02) 荀彧が曹操に与えた話し相手
「魏志」巻14より、郭嘉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
「潁川郡の名士」ではない
郭嘉字奉孝,潁川陽翟人也。
郭嘉は、あざなを奉孝という。潁川郡の陽翟県の人だ。
王先謙はいう。呂不韋は、陽翟の大商人だった。『史記』にある。
ぼくは思う。郭嘉は、潁川郡の中心地で生まれた。荀彧は、潁陰県の人だ。郭嘉は荀彧より、潁川のド真ん中が出身である。
潁川郡は、交通の便がいい。だから商人も情報も、さらに戦火も集まる。呂不韋の故郷でもある土地で、郭嘉は、世間にスレたに違いない。笑
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
潁川は昔から物や人の流通が多く、発展していて文化人、知識人も多く集まっていたっぽい話は聞きます。荀彧さんが故郷の人に避難を促していたのも、洛陽から近い潁川は戦火が集まりやすいと思ったからでしたっけ。
それにしても呂不韋はあんま関係ないっていうか、ここでわざわざ取り上げるのはこじつけっぽく聞こえるような・・・。地理的な背景を根拠とするならともかく、大商人の故郷=商売的にも発達しているとするのはやや安易かもしれません。(引用おわり)
傅子曰:嘉少有遠量。漢末天下將亂。自弱冠匿名跡,密交結英雋,不與俗接,故時人多莫知,惟識達者奇之。年二十七,辟司徒府。
『傅子』はいう。弱冠のころ郭嘉は、知る人ぞ知る、逸材だった。27歳のとき、司徒府にまねかれた。
弱冠を20歳だとすると、189年。つまり霊帝が死んで、董卓が乱入した歳。成人した15歳のころなら、184年。つまり黄巾の歳。潁川郡は、黄巾の主戦場となりました。
郭嘉の27歳は、196年。曹操が献帝を迎えた歳だ。このときの司徒は、趙温である。きっと『傅子』は、司空・曹操に招かれたと書きたかったに違いない。司徒と司空を、誤ったに違いない。笑
初,北見袁紹,謂紹謀臣辛評、郭圖曰:「夫智者審于量主,故百舉百全而功名可立也。袁公徒欲效周公之下士,而未知用人之機。多端寡要,好謀無決,欲與共濟天下大難,定霸王之業,難矣!」於是遂去之。
はじめ郭嘉は、袁紹に会った。郭嘉は、辛評と郭図に云った。
さっき『傅子』は、郭嘉はわざと世間から隠れたから、知る人ぞ知る存在だったと、書いてあった。これは郭嘉への弁護だ。じつは郭嘉は、ほとんど名声がなかったのだ。
きっと郭嘉は、故郷の先輩である、辛評と郭図を頼った。袁紹に就職したかったが、名声が足りなくて、採用されなかった。去り際に、憎まれゼリフを吐いたに違いない。笑
「智恵のある人間は、仕える相手を目利きする。袁紹は、人材登用をがんばると云いながら、登用が下手だ。袁紹は、成功しないだろう」
イソップ童話で、キツネがいう。「ぼくが食べられなかったブドウは、きっと酸っぱかったに違いない」と。心理学のいう防衛反応、合理化です。郭嘉は、童話のキツネと同じである。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
うーん・・・これまた何故にこうも主観的、というか感情に走った見方に。
『傅子』の記述がどこまで信頼性のあるものかは不明ですが、単に名声がなかったことをこんな書き方で誤魔化すものかなァ。それこそ無名だった人や寒門の出みたいな人はごろごろいるし、むしろ若いころの話が聞こえてこないならわざわざ書かなきゃ良いだけの気もする。
あと、これも以前に調べた限りですが、郭嘉さん自身は名声はなかったかもしれないですけど、家柄は多分そんなに悪くないと思うんです。教養があるという面もそうだし、荀彧さんと知り合いという点でもそうだし、陽翟郭氏は郭弘や郭躬など『後漢書』にも伝のある人を排出していますから、郭嘉さんもそれなりの階級の人だったのでは?
まあいずれにしろ『傅子』に脚色がある可能性がある以上は何とも言えないところではあるんですけどね。
しかし管理人さんは「袁紹が登用しなかった」という前提に立っているようですが、根拠はどこから? 名声がないという推測だけが理由ですか?
現代の感覚で物を言うのはちょっと危険ですが、今に置き換えると、普通定員なしで常時採用の場合、相当ダメ人間でなければ、とりあえず試験期間をおいて雇ってみて様子を見るのが一般的です。使えないなら切るなりポジションを落とせばいいだけの話。
郭嘉さんが袁紹と短時間での面会でその人となりを批評したのに疑問を感じるというのなら、逆に袁紹が郭嘉さんをその短い間で人物判断して登用しなかったと解釈するのも疑問が生じます。
袁紹って即決できない人間ぽかったですし、彼の配下にはいい人材もいたけどダメな人材もいたわけだから、「こいつは使えないから不採用」と判断・即決したというのはむしろ不自然に思うんですが・・・。
ただ可能性はあります。つまり面接の時に袁紹をヨイショせず、欠点を指摘した、もしくは政策についての提言など、生意気な口を聞いた場合。
これなら怒って即不採用になるでしょうね。
そうすれば郭嘉さんも「ああ、こいつは駄目だな・・・」て気になって↑のような発言にもつながる。
台詞で袁紹のことを「『用人の機』を知らない」と嫌味ってますが、この「用人の機」の「機」を機会・チャンスとすれば、それこそ「袁紹は(自分のような)人材ゲットのチャンスを分かっていない」というニュアンスにとれなくもない。
この解釈に立てば、袁紹が郭嘉さんを登用しなかったと読んでも、少なくとも無理はないかなと思います。
郭嘉さんの去り際の台詞は、自分の意見が受け入れてもらえなかったことに対する不満の顕れでもあったのかもしれませんが、何よりやるせなかったのではないでしょうか。合理化とか云々とかそんな底の浅いのじゃなくて。だって話は理解できないわ、感情に走ってロクに様子を見もせず自分を切るわ、そんな相手に怒ると同時に呆れて見限ったのではないか、とか。これはこれで偏った解釈ですかね?
ただこの前に荀彧さんが袁紹を見限って曹操につき、その荀彧さんが郭嘉さんを推薦して曹操と意気投合したということを考えれば、やはり郭嘉さんの捨て台詞はただの遠吠えとかそういう中身のないものではないと思います。
それにしても、いくら物語性重視のメモとはいえ、あんまり根拠もなく好き勝手断言してしまうと、ただのやっかみに近い言いがかりになるので要注意なのですよ・・・。(引用おわり)
ぼくは思う。ごめんなさい、と思いつつ、こういう解釈を読めるのは、幸せなことです。デタラメな郭嘉伝でも、書いてみるものだと思いました。だめだ。反省せねば。。
荀彧が、ストレスに苦しむ曹操に、話し相手をつけた
先是時,潁川戲志才,籌畫士也,太祖甚器之。早卒。太祖與荀彧書曰:「自志才亡後,莫可與計事者。汝、潁固多奇士,誰可以繼之?」 彧薦嘉。召見,論天下事。太祖曰:「使孤成大業者,必此人也。」嘉出,亦喜曰:「真吾主也。」表為司空軍祭酒。
潁川の戯志才は、籌画の士だった。曹操は戯志才を、とても評価した。だが戯志才は、早くに死んだ。
曹操は荀彧に手紙を書き、「汝南や潁川から、戯志才の代わりを推薦してくれ」と頼んだ。荀彧は、郭嘉を推薦した。
荀彧は郭嘉を、どういう位置づけで推薦したか。朝廷の重鎮の候補者として、選んだのではあるまい。郭嘉は、潁川人士のネットワークの外縁にいる。ちょっと揺らしたら、落っこちてしまいそうな位置だ。
推挙の理由は、籌画の士だ。おそらく、曹操がブレイン・ストーミングをする話し相手として、選んだんだろう。献帝を迎え、これから曹操は、ストレスをおおく受ける。荀彧は、曹操の気を紛らわすため、軽そうな男をつけてやった。荀彧は、曹操の母親役だから。笑
おそらく郭嘉は、袁紹に就職しそこね、潁川でダラダラしていた。
曹操は郭嘉と、天下のことを論じた。
曹操は「私に大業を成させるのは、郭嘉だ」と云った。
郭嘉も喜んで「曹操さまが、私のほんとうの主だ」と云った。
国が大きくなると、部下の頭数がいる。荀攸を招いたのも、この時期。荀攸もまた、漢臣というより、曹操の私臣の傾向が強かったように思う。鍾繇との関係とか、気になることがある。後日やります。
曹操は郭嘉を、司空軍祭酒にした。
『通鑑』は「司空祭酒」とする。
ぼくは思う。この点、石井先生の論文を読み返さないといけない。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
はたして「軍師祭酒」は軍師のトップだったのだろうか・・・「祭酒」自体の意味を考えればありえるけど、『中国古代官制大辞典』には「左右軍師の下」になってます。
大体、荀彧さんが戯志才の後釜にそんな理由で軽いにーちゃんをつけるとは思えない・・・それならもっと年齢を近くすればいいのに、15歳差ですよ。普通15歳も年の離れた人と対等につきあえますか。よほどの年齢差を埋めるだけの何かがないとまず無理です。
荀彧さんほどの人がそんな安易に安易な人選・推薦をするか疑問です。曹操大人にとってその人物がやがて重要な役割になると分かっていたはず。
子飼いが欲しかったという点には同意。主な相談相手は荀彧さんでしたが、荀彧さんは内心はどうであろうと、形式上は朝廷から官職をもらっている漢の臣ですものね。
官職をわざわざ新設したのは、がちがちの朝廷の伝統的なシステムの外にあって、融通のきく(自分にとって都合のいい)自由な私臣を得たかったからかもね。さしずめ皇帝にとっての荀令君(秘書)みたいに、自分にとってのそういうポジションの相手が欲しかったのかなぁ、みたいな。(引用おわり)
ぼくは補う。祭酒について @AkaNisin さんがまとめて下さったので、抜粋させていただきます。
@sweets_street さんはいう。戦国期に斉王が保護した学者グループが稷下の学士と言われておりまして、その筆頭格が祭酒と呼ばれていました。荀子が就いています。趙翼の陔余叢考によると、本来は祭宴の際に乾杯する年長者を意味するそうです。礼記や儀礼は、酒宴に関する礼に一章を割いています。洋の東西を問わず、酒宴は祭りの一種で独特の礼法やマナーがあります。礼記の郷飲酒義は、まさに酒宴での礼について述べたものです。
@Golden_hamster さんはいう。胡広『漢官解詁』によれば「官名祭酒、皆一位之元長者。古礼、賓客得主人饌、則老者一人挙酒以祭于地、旧説以為示有先」だそうです。賓客が主人からご飯を出された時に年長者が地に対してお酒をお供えする、という意味かなあと思います。祭事といえば祭事なんでしょうけど、「いただきます」を年長さんが言うようなもののようにも思えます。 「賓客扱いされるステータスの高い官職の筆頭」ってことなんでしょう、きっと。
傅子曰:太祖謂嘉曰:「本初擁冀州之眾,青、並從之,地廣兵強,而數為不遜。吾欲討之,力不敵,如何?」對曰:「劉、項之不敵,公所知也。漢祖唯智勝;項羽雖強,終為所禽。嘉竊料之,紹有十敗,公有十勝,雖兵強,無能為也。紹繁禮多儀,公體任自然,此道勝一也。(中略)紹好為虛勢,不知兵要,公以少克眾,用兵如神,軍人恃之,敵人畏之,此武勝十也。」
太祖笑曰:「如卿所言,孤何德以堪之也!」嘉又曰:「紹方北擊公孫瓚,可因其遠征,東取呂布。不先取布,若紹為寇,布為之援,此深害也。」太祖曰:「然。」
『傅子』はいう。曹操は郭嘉に聞いた。「オレは袁紹に勝てるかな」
郭嘉は、曹操に答えた。「曹操さまは、10のポイントで、袁紹に勝っております」
ぼくは思う。『傅子』は郭嘉に見せ場を与えるため、荀彧伝や賈詡伝から、ネタをもらってきた。この盗作は、『傅子』の意図と裏腹に、郭嘉にアドバイスの実績がないことを暴露した。もし実績があれば、盗作など不要だ。
曹操は「具体的にどうしたらいいか」と聞いた。
郭嘉は「袁紹が公孫瓚を攻めるうちに、呂布を倒しなさい」と云った。
ひねくれていて申し訳ありませんが、これが『傅子』だけにあるとは、つまり、郭嘉がこれを云わなかったことの証明となる。笑
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
最後の一行・・・な、なんという暴論!
どんな証明、それ!?
何の根拠にもなってないよ、それ!
『傅子』が「ウソやし(野史)」って検証でもされれば話は別ですが、全面否定はまずいですよ・・・。大体パクリつっても、元ネタが4つなら残りの6つは何? 創作と言いたいのでしょうか。
まあこれは誰がいった言わないの話で、真実を探る術はないですね。ご想像にお任せしますというところ。(引用おわり)
呂布を倒したのは、新参者の手柄づくり
征呂布,三戰破之,布退固守。時士卒疲倦,太祖欲引軍還,嘉說太祖急攻之,遂禽布。語在荀攸傳。
曹操は、呂布と戦った。勝てないから、曹操は撤退を考えた。だが郭嘉は、今こそ呂布をたたくべきだと説得し、呂布をつかまえた。くわしくは、荀攸伝にある。
傅子曰:太祖欲引軍還,嘉曰:「昔項籍七十餘戰,未嘗敗北,一朝失勢而身死國亡者,恃勇無謀故也。今布每戰輒破,氣衰力盡,內外失守。布之威力不及項籍,而困敗過之,若乘勝攻之,此成禽也。」太祖曰:「善。」
『傅子』はいう。郭嘉は曹操を、はげました。
「呂布は項羽ほど強くありません。項羽ですら、負けて死にました。まして呂布が、負けて死なないはずがありません」
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
だから、何故何でもかんでも創作と言っちゃうの・・・『傅子』だから、というのは何の説明にもなってませんて。
こんな杜撰な考察では「なかなか妄想たくみで面白いね~」と言われることはあっても信用はされません。(引用おわり)
次回、郭嘉=天才という神話をかけて、
傅玄と王沈が対決します!(楽しみな人はいるのかなあ)