表紙 > 人物伝 > 曹操の手先として、司法権・警察権を濫用した、郭嘉伝

01) 陳羣が弾劾した、曹操の私臣

「魏志」巻14より、郭嘉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

結論:郭嘉は曹操の私臣として、漢臣と対立した

今回、郭嘉伝を読んで指摘したいことは、
郭嘉は漢臣でなく、曹操の私臣であるということ。

196年、献帝をむかえた曹操は、司空になりました。このとき曹操は、漢臣です。荀彧は、侍中・尚書令になりました。荀彧も漢臣です。つまり曹操から見て荀彧は、「会社から与えられた部下」に等しい。荀彧は、曹操がみずから雇っているのではない。
対して郭嘉は、曹操が個人的に、好きで雇っている。郭嘉は漢室から、司空軍祭酒の位をもらうが、「曹操おつき」程度の肩書きだと捉えたらいいだろう。

石井仁「軍師考」はいう。曹操の丞相府にて、軍師や軍師祭酒となった人は、魏公国ができたとき、尚書、侍中にスライドした。
石井氏のニュアンスとは違うが、ぼくなりに表現すれば、「曹操は漢臣を引き剥がして、魏国のメンバーとした」です。部下を引き連れて会社を辞め、競合する新会社を立ち上げる構図です。
もし郭嘉が存命なら、魏国の臣の筆頭となったでしょう。
郭嘉存命-赤壁で負けず-魏公国つくらず。こんなイフも思いつくが、いまは忘れてください。郭嘉の「私臣」としての立場を、のちの魏公国の臣と捉えたら、分かりやすい。そう説明したかっただけです。


不適切な例えかも知れませんが、郭嘉は、呂壱と同じだ。
呂壱は、晩年の孫権の後ろ盾をもらい、有力な臣下を弾圧した。呂壱は、なぜのさばったか。孫権がボケたという話もある。だが事件の評価としては、孫権が君主権力を強化しようとして、呂壱を、いわゆる名士にぶつけた。これでよいでしょう。
郭嘉も同じく、曹操の手先として、いわゆる名士とぶつかった形跡がある。該当する部分だけ、列伝を前出しして翻訳します。

陳羣と郭嘉の対立は、曹操と名士の対立?

初,陳群非嘉不治行檢,數廷訴嘉,嘉意自若。太祖愈益重之,然以群能持正,亦悅焉。

はじめ陳羣は、郭嘉を非難した。郭嘉が、司法や警察の権限を、好き勝手に行使するからだ。

書き下すと「検を行ふを治めず」だ。「検」の字義を調べた。調べる、よしあしを決める、枠から出ないように抑える。取り締まる、締めくくる。つまり、司法や警察の権限だと思う。

しばしば陳羣は、郭嘉を裁判に訴えた。だが郭嘉は、すこしも動ぜず、やりたいようにやった。

「検を行ふを治めず」を、ちくま訳は「品行が修まらぬ」とする。
ちくま訳に引きずられ、郭嘉は日本のファンのあいだで「不良」のイメージがある。だが後漢末、なにをすれば「不良」か。人殺し、女遊び、金儲け、薬物、暴走、賄賂、など日常茶飯事だ。現代日本とちがい、素行の悪さだけでは、裁判沙汰にならないだろう。
郭嘉は、曹操の寵愛をカサにきて、司法や警察の権限を振り回した。だから、陳羣に訴えられたのだ。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
うん・・・しょっぱなから申し訳ないけど、これは明らかに穿ちすぎ。
そもそも「行検」を「司法権、警察権」と訳しているのは大問題です。
「行検」にそのような使い方があればまだしも、少なくとも私が前に『行検』を取り上げた際に『中国基本古籍庫』で調べた限りでは、「行検」に「権限行使」的な意味合い、用例は見られません。むしろ「不治行検」で慣用フレーズになっていて、「行検」の類義語を含めても、共通して「品行不良」を意味しています。 しかも、いくら時代が違うからと言って、人類共通の悪行と言うのは大抵古今変わらないものです。殺人が犯罪、とかね。好色、酔っぱい、バクチ、どれも秩序を乱す風俗的な図だと思います。日常茶飯事だからって政府の役人が堂々とやっていいのかって話です。礼儀と節度を重んじる当時の儒家社会なら特にでは? ちなみに陳羣がここでやったのは『裁判』ではないんじゃないですか? 朝廷の場で弾劾したというのだから、それこそ現代で言えば国会答弁で問責されたという感じじゃないのですかね~。
これほど多量にある中国の史料の中で、同じフレーズがこれだけ色んなところで使われているにも関わらず、ひとつだけ別の意味で使われているというのはほぼありえないんじゃないかと思います。
仮に百歩譲ってそうだとしても、具体的に「司法権、警察権」とするのはあまりに乱暴。
ここの解釈はやはりちくま訳が正しいでしょう。これあんまちゃんと調べてないのが分かっちゃって、ちょっといただけないというか、随分迂闊だなと思いました。(引用おわり)
ご指摘ありがとうございました。

曹操は、郭嘉をますます重んじた。いっぽう曹操は、陳羣の言い分が正しいので、陳羣の訴えを悦んだ。

ちくま訳で曹操は、陳羣を「気に入っていた」とする。曹操が、多用な人材を愛したようなイメージを与える。
しかし、違うだろう。曹操は、名士・陳羣の、機嫌を損ねてはいけない。陳羣は、荀彧の娘婿であり、荀彧のつぎに名士を代表した人だ。
郭嘉を批判するとは、曹操を批判するに等しい。郭嘉をのさばらせているのは、曹操だから。曹操は、名士に妥協して、「ああ陳羣さん、ご指摘、ごもっとも。ご批判ありがとう」と、顔を引きつらせながら、悦んだフリをしたのだと思う。
かりに、君主と名士の対立だと捉えなくても、部下(陳羣)が上司(曹操)を批判できる風土は、悦ぶべきものだ。曹操なら、わきまえていたはず。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
やや感情的な解釈のプロセスではありますが、結果的にはそういう部分はあったのでしょうね。
陳羣の指摘は正論ではありましたし、これを否定するのは私情的であって公明正大ではない。それじゃあただの贔屓になっちゃうし、ひいては草々大人のリーダーとしての評価に跳ね返ってくる。それに彼の持ち味の一つでもある「自由かつ遠慮ない発言が可能」な環境を維持したいと思ってたと思います。(引用おわり)


というわけで、郭嘉は曹操の手先として、ほかの漢臣と衝突する立場にあった。郭嘉の生前、曹操はロコツに漢臣と対立しないから、表面化しなかったが。
言いたがりの名士たちのなか、曹操の政治的立場は、つらいときもあったでしょう。そのなかにあって郭嘉だけは、曹操の純粋な子飼の軍師である。拙速(軽率ともいう)に突っこむところとか、性格が似ている。楽しい君臣関係を、築いたことが想像できます。

fanyueさんはいう。(引用はじめ)
うう・・・「拙速」は「軽率」じゃないよう・・・
古い意味的には「出来が悪くとも早さを重視する」って感じです。現代辞書だと「出来はまずいが仕事は早い」ってニュアンスが若干変わってるような?
あと「拙速を貴ぶ」も『孫子』にあるし慣用表現だけど、少なくとも『魏書』郭嘉伝で使われているのは「兵貴神速」では??
意味ではなくあの行動が軽率なのだ、というのではれば、少なくともあの時の作戦としては、無茶ぶりではあったけどそれなりに合理性はあったわけで、軽率というのとは違うと思うんですよね。うむ・・・(引用おわり)


『傅子』は、こまかく訳しません

郭嘉伝は、とても短いです。
その短さを救うべく、裴松之は『傅子』を注釈してくれた。だがこの『傅子』は、ただの二次創作のようで、内容に信憑性がない。

『傅子』は、郭嘉バンザイのエピソードがおおい。ファンがよく知っている郭嘉は、『傅子』が元ネタだ。
しかし裴松之ですら、『傅子』が他の本と矛盾することを、指摘している。王沈や陳寿を切り捨てるより、『傅子』を切り捨てる。二者択一を迫られたら、誰でも、そうならざるを得ないと思う。笑

あまり細かく、『傅子』を訳しません。

まえに劉曄伝を読んだとき、『傅子』の歪曲はひどかった。
「劉曄伝」:陳寿と裴注の違いをぶつける
劉曄伝を読み、気づいたこと。『傅子』を書いた傅玄は、劉曄の子と、政治的に対立した。だから傅玄は、劉曄を悪く書きまくった。
確認できていないが、おそらく傅玄は、郭嘉の子孫と仲がよかった。だから、あちこちから漢文をコピペして、天才軍師・郭嘉をでっちあげた。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
『傅子』 については三国志研究で有名な満田剛さんのブログをこっそり参照してみます。mitsuda.blogtribe.org/archive-200711.html
ということで、人の褌とってざっくり史料批判すると(他力本願)、『傅子』の記事は魏勢力をヨイショするために色々と脚色されている可能性があるので要注意ということですね。
ならば別にわざわざ確認できていない「子孫と仲が良かった」説を持ち出さずとも、普通に「魏勢を良く見せるために」の方が根拠もあるし無理ないし説得力もあるので良いのではないかと思うのですが、どうでしょう?
いきなり「二次創作」で「信憑性がない」とざっくり切り捨てるのも、それはそれで感情的でいささか乱暴な論調な気もします・・・。(引用おわり)
ぼくは補う。fanyueさんがブログで引用されていた、満田先生のブログの文書は以下です。(引用はじめ)
『傅子』という史籍の性格である。著者は西晋の傅玄であり、『晋書』傅玄伝からすると、この本は思想・歴史に関する評論ということになる。実は、この『傅子』は王沈から絶賛されたとされる。そう、『魏書』を編纂したあの王沈である。それに、実は傅玄も王沈『魏書』の編纂に関わっていたことがわかっている。そして、王沈『魏書』といえば、曲筆の史書と評されている。以上のことを踏まえると、『傅子』も王沈『魏書』の内容と関係があったと見るほうが自然だろう。
さらに、これまで本ブログでも述べてきたように、王沈『魏書』には曹操はもちろん劉備も高く評価する傾向があり、曹操・劉備と関わった人物は比較の対象とされ、評価が低くなった可能性がある。とすれば、王沈『魏書』や『傅子』において、劉表を貶めるような曲筆がなされていることも考慮しなければならず、王沈『魏書』を典拠の一つとしていたであろう『三国志』本文もその影響を引きずっている可能性がある。
(引用おわり)


以上をふまえて、次回から本文にうつります。