表紙 > ~後漢 > 建安六~十二年(201-207) 武帝紀と袁紹伝で、曹操の北伐を集解

01) 201-202、袁紹の死

曹操の河北平定(建安六年~建安十二年)の史料を、網羅します。
『三国志』武帝紀と、『三国志』袁紹伝のつづき。
『三国志』本文はミドリ、裴注はアオ、『後漢書』はムラサキです。色がおおくて、「つくった本人しか、便利につかえない」かも知れません。あ、それはイツモか。

建安六年(201) 袁紹が倉亭でやぶれ、冀州回復

六年夏四月,揚兵河上,擊紹倉亭軍,破之。紹歸,複收散卒,攻定諸叛郡縣。九月,公還許。

建安六年(二〇一)夏四月、曹操は黄河をのぼり、袁紹を倉亭で破った。

胡三省はいう。けだし袁紹軍は、倉亭津に屯した。
『三国志』程昱伝はいう。程昱は、別騎をやり、倉亭津を絶った。陳宮は、倉亭津をわたれず。ぼくは補う。陳宮が兗州で、曹操に反したときの話だ。

袁紹は鄴県にかえる。袁紹は、散った兵をあつめ、郡県を平定した。

『三国志』紹伝曰:冀州城邑多叛,紹複擊定之。冀州の城邑は、おおく袁紹に叛した。ふたたび袁紹は、平定した。

九月、曹操は、許県にかえる。

何焯はいう。袁紹は、領地が広く、兵数が多い。謀議の士が、多くつく。袁紹は曹操に破られたが、まだ曹操に奪われない。ゆえに曹操は許県に帰って、時機を待った。劉備に背後を突かれたので、曹操は全力で、河北の袁紹を攻められない。


紹之未破也,使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,為都所破。公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。

袁紹は、いまだ破れず。袁紹は劉備に、汝南を攻略させた。汝南の賊・共都は、劉備に応じた。

銭大昕はいう。『三国志』先主伝は、龔都とする。古字で、通じる。

劉備は、曹操が自らきたと聞き、劉表をたよって逃げた。共都らは、散った。

建安七年(202) 袁紹が死に、袁譚が追い出される

七年春正月,公軍譙,令曰:「吾起義兵,為天下除暴亂。舊土人民,死喪略盡,國中終日行,不見所識,使吾悽愴傷懷。其舉義兵已來,將士絕無後者,求其親戚以後之,授土田,官給耕牛,置學師以教之。為存者立廟,使祀其先人,魂而有靈,吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀,治睢陽渠,遣使乙太牢祀橋玄。

春正月、曹操は譙県に進軍した。曹操は令した。「私が起兵してから、故郷の人民は死に絶えた。知った顔がない。遺族に産業と教育を与えよ」と。袁紹は、いまだ破れず。袁紹は劉備に、汝南を攻略させた。汝南の賊・共都は、劉備に応じた。浚儀にゆき、睢陽渠を治めた。

胡三省はいう。浚儀県は、陳留郡に属す。睢水は、浚儀県から東に流れる。

曹操は、太牢を橋玄に祭祀した。

ぼくは思う。裴松之は、『褒賞令』にある、曹操が橋玄を祭った文を載せる。はぶく。橋玄は「曹操が墓前を通ったとき、祭らなければ腹痛にする」と遺言した。


進軍官渡。紹自軍破後,發病歐血,夏五月死。小子尚代,譚自號車騎將軍,屯黎陽。

曹操は、官渡に進軍した。袁紹は、軍が破れてのち、発病して血を吐いた。

『後漢書』献帝紀はいう。建安七年、夏五月庚戌、袁紹は薨じた。
『後漢書』袁紹伝:冀州城邑多畔,紹複擊定之。自軍敗後發病,七年夏,薨。ぼくは思う。『後漢書』は、袁紹に「薨」という文字をつかってあげた。『後漢書』から見れば、「曹操が後漢をほろぼした悪人」だから、袁紹をもちあげるのだろうか。ちなみに『後漢書』袁術伝は「因憤慨結病,歐血死」です。袁術は、後漢にとっての悪人である。

夏五月、袁紹は死んだ。末子の袁尚が、袁紹に代わる。

『三国志』紹伝曰:自軍敗後發病,七年,憂死。紹愛少子尚,貌美,欲以為後而未顯。袁紹は、軍が敗れてのち、発病した。建安七年、憂死した。袁紹は、少子の袁尚を愛した。袁尚は、容貌が美しい。袁紹は、袁尚に後継させたいが、これを明らかにせず。
『三国志』紹伝注引『典論』曰:譚長而惠,尚少而美。紹妻劉氏愛尚,數稱其才,紹亦奇其貌,欲以為後,未顯而紹死。劉氏性酷妒,紹死,僵屍未殯,寵妾五人,劉盡殺之。以為死者有知,當複見紹於地下,乃髡頭墨面以毀其形。尚又為盡殺死者之家。袁譚は、恵みぶかい。袁尚は、美しい。袁紹の妻・劉氏は、袁尚を愛した。劉氏は、袁紹が寵愛した五人を殺し、死体をこわした。袁紹も、五人の家族を殺しつくした。

袁譚は、みずから車騎将軍を号して、

『三国志』袁紹伝は、袁紹の臣下が分裂したことを記す。
『三国志』袁紹伝:審配、逢紀與辛評、郭圖爭權,配、紀與尚比,評、圖與譚比。眾以譚長,欲立之。配等恐譚立而評等為己害,緣紹素意,乃奉尚代紹位。譚至,不得立,自號車騎將軍。由是譚、尚有隙。太祖北征譚、尚。譚軍黎陽,尚少與譚兵,而使逢紀從譚。譚求益兵,配等議不與。譚怒,殺紀。審配と逢紀は袁尚をかつぎ、辛評と郭図は袁譚をかつぎ、あらそった。みなは、年長の袁譚がいい。審配は、袁譚がたち、辛評らに殺されることをおそれた。審配は、袁紹に真意にこたえ、袁尚をたてた。袁譚は、袁紹をつげず、車騎将軍を号して、黎陽に屯した。袁尚は、袁譚にあまり兵をあたえず、逢紀を袁譚につけた。袁譚は「兵をふやせ」と袁尚にたのみ、逢紀を殺した。
ぼくは思う。逢紀は、袁尚が袁譚につけた、見張り役である。
『後漢書』袁紹伝も、おなじ話をのせる。譚自稱車騎將軍,出軍黎陽。尚少與其兵,而使逢紀隨之。譚求益兵,審配等又議不與。譚怒,殺逢紀。と。
裴松之は、逢紀について、くわしい。
『三国志』紹伝注引『英雄記』曰:紀字元圖。初,紹去董卓出奔,與許攸及紀俱詣冀州,紹以紀聰達有計策,甚親信之,與共舉事。後審配任用,與紀不睦。或有讒配於紹,紹問紀,紀稱「配天性烈直,古人之節,不宜疑之」。紹曰:「君不惡之邪?」紀答曰:「先日所爭者私情,今所陳者國事。」紹善之,卒不廢配。配由是更與紀為親善。逢紀は、許攸とともに冀州にきた。審配に任用されたが、仲がわるい。しかし逢紀を袁紹に讒訴する人がいると、審配は逢紀をたすけた。審配は言った。「私情と国家は、ちがいます」と。
胡三省はいう。逢紀は、審配をたすけたが、田豊を助けなかった。なにが「国家のこと」ならば、田豊も助けておけよ。バーカ。

黎陽に屯した。

『後漢書』袁紹伝はいう。官渡にやぶれ、審配の2子は、曹操にとらわれた。孟岱と審配は、仲がわるい。ゆえに蒋奇は、袁紹に言った。「審配はつよく、2子が曹操のもとにいる。かならず審配は、そむく」と。郭図と辛評も、蒋奇とおなじ。ついに袁紹は、孟岱に監軍させ、審配のかわりに鄴県をまもらせた。
ぼくは思う。孟岱を、知らなかった! 沮授、審配など、おおきな権力をにぎると、分散&解体される。これが袁紹軍の傾向かな。
『後漢書』袁紹伝:未及定嗣,逢紀、審配宿以驕侈為譚所病,辛評、郭圖皆比干譚而與配、紀有隙。眾以譚長,欲立之。配等恐譚立而評等為害,遂矯紹遺命,奉尚為嗣。審配と逢紀は、奢侈して袁譚ににらまれた。辛評と郭図は、袁譚が、審配と逢紀と仲がわるいので、袁譚をたてた。審配と逢紀は、袁譚がたち、辛評らに殺されることを恐れた。審配と逢紀は、袁紹の遺言をいつわり、袁尚をたてまつる。
ぼくは思う。審配と逢紀が、袁譚と敵対した理由を「奢侈」とする。原因が書いてあることが、『後漢書』のあたらしさ。どうせ、一般論から、こじつけたのだろう。権力があることと、奢侈がひどいことは、イコールなんだ。つまり袁尚を支持したのは、袁紹のもとで、おおきな権力をもっている人たち。順当に袁譚がたってしまうと、権力のふるいどころがないから、わざと撹乱した?


秋九月,公征之,連戰。譚、尚數敗退,固守。

秋九月、曹操は、袁尚と袁譚と、連戦した。しばしば袁尚は敗退した。袁尚は、固守した。

郭縁生『述征記』はいう。黎陽城の西に、袁譚の城がある。黎陽城の南に、もう一つ城がある。これは、曹操が袁譚を攻めるために築いた城だ。


つぎは、武帝紀の建安八年(203)です。つづきます。