04) 205-207、河北の平定
曹操の河北平定(建安六年~建安十二年)の史料を、網羅します。
『三国志』武帝紀と、『三国志』袁紹伝のつづき。
『三国志』本文はミドリ、裴注はアオ、『後漢書』はムラサキです。
建安十年(205) 袁譚を斬り、幽州をたいらぐ
十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。
建安十年(205)春正月、袁譚を斬った。妻子を誅し、冀州をたいらげた。
趙一清はいう。鄴県をやぶったが、なお袁譚がさわぐ。ゆえに袁譚を斬ったあとに、冀州がたいらいだとする。『後漢書』献帝紀はいう。建安十年春正月、曹操は袁譚を青州で斬った。冀州でなく、青州がたいらいだのだ。
魏書曰:公攻譚,旦及日中不決;公乃自執桴鼓,士卒咸奮,應時破陷。曹操は、タイコをたたいて励まし、袁譚をやぶった。
胡三省は『三国志』袁紹伝でいう。郭図と審配は、派閥をつくった。袁譚は、この争いのせいで死んだ。
曹操は、復讐と厚葬を、禁じた。
この月、袁煕の大将・焦触、張南がそむき、袁尚と袁煕をせめた。袁尚らは、3郡の烏丸にゆく。焦触らは曹操にくだり、列侯となる。
『三国志』袁紹伝:熙、尚為其將焦觸、張南所攻,奔遼西烏丸。觸自號幽州刺史,驅率諸郡太守令長,背袁向曹,陳兵數萬,殺白馬盟,令曰:「違命者斬!」眾莫敢語,各以次歃。至別駕韓珩,曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,於義闕矣;若乃北面於曹氏,所弗能為也。」一坐為珩失色。觸曰:「夫興大事,當立大義,事之濟否,不待一人,可卒珩志,以勵事君。」袁熙と袁尚は、部将の焦触と張南に攻められた。烏丸ににげる。焦触は、幽州刺史を称する。太守や令長をひきい、袁氏から曹氏にうつる。白馬を殺して、ちかう。別駕の韓珩は、焦触にさからい、「袁氏の恩を忘れやがって」と言った。
ぼくは補う。『三国志』袁紹伝にうしろで、曹操は韓珩をほめるが、韓珩は曹操におうじず。『後漢書』は、韓珩のエピソードを、ひとつのまとめる。
熙、尚為其將焦觸、張南所攻,奔遼西烏桓。觸自號幽州刺史,驅率諸郡太守令長背袁向曹,陳兵數萬。殺白馬盟,令曰:「違者斬!」眾莫敢仰視,各以次歃。至別駕代郡韓珩曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,于義闕矣。若乃北面曹氏,所不能為也!」一坐為珩失色。觸曰:「夫舉大事,當立大義。事之濟否,不待一人,可卒珩志,以厲事君。」曹操聞珩節,甚高之,屢辟不至,卒於家。
はじめ袁譚を討つとき、川がこおった。氷をわる役務から、にげた民が自首した。曹操は言った。「この民をゆるせば、ほかに示しがつかない。だが、自首した民を罰したくない。民は、うまくにげろ」と。
盧弼は、唐の太宗の、法に対する解釈をのせる。ディベートのテーマ。
續漢書郡國志曰:獷平,縣名,屬漁陽郡。
夏4月、黒山の張燕は、10余万でくだり、列侯となる。故安の趙犢、霍奴らは、幽州刺史、涿郡太守をころす。三郡の烏丸は、鮮於輔を獷平で攻めた。
劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝 04
『続漢書』はいう。獷平県は、漁陽郡に属す。
秋8月、曹操は幽州にゆき、趙犢らを斬った。潞河をわたり、獷平をすくう。
烏丸は、にげて出塞した。9月、曹操は令した。「冀州の風俗は、父子が派閥をつくり、けなしあう。風俗をただそう」と。
冬10月、曹操は鄴県にかえる。
盧弼はいう。王鳴盛は、誤りだ。鄴県に遷都しない。五都とは、曹魏のもので、後漢のものでない。曹操が移動しても、遷都とは言わない。鄴県への遷都は、陳寿も范曄も、記さない。曹丕のとき、許県から洛陽に遷都しただけだ。
はじめ袁紹は、おいの高幹を並州牧とする。曹操が鄴県をぬくと、高幹はくだる。并州牧から、并州刺史となる。高幹は、曹操が烏丸を討つと聞き、そむく。上党太守をとらえ、壺關口をまもる。
『郡国志』はいう。并州・太原の晋陽は、州治かつ郡治だ。
『郡国志』はいう。上党郡に、壺関がある。『上党記』はいう。関城都尉の治所は、上党から60里だ。壺関におかれた。袁紹伝に、壺口関がある。
楽進と李典が、高幹をうつ。高幹は、壺關城をまもる。
この段落は、翌年に曹操が高幹をせめるから、その伏線。李典と楽進が戦っているけれど、まだ結果が出ていない。
建安十一年(206) 高幹を斬り、徐州を整地する
十一年(206)春正月、曹操は高幹をせめる。高幹は壺関を別将にまかせ、匈奴ににげるた。単于が、高幹をこばむ。
『三国志』杜畿伝はいう。白騎は、東垣をせめる。高幹は、カク沢にゆくと。
盧弼はいう。カク沢県は、河東に属す。けだし高幹は、壺関により、平陽、カク沢をとおり、上洛県にゆき、荊州の劉表をたよりたい。ときに豫州は、すでに曹操がよる。ゆえに雍州をまわった。
曹操は、壺関を3ヶ月でぬく。高幹は荊州ににげた。上洛都尉の王琰が、高幹をきった。
盧弼はいう。これで并州が、すべて、たいらいだ。曹操は、梁習を并州刺史とした。辺境は、しずまった。『三国志』梁習伝にくわしい。上洛都尉は、袁紹伝にもある。
高幹の最期について。
『三国志』袁紹伝:十一年,太祖征幹。幹乃留其將夏昭、鄧升守城,自詣匈奴單于求救,不得,獨與數騎亡,欲南奔荊州,上洛都尉捕斬之。高幹が壺関をまかせたのは、夏昭、鄧升である。
『三国志』紹伝注引『典略』曰:上洛都尉王琰獲高幹,以功封侯;其妻哭于室,以為琰富貴將更娶妾媵而奪己愛故也。王琰の妻は、ないた。王琰が富貴となれば、ほかに妾をめとり、寵愛をうばわれるからだ。ぼくは思う。『典略』でも、けっこう下世話な記事をのせてくれるのだなあ。
『後漢書』袁紹伝:十一年,曹操自征幹,幹乃留其將守城,自詣匈奴求救,不得,獨與數騎亡,欲南奔荊州。上洛都尉捕斬之。 おなじ。
秋8月、曹操は東にゆき、海賊の管承をせめる。淳于(青州の北海)にいたり、楽進と李典をやって、管承をやぶる。管承は、海島ににげる。東海郡から、襄賁、郯県、戚県をさいて、琅邪郡にくっつける。昌慮郡をはぶく。
『後漢書』献帝紀はいう。建安十一年(206)、もと琅邪王だった劉容の子・劉煕を琅邪王とした。8国をのぞいた。のぞいたのは、斉国、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、済陰、平原だ。
胡三省はいう。8国をのぞき、琅邪王だけ立てたのは、劉容が弟の劉邈をつかわし、長安に貢献したからだ。 曹操は東郡にいた。劉邈は、曹操の忠誠をたたえた。曹操はこれにむくい、劉容の後嗣をたてたのだ。8国をのぞいたのは、後漢の宗室がおとろえたからだ。ぼくは思う。東郡の曹操が、献帝に色気を見せたタイミングを、慎重にさぐりたい。いま、昌慮郡をはぶき、8国をのぞいた。曹操の安心がうかがえる。
趙一清はいう。東海の郯県は、州治であり、郡治でもある。いま琅邪にあわせられた。東海の郡治が、どこになったかナゾだ。銭大昕はいう。光武帝は、子の劉彊を東海王にした。東海王の家は、ずっとつづいた。「東海郡」という表記が、おかしい。諸説あり、はぶく。盧弼はいう。『後漢書』徐璆伝はいう。徐璆は、東海相となると。これは、東海国だった証拠だ。
琅邪王の劉煕は、在位11年。はかりごとに坐して、誅された。光武十王伝にある。
ニセクロさん(@nisekuro_at)はいう。その頃、琅邪には曹操の父が難を避けて居たので、パパのアシストとか考えると楽しい。ぼくは補う。「その頃」というのは、劉容が長安に貢献したときのこと。曹嵩がアシストして、献帝に曹操の忠誠を宣伝させたかと。
王沈『魏書』は、十月乙亥の令をのせる。「もろもろの掾屬、治中、別駕は、毎月ついたちに、政治の欠点をのべよ」と。
三郡の烏丸は、幽州をやぶる。漢民の10万余戸を、烏丸にあわせた。袁紹は、烏丸の酋豪を單于として、婚姻した。遼西の單于・蹋頓は、袁紹が厚遇された。袁尚らは、蹋頓をたよる。烏丸と袁尚らは、しばしば寇した。曹操は水路をひらく。
この段落は、翌年の烏丸征伐にむけた、伏線です。まだ曹操は、出発してない。
建安十二年(207) 春に鄴県、夏から烏丸
魏書載公令曰:「昔趙奢、竇嬰之為將也,受賜千金,一朝散之,故能濟成大功,永世流聲。吾讀其文,未嘗不慕其為人也。與諸將士大夫共從戎事,幸賴賢人不愛其謀,群士不遺其力,是夷險平亂,而吾得竊大賞,戶邑三萬。追思竇嬰散金之義,今分所受租與諸將掾屬及故戍于陳、蔡者,庶以疇答眾勞,不擅大惠也。宜差死事之孤,以租穀及之。若年殷用足,租奉畢入,將大與眾人悉共饗之。」
建安十二年春正月、曹操は淳于から、鄴県にもどる。
ぼくは思う。さっき、献帝が鄴県にゆかないことは、盧弼が明らかにした。なぜ曹操は、じぶんは鄴県で、献帝は許県だったのか。関羽にビビッて、献帝の移動を考えるくらいなら、はじめから献帝を鄴県にうつしておけばよい。おそらく鄴県は、袁紹の旧領だから、献帝を置いておくのが、こわかった。馬超に遠征したとき、河間でそむかれている。もしくは、献帝を洛陽から遠ざけると、董卓っぽくなるので、遠慮したか。
『三国志』袁紹伝:十二年,太祖至遼西擊烏丸。尚、熙與烏丸逆軍戰,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首。
『後漢書』袁紹伝:十二年,曹操征遼西,擊烏桓。尚、熙與烏桓逆操軍,戰敗走,乃與親兵數千人奔公孫康於遼東。尚有勇力,先與熙謀曰:「今到遼東,康必見我,我獨為兄手擊之,且據其郡,猶可以自廣也。」康亦心規取尚以為功,乃先置精勇於廄中,然後請尚、熙。熙疑不欲進,尚強之,遂與俱入。未及坐,康叱伏兵禽下,坐於凍地。尚謂康曰:「未死之間,寒不可忍,可相與席。」康曰:「卿頭顱方行萬里,何席之為!」遂斬首送之。
どちらも袁紹伝は、コンパクトにまとめる。以下、武帝紀のほうが、くわしい。
正月丁酋、曹操は令した。「起兵して19年。功臣を封じよう」と。20余人が列侯となる。
王沈『魏書』は、曹操の令をのせる。「趙奢、竇嬰は、功臣に金銭をあたえて、名声をえた。戦死した故事に、穀物をあたえろ」と。
三郡の烏丸を北伐するとき、諸将は言った。「北伐するな。劉備に、許県を襲われる」と。郭嘉だけは、劉備がこないと言った。
盧弼はいう。盧イク伝にひく『続漢書』はいう。曹操は涿郡をとおり、盧植をとむらった。鍾会が、諸葛亮をとむらったことと、おなじだ。
ぼくは思う。曹操は烏丸にゆくまえに、ちゃんと鄴県でおちついて、政治をやっている。河北平定を、一連の戦いだと、考えてはいけないかも。曹操は、たびたび戦闘を中止して、根拠地にもどり、誰とどんな順番で戦うか、考えた。
夏5月、曹操は、無終県(右北平) にゆく。秋7月、大水があり、海道がとおれない。田疇にみちびかれた。
盧龍塞をでて、白檀(漁陽)、平岡(右北平)をとおり、鮮卑の領土をゆく。東して柳城(遼西) にゆく。袁尚、袁熙と、蹋頓、遼西の單于・樓班、右北平の單于・能臣抵之らは、数万で曹操をむかえうつ。
銭大昕はいう。『三国志』烏丸鮮卑伝によると、右北平の単于は、烏延である。能臣抵之でない。能臣抵之は、代郡の烏丸である。
8月、曹操は白狼山(右北平)にのぼる。張遼が、蹋頓をきった。胡漢20余万口がくだる。遼東の単于・速僕丸(=蘇僕延) と、遼西や北平の諸豪は、種族をすてて、にげた。袁尚らは、遼東にゆく。まだ数千騎ある。
207年、柳城を去り、公孫康に袁尚のクビを送らせる
曹瞞傳曰:時寒且旱,二百里無複水,軍又乏食,殺馬數千匹以為糧,鑿地入三十餘丈乃得水。既還,科問前諫者,眾莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼幸,雖得之,天所佐也,故不可以為常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」
はじめ遼東太守の公孫康は、とおいので服さず。曹操が烏丸をやぶると聞き、袁尚らをとらえた。9月、曹操は柳城から、かえる。
『曹瞞伝』はいう。曹操は、北伐をいさめた人を、ほめた。
『世説新語』に登場する、曹操を総ざらい!
公孫康は、袁尚、袁熙、速僕丸らをきって、首級をおくる。 曹操は言った。「公孫康は、袁尚をおそれた。私がゆるめれば、公孫康は袁尚をきる」と。
盧弼はいう。曹操のセリフは、建安八年に郭嘉が、袁譚と袁尚について言ったものとおなじ。ぼくは思う。こういうのは、たいてい、後づけなんだ。
『三国志』紹伝注引『典略』曰:尚為人有勇力,欲奪取康眾,與熙謀曰:「今到,康必相見,欲與兄手擊之,有遼東猶可以自廣也。」康亦心計曰:「今不取熙、尚,無以為說於國家。」乃先置其精勇於廄中,然後請熙、尚。熙、尚入,康伏兵出,皆縛之,坐於凍地。尚寒,求席,熙曰:「頭顱方行萬里,何席之為!」遂斬首。譚,字顯思。熙,字顯奕。尚,字顯甫。袁尚は、公孫康の軍勢をうばいたい。公孫康は考えた。「いま袁熙と袁譚をきらねば、国家に説明がつかない」と。袁熙は袁尚に「私たちは公孫康に殺されるから、座席はいらない」と言った。袁熙と袁尚は、公孫康に斬られた。
『後漢書』袁紹伝で、袁熙は公孫康に「卿」と言うが、それはおかしい。袁熙は、座席を与えられていない。公孫康を敬うのでなく、憤るところだ。
ぼくは思う。公孫康と袁尚の緊張関係は、曹操の見とおしたとおり。公孫康は、なかば自衛のため、袁尚を斬った。公孫康伝、やっておきたい。『後漢書』袁紹伝は、公孫康の略伝をのせるが、また今度。
『三国志』紹伝注引『吳書』曰:尚有弟名買,與尚俱走遼東。『曹瞞傳』雲:買,尚兄子。未詳。 『呉書』はいう。袁尚には、袁買という弟がいた。『曹瞞伝』はいう。袁買は、袁尚の兄の子だ。よくわからない。
袁譚のあざなは、異説あり。盧弼をはぶく。
11月、曹操は、易水(涿郡の故安) にいたる。代郡(郡治は高柳) の烏丸の行單于・普富盧と、上郡(郡治は膚施) の烏丸の行單于・那樓は、名王をひきいて來賀した。
田疇伝はいう。田疇は、亭侯に封じられたが、ことわる。夏侯惇が説得した。
『三国志』袁紹伝:太祖高韓珩節,屢辟不至,卒於家。 曹操は、韓珩が袁氏に節度をたもったので、ほめた。しばしば辟したが、韓珩は、いたらず。
『三国志』紹伝注引『先賢行狀』曰:珩字子佩,代郡人,清粹有雅量。少喪父母,奉養兄姊,宗族稱孝悌焉。韓演は、代郡の人。宗族は、孝悌をたたえられた。
ぼくは思う。曹操が河北の人材をもちいるとき、応じない現地人は、おおかっただろう。田疇、韓珩などが代表。
つぎは、武帝紀の建安十三年(208)です。またやります。110630