表紙 > ~後漢 > 建安六~十二年(201-207) 武帝紀と袁紹伝で、曹操の北伐を集解

03) 204、鄴県が陥落する

曹操の河北平定(建安六年~建安十二年)の史料を、網羅します。
『三国志』武帝紀と、『三国志』袁紹伝のつづき。
『三国志』本文はミドリ、裴注はアオ、『後漢書』はムラサキです。

建安九年(204)春夏、曹操が鄴県をかこむ

九年春正月,濟河,遏淇水入白溝以通糧道。二月,尚複攻譚,留蘇由、審配守鄴。公進軍到洹水,由降。既至,攻鄴,為土山、地道。武安長尹楷屯毛城,通上黨糧道。

建安九年(204) 春正月、曹操は黄河をわたる。淇水を堰きとめ、白溝(運河)をつくり、糧道をとおした。

『水経注』は、淇水と、曹操による堤防について記す。はぶく。

2月、ふたたび袁尚は、袁譚を攻めた。袁尚は、蘇由と審配をとどめ、鄴県を守らせた。曹操は、洹水にきた。蘇由は降った。

盧弼は、洹水を注釈する。はぶく。潘眉はいう。荀彧の檄文をだし、将校や部曲に言った。蘇游が内応したと。李善は注釈する。由と游は、同じ文字だ。
『三国志』袁紹伝:尚使審配、蘇由守鄴,複攻譚平原。太祖進軍將攻鄴,到洹水,去鄴五十裏,由欲為內應,謀泄,與配戰城中,敗,出奔太祖。太祖遂進攻之,為地道,配亦於內作塹以當之。おなじ話。

曹操は、鄴県を攻めた。土山と地道をつくる。武安の県長・尹楷は、毛城にいる。

『郡国志』はいう。冀州の魏郡に、武安県がある。毛城は、武安県の西南。曹爽伝にある。『三国志』倉慈伝にひく『魏略』で、令孤邵が毛城にくる。『三国志』徐晃伝で、徐晃が別働して毛城を討ったとある。ここのことだ。

尹楷は、上党から糧道をつうじる。

『郡国志』はいう。上党は、郡治が長子だ。後漢末に、郡治を壺関に遷した。『三国志』袁紹伝はいう。袁煕は幽州刺史となり、高幹は并州刺史となった。上党に糧道をとおしたとは、高幹と呼応したのだ。つぎの文で、沮鵠が邯鄲を守る。沮鵠は、袁煕と呼応したのだ。
ぼくは思う。袁氏の兄弟は、ちゃんとタイアップして、曹操を迎撃している。袁尚、袁煕、高幹は連携できてる。袁譚のみ、曹操についた。袁紹の後継は、袁尚ということで、決着したらしい。
『後漢書』袁紹伝のみ、3月の文書をのせる。
『後漢書』袁紹伝:九年三月,尚使審配守鄴,複攻譚于平原。配獻書于譚曰: 配聞良藥苦口而利於病,忠言逆耳而便於行。願將軍緩心抑怒,終省愚辭。蓋《春秋》之義,國君死社稷,忠臣死君命。苟圖危宗廟,剝亂國家,親疏一也。(中略) 若乃天啟尊心,革圖易慮,則我將軍鋪匐悲號于將軍股掌之上,配等亦當敷躬布體以聽斧鑕之刑。如又不悛,禍將及之。願熟詳凶吉,以賜環玦。;譚不納。建安九年3月、袁尚は審配に鄴県をまもらせ、ふたたび平原に袁譚をせめた。審配は、袁譚に文書して、和解をもとめた。 袁譚はきかず。


夏四月,留曹洪攻鄴,公自將擊楷,破之而還。尚將沮鵠守邯鄲,又擊拔之。易陽令韓範、涉長梁岐舉縣降,賜爵關內侯。

夏四月、曹操は、曹洪を鄴県にとどめ、みずから尹楷を破る。袁尚は、沮鵠に邯鄲を守らせる。曹操は、沮鵠をぬいた。

『郡国志』はいう。冀州の趙国に、邯鄲がある。
何焯はいう。曹操は尹楷をやぶり、并州の高幹からの援助を、断絶させた。邯鄲をぬいて、幽州の袁煕からの援助を、断絶させた。尹楷のいる毛城は、兵がおおく、兵糧の消費が大きい。糧道を断絶すれば、自潰する。毛城を陥とせば、得るものが大きい。だから曹操は、みずから毛城を陥とした。
ぼくは思う。毛城の戦略的価値なんて、初耳だった。
沮音菹,河朔間今猶有此姓。鵠,沮授子也。 沮姓は、河朔のあいだに、今でも多い姓だ。沮鵠は、沮授の子だ。

易陽令の韓範、涉長の梁岐は、県をあげて曹操にくだる。関内侯をたまわる。

『郡国志』はいう。易陽県は、趙国。渉県は、魏郡。盧弼は、渉県の帰属について、ながく注釈するが、はぶく。梁岐は、渉県長になった。
『三国志』徐晃伝はいう。易陽令の韓範は、いつわって降った。県城を固守した。徐晃は敗れた。韓範は悔いて、曹操に降った。諸県は、易陽につづいた。


五月,毀土山、地道,作圍巉,決漳水灌城;城中餓死者過半。

5月、曹操は鄴城をかこみ、漳水にひたした。鄴城の過半が、餓死した。

鄴県を包囲する戦いは、袁紹伝にある。審配がまもる。
『三国志』袁紹伝:配將馮禮開突門,內太祖兵三百餘人,配覺之,從城上以大石擊突中柵門,柵門閉,入者皆沒。太祖遂圍之,為塹,週四十裏,初令淺,示若可越。配望而笑之,不出爭利。太祖一夜掘之,廣深二丈,決漳水以灌之,自五月至八月,城中餓死者過半。
『後漢書』袁紹伝:曹操因此進攻鄴,審配將馮札為內應,開突門內操兵三百餘人。配覺之,從城上以大石擊門,門閉,入者皆死。操乃鑿塹圍城,周回四十裏,初令淺,示若可越。配望見,笑而不出爭利。操一夜浚之,廣深二丈,引漳水以灌之。自五月至八月,城中餓死者過半。
ちがうのは、審配の部将。『三国志』では「馮禮」で、『後漢書』では「馮札」とする。陳景雲は、古代はおなじ字だとする。突門は、鄴城だけにあるのでない。明帝紀の太和二年の注釈にある。
胡三省はいう。土山や地道をつくったが、すぐに鄴城をおとせなかったから、曹操は、包囲に切りかえた。『水経注』はいう。漳水は、鄴県の西をとおる。盧弼はいう。曹操は、下邳を泗水にしずめ、鄴城を漳水にしずめた。


建安九年(204)秋 袁尚が敗れ、審配が鄴県に殉ず

秋七月,尚還救鄴,諸將皆以為「此歸師,人自為戰,不如避之」。公曰:「尚從大道來,當避之;若循西山來者,此成禽耳。」尚果循西山來,臨滏水為營。

秋7月、袁尚はもどり、鄴城をすくう。諸将は言った。「歸師と、戦わないほうがいい」と。曹操は言った。「もし袁尚が、おおきな道からきたら、袁尚を避けよう。もし西山をまわってきたら、袁尚を禽えられる」と。

『兵法』はいう。撤退して故郷にもどる軍とは、戦うな。
胡三省はいう。おおきな道をゆけば、人々は、袁尚が鄴城を救援することを支持する。おおきな道をゆくのは、勝敗をかえりみない、必死の志である。いっぽう、西山をまわれば、地形にたよってしまい、死力をつくさない。曹操は、『兵法』がいう「観敵之動」をつかった。
趙一清はいう。西山とは、太行山をさす。『続郡国志』はいう。魏郡の鄴県である。ぼくは補う。ともかく袁尚は、自軍を守れるルートから、安全を確保して、鄴県にもどった。

はたして袁尚は、西山をまわり、滏水にのぞんで軍営した。

『郡国志』はいう。鄴県には、滏水がある。左思の『魏都賦』にある。
袁尚が、鄴県をすくいにきた記事。
『三国志』袁紹伝:尚聞鄴急,將兵萬餘人還救之,依西山來,東至陽平亭,去鄴十七裏,臨滏水,舉火以示城中,城中亦舉火相應。配出兵城北,欲與尚對決圍。太祖逆擊之,敗還,尚亦破走,依曲漳為營,太祖遂圍之。
尚聞鄴急,將軍萬余人還救城,操逆擊破之。尚走依曲漳為營,操複圍之。


曹瞞傳曰:遣候者數部前後參之,皆曰「定從西道,已在邯鄲」。公大喜,會諸將曰:「孤已得冀州,諸君知之乎?」皆曰:「不知。」公曰:「諸君方見不久也。」

『曹瞞伝』はいう。曹操は、袁尚が西道から、邯鄲にむかったと知った。曹操は言った。「諸将には分からんだろうが、私はすでに冀州をえた」と。

夜遣兵犯圍,公逆擊破走之,遂圍其營。未合,尚懼,故豫州刺史陰夔及陳琳乞降,公不許,為圍益急。尚夜遁,保祁山,追擊之。其將馬延、張顗等臨陳降,眾大潰,尚走中山。

曹操は、袁尚の軍営をかこむ。袁尚はおそれ、もと豫州刺史の陰夔と、陳琳とが、降伏を申しこむ。曹操はゆるさず。袁尚はにげて、祁山をたもつ。

『三国志』袁紹伝はいう。袁尚は、濫水ににげた。『後漢書』袁紹伝では、藍口ににげた。章懐注はいう。安陽県のさかいに、藍嵯山がある。鄴県とちかい。袁尚が行ったのは、おそらく藍山の口だろう。盧弼はいう。祁山は、諸葛亮がいた場所だ。誤りである。
ぼくは補う。袁尚は、鄴県の包囲を解きにきたが、迎撃され、にげた。

袁尚の部将・馬延、張顗らがくだる。袁尚は、中山ににげる。

『郡国志』はいう。冀州の中山国である。国治は、廬奴。『御覧』巻356は、曹操が袁尚をやぶったときの上言をのせる。「逆賊の袁尚は、郡国をふるわしたが、私がやぶった。袁尚は、ニセの斧鉞と、大将軍、コウ郷侯の印綬をすてていった」と。ぼくは思う。大将軍、コウ郷侯は、袁紹のもの。
袁尚の敗北について。
『三国志』袁紹伝:未合,尚懼,遣陰夔、陳琳乞降,不聽。尚還走濫口,進複圍之急,其將馬延等臨陳降,眾大潰,尚奔中山。盡收其輜重,得尚印綬、節鉞及衣物,以示其家,城中崩沮。
未合,尚懼,遣陰夔、陳琳求降,不聽。尚還走藍口,操複進,急圍之。尚將馬延等臨陣降,眾大潰,尚奔中山。盡收其輜重,得尚印綬節鉞及衣物,以示城中,城中崩沮。だいたいおなじ。


盡獲其輜重,得尚印綬節鉞,使尚降人示其家,城中崩沮。八月,審配兄子榮夜開所守城東門內兵。配逆戰,敗,生禽配,斬之,鄴定。公臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物,賜雜繒絮,廩食之。

曹操は、袁尚の印綬・節鉞を手にいれた。鄴城のなかは、崩沮した。8月、審配の兄子・審栄が、東門をひらく。審配を斬った。

審配の奮闘について。
『三国志』袁紹伝: 配兄子榮守東門,夜開門內太祖兵,與配戰城中,生禽配。配聲氣壯烈,終無撓辭,見者莫不歎息。遂斬之。
先賢行狀曰:配字正南,魏郡人,少忠烈慷慨,有不可犯之節。袁紹領冀州,委以腹心之任,以為治中別駕,並總幕府。初,譚之去,皆呼辛毗、郭圖家得出,而辛評家獨被收。及配兄子開城門內兵,時配在城東南角樓上,望見太祖兵入,忿辛、郭壞敗冀州,乃遣人馳詣鄴獄,指殺仲治家。是時,辛毗在軍,聞門開,馳走詣獄,欲解其兄家,兄家已死。是日生縛配,將詣帳下,辛毗等逆以馬鞭擊其頭,罵之曰:「奴,汝今日真死矣!」配顧曰:「狗輩,正由汝曹破我冀州,恨不得殺汝也!且汝今日能殺生我邪?」有頃,公引見,謂配:「知誰開卿城門?」配曰:「不知也。」曰:「自卿(文)榮耳。」配曰:「小兒不足用乃至此!」公複謂曰:「曩日孤之行圍,何弩之多也?」配曰:「恨其少耳!」公曰:「卿忠於袁氏父子,亦自不得不爾也。」有意欲活之。配既無撓辭,而辛毗等號哭不已,乃殺之。初,冀州人張子謙先降,素與配不善,笑謂配曰:「正南,卿竟何如我?」配厲聲曰:「汝為降虜,審配為忠臣,雖死,豈若汝生邪!」臨行刑,叱持兵者令北向,曰:「我君在北。」 審配は、魏郡の人。沈欽韓はいう。『陳球碑』によると、陳球の故吏・陰安の審配がある。審配は、陰安県の人だ。袁紹の治中別駕となる。治中別駕は、武帝紀の建安三年にある。審配は「辛毗と郭図が、冀州をほろぼした」と怒った。審配は「鄴県を包囲する曹操を射たが、あたらず残念だ」と言った。「わが君は北にいる」と死んだ。
胡三省はいう。袁紹のもとで、袁氏のために死んだのは、審配だけだ。「わが君は北にいる」とは、袁尚が北にいることをさす。
『三国志』袁紹伝で、裴松之はいう。楽資『山陽公載記』と、袁イ『献帝春秋』は、審配が井戸に逃げこんだという。審配が逃げるはずがない。ウソである。
審配の奮闘は、『後漢書』がコンパクトにまとめる。
審配令士卒曰:「堅守死戰,操軍疲矣。幽州方至,何憂無主!」操出行圍,配伏弩射之,幾中。以其兄子榮為東門校尉,榮夜開門內操兵,配拒戰城中,生獲配。操謂配曰:「吾近行圍,弩何多也?」配曰:「猶恨其少。」操曰:「卿忠於袁氏,亦自不得不爾。」意欲活之。配意氣壯烈,終無和橈辭,見者莫不歎息,遂斬之。全尚母妻子,還其財寶。審配は士卒に言った。「袁尚は幽州にいる。がんばろう」と。審配の兄子・審栄は、東門校尉だ。審栄は、曹操をまねき入れた。

鄴県がさだまる。曹操は、袁紹の墓と妻をおもんじる。

裴注で、孫盛はいう。曹操は、劉邦が項羽にやったことと、おなじミスをした。
趙一清はいう。『後漢書』孔融伝はいう。曹操は鄴城をほふり、曹丕は甄氏をめとった。孔融は、ウソの故事をかたって、皮肉った。ぼくは思う。知ってる。
曹操が袁紹をとむらったことは、評価がわかれる。はぶく。


初,紹與公共起兵,紹問公曰:「若事不輯,則方面何所可據?」公曰:「足下意以為何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之眾,南向以爭天下,庶可以濟乎?」公曰:「吾任天下之智力,以道禦之,無所不可。」

はじめ袁紹は「河北による」と言い、曹操は「天下の智力をあつめる」と言った。

傅子曰:太祖又雲:「湯、武之王,豈同土哉?若以險固為資,則不能應機而變化也。」『傅子』はいう。曹操は袁紹に言った。「ひとつの土地に居ついたら、変化に対応できない」と。
何焯はいう。袁紹は、光武帝にならった。ぼくは思う。ほんとうに光武帝のマネだろうか。『後漢書』光武帝紀を、ちゃんと読みこまないと。そして、この逸話は、いかにも後日に捏造されたっぽい。袁紹が河北により、曹操が根拠を、兗州-豫州-冀州と移動させたことを知る人が、つくったのだ。曹操を正当化するために、つくったのだ。行きあたりバッタリを、いかにも計画的だと演出した。
『傅子』について、盧弼がたくさん注釈する。はぶく。郭嘉伝にひく『傅子』は、ここ武帝紀にひく『傅子』をむすびつく。


建安九年(204)冬 袁譚が、袁尚と曹操を攻める

九月,令曰:「河北罹袁氏之難,其令無出今年租賦!」重豪強兼併之法,百姓喜悅。
魏書載公令曰:「有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。袁氏之治也,使豪強擅恣,親戚兼併;下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命;審配宗族,至乃藏匿罪人,為逋逃主。欲望百姓親附,甲兵強盛,豈可得邪!其收田租畝四升,戶出絹二匹、綿二斤而已,他不得擅興發。郡國守相明檢察之,無令強民有所隱藏,而弱民兼賦也。」

9月、曹操は令した。「河北は、今年の租賦をとらない」と。豪強が、兼併することを禁じた。『魏書』は、令をのせる。「袁紹は、豪強に兼併をゆるした。審配は、罪人をかくまった。豪強の貯蓄をはきださせ、貧民から税金はとるな」と。

『文館詞林』は、これを「魏武帝の田租をおさむる令」と題す。
ぼくは思う。袁紹の政策が、どのようだったか、知ることができる令文。おそらく、たくさんの論文で、扱われているだろう。ちゃんとノートをとってないので、わからん。。


天子以公領冀州牧,公讓還兗州。

天子は、曹操を冀州牧とした。

『後漢書』献帝紀はいう。建安九年(204)秋8月戊寅、曹操は袁尚をやぶり、冀州牧となる。袁宏『後漢紀』はいう。曹操は復古の制をしき、九州にもどそうとした。荀彧が反対した。『三国志』荀彧伝とおなじ。
『三国志』董昭伝はいう。董昭は、建安四年、冀州牧となる。冀州はたいらがず、董昭は司空の軍事に参じた。賈詡伝はいう。賈詡は、建安四年、冀州牧となる。曹操が冀州牧となると、賈詡は、大中大夫となった。

曹操は、兗州牧をやめた。

胡三省はいう。曹操は兗州を支配する。ほんとうに兗州を、返上したのでない。梁商鉅はいう。建安十三年、後漢は三公をやめて、丞相、御史大夫をおく。曹操は丞相となる。また建安十八年(213)、天子は、御史大夫の郗慮に持節させて、曹操を魏公とした。建安二十一年、魏王とした。記載のスタイルは、すべて「天子が、曹操に××させた」である。いっぽう『後漢書』献帝紀は、みずから曹操が、官爵をあげたように記す。盧弼は考える。陳寿の時代は、曹操について直接かけなかった。南朝宋の范曄は、曹操について直接かけた。
ある人はいう。兗州は、曹操のはじめの根拠地だ。返上するわけがない。


公之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河間。尚敗,還中山。譚攻之,尚奔故安,遂並其眾。公遺譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進軍。譚懼,拔平原,走保南皮。十二月,公入平原,略定諸縣。

曹操が鄴城をかこむと、袁譚は、甘陵、安平、勃海、河間をうばう。袁尚がやぶれて中山にゆくと、袁譚が中山をせめた。袁尚は、故安(涿郡)ににげる。

『郡国志』はいう。冀州の清河国は、国治が甘陵。安平国は、国治が信都。河間国は、国治は楽成。
劉昭はいう。清河国は、桓帝の建和二年、甘陵国にあらためる。
高幹と袁譚について。
『三国志』袁紹伝:高幹以並州降,複以幹為刺史。太祖之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河間,攻尚於中山。尚走故安從熙,譚悉收其眾。太祖將討之,譚乃拔平原,並南皮,自屯龍湊。
『後漢書』袁紹伝:高幹以並州降,複為刺史。曹操之圍鄴也,譚複背之,因略取甘陵、安平、勃海、河間,攻尚於中山。尚敗,走故安從熙,而譚悉收其眾,還屯龍湊。
龍湊は、初平三年に、公孫瓚が袁紹をうった場所。胡三省はいう。平原の境界。『漢晋春秋』は、袁紹が公孫瓚にあたえた文書をのせる。けだし龍湊は、渤海の境界にある河津だ。袁譚は龍湊にきて、曹操にせめられた。平原をぬかれ、南皮にゆく。この移動の経路から考えると、平原の境界だろう。平原と渤海の境界だとも。

曹操は袁譚に文書して、違約をせめ、娘をかえした。曹操は、袁譚に進軍する。袁譚はおそれ、平原をぬけ、南皮をたもつ。12月、曹操は平原で、諸県をさだめた。

盧弼はいう。曹操は鄴県で袁尚をやぶり、はじめて袁譚に軍をむけた。
袁譚の最期について。翌正月にまたがるが、まとめて載せる。
『三国志』袁紹伝:十二月,太祖軍其門,譚不出,夜遁奔南皮,臨清河而屯。十年正月,攻拔之,斬譚及圖等。
『後漢書』袁紹伝:十二月,曹操討譚,軍其門。譚夜遁走南皮,臨清河而屯。明年正月,急攻之。譚欲出戰,軍未合而破。譚被發驅馳,追者意非恒人,趨奔之。譚墜馬,顧曰:「咄,兒過我,我能富貴汝。」言未絕口,頭已斷地。於是斬郭圖等,戮其妻子。 袁譚は落馬して、かえりみた。「ああ、ガキ(郭図)が私を誤らせた。私はガキを、富貴にしてしまった」と。言い終わるまえに、袁譚のクビがおちた。郭図は斬られ、妻子も戮された。ぼくは思う。『後漢書』は、袁紹に好意的だから、こんな名場面をつくってくれた。


つぎは、建安十年(205)。つづきます。