表紙 > 人物伝 > 曹操の手先として、司法権・警察権を濫用した、郭嘉伝

04) 哀しいかな奉孝、の爆弾

「魏志」巻14より、郭嘉伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

郭嘉の死:曹操の嘆きかたは、呂壱の爆弾を思わせる

嘉深通有算略,達於事情。太祖曰:「唯奉孝為能知孤意。」年三十八,自柳城還,疾篤,太祖問疾者交錯。及薨,臨其喪,哀甚,謂荀攸等曰:「諸君年皆孤輩也,唯奉孝最少。天下事竟,欲以後事屬之,而中年夭折,命也夫!」乃表曰:「軍祭酒郭嘉,自從征伐,十有一年。每有大議,臨敵制變。臣策未決,嘉輒成之。平定天下,謀功為高。不幸短命,事業未終。追思嘉勳,實不可忘。可增邑八百戶,並前千戶。」

郭嘉は、ふかく通じ、算略があり、事情に達した。曹操は云った。
「ただ郭嘉だけが、私の考えを分かっている」
郭嘉が38歳のとき、柳城からかえり、病気がひどくなった。曹操は、しきりに病状を確認した。
郭嘉が死んだとき、曹操は悲しみ、荀攸らに云った。

悲しみを共有する相手は、荀攸。郭嘉と荀攸は同期仕官だ。そして曹操は、程昱や荀彧をはなれ、郭嘉や荀攸と心をつうじている。

「荀攸たちは、みな私と同世代だ。郭嘉だけが、若かった。天下のことが終われば、あとは郭嘉に任せるつもりだった。しかし郭嘉は、とちゅうで死んでしまった。天命なのか!」

郭嘉への個人的な愛情は、美しい。だが、もし郭嘉が長生きしたら、何がおきたか。郭嘉が権力をかさに着て、敵対者の名士を弾圧しただろう。すでに書いたが、孫権の呂壱事件とおなじことが、曹魏で起きた。醜悪。
曹操は155年生まれ、郭嘉は170年生まれだ。弟より下だが、子よりも上である。ちなみ曹昂は生年が不明、曹丕は187年生まれ。
郭嘉と同年代の魏臣は、だれか。田疇が1つ歳上、趙𠑊と司馬朗が1つ歳下、賈逵が4つ歳下。彼らが、真っ先にバカを見ただろう。
fanyueさんはいう。(引用はじめ) ん?何のことだ・・・あ!まさか例の「司法権、警察権」ことか!(引用おわり)


魏書載太祖表曰:「臣聞褒忠寵賢,未必當身,念功惟績,恩隆後嗣。是以楚宗孫叔,顯封厥子;岑彭既沒,爵及支庶。故軍祭酒郭嘉,忠良淵淑,體通性達。每有大議,發言盈庭,執中處理,動無遺策。自在軍旅,十有餘年,行同騎乘,坐共幄席,東禽呂布,西取眭固,斬袁譚之首,平朔土之眾,逾越險塞,蕩定烏丸,震威遼東,以梟袁尚。雖假天威,易為指麾,至於臨敵,發揚誓命,凶逆克殄,勳實由嘉。方將表顯,短命早終。上為朝廷悼惜良臣,下自毒恨喪失奇佐。宜追增嘉封,並前千戶,褒亡為存,厚往勸來也。」

『魏書』は、曹操の上表をのせる。
「もと軍祭酒の郭嘉は11年間、私とともに戦いました。呂布、眭固、袁譚、朔北、烏丸、遼東、袁尚を討つのに手柄がありました。郭嘉の子孫を、私は手あつく待遇したい」

王沈が魏室のなかで、『魏書』を書いた。この上表文は、ホンモノを見て写したと考えたい。曹操が郭嘉を、個人的に寵愛しまくっていたことが、よく分かる。三国志には珍しい、貴重な一次史料だから、ゆらがない!
fanyueさんはいう。(引用はじめ) え、そうなの? 一次史料(を見ていた)って言いきっていいの? ま、まあそういう仮定ってことでいいならいいけど。(引用おわり)


敵をつくり、反面教師にされた郭嘉の子・郭奕

諡曰貞侯。子奕嗣。
魏書稱奕通達見理。奕字伯益,見王昶家誡。

郭嘉は、貞侯とおくりなされた。子の郭奕がついだ。
『魏書』は郭奕を、たたえる。郭奕は、達に通じ、理を見じた。郭奕は、あざなを伯益という。郭奕のことは、王昶の家訓にみえる。

王昶伝より。王昶が身内をいましめた。
「潁川郭伯益,好尚通達,敏而有知。其為人弘曠不足,輕貴有餘;得其人重之如山,不得其人忽之如草。吾以所知親之昵之,不原兒子為之。」
訳します。
「潁川の郭奕は、頭がいい。しかし、人を受けいれる器量がせまい。人を重んじるときは、山のように敬う。しかし人を軽んじるときは、草のように捨てる。わが子には、郭奕のようになってほしくない」
郭奕が、味方と敵をはっきり分けるタイプだったと分かる。
ちなみに、いま郭奕を批判した王昶の兄の子が、『魏書』をつくった王沈だ。また、『傅子』をかいた傅玄(もしくは、その身内)は、郭奕に味方と認定され、山のように重んじられたことが推測できる。
fanyueさんはいう。(引用はじめ) 何故に??? 「推測できる」っていうけどそもそもの因果関係(味方と認定されたとか)が理解できないのですが・・・(引用おわり)


奕為太子文學,早薨。子深嗣。深薨,子獵嗣。世語曰:嘉孫敞,字泰中,有才識,位散騎常侍。

郭奕は、太子文学になった。早くに死んだ。

『後漢書』列女伝は、荀爽の娘をのせる。潁川の郭奕とからむエピソードがある。しかし盧弼がいうに、年代が合わない。べつの郭奕だろうと。

郭奕の子・郭深がついだ。郭深が死ぬと、子の郭猟がついだ。
『世語』はいう。郭嘉の孫・郭敞は、あざなを泰中という。才識があった。官位は、散騎常侍となった。

郭嘉がいたら、赤壁の敗戦はなかった

後太祖征荊州還,於巴丘遇疾疫,燒船,歎曰:「郭奉孝在,不使孤至此。」傅子曰:太祖又雲:「哀哉奉孝!痛哉奉孝!惜哉奉孝!」

のちに曹操は、疫病のため、巴丘で船を焼いた。
「郭嘉がいたら、私はこんなことを、せずにすんだ」
『傅子』は、曹操のセリフを載せる。
「哀しいかな奉孝! 痛ましいかな奉孝! 惜しいかな奉孝!」

『傅子』のセリフは、好きです。信憑性とか、関係なく、好きです。
つぎに『傅子』がのせる、曹操から荀彧に送った手紙は、はぶく。曹操は郭嘉をいたむ相手に、荀攸を選びこそすれ、荀彧をえらばない。「荀彧は漢臣、荀攸は私臣」という色分けを、今日はした。荀彧は、曹操-郭嘉と対立すると思う。だから『傅子』の設定が、いまいち。内容も、二次創作のにおいがする。
fanyueさんはいう。(引用はじめ)
管理人さん、二次創作の意味、分かってるのでしょうか。二次創作って、オリジナルの『創作』のパロディのことですが。さしずめ『三国演義』が創作で、これをパロると二次創作。ウソでもホントでも『史実』と銘打っている以上、歴史書を『創作』と呼ぶことはできないと思う・・・。まあどうでもいいとこなんですが。
そんでもって、荀彧さんが漢臣で荀攸さんが私臣だから対立するって、つまり草々大人の中で漢臣と私臣は敵対する存在という構図が前提? まるで自明の理みたいに言ってますけど、なぜ両者が対立しなければいけないのでしょう。第一郭嘉さんを推薦したのは荀彧さんなんだから、「荀彧をえらばない」の理由づけには↑はあまりに弱弱しいのでは。


おわりに

『傅子』の乱入で、ぼやけちゃいましたが、
曹操の私臣として愛されまくった郭嘉を、確認できたと思います。

書き忘れていたが。曹操と郭嘉が出会ったとき、おたがいに感動しすぎである。就職に苦戦したという共通点が、ふたりを近づけたか。
曹操は宦官の孫で、郭嘉は名声ほぼゼロだった。


きっと郭嘉が生きていたら、曹操への権力集中は、加速した。
いくら曹操のエコヒイキが入っていても、
郭嘉が、呂布や袁尚や烏丸に立てた功績は、事実だから。

同期仕官の荀攸が、やたら慎み深い。よいコンビかも?
つぎは荀攸をやり、曹操の自前の幕府に注目したい。100720

fanyueさんはいう。(引用はじめ)
まあ結論を言うと、繰り返しなんですけど歴史なんてどうあっても本当のことなんてタイムマシーンでも発明しない限り絶対知りようがないものです。今の史料だって、意識的じゃなくても、無意識で事実と違うことを書いてるかもしれないし、もしくは言葉選びを誤ってしまっているところもあるかもしれない。人の記憶なんて本人はどれだけ正確のつもりでも歪みがあるものだし、勘違いだってある。受け取り側も発信者側の意図を誤解して受け取る可能性もある。
どうあがいても真実に辿りつけないのならば、面白おかしく解釈するのも、ありだと思います。物語性を重視するのでもいいと思います。ただ、今あるものを否定したければ、否定するに足る根拠を持ってくるのは筋だと思います。 物的証拠(一次史料)がないなら、状況証拠(他の例などからの類推)でもいいです。 あまり自由に史料の中身を曲解すると、それこそ『創作』になってしまいますからね。(引用おわり)