表紙 > 考察 > 190年代の豫州は、やんわり袁術の支配領域

勢力地図を塗るときは、豫州を袁術の色に

リクエストを頂きましたので、考えます。
190年代の豫州は、だれが支配していたのか。

答えは「主君なし」だ。
しかし敢えていうなら、袁術の影響がつよい。
高島俊男『三国志 きらめく群像』をヒントに、これを言います。

豫州は、荒れてしまった

黄巾イレギュラーズ編『出身地でわかる 三国志の法則』によれば、豫州は中国文明発祥の地。禹の夏王朝は潁川郡からおきた。春秋戦国時代に、宋・楚、蔡・魏が入り乱れた。

この本はふざけた体裁だが、意外に面白い。古本で探してみてください。
1995年に光栄が出しています。

ぼくが勝手に例えるなら、豫州はスクランブル交差点である。

豫州の汝南郡と潁川郡は、名士の名産地だ。袁紹や曹操に仕えた、目ぼしい人材は、出身が豫州である。文化の先進地だから、人材の豊作ぶりは、なるほどと思う。
でも逆に、故郷で安穏としていられないから、あわてて天下国家を論じた人たちだとも云える。荀彧しかり。行動の動機は、いつでも現実的かも。笑


『三国志』荀彧伝にある。190年ごろ、荀彧がいう。

「潁川,四戰之地也,天下有變,常為兵衝,宜亟去之,無久留.」

訳します。この潁川郡は、四方から軍隊が行き来する土地です。天下にもし事変があれば、軍隊がここでぶつかる。早く立ち去るべきです。留まってはいけない。
荀彧の云うとおり豫州は、董卓と関東の諸侯がぶつかった。李傕や郭汜が、このあたりを滅ぼした。実権ある支配者がいなくなった。
190年代はじめ、豫州刺史は、袁術の任じた孫堅と、袁紹の任じた周昂の2人がいた。袁紹と袁術の対立が始まったのも、豫州からだ。

豫州刺史の郭貢は、袁術に任命された

同じく荀彧伝より。194年、陳宮が兗州で謀反した。

豫州刺史郭貢帥衆數萬來至城下,或言與呂布同謀,衆甚懼.

鄄城にいる荀彧に、豫州刺史の郭貢なる人が、駆けつける。郭貢は、荀彧に隙あらば、兗州を乗っ取ってしまうつもりだ。荀彧は勇気を見せて、郭貢を追いかえす。
この郭貢という人は『三国志』で、ここにしか登場しない。前後関係もなにも、あったものではない。分からない。

だが推測は可能だ。
郭貢を豫州刺史に任じたのは、袁術である。

はじめ袁術は、孫堅を豫州刺史にした。孫堅が戦死した。つぎに袁術は、孫賁に豫州刺史を継がせた。だが孫賁は、孫堅のひつぎを持って、呉郡に帰ってしまった。
孫賁伝:堅薨,賁攝帥餘眾,扶送靈柩。後袁術徙壽春,賁又依之。
のちに袁術が寿春に移ったとき、孫賁はふたたび袁術を頼った。つまり孫賁は、いちど袁術を退職したことが分かる。
袁術が孫賁の後任として、郭貢を豫州刺史に任命したのだろうね。


ぼくは陳宮の黒幕は、袁術だと思っている。
192年に袁術は、青州黄巾に刺史を殺された兗州を、取りにきた。だが曹操が、予想外にすばやく平定したから、袁術は兗州を取れなかった。匡亭で曹操に敗れた。
だが袁術は、兗州をあきらめない。
曹操の支配が安定しない兗州を、袁術は狙いつづけた。そのため、極秘に陳宮を動かした。
いま、陳宮が挙兵。郭貢は、曹操から兗州を奪いにきた。やや齟齬があるが(その齟齬を荀彧に見抜かれたのだが)郭貢は、陳宮と連動している。郭貢は、袁術のために動いている。と、ぼくは思います。

高島俊男氏が解けなかったナゾ

194年、劉備は陶謙から、豫州刺史にしてもらった。
高島氏の本を丸写しにします。
「劉備が豫州刺史になった興平元年には、郭貢という人が豫州刺史であったことは『荀彧伝』に見えている。

まさに、上でぼくが引用したところです。

その人が更迭されたわけでもなさそうだ。
そして先主伝に『謙先主主為豫州刺史』とあるところを見ると、陶謙は朝廷に申請し許可を得て劉備を豫州刺史にしたのらしい。このころの朝廷は長安に移り、李傕・郭汜が朝権を握っている。(中略)陶謙が、現任の豫州刺史が死んだのでもやめたのでもないのに、自分に身を寄せてきた男を豫州刺史にしてやるというのが、全然変なのである。

陶謙が死んだ。高島氏は、
「陶謙の部下の麋竺らが劉備に徐州牧になるようすすめると、劉備は自分はその任ではないと再三固辞したあと、やっと引き受けた。謙虚なのは結構だが、それなら豫州刺史の時になぜ遠慮しなかったのだろう。
と、ナゾを作ったまま、終わっている。

劉備が豫州牧を遠慮する理由は、袁術をはばかるから

高島氏のナゾを解きたい。
ぼくは陶謙は(失敗したにしろ)袁紹と袁術から独立する、野心を持っていたと思う。

陶謙は袁術に対抗するため、袁術の豫州刺史・郭貢に、劉備をぶつけた。重複して当然だ。っていうか、わざと重複させた。劉備が豫州刺史を引き受けたのは、陶謙の後ろ盾があったからだ。

だが陶謙が死んだ。すでに袁術と対抗する、武力も理由もない。
ぼくが劉備ならば、こう云う。
「陶謙さんに騙されて、豫州刺史を名乗っちゃった。袁術さま、ごめんなさい。陶謙が死んで、目が覚めました。豫州刺史は、郭貢さま以外にありません。私に豫州を治める資格など、ございません。それどころか、徐州も袁術さまが治めてください」
劉備が徐州を袁術に譲るというのは、史書にあることだ。豫州刺史の件で袁術と衝突し、気まずいから、過剰に謙虚なことを云った。

陳登や孔融が「いえいえ、袁術は墓場の骨。徐州は劉備さまが治めてくれ」と云った。劉備は支持され、認識を改めた。陶謙なしでも徐州で自立できると読み、徐州牧となった。袁紹にも袁術にも頼らないという意味で、劉備は、陶謙の戦略を継いだのだ。
ただし注意したい。劉備は徐州牧であって、豫州は放棄した。豫州は、袁術の任じた郭貢が、実質的に力を持っていたのだろう。

袁術は、南陽から寿春に移った。豫州は、南陽とも寿春ともつながっている。なにせスクランブル交差点だから。袁術が本拠地を移しても滅びなかったのは、豫州という支点&連結点があったから?


呂布と曹操が、劉備を豫州に任じた理由は?

劉備は読みが甘く、呂布に徐州を取られた。呂布は、袁術に兵糧をもらい損ねた。呂布は袁術を憎んだ。劉備が降伏してくると、呂布は徐州牧となり、劉備を豫州刺史に移し、ともに袁術を倒そうと云った。

「袁術にぶつけるため、劉備を豫州刺史にする」
呂布は、陶謙と同じことをした。豫州刺史・劉備は、袁術への当て馬だ。

高島氏は、
「やはり徐州牧の方が(豫州刺史より)ずっと値打ちがあるのである」
と書いてある。
高島氏は、呂布がジャイアニズムを発揮し、劉備から徐州牧を奪ったことをふまえて、指摘したのだろう。

文脈からして、それ以外に読めない。

ここでぼくは、高島氏の指摘に追加したい。
「徐州は実支配できる。豫州は袁術の勢力範囲で、実支配できない。だから徐州牧は、豫州刺史よりも、ずっと値打ちがあるのである」と。

さらに云えば、曹操は降伏してきた劉備を、豫州牧にした。やはり袁術にぶつけるためだ。

この時期の呂布は、陳宮が大きく動き、袁術に属している色が濃い。豫州の長官は、いつも袁術への当て馬だ。


汝南と潁川の黄巾賊は、だれに属すか

朝廷から官位をもらった人をトップに置かない集団は、「黄巾賊」と呼ばれる。汝南や潁川にいる黄巾たちは、半独立している。
しかし敢えて陣営を色分けするなら、袁術である。太祖武帝紀より。

汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,眾各數萬,初應袁術。

曹洪が献帝を迎えにいって、豫州の黄巾に邪魔された。黄巾らは、はじめは袁術に応じたと、きちんと陳寿が書いている。

官渡の戦いのときも、同じく太祖武帝紀に、こうある。

汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下。紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之。備走,遂破辟屯。

訳します。官渡のとき、汝南の劉辟は、袁紹に呼応した。劉備は袁紹から去り、汝南に入った。曹仁が、汝南の劉辟を破った。
いちおう確認しますと、袁術の死の直前は、対立の構図が変わった。
「袁紹+曹操 vs 袁術」から、
「曹操 vs 袁紹+袁術」に移行した。
官渡のとき袁術はすでに死んでいるが、変わらず豫州が、袁術の時代と同じ動きをしたことが確認できる。袁紹と応じている。
つまり、早く見積もっても袁術が死ぬまでは、豫州は袁術の勢力圏にあったと、云えるのではないかな。

勢力地図を塗るときは、豫州=袁術をお忘れなく。100516