表紙 > 漢文和訳 > 韓遂よりもシブトイ涼州の自称王・宋建の史料をぬきだす

涼州で30余年も自立した、河首平漢王

『三国志』『後漢書』より、宋建を抽出。ちくま訳の巻末の索引より。

「魏志」武帝紀に2ヶ所あり

214年10月の記事。

初,隴西宋建自稱河首平漢王,聚眾枹罕,改元,置百官,三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月,屠枹罕,斬建,涼州平。

はじめ隴西の宋建は、みずから河首平漢王を称した。枹罕に軍勢をあつめた。改元して、百官をおき、30余年キープした。曹操は、夏侯淵をおくり、興國から宋建を討たせた。冬10月、夏侯淵は枹罕をほふった。宋建を斬り、涼州は平らかとなった。

216年5月、曹操を魏王にする詔勅。『献帝伝』より。

韓遂、宋建,南結巴、蜀,群逆合從,圖危社稷,君複命將,龍驤虎奮,梟其元首,屠其窟棲。

韓遂と宋建は、南に巴蜀とむすんだ。逆賊たちと合わさり、社稷を危うくした。曹操は夏侯淵に命じて、敵のリーダーをさらし首にした。敵のあじとを、ほふった。(この功績があるから魏王になれ)

「魏志」夏侯淵伝:夏侯淵が宋建を斬る

初,枹罕宋建因涼州亂,自號河首平漢王。太祖使淵帥諸將討建。淵至,圍枹罕,月餘拔之,斬建及所置丞相已下。
淵別遣張郃等平河關,渡河入小湟中,河西諸羌盡降,隴右平。
太祖下令曰:「宋建造為亂逆三十餘年,淵一舉滅之,虎步關右,所向無前。仲尼有言:'吾與爾不如也。'」二十一年,增封三百戶,並前八百戶。

はじめ枹罕の宋建は、涼州によって乱した。みずから河首平漢王を称した。曹操は、夏侯淵に諸将をひきいさせ、宋建を攻めた。夏侯淵は枹罕をかこんだ。1ヶ月余りで、枹罕をぬいた。宋建および、宋建がおいた丞相以下を斬った。
夏侯淵は、べつに張郃らをつかわし、河関を平らげた。黄河を渡り、小湟中に入った。河西にいる諸羌は、すべて夏侯淵に降った。隴右は平定された。
曹操は、令をくだした。「宋建が乱逆をなすこと、30余年。夏侯淵が、一挙に滅ぼした。隴右を攻めたら、向かうところ敵なし。孔子が云った。『私とお前は、あいつに及ばない』と。

ちくま訳によれば、「孔子と子貢は、顔回に及ばない」の意味らしい。

216年、夏侯淵は300戸を増やされ、あわせて800戸。

「魏志」張既伝:隴西の人口は、魏内に移住させよ

從征張魯,別從散關入討叛氐,收其麥以給軍食。魯降,既說太祖拔漢中民數萬戶以實長安及三輔。
其後與曹洪破吳蘭於下辯,又與夏侯淵宋建,別攻臨洮、狄道,平之。是時,太祖徙民以充河北,隴西、天水、南安民相恐動,擾擾不安,既假三郡人為將吏者休課,使治屋宅,作水碓,民心遂安。

張既は、張魯の征伐にしたがった。べつに散関から入り、そむいた氐族を討った。むぎを刈り取り、兵糧とした。張魯がくだった。張既は曹操に説いた。「漢中の民・数万戸をうつして、長安および三輔を実らせなさい」と。
のちに曹洪とともに、呉蘭を下弁でやぶった。夏侯淵とともに、宋建を討った。べつに臨洮と狄道を攻め、これを平らげた。このとき曹操は、民を河北にうつした。隴西、天水、南安の民は、恐れて動揺した。張既は、とりあえず3郡の軍人や官吏を休ませ、住宅などを修復させた。民の心は、ついに安んじた。

曹操の政策として、隴西を地理的に治めるのが、むずかしいと認識したのが分かる。土地がムリなら、せめて生産力である人口だけは、領土内に移したいと。


「魏志」諸葛誕伝:淮南の三叛とならぶ脅威

誕、欽屠戮,咨亦生禽,三叛皆獲,天下快焉。
傅子曰:宋建椎牛禱賽,終自焚滅。文欽日祠祭事天,斬於人手。諸葛誕夫婦聚會神巫,淫祀求福,伏屍淮南,舉族誅夷。此天下所共見,足為明鑒也。

諸葛誕と文欽は、司馬氏に殺された。唐咨は生捕られた。叛いた3人とも捕まった。天下は、快いことだとした。
『傅子』はいう。宋建は、牛を生贄にして祭ったが、最期はみずからを焼き滅ぼした。

牛を殺すことが、天子の祭りを意味するか。

文欽は天を祭ったが、人に斬られた。諸葛誕の夫婦は、神巫をあつめたが、淮南で族殺された。逆賊は、ろくな最期を迎えないという、よい手本である。

淮南の三叛は、魏にとって大きなピンチだ。淮南の三叛と同列に論じられるほど、宋建はジャマだったことが分かる。


「蜀志」周羣伝がひく『続漢書』:群雄のひとり

十七年十二月,星孛于五諸侯,群以為西方專據土地者皆將失土。是時,劉璋據益州,張魯據漢中,韓遂據涼州,宋建據枹罕。明年冬,曹公遣偏將擊涼州。十九年,獲宋建,韓遂逃於羌中,被殺。其年秋,璋失益州。

212年12月、星をみた周羣は「西方で土地を占拠している人は、みな領土を失うだろう」と予言した。このとき劉璋は益州にいた。張魯は漢中にいた。韓遂は涼州にいた。宋建は枹罕にいた。
213年冬、曹操は偏将軍を、涼州におくった。214年、宋建をとらえた。韓遂は、羌中に逃げて殺された。おなじ年の秋、劉璋は益州を失った。

宋建は、韓遂、劉璋、張魯と同列の群雄だと、認識されているのだろう。
満田剛『図解 三国志 群雄勢力マップ』で、宋建の国がずっと塗られている。史料的に、気のせいではなかった。笑


『後漢書』董卓伝:辺章と韓遂の乱、首謀者

中平元年,拜東中郎將,持節,代盧植擊張角於下曲陽,軍敗抵罪.其冬,北地先零羌及枹罕河關盜反叛,遂共立湟中義從胡北宮伯玉、李文侯為將軍,殺護羌校尉泠徵.伯玉等乃劫致金城人邊章、韓遂,[一]使專任軍政,共殺金城太守陳懿,攻燒州郡.

184年、董卓は東中郎將となった。持節。盧植に代わり、張角を下曲陽で攻めた。敗れて、罪をえた。
同年冬、北地の先零羌と、枹罕や河關の盗賊たちが、そむいた。ともに湟中義從胡の北宮伯玉を立てた。李文侯を將軍とした。護羌校尉の泠徵を殺した。伯玉らは、金城の邊章と韓遂をうばい、軍政をさせた。ともに金城太守の陳懿を殺し、州郡を焼いた。

獻帝春秋曰:「涼州義從宋建、王國等反.詐金城郡降,求見涼州大人故新安令邊允、從事韓約.約不見,太守陳懿勸之使往,國等便劫質約等數十人.金城亂,懿出,國等扶以到護羌營,殺之,而釋約、允等.隴西以愛憎露布,冠約、允名以為賊,州購約、允各千戶侯.約、允被購,『約』改為『遂』,『允』改為『章』.」

献帝春秋はいう。涼州義從の宋建と王國らが、叛いた。いつわって金城郡にくだった。涼州の大人で、もと新安令の邊允、從事の韓約に会いたいと求めた。韓約は会わなかった。
金城太守の陳懿は、韓約たちを行かせた。王国らは、韓約ら数十人を、人質にとった。金城郡は乱れた。陳懿は、金城郡から出た。王国らは、後漢の機関・護羌の軍営にゆき、これを殺した。だが宋建らは、邊允と韓約らをゆるした。隴西では、愛憎まじりで、邊允と韓約の名をかぶせ、賊だと公布した。金城郡は、邊允と韓約を買い戻した。韓約は韓遂と改め、邊允とは辺章と改めた。

宋建と王国が、漢室の外側から叛き、金城郡を襲った。韓遂や辺章を、現地の有力者(名士ともいわれる)だと見こんで、政治を任せようとした。
「辺章と韓遂の乱」と記録される戦いは、じつは宋建が起こした。


おわりに:韓遂よりシブトイ反乱者

史料は以上です。214年まで30余年だから、引き算すると、180年ごろから宋建は「漢を平らげる王」を自称したことになる。
『後漢書』董卓伝についた『献帝春秋』よれば、184年冬に金城郡を襲った。この数年前から、自立していたのかも知れない。

よく涼州の反乱の真&裏のリーダーが、韓遂だという人がいる。だがその韓遂を184年にラチし、カタギ(漢臣)の生活を辞めさせたのが、宋建と王国でした。
『後漢書』が記す北宮伯玉や李文侯は、一発屋だった。のち189年に、宋建とペアだった王国は皇甫嵩にやぶれて、韓遂らに廃された。しかし宋建は、韓遂とは並存?するかたちで、反乱をつづけた。反乱というよりは、すでに自立か。

韓遂と宋建は、おなじ金城郡の人。周羣が、韓遂と宋建をならべて云っている。拠点にすこし距離をおき、やんわり協調したのだろうか。

韓遂よりも、長い期間、しぶとく中原に抵抗したのが、宋建だった。

宋建よりも韓遂が有名なのは、馬超とからむから? 曹操がみずから戦ったから? 『三国演義』を待たずして、韓遂の優位が固まっていそうだ。しかし、自称した称号の高さからして、宋建が圧倒的に上である。王を名のったのに、長期間もちこたえた。ホンモノの証拠である。不相応な高位を名のったせいで、短期間でつぶれる人はおおい。笑
っていうか、韓遂は何を名のったのか知らない。僭称してないのか?


姜維が宋建を、先例と仰いだかは、分かりません。史料的な裏づけがないので。でも涼州が、中原に対抗できる地盤となることは、宋建からうかがうことができる。今回は「そういう人がいましたよ」と、関連史料を一覧して、確認できれば充分です。100817