02) 203、曹操が黎陽で敗れる
曹操の河北平定(建安六年~建安十二年)の史料を、網羅します。
『三国志』武帝紀と、『三国志』袁紹伝のつづき。
『三国志』本文はミドリ、裴注はアオ、『後漢書』はムラサキです。
建安八年(203) 曹操が黎陽で、袁譚と袁尚に負ける
八年春三月,攻其郭,乃出戰,擊,大破之,譚、尚夜遁。
建安八年(203) 春三月、曹操は黎陽の城郭を攻めた。
『後漢書』袁紹伝も、おなじ。曹操度河攻譚,譚告急于尚,尚乃留審配守鄴,自將助譚,與操相拒于黎陽。自九月至明年二月,大戰城下,譚、尚敗退。操將圍之,乃夜遁還鄴。と。 銭大昭はいう。『後漢書』袁紹伝は、9月から翌2月まで、黎陽でたたかう。武帝紀は「建安七月」とあり、意味不明。盧弼は「建安七年」と考え、「七月」ではないと考える。袁譚が車騎将軍を号し、黎陽に屯したのが、9月だ。曹操は、つぎの建安八年(203) 春三月、黎陽の城郭をやぶった。袁譚と袁尚は、夜ににげた。ゆえに、『後漢書』の「9月から翌2月」がただしい。『三国志』袁紹伝は、誤りだ。
潘眉はいう。袁紹は5月に死んだ。曹操は袁譚と袁尚を、おなじ歳の9月にせめた。『三国志』袁紹伝が「2月から9月」とするのは、「9月から翌2月」に改めるべきだ。武帝紀は、曹操の勝利を3月とするから、『後漢書』の「2月」も誤りで、「3月」とすべきだ。夏4月、曹操は鄴にすすみ、5月、許県にかえる。盧弼は『通鑑考異』を見るに、9月から翌2月とする。
ぼくは補う。「建安七年5月に袁紹が死に、9月から翌2月にたたかう」でよい。
袁譚と袁紹は、黎陽から出撃して、曹操に敗れた。
胡三省はいう。これは諸葛亮が言う「曹操が黎陽で敗れたとき」だ。必ず曹操が、袁尚に負けたことがあった。曹魏の人は、曹操の敗戦を諱んで、書かない。
盧弼は考える。『三国志』紹伝は、曹操が袁氏を追い、鄴県にせまり、麦を刈りとったとする。どうして曹操は負けもせず、許県にかえるか。ぼくは補う。袁紹伝はこれ。追至鄴,收其麥,拔陰安,引軍還許。
ちなみに『後漢書』もおなじ。
『三国志』郭嘉伝はいう。諸将は、連勝に乗じた。郭嘉は言った。「袁氏を追い詰めれば、守りを固める。袁氏をゆるめれば、兄弟で争う」と。曹操は、敗れないが、南の劉表に向かった。諸葛亮が「曹操が黎陽で敗れた」と言ったのは、半年も決着がつかず、曹操が進めなかったことを言う。
盧弼は考える。曹操が鄴県まで攻めすすみ、負けもしないで、許県にかえるのは、おかしい。『後漢書』袁紹伝によると、袁譚が袁尚に「曹操をしりぞけた」というセリフがある。劉表が袁譚にあたえた文書に、「敵をやぶった」というセリフがある。曹操が「戦敗したら、官爵をうばう」と命令しているテキストからも、曹操の敗北がわかる。
ぼくは思う。曹操は、鄴県で、ふつうに敗れたのだろう。同時代にいた諸葛亮の発言を信じよう。郭嘉は「戦略的な撤退」を提案したかも知れないが、苦しまぎれ。鄴県でやぶれ、劉表が献帝をうばう脅威が、大きくなったから、あわてて許県にもどった。
ってことは、つぎの本文の「譚、尚夜遁」は、デタラメだなあ。
袁譚と袁尚は、夜ににげた。
後漢書の方では曹操撤退後に袁譚が武装を改めて追撃すべきと弟に説いて兵を求めてるがそれが上手くいかなかったという記述がある。また三国志の方で建安八年己酉の令で「敗軍者抵罪,失利者免官爵」と布告してることからこの令の直近に敗軍失利があってそれが問題とされたと推測出来る。
後漢書巻七十四下袁譚伝より「譚、尚敗退。操將圍之,乃夜遁還鄴。操進軍,尚逆擊破操,操軍還許,譚謂尚曰:「我鎧甲不精,故前為曹操所敗。今操軍退,人懷歸志,及其未濟,出兵掩之,可令大潰,此策不可失也。」
袁譚、袁尚は敗退した。そこで曹操は將に之を圍まんとしたところ,乃ち夜になり遁れて鄴に還った。曹操が軍を進めたところ,袁尚は逆擊して曹操を破ったため,曹操の軍は許に還ることとなった。そこで袁譚は袁尚に謂って曰く:「我が鎧甲は精鋭でなかった,故に前には曹操に敗れる所と為ったのだ。今や曹操の軍は退こうとしており,人びとは歸志を懐いている,其の未だ濟らざるに及んで,出兵して之を掩えば,大いに潰え令む可きこととなろう,此の策は失う可きでない。」
ニセクロさんの発言からの引用は、以上です。
夏四月、曹操は鄴城にすすむ。五月、許県にもどる。賈信を、黎陽に留めた。
五月己酉(二五日)、曹操は令した。「『司馬法』はいう。進軍あるのみと。退いたら罪として、官爵を免ずる」と。
何焯はいう。軍隊は、はじめは烏合だ。建国のために、罰則で引き締める。ぼくは補う。曹操は、さっき鄴県で敗れたから、敗戦にかんする法令を出したのだ。
『魏書』は、庚申(六月七日)の令を載せる。「治世する能力がある人、闘って功績がある人を、評価すべきだ」と。
建安八年(203)秋、曹操に勝ち、袁譚と袁尚が争う
秋七月、曹操は令した。「喪乱が始まり、一五年がたつ。教育を振興せよ」と。
周寿昌はいう。曹操の父子は、文才があった。諸臣は、文学が言うところの「仁義」を心に留めた。建安十五年、十九年の令から、人事の方針がわかる。
八月、曹操は劉表を征して、西平にすすむ。曹操が鄴県を去って、南にゆくと、袁譚と袁尚は、冀州を争った。
『後漢書』袁紹伝:操軍進,尚逆擊破操,操軍還許。譚謂尚曰:「我鎧甲不精,故前為曹操所敗。今操軍退,人懷歸志,及其未濟,出兵掩之,可令大潰,此策不可失也。」尚疑而不許,既不益兵,又不易甲。譚大怒,郭圖、辛評因此謂譚曰:「使先公出將軍為兄後者,皆是審配之所構也。」譚然之。遂引兵攻尚,戰於外門。譚敗,乃引兵還南皮。曹操を許県に追いかえた。袁譚は、袁尚に言った。「曹操をしりぞけた。私の軍を、強化してくれ」と。袁尚はゆるさず。袁譚はいかった。郭図と辛評は、袁譚に言った。「袁紹が袁譚をそとに出し、袁尚を手元においたのは、審配のしわざです」と。袁譚は袁尚にやぶれ、南皮ににげた。
『三国志』袁紹伝は、もっとシンプル。太祖南征荊州,軍至西平。譚、尚遂舉兵相攻,譚敗奔平原。ぼくは補う。平原の南皮に、袁譚はうつったのだ。
袁譚は袁尚にやぶれ、平原をたもつ。袁尚がきつく攻めた。袁譚は辛毗をやり、曹操に降伏を請うた。諸将は疑うが、荀攸は曹操に、降伏を許せと説く。曹操は、河北に軍をもどした。
『三国志』袁紹伝:尚攻之急,譚遣辛毗詣太祖請救。太祖乃還救譚,十月至黎陽。ぼくは思う。『三国志』袁紹伝って、すでに武帝紀と重複するから、意外にソッケない。その点、『後漢書』には曹操の記事がないから、袁紹伝がくわしい!以下。
『後漢書』袁紹伝:別駕王脩率吏人自青州往救譚,譚還欲更攻尚,問脩曰:「計將安出?」脩曰:「兄弟者,左右手也。譬人將鬥而斷其右手,曰'我必勝若',如是者可乎?夫棄兄弟而不親,天下其誰親之?屬有讒人交鬥其間,以求一朝之利,願塞耳勿聽也。若斬佞臣數人,複相親睦,以禦四方,可橫行於天下。」譚不從。尚複自將攻譚,譚戰大敗,嬰城固守。尚圍之急,譚奔平原,而遣潁川辛毘詣曹操請救。別駕の王脩は、青州からきて、袁譚をすくう。袁譚が「袁尚と戦う」というから、王脩が仲なおりを説いた。袁譚はしたがわず。袁譚は、平原ににげた。潁川の辛毗が、曹操にすくってくれと請うた。
『魏書』はいう。曹操は言った。「劉表は、私が呂布を攻めたとき、私を攻めなかった。私が袁紹と戦ったとき、袁紹を救わなかった。劉表は、自守の賊である。劉表は後でよい。袁譚と袁尚は狡猾だから、私と劉表が戦えば、乱に乗じるだろう。
ぼくは思う。袁譚と袁尚は、鄴県で曹操をやぶり、中原の第一勢力として、対立をはじめた。兄弟ゲンカというと、バカっぽいが、あらそう価値のある権力を、兄弟で争っているのだ。劉表は、年長として説教をタレているが、けっきょく「私は曹操と対立した。袁氏がしっかりしてくれないと、私が曹操に攻められる」と言いたいだけ。
『三国志』紹伝は、『漢晋春秋』にある、審配から袁譚への手紙を載せる。はぶく。どうせデタラメである。
『三国志』紹伝注引『典略』曰:譚得書悵然,登城而泣。既劫于郭圖,亦以兵鋒累交,遂戰不解。袁譚は、審配からの文書を得ると、城に登って泣いた。郭図におどされ、戦闘の回数は増えるばかり。ついに戦いはやまず。
もし袁譚の降伏がウソでもよい。袁譚のおかげで、袁尚を破り、袁尚の領地を収められたら、私の利益となる」と。曹操は、袁譚の降伏を許した。
盧弼はいう。『三国志』荀攸伝、辛毗伝によると。さきに曹操は、荊州を平定したい。荀攸と辛毗が、北にもどれと言った。『魏書』と異なる。
203冬・呂曠と高翔を、袁尚、曹操、袁譚がとりあう
冬十月、曹操は黎陽にいたる。曹操の子・曹整と、袁譚の娘が婚姻をむすぶ。
裴松之は考える。袁紹が死んで、一年五ヶ月しか経たない。袁譚は家を出て、袁譚の「伯」の後となったから、袁紹の三年喪に服さない。しかし、めでたい婚姻をやるのは早すぎる。いま曹操は、婚姻の約束をしたのみで、儀礼はまだかも。
李清植はいう。翌年九月、袁譚の娘が、曹操から袁譚にもどったと記す。つまり儀礼まで終えたのだ。盧弼は考える。曹操が袁譚の娘をもらったのは、張繍の娘をもらったことと同じだ。一時の権謀である。曹丕のために、袁煕の妻をもらったことは、後世に恥となることを免れない。
魏書曰:譚之圍解,陰以將軍印綬假曠。曠受印送之,公曰:「我固知譚之有小計也。欲使我攻尚,得以其間略民聚眾,尚之破,可得自強以乘我弊也。尚破我盛,何弊之乘乎?」
袁尚は、曹操が北にきたと聞いた。平原の包囲をとき、鄴県にもどる。東平の呂曠、呂詳が、袁尚にそむいた。呂曠らは、陽平にいて、兵をひきいて曹操に降った。曹操は呂曠らを、列侯とした。
陽平は、兗州の東郡にある。ぼくは思う。官渡を終えて三年が経つのに、曹操は兗州を完全には平定しない。兗州は、曹操が袁紹の部将として、切り取った土地。袁紹と曹操が、持ち合っていたのだろう。
『魏書』はいう。袁尚の包囲が解けると、ひそかに袁譚は、将軍の印綬を呂曠にあたえた。呂曠は曹操に、印綬を送った。曹操は言った。「私は、必ずしも袁譚が、心から降伏しないのを知っている。袁譚は、私に袁尚を討たせ、私の疲弊に乗じるつもりだ。しかし私が袁尚を破れば、疲弊どころか強盛となる。袁譚に乗じられない」と。
『後漢書』袁紹伝は、、
胡三省はいう。曹操は袁尚を伐ちたいから、袁譚の心をつかんだ。呂曠と呂翔のことも、同じである。曹操は袁譚と婚姻をむすび、袁譚を安んじた。
『三国志』袁紹伝:尚聞太祖北,釋平原還鄴。其將呂曠、呂翔叛尚歸太祖,譚複陰刻將軍印假曠、翔。太祖知譚詐,與結婚以安之,乃引軍還。袁尚は、曹操が北したと聞き、平原をといて鄴県にもどる。袁尚の部将・呂曠と呂翔は、曹操に帰す。袁譚は呂氏に、ひそかに将軍の印綬をおくる。曹操は袁譚のウソを知るが、袁譚と婚姻し、軍をもどす。
『後漢書』袁紹伝:曹操遂還救譚,十月至黎陽。尚聞操度河,乃釋平原還鄴。尚將呂曠、高翔畔歸曹氏,譚複陰刻將軍印,以假曠、翔。操知譚詐,乃以子整娉譚女以安之,而引軍還。『後漢書』では、袁紹をうらぎり曹操に帰したのは、呂曠と高翔という。潘眉はいう。高翔がただしく、武帝紀は誤りだ。
つぎは、建安九年(204)。つづきます。