表紙 > 漢文和訳 > 袁術にからむ人の列伝を、拾って注釈しておく

01) 陸康、陸績、臧旻

袁術に派生して、『後漢書』を斜め読み。
翻訳でなくてごめんなさい。

陸康伝をチェック

陸康字季寧,吳郡吳人也。祖父續,在獨行傳。父襃,有志操,連徵不至。

祖父の陸続は、独行伝へ飛べと。面倒な人たちだ。

康少仕郡,以義烈稱,刺史臧旻舉為茂才,除高成令。

陸康を見出した、揚州刺史の臧旻は、絶対にチェック。

高成,縣,屬渤海郡也。
縣在邊垂,舊制,令戶一人具弓弩以備不虞,不得行來。
行來猶往來也。
長吏新到,輒發民繕修城郭。康至,皆罷遣,百姓大悅。以恩信為治,寇盜亦息,州郡表上其狀。光和元年,遷武陵太守,轉守桂陽、樂安二郡,所在稱之。

よき地方官。光和元年=178年。霊帝のとき。


時靈帝欲鑄銅人,而國用不足,乃詔調民田,畝斂十錢。而比水旱傷稼,百姓貧苦。康上疏諫曰:「臣聞先王治世,貴在愛民。(中略)陛下宜留神省察,改敝從善,以塞兆民怨恨之望。」

霊帝の贅沢をいさめました。

書奏,內倖因此譖康援引亡國,以譬聖明,大不敬,檻車徵詣廷尉。侍御史劉岱典考其事,岱為表陳解釋,免歸田里。復徵拜議郎。

正しいことを言うと罰せられる。劉岱に助けられたが。
侍御史の劉岱って、誰だろう。劉繇の兄弟かなあ。


會廬江賊黃穰等與江夏蠻連結十餘萬人,攻沒四縣,拜康廬江太守。

反乱討伐のため、廬江太守になった!

康申明賞罰,擊破穰等,餘黨悉降。帝嘉其功,拜康孫尚為郎中。獻帝即位,天下大亂,康蒙險遣孝廉計吏奉貢朝廷,詔書策勞,加忠義將軍,秩中二千石。
時袁術屯兵壽春,部曲飢餓,遣使求委輸兵甲。康以其叛逆,閉門不通,內修戰備,將以禦之。

寿春の袁術は、反逆してるから、物資供給を断った。

術大怒,遣其將孫策攻康,圍城數重。康固守,吏士有先受休假者,皆遁伏還赴,暮夜緣城而入。受敵二年,城陷。月餘,發病卒,年七十。宗族百餘人,遭離飢戹,死者將半。朝廷愍其守節,拜子儁為郎中。

袁術に2年も城を囲まれて、死んだ。195年没。

陸績伝は、三国志を参照せよと

少子績,仕吳為鬱林太守,博學善政,見稱當時。

『三国志』にも列伝が立っています。

幼年曾謁袁術,懷橘墯地者也,有名稱。
績字公紀,吳志有傳。

陸康の祖父、陸続伝(独行伝)

陸續字智初,會稽吳人也。世為族姓。祖父閎,字子春,建武中為尚書令。美姿貌,喜著越布單衣,光武見而好之,自是常勑會稽郡獻越布。

陸氏が、光武帝に始まることが分かりました。珍品を献上するくらいだから、中国人でなく、周辺が帰順したと見なされたかも。

續幼孤,仕郡戶曹史。時歲荒民飢,時歲荒民飢。太守尹興使續於都亭賦民饘粥。

会稽太守の尹興が、恩人です。

續悉簡閱其民,訊以名氏。事畢,興問所食幾何?續因口說六百餘人,皆分別姓字,皆分別姓字,無有差謬。興異之,刺史行部,見續,辟為別駕從事。以病去,還為郡門下掾。

食糧不足に対策した人です。


是時楚王英謀反,陰疏天下善士,及楚事覺,顯宗得其錄,有尹興名,乃徵興詣廷尉獄。續與主簿梁宏、功曹史駟勳及掾史五百餘人詣洛陽詔獄就考,諸吏不堪痛楚,死者大半,唯續、宏、勳掠考五毒,肌肉消爛,終無異辭。

楚王の劉英に連座した。拷問を受けても、言い分を変えなかった。

續母遠至京師,覘候消息,獄事特急,無緣與續相聞,母但作饋食,付門卒以進之。續雖見考苦毒,而辭色慷慨,未嘗易容,唯對食悲泣,不能自勝。使者怪而問其故。續曰:「母來不得相見,故泣耳。」

「獄中にいるから、母に会えずに悲しいだけだ」

使者大怒,以為門卒通傳意氣,以為門卒通傳意氣。召將案之。續曰:「因食餉羹,識母所自調和,故知來耳,非人告也。」
使者問:「何以知母所作乎?」續曰:「母嘗截肉未嘗不方,母嘗截肉未嘗不方。斷葱以寸為度,是以知之。」使者問諸謁舍,續母果來,於是陰嘉之,上書說續行狀。

「料理を見れば、母の手作りだと分かる。誰かが私に、母が尋ねてきたことを、告げたのではありません」

帝即赦興等事,帝即赦興等事。還鄉里,禁錮終身。續以老病卒。

陸続は「独行」というより、ただのマザコンではないか。

長子稠,廣陵太守,有理名。中子逢,樂安太守。少子襃,力行好學,不慕榮名,連徵不就。襃子康,已見前傳。

臧旻について

熹平元年(172年)霊帝紀
十一月,會稽人許生自稱「越王」,會稽人許生自稱越王。寇郡縣。
[一]東觀記曰:「會稽許昭聚眾自稱大將軍,會稽許昭聚眾自稱大將軍。
立父生為越王,攻破郡縣。」遣楊州刺史臧旻、丹陽太守陳寅討破之。

『三国志』にも登場する、許昌もしくは許生の反乱。


熹平3年(175年)霊帝紀
十一月,楊州刺史臧旻率丹陽太守陳寅,大破許生於會稽,斬之。

2年越しで、平定に成功しました。


熹平6年(178年)霊帝紀
八月,遣破鮮卑中郎將田晏出雲中,使匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門,護烏桓校尉夏育出高柳,並伐鮮卑,晏等大敗。

并州から、烏丸や鮮卑を討伐。
『後漢書』や『三国志』の異民族の列伝にも登場します。


第五種伝より。
種匿於閭、甄氏數年,徐州從事臧旻上書訟之曰:「臣聞士有忍死之辱,必有就事之計,(以下略)」

他人を弾劾する、正義感?の強いキャラだったようで。


『三国志』孫堅伝より。
堅以郡司馬募召精勇,得千餘人,與州郡合討破之。是歲,熹平元年也。刺史臧旻列上功狀,詔書除堅鹽瀆丞,數歲徙盱眙丞,又徙下邳丞。

陸康を引っ張りあげた臧旻は、孫堅も引っ張った。
三国時代のゼロ世代目、揚州の親分みたいな人。