表紙 > 人物伝 > 「呉志」宗室伝より:袁術をめぐる、孫氏の去就

02) 袁術に寿春を与えた、孫賁

「呉志」宗室伝より、第1世代をやります。
『三国志集解』を片手に、ていねいに翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

孫堅のひつぎを、故郷に運ぶ

孫賁字伯陽。父羌字聖台,堅同產兄也。賁早失二親,弟輔嬰孩,賁自贍育,友愛甚篤。為郡督郵守長。

孫賁は、あざなを伯陽という。父の孫羌は、あざなを聖台という。孫羌は、孫堅の同母兄だ。
孫賁は、はやくに両親を失った。弟の孫輔が幼かったので、孫賁は弟を養育した。孫賁は孫輔を、とても可愛がった。

『呉書見聞』によれば、孫賁の生年は165-170年。史料がないことなので、異論を出すこともありません。
孫策が175年生まれだ。きっと孫賁は、孫策にも「友愛甚篤」だった。

孫賁は、郡督郵守長となった。

盧弼がいう。「守長」は余計だろうと。
ただ『呉書見聞』が面白い指摘をする。劉備のように、督郵を殴るやつがいるなら、督郵に護衛係がいても、おかしくないと。笑


堅於長沙舉義兵,賁去吏從征伐。堅薨,賁攝帥餘眾,扶送靈柩。後袁術徙壽春,賁又依之。

孫堅が長沙で義兵をあげると、孫賁は官位を捨てて、征伐に従った。

孫堅は、故郷で芽が出ないから、外に活躍を求めた。孫賁は、父が死んで心細いから、叔父の孫堅に従った。
前ページで見た孫静に、孫賁は従わず。根が軍人だ。外征したい人だ。

孫堅が死ぬと、孫賁は兵をまとめて、孫堅の棺を故郷に送った。のちに袁術が寿春にうつると、孫賁は袁術に従った。

袁術が匡亭で曹操と戦ったとき、孫賁は従っていない。袁術への仕官は、孫堅の死から、数えで2年のブランクがある。


瀕死の袁術に、陰陵をプレゼント

術從兄紹用會稽周昂為九江太守,紹與術不協,術遣賁攻破昂於陰陵。術表賁領豫州刺史,轉丹楊都尉,行征虜將軍,討平山越。為揚州刺史劉繇所迫逐,因將士眾還住曆陽。

袁紹は、会稽の周昂を、九江太守とした。袁紹と袁術は、仲がわるい。袁術は孫賁に、周昂を陰陵で破らせた。

曹操に敗走した袁術。揚州刺史・陳瑀は、袁術を寿春に入れない。袁術は、かりの拠点として、陰陵を保った。袁術に居場所を与えたのだから、孫賁は命の恩人である。孫賁は、孫堅の存命中、豫州で周昂と戦った経験があるから、有利だったとか。
袁術を拒んだ陳瑀も、いま孫賁も、同じ思いだろう。揚州を穏やかにしてほしいと。孫賁は袁術に期待して、手を貸した。のちに袁術に失望し、孫氏のなかで、もっとも過激に袁術を見捨てた。期待の裏返しだ。

袁術は上表し、孫賁を豫州刺史にした。

『呉書見聞』は、これを孫軍閥の解体という。個々に官位を与えて、孫堅-孫策から分離しようとしたと。違うと思う。孫堅の生前ですら、孫氏は1つでない。ましてこの時期、孫軍閥なんてない。「孫策の独立を防ぐ」意図なんて、あるわけがない。有能な順に任じた。

袁術は、孫賁を丹楊都尉にうつした。

丹楊太守・呉景の部下(斜め下くらい)だ。
行政は、家柄のマシな呉景。軍事は、陰陵での手柄がある孫賁。袁術は、婚姻関係にある呉景と孫賁を、バランスよく置いたようです。
寿春さえ抑えれば、袁術にとり、最優先の攻略先は、丹楊だ。袁術のもと、第一級のコンビがこの2人だ。

孫賁に、征虜將軍をかねさせ、山越を討たせた。
揚州刺史の劉繇に追い出された。孫賁は軍勢をひきいて、袁術の本拠に近づき、歴陽にとどまった。

妻子を捨ててまで、袁術を見限る

頃之,術複使賁與吳景共擊樊能、張英等,未能拔。及策東渡,助賁、景破英、能等,遂進擊劉繇。繇走豫章。策遣賁、景還壽春報術,值術僭號,署置百官,除賁九江太守。賁不就,棄妻孥還江南。

このころ袁術は、ふたたび孫賁と呉景に、樊能と張英らを討たせた。勝てない。孫策が長江をわたり、劉繇を追い出した。
孫策は、呉景と孫賁をやり、寿春へ勝ちを報せた。

前ページの孫静でやりました。孫策はこの足で、会稽に攻めこむ。ひとりで何もできず、孫静に助けてもらう。

袁術が皇帝を名のると、孫賁を九江太守にした。

194年、丹楊の陳紀が九江太守になった。
『呉書見聞』によれば、陳紀が淮南尹に格上げされたので、後任に孫賁が任じられたのだろうと。現時点で、ぼくに反論なし。

孫賁は、九江太守に就かず、妻子を捨てて江南に戻った。

盧弼がいう。曹操は曹彰に、孫賁の娘をめとらせた。
ぼくが思うに、孫賁は、袁術より劉協にくみした。曹操に、揚州を鎮めてもらうことを期待したのかな。
たびたび書くように、孫策の絶縁状は、怪しいと思う。孫策は、袁術を支持した。かも知れない。 しかし孫賁は、妻子を捨てて袁術を見限った。そう考えるしかない。陳寿がそう書き、ロコツな綻びがないのだから。
孫賁が、孫策と同じ動きをしたと考える必要はない。証拠に、孫策が会稽を攻めるとき、孫賁は寿春に戻ったじゃないか。


江表傳曰:袁術以吳景守廣陵,策族兄香亦為術所用,作汝南太守,而令賁為將軍,領兵在壽春。策與景等書曰:「今征江東,未知二三君意雲何耳?」景即棄守歸,賁困而後免,香以道遠獨不得還。

『江表伝』がいう。袁術は、呉景を広陵太守にした。孫策の族兄・孫香も、袁術に用いられ、汝南太守となった。
だが孫賁は将軍となり、兵をつれて壽春にいた。孫策は、呉景たちに手紙を送った。
「いま江東を討ちたい(独立したい)。私はまだ、呉景さんたちの気持ちを知らない。いかがでしょうか」
ただちに呉景は袁術の官位を捨て、孫策に帰した。孫賁は、妻子が寿春にいるので、困った。だが孫賁は、妻子を捨てて、孫策に合流した。孫香は、とおく汝南にいるので、孫策に合流できなかった。

ウソばっか! 『江表伝』は、「孫策が袁術から独立し、華々しく正統性を獲得した」と、アピールしたい本だ。その傾向が、ひどく出ています。
思うに、
呉景も孫賁も、孫策に誘われたのでなく、自分の判断で動いた。
呉景は、袁術からも曹操からも(孫策からも)丹楊太守に任じられたとある。誰にメインで裏づけられたかは知らんが、ともかく呉景は、丹楊を動かなかった。ぼくは袁術を過大評価する人間なので(笑)呉景は、袁術が死ぬまでは、敵対しなかったと考えたい。


吳書曰:香字文陽。父孺,字仲孺,堅再從弟也,仕郡主簿功曹。香從堅征伐有功,拜郎中。後為袁術驅馳,加征南將軍,死於壽春。

『呉書』がいう。孫香は、あざなを文陽という。父の孫孺は、あざなを仲孺という。孫堅の再從弟である。郡に仕えて、主簿功曹となった。孫香は、孫堅の征伐に従い、功績により郎中となった。のちに袁術に仕え、征南將軍となった。壽春で死んだ。

『江表伝』で孫香は、汝南太守で、遠くにいた。『呉書』では、寿春にいた。史料の性格からして、『呉書』を信じるべきだ。
つまり孫香は、袁術に殉じた。だが『江表伝』は、孫氏が一致団結して、袁術に対抗したことにしたい。だから「汝南に赴任しており、遠いから、孫策に協力せず」なんて、ウソをつくった。
汝南は袁術の故郷だ。脇役の孫香を、太守にしないだろう。『江表伝』がウソだと、証明できたと思います。笑


袁術の死後、国づくりに参加

時策已平吳、會二郡,賁與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖,軍旋,聞繇病死,過定豫章,上賁領太守,後封都亭侯。

すでに孫策は、呉郡と会稽郡を平定した。

袁術の死後のことだ。袁術が死んだら、孫策は自由に、あちこちを平定しております。袁術を見限った孫賁と、ふたたび歩調が合った。

孫賁と孫策は、廬江太守の劉勲と、江夏太守の黄祖を征した。軍をもどした。 劉繇が病死したと聞き、豫章郡を定めた。孫賁を、豫章太守とした。 のちに孫賁は、都亭侯に封じられた。

ザックリし過ぎた。後日、戦いを詳しく見たい。華歆伝とか。


江表傳曰:時丹楊僮芝自署廬陵太守,策留賁弟輔領兵住南昌,策謂賁曰:「兄今據豫章,是扼僮芝咽喉而守其門戶矣。但當伺其形便,因令國儀杖兵而進,使公瑾為作勢援,一舉可定也。」後賁聞芝病,即如策計。周瑜到巴兵,輔遂得進據廬陵。

廬陵郡を平定する話。袁術とぶつからない。わざわざぼくが、ウソだと騒ぎたてる理由がない。だが盧弼さんが、見逃さなかった。笑

『江表伝』がいう。丹楊の僮芝は、みずから廬陵太守を名のった。

『集解』がいう。孫策伝によれば、孫策が豫章郡をとったとき、豫章郡を分割して、廬陵郡をおいた。孫策の外敵として、廬陵太守が出てくるのは、おかしい。
僮芝は、ただ廬陵城にピンポイントに割拠し、太守と名のったのだろうか。
同じことは、孟達の宜城太守、申耽の上庸太守の例がある。

孫策は、孫賁の弟・孫輔を、南昌においた。孫策は、孫賁に云った。
「兄さんは、豫章にいます。僮芝の喉もとを、押さえています。孫輔を進め、周瑜に助けさせますから、さっさと廬陵を取りましょう」
僮芝が病気と聞き、孫賁はこれを実行した。廬陵をとった。

活躍エピソードを、『江表伝』が増やしただけ?
孫策が孫賁を「兄」と呼ぶとか、親しげだ。小説じみて楽しい。


建安十三年,使者劉隱奉詔拜賁為征虜將軍,領郡如故。在官十一年卒。子鄰嗣。

建安十三年,曹操の使者・劉隱は、孫賁を征虜將軍とした。豫章太守であることは、もとのまま。
11年間、豫章太守をつとめ、死んだ。子の孫鄰が嗣いだ。

つぎは、孫賁の弟・孫輔です。