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(C)2007-2009 ひろお
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王莽/『中国人物列伝』より 2)第二の王莽はいない?
以上で要約は終わりです。お手軽でした。
『中国人物列伝』には、「カルチャーフロンティアシリーズ」という副題が付いている。社会人が土曜の午前に90分で授業を受けて、
「ふーん」
ちょっとした知識的満腹感を味わい、エレベータを降りると、ビルの1階には、高いランチを出す店があります。そこでは食わず、ドウチカを抜けるか、地下鉄の四つ橋線に乗るかして、梅田まで帰る・・・
なんでこんなことを書くかというと、大阪の肥後橋にある朝日カルチャーセンターで三国志の講義を聴いていたことがあるからです。この本は、同じビルで過去に行なわれた講義を記録したもののようです。

◆一回性のあたりまえ
講義(読書)の感想としては、、
「王莽の基本情報を知るには充分だが、読み物としては少し楽しくない」
です。
なぜなら著者は、
「王莽はこういう理由で、前例のないことをした。こういう理由で、後例は生まれなかった」
を結論としているからです。
人文科学の研究対象は一度きりのもので、自然科学のように実験が不可能だ。そんなことは、ずっと昔から知っています。
それでも敢えて、共通する法則とか、類似した反復を見つけて、あれこれ論じるのが楽しいんでしょうが!というのが、ぼくの持論です。

◆第二・第三の王莽
曹丕と王莽を、完璧に断絶させてしまった。これが、三国ファンとしてつまらない。
著者は、
「杜林は、後漢が尭を祭るのを辞めさせた。以降の時代、易姓革命や予言に振り回されることは、なくなった」
と言っています。本当か?
少なくともぼくが知っている後漢末の人たちは、天人相関説に基づき、予言を重視している。王莽のときと同じように見えますが。
杜林の進言があったことは、史料的現実なんだろうが、影響は限定して見積もってほしい。いくら著者が秦漢の研究者だからって、魏晋に目を背けて、秦漢だけでキレイにまとめてはいけない(笑)

どうやら著者は、
「軍事的な衝突にて、王朝が交代すれば禅譲ではない。主戦場が宮中の奥深くであったものが、禅譲である」
という基準を持っています。
言いたい。
「曹操が刃を向けた相手は、漢ではないはずでしたが・・・」
「司馬氏は、曹魏に放伐戦争をしかけていない」
曹操は武力で中原を再統一したが、漢を放伐するための闘争ではなかった。漢の復興というスローガンを鵜呑みにできないが、少なくとも、曹操が百戦した敵は漢じゃない。
曹操ではなく曹丕の戦いは、宮中の奥深くで行なわれた。推薦と辞退の繰り返しという駆け引きが、まさにそれです。
また、
魏晋革命のときも、司馬氏は曹氏を放伐する戦争をしていない。曹爽や曹髦は殺されたが、いわゆる戦争ではない。宮中での裏技みたいなもの。一瞬の出来事。
鍾会や毌丘倹や諸葛誕は、暴発しましたが、あれは臣下同士の派閥闘争だ。放伐ではない。それを言うなら、王莽だって政敵をガシガシと葬っているから、同レベルだ。翟義の叛乱なんて、最たるものだ。
王莽と同じように、曹丕も司馬炎も、帝位が移る場面は、極めて平和だった。

◆結論
曹丕と司馬炎は、第二・第三の王莽である。
そう仮定して、『中国人物列伝』が描いた王莽と比べてみます。

◆王莽と、曹丕・司馬炎の類似
王莽が初めての簒奪に成功した要因として、
1)五徳や神話に基づく禅譲思想
2)漢王朝の行き詰まり感
3)「符命」による予言への信望
があがっています。魏晋の例を見てみましょう。

1)禅譲思想
魏でも晋でも、生きています! 魏は火徳を嗣ぐものとして、土徳を自認した。晋は土徳を嗣ぐものとして、金徳を主張した。王莽のときに、相克説によるサイクルを固めてくれたおかげで、シンボルカラーを決めるときに、迷わなかった。
また、尭・舜・禹のバトンタッチが、やたらと文献に登場する。
「儀式として形骸化した」
と評価することもできるが、、わざわざ神話を持ち出さないと、君主自身も世論も納得しなかったんだから、王莽のときの禅譲思想が消えたとは思われない。

2)前王朝の行き詰まり感
言うまでもなく、魏でも晋でもあったでしょう。
後漢はすでに滅びたも同然だった。行き詰った「感」というレベルの話ではない。
魏は、曹叡や曹芳のときに、老荘思想の研究が盛んになった。天下を半ば諦めて、もしくは鼎立の現状を甘受し、曹爽政権が守りに入っていた証拠だ。名士がこぞって魏から晋にスライドしたのは、行き詰まり感があった証拠だ。

3)符命による予言
『三国志』や『晋書』の本紀を読めば、不思議現象だらけだ。いちいち調べて統計はしていないが、王莽のときと同じ。

◆まとめ
『中国人物列伝』は、王莽の特徴を3つに絞って言語化してくれました。これは、王莽を知るツールとしては、とても有用でした。
著者が用意してくれたツールを使い、曹丕と司馬炎のケースを検討してみたところ、
「王莽が作った禅譲という政治的行為は、曹丕にも司馬炎にも継承された。一度きりで終わらなかった」
ということが、著者の結論とは逆ですが、判明しました。

朝日カルチャーセンターで聞いていたら、授業後に先生のところまで言って、質問をしたのになあ。
2000年の開講時は、愛知で高校生をしてたから、地理的に参加できず、知識的に参加してもしかたがなかったが。090627
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このコンテンツの目次
王莽/『中国人物列伝』より
1)王莽のカルチャー講座
2)第二の王莽はいない?