03) 『魏書』傅玄エディション
「魏志」巻14より、郭嘉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
劉備の処置について、『傅子』は『魏書』と矛盾する
魏書曰:劉備來奔,以為豫州牧。或謂太祖曰:「備有英雄志,今不早圖,後必為患。」太祖以問嘉,嘉曰:「有是。然公提劍起義兵,為百姓除暴,推誠仗信以招俊傑,猶懼其未也。今備有英雄名,以窮歸己而害之,是以害賢為名,則智士將自疑,回心擇主,公誰與定天下?夫除一人之患,以沮四海之望,安危之機,不可不察!」太祖笑曰:「君得之矣。」
王沈『魏書』はいう。曹操は郭嘉に、劉備の処置を聞いた。
郭嘉は「劉備を殺せば、曹操さまの評判が落ちます。天下を平定するために、劉備を生かすべきです」と述べた。
曹操は、郭嘉の言い分をみとめ、劉備を殺さなかった。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
お、おおう・・・極端な・・・
史書は基本的に勝者の歴史、都合のいい書き方をするのがお仕事なのだから、心の中では常に疑ってかからなければいけません。どんな史料だろうとも、あくまで客観的に史料批判をしつつ、信憑性を探るんです。証明が無理な場合は諦めて信じるしかないですが、はなから信じる前提で歴史を見るのはアウトです。(引用おわり)
傅子曰:初,劉備來降,太祖以客禮待之,使為豫州牧。嘉言于太祖曰:「備有雄才而甚得眾心。張飛、關羽者,皆萬人之敵也,為之死用。嘉觀之,備終不為人下,其謀未可測也。古人有言:'一日縱敵,數世之患。'宜早為之所。」是時,太祖奉天子以號令天下,方招懷英雄以明大信,未得從嘉謀。會太祖使備要擊袁術,嘉與程昱俱駕而諫太祖曰:「放備,變作矣!」時備已去,遂舉兵以叛。太祖恨不用嘉之言。案魏書所雲,與傅子正反也。
『傅子』はいう。郭嘉は、劉備を殺すべきだと主張した。
裴松之はいう。『魏書』と『傅子』で、郭嘉の言い分は正反対だ。
のちに劉備が蜀漢を建国することからさかのぼり、郭嘉に予言をさせたのだろう。郭嘉バンザイは、傅玄の執筆方針ですから。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
たしかにこの問題はあるんですよね。どっちなのか、これもほぼ永遠に解明不能でしょうから、どっちを取るかお好みになるでしょう。どっちも取りたい私みたいなのは、時間差ではなかったかと解釈したりします。 つまり「危険人物だが今すぐに殺すのは外聞上まずい。いくらか様子を見て、ころ合いを見計らって闇に葬るべし」てな感じ。まあ私も大概擁護派ですから・・・苦笑 (引用おわり)
ぼくは思う。ここで郭嘉のセリフとなった「張飛、關羽者,皆萬人之敵也」は、つぎの段落で孫策を指した「一人之敵耳」と対応する。
ぼくの想像ですが、『魏書』傅玄エディションでは、劉備と孫策が、対句になっていたにちがいない!
王沈が、自分の認識と違うから、傅玄の案をバッサリ削除してしまった。のちに陳寿は、王沈の編集結果をそのまま引用した。傅玄の案は、陳寿に採用されず、『傅子』だけに残った。とか。
孫策の死は、予言でなくて、ただの分析だ
孫策轉鬥千里,盡有江東,聞太祖與袁紹相持於官渡,將渡江北襲許。眾聞皆懼,嘉料之曰:「策新並江東,所誅皆英豪雄傑,能得人死力者也。然策輕而無備,雖有百萬之眾,無異於獨行中原也。若刺客伏起,一人之敵耳。以吾觀之,必死於匹夫之手。」策臨江未濟,果為許貢客所殺。
曹操が官渡にいるとき、孫策が許都をねらった。みな、孫策をおそれた。だが郭嘉は、否定した。
「孫策は、江東に敵をたくさん作りました。孫策は、敵への備えがない。もし孫策が百万をつれて北伐しても、1人で突き進んでいるのと変わりがない。孫策は、刺客1人にだって、倒されるでしょう」
上で書きましたように、『傅子』の「張飛、關羽者,皆萬人之敵也」は、孫策の「一人之敵」と好対照だ。こんなに近くに、似た表現があるのだから、ぜったいに傅玄は、対句を意識したと思うなあ。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
揚げ足取りですが、「北伐」と訳せる表現はありません。ここの「中原」はいわゆる中原のことではなく一般的に「平原」の意です。 私が見て来た中で、対句とは大抵前後の文脈も対になっているものでした。四文字だけ、というのはありえるのでしょうか。しかも使い方若干違いますけど。片方は「張飛や関羽は、万の敵に匹敵する(とみな称する)」でもう一方は「もし刺客に襲われるとしても、一人の凶手で十分事足りるだろう」ですから・・・うーんどうなんだ??(引用おわり)
孫策は、郭嘉の云うとおり、殺された。
傅子曰:太祖欲速征劉備,議者懼軍出,袁紹擊其後,進不得戰而退失所據。語在武紀。太祖疑,以問嘉。嘉勸太祖曰:「紹性遲而多疑,來必不速。備新起,眾心未附,急擊之必敗。此存亡之機,不可失也。」太祖曰:「善。」遂東征備。備敗奔紹,紹果不出。
『傅子』はいう。曹操は、徐州の劉備を殺したいが、袁紹に背後を突かれるのを恐れた。郭嘉は、袁紹が、曹操の留守を突かないと考えた。果たして袁紹は、出てこなかった。
「袁紹の人柄を、郭嘉は見抜いていた」と云う人もいるでしょう。しかし郭嘉は、袁紹の面接に落ちただけである。新卒の学生の「企業研究」のレベルで、袁紹を知っていたかも知れないが、浅い洞察だ。
臣松之案武紀,決計征備,量紹不出,皆出自太祖。此雲用嘉計,則為不同。又本傳稱(自)嘉料孫策輕佻,必死於匹夫之手,誠為明於見事。然自非上智,無以知其死在何年也。今正以襲許年死,此蓋事之偶合。
裴松之が武帝紀を見たところ、劉備を討ったのは、曹操のアイディアである。郭嘉が言い出したのではない。また郭嘉が、孫策の死を予言したのは見事だ。しかし孫策が、許都を攻めるタイミングで死ぬと見抜いたのは、たまたまである。
陳寿本文で郭嘉は、孫策が死ぬタイミングを、指摘していない。ただ孫策の孤立を、分析しただけだ。裴松之は、郭嘉の天才ぶりを否定してしたせいで、かえって、郭嘉=天才神話に毒されていると自白した。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
だから「創作」って(以下略)
郭嘉さんは史書上は面識の記録のない孫策の死も(結果的には)予測しています。ならば袁紹についての発言もはたして「浅い洞察」と言えるかどうか。
ここからはあくまで私の妄想ですが、史書の記述を仮定とするなら、郭嘉さんは若いころ名を隠しつつ各地の英傑たちと接触しています。ここからすると彼はネットワークのようなものを持っていたか、作り上げていたのではないでしょうか。
私は郭嘉さんは孫策が襲われることを、「分析していた」のではなく、「知っていた」のではないかと読んでます。でなければあんな際どい時期、孫策に背後を突かれる可能性が高いのに、不確定要素だらけの根拠で草々大人にGOサイン出すとは考えにくいし、百戦錬磨の草々大人が頷くとは考えにくい。実際に孫策は攻めようとしていたのだからなおさらです。不確定要素のはずなのにあまりにタイミングがよすぎる。
郭嘉さんには何か、確かな情報を握っていて(あるいは暗殺の黒幕だったという説もありますが)、あえてそう言ったのかなと考えてます。
そこを踏まえると、袁紹なんて有名人ですから噂は吐いて捨てるほどあったでしょうし、実際に会ってもいるし、これまでの袁紹の言動を鑑みて、行動心理みたいに袁紹の思考回路を分析できたんじゃないでしょうか。 ちなみに人を見る目に長けている人って、少しの間しか会話してなくても本当にその人の人となりが大まかに分かっちゃうんですよ。これ本当。どういうメカニズムか分かりませんけど、頭の中でプロファイリングしてるのかな?(引用おわり)
袁紹の討伐で、曹操の軍師は交代した
從破袁紹,紹死,又從討譚、尚于黎陽,連戰數克。諸將欲乘勝遂攻之,嘉曰:「袁紹愛此二子,莫適立也。有郭圖、逢紀為之謀臣,必交鬥其間,還相離也。急之則相持,緩之而後爭心生。不如南向荊州若征劉表者,以待其變;變成而後擊之,可一舉定也。」太祖曰:「善。」乃南征。軍至西平,譚、尚果爭冀州。譚為尚軍所敗,走保平原,遣辛毗乞降。太祖還救之,遂從定鄴。又從攻譚於南皮,冀州平。封嘉洧陽亭侯。
袁紹が死んだ。郭嘉は、袁紹の息子を攻略した。
「曹操さまは、劉表を攻めなさい。袁紹の息子は、曹操さまからのプレッシャーがゆるめば、仲たがいを始めるでしょう」
果たして袁譚と袁尚は、冀州を争った。曹操は、鄴を平定した。郭嘉は曹操にしたがい、南皮で袁譚をやぶった。冀州を平定した。郭嘉は、洧陽亭侯に封じられた。
曹操の軍事担当が、交代した印象。兗州をまもった荀彧や程昱は、ひっこんだ。代わって、白馬で荀攸が活躍し、冀州攻めで郭嘉が活躍した。許都で漢臣をやる人と、曹操にしたがい外征する人が、分かれてきたのかな。
傅子曰:河北既平,太祖多辟召青、冀、幽、並知名之士,漸臣使之,以為省事掾屬。皆嘉之謀也。
『傅子』はいう。華北を平らげると、袁紹の旧臣をもちいた。省事掾屬とした。みな、郭嘉のアイディアである。
また『集解』によると、採用者が就いたとされる「省事掾属」は、名称がおかしい。他に例がない。『傅子』のツメの甘さを感じる。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
恣意的な引用の仕方はダメ、絶対。
正確には『集解』にはこうあります。
省事未詳,或為從事、徵事之訛,然徵事止二員,置在建安十五年,見〈邴原傳〉注。此時辟召四州知名之士,決不止二人也。
つまり『集解』は「省事が何を指すか未だ明らかではない、あるいは『從事』、『徴事』の訛ではないか。しかし徴事の定員は二名で、建安15年に設置された役職である。邴原伝の注を見よ。この時召致されたのは四州の知名の士で、決して二人に止まらなかったはずである」と言っているのです。 今のところ「省事、掾属」と標点して解釈するのが一般的ではないでしょうか。それぞれならば辞書に載ってます。『省事』とは『視事』、すなわち政務を処理するで、『掾属』はアシスタント。頑張れば「政務を処理するアシスタント官吏」と読めなくもないですが、まあ文字の移動か誤字の可能性は高そう。(引用おわり)
袁尚討伐と、烏丸征服は、郭嘉の独擅場
太祖將征袁尚及三郡烏丸,諸下多懼劉表使劉備襲許以討太祖,嘉曰:「公雖威震天下,胡恃其遠,必不設備。因其無備,卒然擊之,可破滅也。且袁紹有恩於民夷,而尚兄弟生存。今四州之民,徒以威附,德施未加,舍而南征,尚因烏丸之資,招其死主之臣,胡人一動,民夷俱應,以生蹋頓之心,成覬覦之計,恐青、冀非己之有也。表,坐談客耳,自知才不足以禦備,重任之則恐不能制,輕任之則備不為用,雖虛國遠征,公無憂矣。」太祖遂行。至易,嘉言曰:「兵貴神速。今千里襲人,輜重多,難以趣利,且彼聞之,必為備;不如留輜重,輕兵兼道以出,掩其不意。」太祖乃密出盧龍塞,直指單于庭。虜卒聞太祖至,惶怖合戰。大破之,斬蹋頓及名王已下。尚及兄熙走遼東。
曹操は、袁尚と烏丸を討った。郭嘉は云った。
「劉備の許都攻めに備えるより、袁尚を滅ぼすほうが、優先です。もし袁氏を放置すれば、青州や冀州は、袁氏にもどるでしょう」
郭嘉は、烏丸の攻撃について云った。
「兵站を切ってでも急進し、烏丸の不意を突くべきです」
曹操は烏丸の王をたおし、袁尚と袁煕は、遼東ににげた。
優先づけは、190年代前半は、荀彧がやっていた役目である。190年代後半から、荀彧伝は、記述が過疎になる。郭嘉が台頭する。
「荀彧は戦略をたてる人、郭嘉は戦術をたてる人」
という区別を、読んだことがある。ちがう。荀彧と郭嘉は、活躍の時期がちがうだけ。どちらも、戦略も戦術もたてていた。
陳寿の本文が、郭嘉の活躍を雄弁にえがくとき、裴注の『傅子』は沈黙する。おそらく傅玄は、王沈ないし陳寿と、同じ内容を載せて、郭嘉をほめまくっていたのだろう。だから裴松之は、わざわざ取りあげる必要がないと判断したか。
つねに高いテンションで郭嘉をほめまくる、『魏書』傅玄エディション。そんな本が、ほんとうにありそうな気がしてきた。
次回、郭嘉が死にます。さすがに早死にです。