孟嘗、第五訪、劉矩、劉寵、仇覧、童恢伝
吉川版で、循吏伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
合浦太守となり、真珠の貿易を指導、孟嘗伝
孟嘗は、あざなを伯周という。會稽の上虞の人だ。先祖は3世、郡吏となる。3世とも、節度に殉じた死んだ。孟嘗は、郡に仕えて、戸曹史となる。
会稽が、2年日照した。会稽太守の殷丹は、孟嘗に理由を聞いた。孟嘗は答えた。「姑を介護して、寿命まで見とった嫁がいた。嫁は遺族から、姑を毒殺したと、冤罪をかけられた。だから日照します」と。
殷丹は、判決を修正した。雨が降って、穀物は実った。
以病自上,被征當還,吏民攀車請之。嘗既不得進,乃載鄉民船夜遁去。隱處窮澤,身自耕傭。鄰縣士民慕其德,就居止者百餘家。
のちに孟嘗は、孝廉、茂才にあげられ、徐県(盱眙の北)の県令となる。合浦太守となり、真珠の乱獲をやめさせた。合浦で、ふたたび真珠がとれるようになった。孟嘗は「神明」と言われた。
病気だと言い、合浦から去る。士民に慕われ、100余家がついてくる。
嘗竟不見用。年七十,卒於家。
桓帝のとき、尚書する同郡(会稽)の楊喬が上書した。
孟嘗は、ついに桓帝から用いられず。70歳、在家で死んだ。
官庫を独断で開き、順帝にほめられた第五訪伝
第五訪は、あざなを仲謀という。京兆の長陵の人だ。司空・第五倫の族孫だ。
孤児でまずしい。小作して、兄と兄嫁を養う。郡の功曹となる。孝廉にあがる。新都の県令となる。政治がよいので、隣県から人があつまり、戸数が10倍になる。
遷南陽太守,去官。拜護羌校尉,邊境服其威信。卒於官。
第五訪は、張掖太守にうつる。飢饉で、穀物がインフレ。公庫を開く。「許可を待っていれば、民は飢える。私・第五訪の判断で、公庫を開こう」と。順帝は、第五訪をほめた。盗賊がいない。
南陽太守にうつり、退職。護羌校尉となり、辺境をしずめる。在官で死ぬ。
黄瓊、种暠とともに桓帝を輔政した、三公の劉矩
稍遷雍丘令,以禮讓化之,其無孝義者,皆感悟自革。民有爭訟,矩常引之於前,提耳訓告,以為忿恚可忍,縣官不可入,使歸更尋思。訟者感之,輒各罷去。其有路得遺者,皆推尋其主。在縣四年,以母憂去官。
劉矩は、あざなを叔方という。沛國の蕭県の人だ。叔父の劉光は、順帝のとき司徒。劉詡は、父の劉叔遼が昇進しないので、州郡の命をことわる。太尉の朱寵、太傅の桓焉は、劉詡の志義をよみした。ゆえに父を三公府に辟し、議郎とした。劉矩を孝廉にあげた。
劉矩とは、デスノートの死神である。みんなが気づいてるか。
劉矩は、雍丘の県令となる。県官を入れず、みずから紛争を解決した。落し物は、持ち主を探した。4年つとめ、母が死んだので退職した。
のちに太尉の胡廣は、劉矩を賢良方正にあげた。4たび遷り、尚書令となる。貴勢におもねらず。大將軍の梁冀の気持ちをそこね、常山相となる。病気で去官。ときに梁冀の妻の兄・孫祉は、沛相となる。劉矩は、殺されるのを懼れ、彭城にいる友人の家にかくれた。
1年余、梁冀がゆるした。劉矩は、從事中郎、尚書令、宗正、太常。
靈帝初,代周景為太尉。矩再為上公,所辟召皆名儒宿德。不與州郡交通。順辭默諫,多見省用。複以日食免。因乞骸骨,卒於家。
延熹四年(161)、劉矩は、黃瓊に代わって太尉となる。黄瓊は、司空となる。劉矩と黄瓊は、司徒の种暠とともに、輔政した。「賢相」と言われた。
災異がつづき、司隷校尉は三公を劾めた。尚書の朱穆が上疏した。劉矩らを「良輔」とした。桓帝は分かってくれない。蛮夷が叛くので、劉矩は免じられた。太中大夫となる。
靈帝の初め、周景に代わって、太尉となる。名儒をあつめる。州郡の長官と、交通せず。日食で免じられ、引退した。在家で死んだ。
黄瓊、王暢にかわり、三公となった劉寵伝
劉寵は、あざなを祖榮という。東萊の牟平の人。高帝の子・劉肥の後裔だ。父の劉丕は、博学で「通儒」と言われた。
劉寵は、明經だから孝廉にあげられ、東平陵(済南)の県令となる。母が死んだが、民が帰してくれない。
4たび遷り、豫章太守となる。3たび遷り、会稽太守となる。山間から、人が出てきた。「郡朝を知らず」と。劉寵は帰るとき、餞別に1銭をもらう。
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寵前後曆宰二郡,累登卿相,而清約省素,家無貨積。嘗出京師,欲息亭舍,亭吏止之,曰:「整頓灑埽,以待劉公,不可得止。」寵無言而去,時人稱其長者。以老病卒於家。
宗正、大鴻臚。延熹四年(161)、黄瓊に代わり、司空となる。濃霧で陽気がくるい、罷免。將作大匠、宗正。建甯元年(168)、王暢に代わり、司空となる。しきりに司徒、太尉をやる。二年(169)、日食で免じられ、帰郷。
豫章と会稽の太守をやり、三公と九卿をやる。だが清約で省素だ。財貨がない。劉寵は、亭舍(宿場)の役人に、本人だと気づかれず。「私は劉公を待ってる。きたない爺さんは、消えろ」と。老病となり、在家で死んだ。
興平中,繇為楊州牧、振威將軍。時袁術據淮南,繇乃移居曲阿。值中國喪亂,士友多南奔,繇攜接收養,與同優劇,甚得名稱。袁術遣孫策攻破繇,因奔豫章,病卒。
劉寵の弟は、劉方。山陽太守となる。劉方には、2子あり。劉岱、あざな公山。劉繇、あざな正禮。
董卓が洛陽に入ると、劉岱は侍中から兗州刺史へ。士人がなつく。初平三年(192)、劉岱は東平で、青州黄巾に殺された。任城相の鄭遂も死んだ。
興平中(194-195)、劉繇は楊州牧、振威將軍となる。袁術が淮南にいるから、曲阿にうつる。士友は、おおく南奔する。孫策に破られ、豫章で病死した。
郭泰と符融をへりくだらせた、仇覧
仇覽は、ざなを季智という。一名は香。除留の考城の人だ。純粋で科目だから、誰にも知られず。40歳で、県の補史、蒲亭(考城)の亭長となる。着任すると、産業と法律と教育の面倒をみる。
蒲亭に、陳元という人がいた。母が、息子の不孝を訴えた。仲なおりさせた。
ときに考城の県令する河內の王渙は、政治のスタンスが嚴猛だ。仇覧を主簿にした。王渙は言った。「太学の学生より、仇覧のほうがすぐれている」と。
仇覧は、太学に入った。同郡の符融は、名声がある。しかし仇覧は、符融と話さない。符融は、仇覧に口をきかない理由を聞いた。「天子が太学をつくったのは、学生に雑談させるためでない」と。
のちに符融は、郭泰につげた。郭泰と符融は、仇覧に会いにくる。仇覧は、会わない。郭泰は嗟嘆して、床におりて、仇覧と会った。
郭泰を、へりくだらせた。仇覧、就職は40歳だが、すごいぞ。
三子皆有文史才,少子玄,最知名。
仇覧は太学をおえ、郷里にもどる。州郡に応じない。妻子に過失があると、たがいに謝りあった。家人は、仇覧の喜怒を見ない。のちに方正にあがるが、病死した。
子が3人。みな文史の才能あり。末子の仇玄が有名。
司徒の楊賜の属吏、ひとり楊賜を弁護する童恢
恢少仕州郡為吏,司徒楊賜聞其執法廉平,乃辟之。乃賜被劾當免,掾屬悉投刺去,恢獨詣闕爭之。乃得理,掾屬悉歸府,恢杖策而逝。由是論者歸美。
童恢は、あざなを漢宗という。琅邪の姑幕の人だ。父の童仲玉は、飢饉にあり、財産を投げて救済した。九族や郷里の人は、100人が生き延びた。父の童仲玉は、早くに死んだ。
童恢は、州郡の吏となる。司徒の楊賜は、童恢が法を廉平につかうと聞き、辟した。楊賜が弾劾されると、属官は辞表を出して去った。だが童恢は、楊賜の弾劾について、訴訟した。楊賜の弾劾がやみ、掾属が楊賜にもどった。童恢は、ツエをついて去った。ほめられた。
ふたたび三公府に辟され、不其令となる。賞罰きっちり。虎を2匹、生け捕った。殺人した虎の罪を裁いた。青州は童恢を、尤異(治績が優秀)にあげた。丹楊太守にうつる。にわかに病死した。
童恢の弟は、あざなを漢文という。童恢より名声があり、先に三公府に辟された。ものが言えないふりをして、就かず。孝廉にあがり、須昌長となる。生前に、碑文を立てられた。舉將(自分を孝廉にあげた人)が死んだと聞き、官位をすえた。茂才にあがり、就かず。在家で死んだ。
循吏伝、おわった。後半、眠気と戦い、意地だった。110426