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王莽/『中国人物列伝』より 1)王莽のカルチャー講座
今回も読書メモと考察です。
朝日カルチャーセンターが2002年に出版した、『中国人物列伝』の「第二講 王朝を潰した逆臣」より。宮宅潔氏が書かれた「新の王莽」を読みました。

◆1 放伐と禅譲
易姓革命には2種類ある。放伐と禅譲だ。
禅譲は、理想的な王朝の交代として、戦国時代ごろから提唱された。
あるとき、流行にかぶれた戦国の一諸侯が、お気に入りの家臣に位を譲ったことがあるが、混乱して侵入された。

王莽がやった禅譲は、最初で最後の実例である。最後というのは、曹丕への禅譲は、曹操が武力で勝ち取ったものだからだ。
王莽は、たぐいまれな有徳者じゃないが、イメージを創作した偽善者である。

◆2 前漢後半期の政治
武帝は70歳まで、55年の治世をやった。 武帝は死ぬとき、3人を抜擢して、8歳の昭帝を輔佐させようとした。
霍去病の弟で、武帝妃の一族である、霍光。
漢に投降した匈奴王の太子、金日磾。
怪力を持っていたから武帝に気に入られた、上官ケツ。
3人が共通して帯びていた官職は、「侍中」だ。禁中に入ることが許され、皇帝の近くに侍ることができる。

皇帝の権限が強まると、侍中が強まった。
昭帝が死んでも、霍光は中枢にあった。霍光の死後、霍氏は滅ぼされたが、外戚がメインで皇帝を補佐するスタイルは続いた。
王莽もまた、外戚出身である。

◆3 王莽をうんだもの―天人相関説
支配者が支配者たりうるのは、天命を受けているから。
この考え方は、殷から周に交代したときの産物だ。
「地上に降りた神」であるはずの殷王を殺すことを、正当化せねばならない。そこで、「天命を受けた人間が王だ」ということにした。
天命の在り処は移るんだから、天の機嫌を伺わねばならない。「天人相関説」が生まれた。

前77年、昭帝のとき、泰山の大石が自然に立ち上がった。『春秋』の学者が、
「石とは一般庶民のこと。泰山は、王朝の交代を、天に方向する場所。庶民から皇帝が生まれるという予兆だ」
と言ったから、死刑にされた。
だが漢への悲観は収まらず、成帝も哀帝も太子に恵まれなかった。
哀帝は、自ら認めた。
「ゼロから仕切りなおして、漢は天命を再び受けねばならん」

◆4 『漢書』王莽伝
『漢書』巻99に、王莽伝がある。実質的な最終巻だ。
巻98は外戚伝だ。巻98は、外戚の中から抜き出した元后伝だ。王莽の伯母の伝記である。次が、王莽伝。
後漢に仕える班固は、王莽政権を、
「外戚政治が引き起こした一時の悪夢
と見なし、外戚の歴史の中に紛れ込ませて、存在を貶めようと企んだ。

王莽伝では、人柄や言行が叮嚀に描写されている。王莽伝は、高祖本紀の2倍の分量に膨らんだ。いちいち、人品や政権の正当性に疑問を投げかける記述が、織り込まれている。
『漢書』は、班固ひとりの作品ではなく、班氏の合作だ。外戚伝と元后伝を分ける、王莽伝を末尾に立てる、というアイディアは、班固の父・班彪の発案かもしれない。
班彪の父である班チは、王莽と兄弟同然の付き合いをした。『漢書』に載っているエピソードは、等身大の王莽を伝えているかも知れない。
――いつもは謹厳な王莽が、たくさん女奴隷を買い込んだ。うわさを聞いた兄弟が、王莽をからかった。王莽は、言い訳をした。自分のために買ったんじゃない、子宝に恵まれぬ朱博将軍に差し上げようと思って、買ったんだ。と。

◆5 簒奪への道
王莽は、自らの地位が元后に支えられていると、心得ていた。元后への付け届けだけで、数千、数万銭に及んだ。
元后が政治に飽きていると感じ取り、高級官僚やその候補と接見する仕事を、自分に移した。王莽は、影響力を官界に浸透させた。

王莽は、劉邦が尭の後裔であるという伝説を、より定着させた。王莽は舜の子孫だと自分に位置づけた。
「尭の子孫は、舜の子孫に、いつかくらいを譲る」
五徳が説明する王朝循環史観によって、王莽は皇帝を継ぐ準備をした。
「われわれ現代人には理解できない理屈であるが、漢人にとってこの理屈はなじみ深いものだった」
と『中国人物列伝』は説明している。

◆6 理想にはしる王莽―新政策
本の中で、
「急激な理念先行の改革は、現実との間にひずみを生み出してしまう」
と解説される諸政策は、庶民や豪族の反発を買い、短命で政権が消滅する原因を作った。

◆7 王莽の死
度重なる制度の改廃に嫌気がさしたのか、大土地所有の進行によって土地を失った流民が怒りを爆発させたのか、赤眉の乱が起きた。
庶民の叛乱に呼応して、豪族も兵を挙げた。こちらは、大土地所有を禁じた王莽の政策への反発だろう。
200年続いた劉氏の威光は無視できず、末裔が旗印に担がれた。

王莽が禅譲を成功できた、理由は何か。
禅譲思想や漢王朝の行き詰まり感、「符命」による信望をたくみに利用して、劉氏から皇帝を取り上げることを正当化したからだろう。
だがこれらはイメージに過ぎず、実際の政治が問われる。政権を執ると、そこの浅さを曝け出して、玉座から転落した。

劉秀も「符命」を利用した。
未来は予測可能で、天界の動きや聖人の言葉に示されている。これが根強く存在する考えだった。
しかし、
王朝交代の法則や予言を尊重する態度を取り続ければ、第二の王莽が登場する可能性があった。だから後漢は、路線変更を狙う。
31年、後漢の祭祀制度が議論された。
「漢は尭の後裔だから、尭を祭るべきだ」
と皆が言ったが、杜林は反論した。
「すべての民が、漢を慕っています。これは漢自身が作り上げた徳であり、尭のおかげではありません。前漢をまねて(第二の王莽を招き)、世を混乱させるのは良くありません」
王莽の簒奪は過去のものとなり、曹丕は理想に従って禅譲の形をとったが、実際は放伐だった。第二の王莽は、生まれなかった。
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このコンテンツの目次
王莽/『中国人物列伝』より
1)王莽のカルチャー講座
2)第二の王莽はいない?