。