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03) 陳球、鄭太、何顒

袁術に派生して、『後漢書』を斜め読み。
翻訳でなくてごめんなさい。

袁術を見限り、袁紹に味方した下邳の陳氏

陳球字伯真,下邳淮浦人也。曆世著名。父F131,廣漢太守。球少涉儒學,善律令。陽嘉中,舉孝廉,稍遷繁陽令。時魏郡太守諷縣求納貨賄,球不與之,太守怒而撾督郵,欲令逐球。督郵不肯,曰:「魏郡十五城,獨繁陽有異政,今受命逐之,將致議於天下矣。」太守乃止。

陽嘉は、132年から135年。賄賂にくみせず。


復辟公府,舉高第,拜侍御史。是時,桂陽黠賊李研等群聚寇抄,陸梁荊部,州郡懦弱,不能禁,太尉楊秉表球為零陵太守。球到,設方略,期月間,賊虜消散。

零陵太守として、反乱を鎮圧。

而州兵朱蓋等反,與桂陽賊胡蘭數萬人轉攻零陵。零陵下濕,編木為城,不可守備,郡中惶恐。掾史白遣家避難,
球怒曰:「太守分國虎符,受任一邦,豈顧妻孥而沮國威重乎?複言者斬!」乃悉內吏人老弱,與共城守,弦大木為弓,羽矛為矢,引機發之,遠射千余步,多所殺傷。賊複激流灌城,球輒於內因地勢反決水淹賊。相拒十餘日,不能下。會中郎將度尚將救兵至,球募士卒,與尚共破斬朱蓋等。賜錢五十萬,拜子一人為郎。遷魏郡太守。

果敢に、フロンティアの賊をうつ。


征拜將作大匠,作桓帝陵園,所省巨萬以上。遷南陽太守,以糾舉豪古,為勢家所謗,征詣廷尉抵罪。會赦,歸家。

征拜廷尉。熹平元年,竇太后崩。太后本遷南宮雲台,宦者積怨竇氏,遂以衣車載後屍,置城南市舍數日。

竇武が宦官に殺されたときのこと。

中常侍曹節、王甫欲用貴人禮殯,帝曰:「太后親立朕躬,統承大業。《詩》雲:'無德不報,無言不酬。'豈宜以貴人終乎?」於是發喪成禮。及將葬,節等複欲別葬太后,而以馮貴人配礻付。詔公卿大會朝堂,令中常侍趙忠監議。太尉李咸時病,乃扶輿而起,搗椒自隨,謂妻子曰:「若皇太后不得配食桓帝,吾不生還矣。」既議,坐者數百人,各瞻望中官,良久莫肯先言。趙忠曰:「議當時定。」怪公卿以下各相顧望。球曰:「皇太后以盛德良家,母臨天下,宜配先帝,是無所疑。」忠笑而言曰:「陳廷尉宜便操筆。」球即下議曰:「皇太后自在椒房,有聰明母儀之德。遭時不造,援立聖明,承繼宗廟,功烈至重。先帝晏駕,因遇大獄,遷居空宮,不幸早世,家雖獲罪,事非太后。今若別葬,誠先天下之望。且馮貴人塚墓被發,骸骨暴露,與賊並屍,魂靈污染,且無功于國,何宜上配至尊?」忠省球議,作色俯仰,蚩球曰:「陳廷尉建此議甚健!」球曰:「陳、竇既冤,皇太后無故幽閉,臣常痛心,天下憤歎。今日言之,退而受罪,宿昔之願。」公卿以下,皆從球議。

宦官と対決した。袁紹や袁術たちと、同意見っぽいが。


李鹹始不敢先發,見球辭正,然後大言曰:「臣本謂宜爾,誠與臣意合。」會者皆為之愧。曹節、王甫複爭,以為梁後家犯惡逆,雖葬懿陵,武帝黜廢衛後,而以李夫人配食。今竇氏罪深,豈得合葬先帝乎?李咸乃詣闕上疏曰:「臣伏惟章德竇後虐害恭懷,安思閻後家犯惡逆,而和帝無異葬之議,順朝無貶降之文。至於衛後,孝武皇帝身所廢棄,不可以為比。今長樂太后尊號在身,親嘗稱制,坤育天下,且授立聖明,光隆皇祚。太后以陛下為子,陛下豈得不以太后為母?子無黜母,臣無貶君,宜合葬宣陵,一如舊制。」帝省奏,謂曹節等曰:「竇氏雖為不道,而太后有德于朕,不宜降黜。」節等無複言,於是議者乃定。咸字元貞,汝南人。累經洲郡,以廉幹知名,在朝清忠,權幸憚之。

六年,遷球司空,以地震免。

徐州で袁術に反発した陳氏たちは、三公の家柄だった。

拜光祿大夫,複為廷尉、太常。光和元年,遷太尉,數月,以日食免。複拜光祿大夫。明年,為永樂少府,乃潛與司徒河間劉郃謀誅宦官。

初,郃兄侍中B34A,與大將軍竇武同謀俱死,故郃與球相結。事未及發,球複以書勸郃曰:「公出自宗室,位登臺鼎,天下瞻望,社稷鎮衛,豈得雷同容容無違而已?今曹節等放縱為害,而久在左右,又公兄侍中受害節等,永樂太后所親知也。今可表徙衛尉陽球為司隸校尉,以次收節等誅之。政出聖主,天下太平,可翹足而待也。」又,尚書劉納以正直忤宦官,出為步兵校尉,亦深勸於郃。郃曰:「凶豎多耳目,恐事未會,先受其禍。」納曰:「公為國棟樑,傾危不持,焉用彼相邪?」郃許諾,亦結謀陽球。

球小妻,程璜之女,璜用事宮中,所謂程大人也。節等頗得聞知,乃重賂於璜,且脅之。璜懼迫,以球謀告節,節因共白帝曰:「郃等常與籓國交通,有惡意。數稱永樂聲勢,受取狼籍。步兵校尉劉納及永樂少府陳球、衛尉陽球交通書疏,謀議不軌。」帝大怒,策免郃,郃與球及劉納、陽球皆下獄死。球時年六十二。

宦官の権力争いにハメられ、陳球は殺された。

子瑀,吳郡太守;瑀弟琮,汝陰太守;弟子珪,沛相;珪子登,廣陵太守:並知名。

陳瑀は袁術に取り立てられながら、袁術の揚州入りを拒んだ。陳珪と陳登は、呂布をそそのかして、徐州を曹操に献上した。
袁術は、陳氏は三公の家柄で、宦官の敵だから、味方だと思っただろう。だから陳瑀を揚州に推薦したし、徐州にいる陳珪たちを、片付けられなかった。だが陳氏は、袁紹ないしは、その手下の曹操を支持した。袁術とは敵対。あくまで後漢の忠臣だった。

董卓に追われて、袁術を頼った鄭太

鄭太は『後漢書』で、孔融と荀彧と3人で、列伝第60を構成しています。董卓を自滅させたから、功績が大きく見積もられたのでしょう。

鄭太字公業,河南開封人,司農眾之曾孫也。

鄭衆の曾孫らしい。

少有少略。靈帝末,知天下將亂,陰交結豪傑。家富於財,有田四百頃,而食常不足,名聞山東。

初,舉孝廉,三府辟,公車征,皆不就。及大將軍何進輔政,徵用名士,以公業為尚書待郎,遷待禦史。進將誅閹官,欲召並州牧董卓為助。
公業謂進曰:「董卓強忍寡義,志欲無CA75。若借之朝政,授以大事。將恣凶欲,必危朝廷。明公以親德之重,據阿衡之權,秉意獨斷,誅除有罪,誠不宜假卓以為資援也。且事留變生,殷鑒不遠。」又為陳時務之所急數事。進不能用,乃棄官去。謂潁川人荀攸曰:「何公未易輔也。」

鄭太と荀攸は、何進を助けられないと思った。はあ。


進尋見害,卓果作亂。公業等與侍中伍瓊、卓長史何顒共說卓,以袁紹為勃海太守,以發山東之謀。及義兵起,卓乃會公卿議,大發卒討之,群僚莫敢忤旨。公業恐其眾多益橫,凶強難制,獨曰:「夫政在德,不在眾也。」卓不悅,曰:「如卿此言,兵為無用邪?」

董卓に対抗するため、諸侯を関東に封じさせた。

公業懼,乃詭詞更對曰:

非謂無用,以為山東不足加大兵耳。如有不信,試為明公略陳其要。今山東合謀,州郡連結,人庶相動,非不強盛,然光武以來,中國無警,百姓優逸,忘戰日久。仲尼有言:「不教人戰,是謂棄之。」其眾雖多,不能為害。一也。
明公出自西洲,少為國將,閑習軍事,數踐戰場,名振當世,人懷懾服。二也。
袁本初公卿子弟,生處京師。張孟卓東平長者,坐不窺堂。孔公緒清談高論,噓枯吹生。並無軍旅之才,執銳之幹,臨鋒決敵,非公之儔。三也。
山東之士,素乏精悍。未有勇賁之勇,慶忌之捷,聊城之守,良、平之謀,可任以偏師,責以成功。四也。

董卓にいつわりに味方し、関東への対策をのべる。対策は10まであります。ぼくは4までしか載せていませんが。


卓乃悅,以公業為將軍,使統諸軍討擊關東。或說卓曰:「鄭公業智略過人,而結謀外寇,今資之士馬,就其黨與,竊為明公懼之。」卓乃收還其兵,留拜議郎。

鄭太は誰かの妨害で、兵を与えられなかった。まあ、董卓を滅ぼす気でいるんだから、その判断は、董卓のためには正しい。

卓既遷都長安,天下饑亂,士大夫多不得其命。而公業家有餘資,日引賓客高會倡樂,所贍救者甚眾。乃與何顒、荀攸共謀殺卓。事泄,顒等被執,公業脫身自武關走,東歸袁術。術上以為楊州刺。未至官,道卒,年四十一。

袁術を頼って逃げ、途中で死んでしまった。袁術は鄭太を、揚州刺史にしようとした。


袁術をボイコットし、袁紹に協力した何顒

何顒字伯求,南陽襄鄉人也。少遊學洛陽。顒雖後進,而郭林宗、賈偉節等與之相好,顯名太學。友人虞偉高有父仇未報,而篤病將終,顒往候之,偉高泣而訴。顒感其義,為復仇,以頭DD3C其墓。

陳蕃、李膺之敗,顒以與蕃、膺善,遂為宦官所陷,乃變姓名,亡匿汝南間。所至皆親其豪桀,有聲荊豫之域。
袁紹慕之,私與往來,結為奔走之友。

袁紹と、すごく仲がよい。

是時,黨事起,天下多離其難,顒常私入洛陽,從紹計議。其窮困閉厄者,為求援救,以濟其患。有被掩捕者,則廣設權計,使得逃隱,全免者甚眾。

及黨錮解,顒辟司空府。每三府會議,莫不推顒之長。累遷。及董卓秉政,逼顒以為長史,托疾不就,乃與司空荀爽、司徒王允等共謀卓。

董卓を殺そうとした。袁術は、董卓暗殺チームの名士と、どうも仲がよくない。人柄もあろうが、天下のビジョンが違ったのでは。董卓を倒して世直しするのでなく、もう革命をやるべきときだな、と。

會爽薨,顒以他事為卓所系,憂憤而卒。
初,顒見曹操,歎曰:「漢家將亡,安天下者必此人也。」操以是嘉之。嘗稱「潁川荀彧,王佐之器」。及彧為尚書令,遣人西迎叔父爽,並致顒屍,而葬之爽之塚傍。

曹操と荀彧を評価した。袁紹派閥の人材を、充実させることに寄与した。
荀彧は曹操をリードしているが、初めは、袁紹からレンタルされた軍師だったのかも知れない。荀彧が袁紹を見限ったのは、もう少し後かな。
荀彧は張邈が反乱したとき、袁紹の勢力圏を減らさないために、防いだ。


どうしようもないメモですが、まずはこれまで。100428