表紙 > 人物伝 > 「呉志」宗室伝より:袁術をめぐる、孫氏の去就

03) 曹操に通じた孫輔(+孫河

「呉志」宗室伝より、第1世代をやります。
『三国志集解』を片手に、ていねいに翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

孫輔は孫策に従軍し、丹楊の不服従民をうつ

孫輔字國儀,賁弟也,以揚武校尉佐孫策平三郡。策討丹楊七縣,使輔西屯曆陽以拒袁術,並招誘餘民,鳩合遺散。又從策討陵陽,生得祖郎等。

孫輔は、あざなを國儀という。孫賁の弟だ。

『呉書見聞』がいう。195年ごろに成人したようだ。180年ごろの生まれだろうと。孫堅の生前は、まだ子供だった。

孫輔は、揚武校尉となり、孫策が三郡を平定するのを助けた。

『呉書見聞』がいう。孫輔が、兄の孫賁でなく、従兄の孫策に従って、会稽にいくのは不自然。アバウトな記述なんだろうと。
時期的に、孫策が3郡を平定したころで、、くらいのノリです。

孫策が、丹楊の七縣を討った。

孫策伝にひく『江表伝』にある。陳瑀は、都尉の萬演をつかわし、丹楊の7県に印傅を与えた。祖郎は、孫策に敵対した。

孫策は、孫輔を西にゆかせ、歴陽で袁術をこばませた。
孫輔に、行き場の決まらない、人民を集めさせた。孫策に従い、孫輔は陵陽を討った。祖郎らを生け捕りにした。

「祖郎を討つ=袁術に敵対する」でいいのか? 違う!詳細は次行。


江表傳曰:策既平定江東,逐袁胤。袁術深怨策,乃陰遣間使齎印綬與丹楊宗帥陵陽祖郎等,使激動山越,大合眾,圖共攻策。策自率將士討郎,生獲之。策謂郎曰:「爾昔襲擊孤,斫孤馬鞍,今創軍立事,除棄宿恨,惟取能用,與天下通耳。非但汝,汝莫恐怖。」郎叩頭謝罪。即破械,賜衣服,署門下賊曹。及軍還,郎與太史慈俱在前導軍,人以為榮。

『江表伝』がいう。孫策は、袁胤を追いはらった。

孫策が袁胤(袁術の従弟)を追いはらったら、明らかに袁術への敵対だ。だが、陳寿の本文にないんだよなあ。(ないはず!)
孫策に「独立」させたい、『江表伝』の創作だろう。孫策がわざわざ駆逐しなくても、袁胤は、袁術とともに敗北していったはず。

袁術は孫策を怨み、丹楊の祖郎に、孫策を攻めさせた。孫策は、祖郎を生け捕りにした。

孫策と祖郎の戦いの意味は、『江表伝』のとおりではない。
「袁術&祖郎 vs 孫策」ではない。
袁術は、現地民を味方にするため、祖郎に印綬を与えた。だが祖郎は、印綬に恩を感じず、袁術に反した。袁術の部将・孫策は、不服従民を討った。これでも話は通るのだ。むしろ自然?

孫策は、祖郎に云った。
「お前はオレを攻撃したが、これからは一緒にがんばろう」
祖郎と太史慈は、孫策軍の先頭にたった。

袁術に従わなかった丹楊の人民が、孫策に従った。そういうエピソードだ。曹操の青州兵に通じる。
袁術と孫策の絶縁に、祖郎は関係がなかろう。


策西襲廬江太守劉勳,輔隨從,身先士卒,有功。策立輔為廬陵太守,撫定屬城,分置長吏。

孫策は西に、廬江太守の劉勳を討った。孫輔は、これに従った。兵士よりも、先に立って突っ込み、功績があった。孫策は孫輔を、廬陵太守とした。周囲を平定し、役人をおいた。

廬陵郡は、豫章郡から分けたもの。もとの豫章は兄の孫賁が、分けた廬陵は弟の孫輔が。きれいな人事だ。


孫輔は、孫権を裏切り、曹操に手紙をかく

遷平南將軍,假節領交州刺史。遣使與曹公相聞,事覺,權幽系之。數歲卒。子興、昭、偉、昕,皆曆列位。

孫輔は、平南將軍に移った。假節、交州刺史になった。

交州刺史については、面白いが、考察は後日。『呉書見聞』にくわしい。

曹操と通じ、それが発覚した。孫権は、孫輔を幽閉した。数年で死んだ。子は、興、昭、偉、昕である。みな官位を歴任した。

典略曰:輔恐權不能保守江東,因權出行東冶,乃遣人齎書呼曹公。行人以告,權乃還,偽若不知,與張昭共見輔,權謂輔曰:「兄厭樂邪,何為呼他人?」輔雲無是。權因投書與昭,昭示輔,輔慚無辭。乃悉斬輔親近,分其部曲,徒輔置東。

『典略』がいう。孫輔は、孫権では江東が保てないと心配した。孫権の留守に、曹操に手紙を書いた。孫権は、孫輔に云った。
「兄よ。どうして他人(曹操)に呼びかけたか?」

孫策は孫賁を「兄」といい、孫権は孫輔を「兄」という。
それなのに孫輔は、「他人」である曹操を頼りに思った。裏切り!

孫権は張昭に、孫輔が曹操にあてた手紙を投げた。孫輔は、東に部曲ごと移された。

孫賁は、袁術でなく、劉協を支持した。弟の孫輔は、孫権でなく、曹操を頼った。つねに北に目が向いている兄弟ですね。


孫姓を与えられた、ユ河

孫韶字公禮。伯父河,字伯海,本姓俞氏,亦吳人也。孫策愛之,賜姓為孫,列之屬籍。

孫韶は、あざなを公禮という。伯父の孫河は、あざなを伯海という。
もとの姓は、俞(ユ)氏という。呉郡の人だ。孫策は、孫河を愛し、孫姓をたまわり、親戚になった。

吳書曰:河,堅族子也,出後姑俞氏,後複姓為孫。河質性忠直,訥言敏行,有氣幹,能服勤。少從堅征討,常為前驅,後領左右兵,典知內事,待以腹心之任。又從策平定吳、會,從權討李術,術破,拜威寇中郎將,領廬江太守。後為將軍,屯京城。

『呉書』がいう。孫河は、孫堅の族子である。姑の俞氏をたすけ、のちに孫氏にもどった。
孫河の質性は忠直で、訥言敏行。氣幹があり、よく服勤した。

『集解』によれば「訥言敏行」とは、論語の言葉。発言は、ゆっくり慎重に。行動は、すばやく。口ばっかりで、行動しない人を戒めている。

若くして孫堅に従い、前に立っては突っ込み、後ろにいては事務をこなし、孫堅の腹心となった。孫策が呉郡と会稽郡を平定した。

呂範伝がいう。呂範と孫河だけは、孫策と苦しみをともにした。

孫権に従って、李術を破った。

孫策伝がひく『江表伝』がいう。孫策は上表し、汝南の李術を廬江太守にした。孫権伝の建安5年の条がひく、『江表伝』にある。孫権は李術を、皖城で討った。

威寇中郎將となり、廬江太守となった。のちに孫河は將軍となり、京城に屯した。

孫策にぴったりくっ付いていたから、独立した功績が記されないのかな。


孫權殺吳郡太守盛憲。
會稽典錄曰:憲字孝章,器量雅偉,舉孝廉,補尚書郎,稍遷吳郡太守,以疾去官。孫策平定吳、會,誅其英豪,憲素有高名,策深忌之。初,憲與少府孔融善,融憂其不免禍,乃與曹公書。(以下略)

孫権は、呉郡太守の盛憲を殺した。
『會稽典錄』がいう。盛憲は、あざなを孝章という。器量は雅偉。孝廉に挙げられ、尚書郎となった。呉郡太守に移った。病気で、呉郡太守をやめた。
孫策が、呉郡と会稽を平定すると、現地の英豪な人を殺した。盛憲は、もとより高名があるから、孫策は盛憲をにくんだ。

孫策が、名士をにくむ話は多い。高岱しかり。

はじめ盛憲は、少府の孔融と仲がよかった。孔融は、盛憲が殺されることを憂い、曹操に手紙を書いた。

スーパー中途半端ですが、あとは世代が降ります。後略!


今回までのまとめ

孫堅:ろくでもない海賊、袁術の部将として死
呉景:袁術の行政官、袁術の末期は丹楊にこもって静観
孫静:故郷を固守し、孫堅、孫策、袁術、いずれにも仕えず
孫賁:袁術に寿春を与えたが、妻子を犠牲に袁術を離反
孫輔:後発組、孫策に仕えるが、孫権を曹操に売る
孫河:孫策の陰として、主体性なく従う ・・・てな感じで。100527