表紙 > ~後漢 > 建安六~十二年(201-207) 武帝紀と袁紹伝で、曹操の北伐を集解

04) 205-207、河北の平定

曹操の河北平定(建安六年~建安十二年)の史料を、網羅します。
『三国志』武帝紀と、『三国志』袁紹伝のつづき。
『三国志』本文はミドリ、裴注はアオ、『後漢書』はムラサキです。

建安十年(205) 袁譚を斬り、幽州をたいらぐ

十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。

建安十年(205)春正月、袁譚を斬った。妻子を誅し、冀州をたいらげた。

曹純は、袁譚を斬った。曹仁伝にある。
趙一清はいう。鄴県をやぶったが、なお袁譚がさわぐ。ゆえに袁譚を斬ったあとに、冀州がたいらいだとする。『後漢書』献帝紀はいう。建安十年春正月、曹操は袁譚を青州で斬った。冀州でなく、青州がたいらいだのだ。
魏書曰:公攻譚,旦及日中不決;公乃自執桴鼓,士卒咸奮,應時破陷。曹操は、タイコをたたいて励まし、袁譚をやぶった。
胡三省は『三国志』袁紹伝でいう。郭図と審配は、派閥をつくった。袁譚は、この争いのせいで死んだ。


下令曰:「其與袁氏同惡者,與之更始。」令民不得複私讎,禁厚葬,皆一之於法。是月,袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚,熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降,封為列侯。初討譚時,民亡椎冰,令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰:「聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無為吏所獲。」民垂泣而去;後竟捕得。

曹操は、復讐と厚葬を、禁じた。

『宋書』礼志はいう。漢代は、葬儀がハデだった。曹操が、建安十年、厚葬を禁じた。立碑を禁じた。曹髦の甘露二年、大将軍・参軍する太原の王倫が死んだ。兄の王俊は、王倫の美点を、こっそり刻んだ。かたく立碑が禁じられていた証拠だ。

この月、袁煕の大将・焦触、張南がそむき、袁尚と袁煕をせめた。袁尚らは、3郡の烏丸にゆく。焦触らは曹操にくだり、列侯となる。

焦触と張南が、袁氏をうらぎる記事。
『三国志』袁紹伝:熙、尚為其將焦觸、張南所攻,奔遼西烏丸。觸自號幽州刺史,驅率諸郡太守令長,背袁向曹,陳兵數萬,殺白馬盟,令曰:「違命者斬!」眾莫敢語,各以次歃。至別駕韓珩,曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,於義闕矣;若乃北面於曹氏,所弗能為也。」一坐為珩失色。觸曰:「夫興大事,當立大義,事之濟否,不待一人,可卒珩志,以勵事君。」袁熙と袁尚は、部将の焦触と張南に攻められた。烏丸ににげる。焦触は、幽州刺史を称する。太守や令長をひきい、袁氏から曹氏にうつる。白馬を殺して、ちかう。別駕の韓珩は、焦触にさからい、「袁氏の恩を忘れやがって」と言った。
ぼくは補う。『三国志』袁紹伝にうしろで、曹操は韓珩をほめるが、韓珩は曹操におうじず。『後漢書』は、韓珩のエピソードを、ひとつのまとめる。
熙、尚為其將焦觸、張南所攻,奔遼西烏桓。觸自號幽州刺史,驅率諸郡太守令長背袁向曹,陳兵數萬。殺白馬盟,令曰:「違者斬!」眾莫敢仰視,各以次歃。至別駕代郡韓珩曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,于義闕矣。若乃北面曹氏,所不能為也!」一坐為珩失色。觸曰:「夫舉大事,當立大義。事之濟否,不待一人,可卒珩志,以厲事君。」曹操聞珩節,甚高之,屢辟不至,卒於家。

はじめ袁譚を討つとき、川がこおった。氷をわる役務から、にげた民が自首した。曹操は言った。「この民をゆるせば、ほかに示しがつかない。だが、自首した民を罰したくない。民は、うまくにげろ」と。

臣松之以為討譚時,川渠水凍,使民椎冰以通船,民憚役而亡。裴松之はいう。曹操が船をとおすために、民に氷を割らせたのだ。
盧弼は、唐の太宗の、法に対する解釈をのせる。ディベートのテーマ。


夏四月,黑山賊張燕率其眾十餘萬降,封為列侯。故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史、涿郡太守。三郡烏丸攻鮮於輔於獷平。
續漢書郡國志曰:獷平,縣名,屬漁陽郡。

夏4月、黒山の張燕は、10余万でくだり、列侯となる。故安の趙犢、霍奴らは、幽州刺史、涿郡太守をころす。三郡の烏丸は、鮮於輔を獷平で攻めた。

故安は、前年に注釈あり。胡三省はいう。三郡の烏丸とは、遼西の蹋頓、遼東の蘇僕延、右北平の烏延だ。盧弼はいう。鮮于輔は、『三国志』公孫瓚伝、田豫伝にあり、武帝紀の建安十八年の注釈にある。劉虞の従事である。
劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝 04

『続漢書』はいう。獷平県は、漁陽郡に属す。

『三国志』劉放伝はいう。漁陽の王松は、涿郡による。曹操が冀州でかつと、劉放は王松に説いた。建安十年(205)、王松と劉放は、司空の軍事に参じた。胡三省はいう。劉放が、曹魏の機密をあずかったから、曹魏がみだれたのだ。ぼくは補う。曹叡が死ぬときのこと。三国一、空気が読める男。孫資伝、附劉放伝


秋八月,公征之,斬犢等,乃渡潞河救獷平,烏丸奔走出塞。 九月,令曰:「阿党比周,先聖所疾也。聞冀州俗,父子異部,更相毀譽。昔直不疑無兄,世人謂之盜嫂;第五伯魚三娶孤女,謂之撾婦翁;王鳳擅權,穀永比之申伯,王商忠議,張匡謂之左道:此皆以白為黑,欺天罔君者也。吾欲整齊風俗,四者不除,吾以為羞。」冬十月,公還鄴。

秋8月、曹操は幽州にゆき、趙犢らを斬った。潞河をわたり、獷平をすくう。

『郡国志』はいう。潞河とは、漁陽郡の潞県である。光武帝が、呉漢と耿弇をつかわし、銅馬を潞東でやぶった。

烏丸は、にげて出塞した。9月、曹操は令した。「冀州の風俗は、父子が派閥をつくり、けなしあう。風俗をただそう」と。

曹操は、悪例をあげる。『漢書』直不疑伝、『後漢書』第五倫伝、『漢書』谷永伝、『漢書』王商伝に、それぞれ曹操の出典がある。はぶく。

冬10月、曹操は鄴県にかえる。

王鳴盛はいう。文帝紀の黄初二年にひく『魏略』に、曹魏の五都がある。長安、譙県、許昌、鄴県、洛陽だ。長安はつかわれず、譙県は曹操は故郷である。都らしいのは、許県、鄴県、洛陽の3つのみだ。曹操は、袁紹をほろぼし、鄴県に遷都した。『後漢書』献帝紀にないことだ。
盧弼はいう。王鳴盛は、誤りだ。鄴県に遷都しない。五都とは、曹魏のもので、後漢のものでない。曹操が移動しても、遷都とは言わない。鄴県への遷都は、陳寿も范曄も、記さない。曹丕のとき、許県から洛陽に遷都しただけだ。


初,袁紹以甥高幹領並州牧,公之拔鄴,幹降,遂以為刺史。幹聞公討烏丸,乃以州叛,執上党太守,舉兵守壺關口。遣樂進、李典擊之,幹還守壺關城。

はじめ袁紹は、おいの高幹を並州牧とする。曹操が鄴県をぬくと、高幹はくだる。并州牧から、并州刺史となる。高幹は、曹操が烏丸を討つと聞き、そむく。上党太守をとらえ、壺關口をまもる。

高幹は、『三国志』高柔伝の注釈、袁紹伝、劉劭伝、仲長統伝の注釈にある。ぼくは思う。高幹、やたらと出番がおおい。袁氏でもないのに、并州牧を任されたのだから、オオモノかも。情報をあつめたい。
『郡国志』はいう。并州・太原の晋陽は、州治かつ郡治だ。
『郡国志』はいう。上党郡に、壺関がある。『上党記』はいう。関城都尉の治所は、上党から60里だ。壺関におかれた。袁紹伝に、壺口関がある。

楽進と李典が、高幹をうつ。高幹は、壺關城をまもる。

『三国志』袁紹伝:高幹叛,執上党太守,舉兵守壺口關。遣樂進、李典擊之,未拔。『後漢書』袁紹伝:高幹複叛,執上党太守,舉兵守壺口關。おなじ。
この段落は、翌年に曹操が高幹をせめるから、その伏線。李典と楽進が戦っているけれど、まだ結果が出ていない。


建安十一年(206) 高幹を斬り、徐州を整地する

十一年春正月,公征幹。幹聞之,乃留其別將守城,走入匈奴,求救於單于,單于不受。公圍壺關三月,拔之。幹遂走荊州,上洛都尉王琰捕斬之。

十一年(206)春正月、曹操は高幹をせめる。高幹は壺関を別将にまかせ、匈奴ににげるた。単于が、高幹をこばむ。

匈奴は、初平三年(192)にある。ぼくは補う。袁術の陳留の戦いのとき。『後漢書』南匈奴伝はいう。霊帝が崩じ、天下は乱れた。単于と白波は、河内の諸郡を寇した。河東にとどまる。章懐注はいう。河東の平陽にとどまったのだ。
『三国志』杜畿伝はいう。白騎は、東垣をせめる。高幹は、カク沢にゆくと。
盧弼はいう。カク沢県は、河東に属す。けだし高幹は、壺関により、平陽、カク沢をとおり、上洛県にゆき、荊州の劉表をたよりたい。ときに豫州は、すでに曹操がよる。ゆえに雍州をまわった。

曹操は、壺関を3ヶ月でぬく。高幹は荊州ににげた。上洛都尉の王琰が、高幹をきった。

胡三省はいう。上洛県は、前漢では弘農に属し、後漢では京兆に属す。暁関が、県の西北にある。ゆえに都尉をおく。劉クはいう。洛水の上にあるから、上洛県という。
盧弼はいう。これで并州が、すべて、たいらいだ。曹操は、梁習を并州刺史とした。辺境は、しずまった。『三国志』梁習伝にくわしい。上洛都尉は、袁紹伝にもある。
高幹の最期について。
『三国志』袁紹伝:十一年,太祖征幹。幹乃留其將夏昭、鄧升守城,自詣匈奴單于求救,不得,獨與數騎亡,欲南奔荊州,上洛都尉捕斬之。高幹が壺関をまかせたのは、夏昭、鄧升である。
『三国志』紹伝注引『典略』曰:上洛都尉王琰獲高幹,以功封侯;其妻哭于室,以為琰富貴將更娶妾媵而奪己愛故也。王琰の妻は、ないた。王琰が富貴となれば、ほかに妾をめとり、寵愛をうばわれるからだ。ぼくは思う。『典略』でも、けっこう下世話な記事をのせてくれるのだなあ。
『後漢書』袁紹伝:十一年,曹操自征幹,幹乃留其將守城,自詣匈奴求救,不得,獨與數騎亡,欲南奔荊州。上洛都尉捕斬之。 おなじ。


秋八月,公東征海賊管承,至淳于,遣樂進、李典擊破之,承走入海島。割東海之襄賁、郯、戚以益琅邪,省昌慮郡。

秋8月、曹操は東にゆき、海賊の管承をせめる。淳于(青州の北海)にいたり、楽進と李典をやって、管承をやぶる。管承は、海島ににげる。東海郡から、襄賁、郯県、戚県をさいて、琅邪郡にくっつける。昌慮郡をはぶく。

東海は、郡治が郯県だ。初平四年(193)、徐州牧の注釈にある。琅邪は、国治が開陽だ。興平元年の注釈にある。昌慮郡は、建安三年におく。ぼくは思う。昌慮は、曹操が呂布を片づけたとき、現地の豪強たちに太守のポストをつくるため、つくりだした郡である。それを、いまなくした。必要がなくなった?
『後漢書』献帝紀はいう。建安十一年(206)、もと琅邪王だった劉容の子・劉煕を琅邪王とした。8国をのぞいた。のぞいたのは、斉国、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、済陰、平原だ。
胡三省はいう。8国をのぞき、琅邪王だけ立てたのは、劉容が弟の劉邈をつかわし、長安に貢献したからだ。 曹操は東郡にいた。劉邈は、曹操の忠誠をたたえた。曹操はこれにむくい、劉容の後嗣をたてたのだ。8国をのぞいたのは、後漢の宗室がおとろえたからだ。ぼくは思う。東郡の曹操が、献帝に色気を見せたタイミングを、慎重にさぐりたい。いま、昌慮郡をはぶき、8国をのぞいた。曹操の安心がうかがえる。
趙一清はいう。東海の郯県は、州治であり、郡治でもある。いま琅邪にあわせられた。東海の郡治が、どこになったかナゾだ。銭大昕はいう。光武帝は、子の劉彊を東海王にした。東海王の家は、ずっとつづいた。「東海郡」という表記が、おかしい。諸説あり、はぶく。盧弼はいう。『後漢書』徐璆伝はいう。徐璆は、東海相となると。これは、東海国だった証拠だ。
琅邪王の劉煕は、在位11年。はかりごとに坐して、誅された。光武十王伝にある。
ニセクロさん(@nisekuro_at)はいう。その頃、琅邪には曹操の父が難を避けて居たので、パパのアシストとか考えると楽しい。ぼくは補う。「その頃」というのは、劉容が長安に貢献したときのこと。曹嵩がアシストして、献帝に曹操の忠誠を宣伝させたかと。


魏書載十月乙亥令曰:「夫治世禦眾,建立輔弼,誡在面從,詩稱'聽用我謀,庶無大悔',斯實君臣懇懇之求也。吾充重任,每懼失中,頻年已來,不聞嘉謀,豈吾開延不勤之咎邪?自今以後,諸掾屬治中、別駕,常以月旦各言其失,吾將覽焉。」

王沈『魏書』は、十月乙亥の令をのせる。「もろもろの掾屬、治中、別駕は、毎月ついたちに、政治の欠点をのべよ」と。

『文館詞林』がつけたタイトルは、長たらしい。『全三国文』は「求言令」とタイトルする。『初学記』巻21は、この命令を載せる。曹操は、紙とハコを1つずつ配り、掾属らに「欠点を書け」と言った。


三郡烏丸承天下亂,破幽州,略有漢民合十餘萬戶。袁紹皆立其酋豪為單于,以家人子為己女,妻焉。遼西單于蹋頓尤強,為紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞為害。公將征之,鑿渠,自呼入泒水,泒音孤。名平虜渠;又從泃河口泃音句。鑿入潞河,名泉州渠,以通海。

三郡の烏丸は、幽州をやぶる。漢民の10万余戸を、烏丸にあわせた。袁紹は、烏丸の酋豪を單于として、婚姻した。遼西の單于・蹋頓は、袁紹が厚遇された。袁尚らは、蹋頓をたよる。烏丸と袁尚らは、しばしば寇した。曹操は水路をひらく。

水路というか、運河や堤防について、盧弼が書いてる。はぶく。海につうじたなんて、すごいなあ。地図を見て、かんがえたい。
この段落は、翌年の烏丸征伐にむけた、伏線です。まだ曹操は、出発してない。


建安十二年(207) 春に鄴県、夏から烏丸

十二年春二月,公自淳於還鄴。丁酋,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人,皆為列侯,其餘各以次受封,及複死事之孤,輕重各有差。
魏書載公令曰:「昔趙奢、竇嬰之為將也,受賜千金,一朝散之,故能濟成大功,永世流聲。吾讀其文,未嘗不慕其為人也。與諸將士大夫共從戎事,幸賴賢人不愛其謀,群士不遺其力,是夷險平亂,而吾得竊大賞,戶邑三萬。追思竇嬰散金之義,今分所受租與諸將掾屬及故戍于陳、蔡者,庶以疇答眾勞,不擅大惠也。宜差死事之孤,以租穀及之。若年殷用足,租奉畢入,將大與眾人悉共饗之。」

建安十二年春正月、曹操は淳于から、鄴県にもどる。

淳于は、前年にある。趙一清はいう。袁譚は死んだが、袁尚と袁煕がいるが、とおい。高幹を斬った。袁氏の親属が尽きたので、鄴都を経営した。
ぼくは思う。さっき、献帝が鄴県にゆかないことは、盧弼が明らかにした。なぜ曹操は、じぶんは鄴県で、献帝は許県だったのか。関羽にビビッて、献帝の移動を考えるくらいなら、はじめから献帝を鄴県にうつしておけばよい。おそらく鄴県は、袁紹の旧領だから、献帝を置いておくのが、こわかった。馬超に遠征したとき、河間でそむかれている。もしくは、献帝を洛陽から遠ざけると、董卓っぽくなるので、遠慮したか。
『三国志』袁紹伝:十二年,太祖至遼西擊烏丸。尚、熙與烏丸逆軍戰,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首。
『後漢書』袁紹伝:十二年,曹操征遼西,擊烏桓。尚、熙與烏桓逆操軍,戰敗走,乃與親兵數千人奔公孫康於遼東。尚有勇力,先與熙謀曰:「今到遼東,康必見我,我獨為兄手擊之,且據其郡,猶可以自廣也。」康亦心規取尚以為功,乃先置精勇於廄中,然後請尚、熙。熙疑不欲進,尚強之,遂與俱入。未及坐,康叱伏兵禽下,坐於凍地。尚謂康曰:「未死之間,寒不可忍,可相與席。」康曰:「卿頭顱方行萬里,何席之為!」遂斬首送之。
どちらも袁紹伝は、コンパクトにまとめる。以下、武帝紀のほうが、くわしい。

正月丁酋、曹操は令した。「起兵して19年。功臣を封じよう」と。20余人が列侯となる。

厳可均は「功臣令」とタイトルする。中平六年(189) から、年数をカウントする。荀攸伝は、このとき封じられたと記す。

王沈『魏書』は、曹操の令をのせる。「趙奢、竇嬰は、功臣に金銭をあたえて、名声をえた。戦死した故事に、穀物をあたえろ」と。

『文館詞林』は「分租、賜諸将令」とタイトルする。『史記』に、趙奢伝と、竇嬰伝があるらしい。ふーん。盧弼が引用している。はぶく。


將北征三郡烏丸,諸將皆曰:「袁尚,亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能為尚用?今深入征之,劉備必說劉表以襲許。萬一為變,事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備,勸公行。夏五用,至無終。秋七月,大水,傍海道不通,田疇請為鄉導,公從之。引軍出盧龍塞,塞外道絕不通,乃塹山堙穀五百餘裏,經白檀,曆平岡,涉鮮卑庭,東指柳城。未至二百里,虜乃知之。尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。

三郡の烏丸を北伐するとき、諸将は言った。「北伐するな。劉備に、許県を襲われる」と。郭嘉だけは、劉備がこないと言った。

郭嘉伝にある。曹操の手先として、司法権・警察権を濫用した、郭嘉伝
盧弼はいう。盧イク伝にひく『続漢書』はいう。曹操は涿郡をとおり、盧植をとむらった。鍾会が、諸葛亮をとむらったことと、おなじだ。
ぼくは思う。曹操は烏丸にゆくまえに、ちゃんと鄴県でおちついて、政治をやっている。河北平定を、一連の戦いだと、考えてはいけないかも。曹操は、たびたび戦闘を中止して、根拠地にもどり、誰とどんな順番で戦うか、考えた。

夏5月、曹操は、無終県(右北平) にゆく。秋7月、大水があり、海道がとおれない。田疇にみちびかれた。

『三国志』田疇伝を読めばいい。盧弼はいう。武帝紀では、みずから田疇が申しでて、曹操をみちびいた。田疇伝では、曹操が令して、田疇にみちびかせた。記述がことなる。

盧龍塞をでて、白檀(漁陽)、平岡(右北平)をとおり、鮮卑の領土をゆく。東して柳城(遼西) にゆく。袁尚、袁熙と、蹋頓、遼西の單于・樓班、右北平の單于・能臣抵之らは、数万で曹操をむかえうつ。

胡三省はいう。このとき、鮮卑の領土は、右北平の境界である。けだし慕容カイの祖先である。『三国志』烏丸伝にある。
銭大昕はいう。『三国志』烏丸鮮卑伝によると、右北平の単于は、烏延である。能臣抵之でない。能臣抵之は、代郡の烏丸である。


八月,登白狼山,卒與虜遇,眾甚盛。公車重在後,被甲者少,左右皆懼。公登高,望虜陳不整,乃縱兵擊之,使張遼為先鋒,虜眾大崩,斬蹋頓及名王已下,胡、漢降者二十餘萬口。遼東單于速僕丸及遼西、北平諸豪,棄其種人,與尚、熙奔遼東,眾尚有數千騎。

8月、曹操は白狼山(右北平)にのぼる。張遼が、蹋頓をきった。胡漢20余万口がくだる。遼東の単于・速僕丸(=蘇僕延) と、遼西や北平の諸豪は、種族をすてて、にげた。袁尚らは、遼東にゆく。まだ数千騎ある。

速僕丸を、蘇僕延とイコールだというのは、胡三省。音がつうじる。


207年、柳城を去り、公孫康に袁尚のクビを送らせる

初,遼東太守公孫康恃遠不服。及公破烏丸,或說公遂征之,尚兄弟可禽也。公曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,公引兵自柳城還,
曹瞞傳曰:時寒且旱,二百里無複水,軍又乏食,殺馬數千匹以為糧,鑿地入三十餘丈乃得水。既還,科問前諫者,眾莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼幸,雖得之,天所佐也,故不可以為常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」

はじめ遼東太守の公孫康は、とおいので服さず。曹操が烏丸をやぶると聞き、袁尚らをとらえた。9月、曹操は柳城から、かえる。

『芸文類シュウ』59『北堂書鈔』158は、陳琳が曹操をたたえた「神武賦」をのせる。「建安十二年、大司空・武平侯の曹操は、烏丸をやぶった。すごいなあ」と。盧弼はいう。ここにおいて、袁紹が領有した、冀州、青州、幽州、并州を、すべて曹操が領有した。

『曹瞞伝』はいう。曹操は、北伐をいさめた人を、ほめた。

盧弼はいう。『世説新語』には、曹操がだます話がある。
『世説新語』に登場する、曹操を総ざらい!


康即斬尚、熙及速僕丸等,傳其首。諸將或問:「公還而康斬送尚、熙,何也?」公曰:「彼素畏尚等,吾急之則並力,緩之則自相圖,其勢然也。」十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。

公孫康は、袁尚、袁熙、速僕丸らをきって、首級をおくる。 曹操は言った。「公孫康は、袁尚をおそれた。私がゆるめれば、公孫康は袁尚をきる」と。

『三国志』牽招伝はいう。公孫康は、袁尚を首をきった。牽招は、袁尚の首をまつった。曹操は、牽招を茂才にあげた。
盧弼はいう。曹操のセリフは、建安八年に郭嘉が、袁譚と袁尚について言ったものとおなじ。ぼくは思う。こういうのは、たいてい、後づけなんだ。
『三国志』紹伝注引『典略』曰:尚為人有勇力,欲奪取康眾,與熙謀曰:「今到,康必相見,欲與兄手擊之,有遼東猶可以自廣也。」康亦心計曰:「今不取熙、尚,無以為說於國家。」乃先置其精勇於廄中,然後請熙、尚。熙、尚入,康伏兵出,皆縛之,坐於凍地。尚寒,求席,熙曰:「頭顱方行萬里,何席之為!」遂斬首。譚,字顯思。熙,字顯奕。尚,字顯甫。袁尚は、公孫康の軍勢をうばいたい。公孫康は考えた。「いま袁熙と袁譚をきらねば、国家に説明がつかない」と。袁熙は袁尚に「私たちは公孫康に殺されるから、座席はいらない」と言った。袁熙と袁尚は、公孫康に斬られた。
『後漢書』袁紹伝で、袁熙は公孫康に「卿」と言うが、それはおかしい。袁熙は、座席を与えられていない。公孫康を敬うのでなく、憤るところだ。
ぼくは思う。公孫康と袁尚の緊張関係は、曹操の見とおしたとおり。公孫康は、なかば自衛のため、袁尚を斬った。公孫康伝、やっておきたい。『後漢書』袁紹伝は、公孫康の略伝をのせるが、また今度。
『三国志』紹伝注引『吳書』曰:尚有弟名買,與尚俱走遼東。『曹瞞傳』雲:買,尚兄子。未詳。 『呉書』はいう。袁尚には、袁買という弟がいた。『曹瞞伝』はいう。袁買は、袁尚の兄の子だ。よくわからない。
袁譚のあざなは、異説あり。盧弼をはぶく。

11月、曹操は、易水(涿郡の故安) にいたる。代郡(郡治は高柳) の烏丸の行單于・普富盧と、上郡(郡治は膚施) の烏丸の行單于・那樓は、名王をひきいて來賀した。

王先謙はいう。漢末、上郡は廃された。建安十八年(213)、もどした。禹貢の九州制では、上郡は雍州に属す。『献帝起居注』はいう。漢末、上郡の郡県をすべて廃した。『輿地広記』はいう。曹操は、上郡を廃したと。『晋書』『通典』にもある。ぼくは思う。なぜ上郡を、廃したのか。異民族がうごいて、統治できなくなったか。
田疇伝はいう。田疇は、亭侯に封じられたが、ことわる。夏侯惇が説得した。
『三国志』袁紹伝:太祖高韓珩節,屢辟不至,卒於家。 曹操は、韓珩が袁氏に節度をたもったので、ほめた。しばしば辟したが、韓珩は、いたらず。
『三国志』紹伝注引『先賢行狀』曰:珩字子佩,代郡人,清粹有雅量。少喪父母,奉養兄姊,宗族稱孝悌焉。韓演は、代郡の人。宗族は、孝悌をたたえられた。
ぼくは思う。曹操が河北の人材をもちいるとき、応じない現地人は、おおかっただろう。田疇、韓珩などが代表。


つぎは、武帝紀の建安十三年(208)です。またやります。110630