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- 著者による前書き
方北辰『曹丕/文豪天子』北京大学出版社 2013 の抄訳です。
北京増補版自序より
曹丕は、曹魏の初代皇帝であり、古典文学の里程碑でもある。曹操の執政期にすでに三十歳を越え、彼が皇帝であった時期は短く、満六年ほどである。
政治では九品官人の制をつくり、軍事では西域を開通させ、礼制では厚葬を禁止した。だか曹丕の名をもっとも後世に伝えたのは、文化の領域である。文学の社会における効用を「経国の大業」と提唱した。文学サロンを創出し、同時代の文学作品を批評した。曹丕の批評は、「文人 相ひ軽んず」に該当するわけではない。曹丕は先進的であり、中国式の百科全書「類書」の編纂を決定した最初の皇帝である。
曹丕は「徳を立つること」の難しさを知り、自己の徳を際立たせることはなかった。「功を立つること」で、曹操に勝つ望みはない。だから曹丕は、文学において「言を立つること」に活躍の場を見出した。文学作品において名を永久に留めた。ただし漢魏革命において、長距離走の競技のような文書を作成し、形式上は華麗であるが、内容は虚偽であり、笑われるべきものである。後世の人々に、華麗な文書であっても内容が伴わねば笑われる、という教訓を示したものだ。
本書では曹丕について、彼の文学に於ける輝き、死に対するすぐれた見解、政治における虚偽や誇張、机上での軍事の談義、兄弟や骨肉に対する冷酷・無情を記したい。これら全てが、「文豪皇帝」の栄辱の歴史である。
台北初版の自序より
濾州で友人と「三曹」については話していたとき、博学な者が言うには、「近年、曹操と曹植の伝記は少なくないが、曹丕の伝記を見ない。曹丕の人生は前後で変化が大きい。曹操の生前は、恭敬孝順であったが、曹操の死後は父の侍妾を手に入れた。妻子は、はじめ甄氏に温柔に接したが、のちに殺した。兄弟は、はじめは情は深く義は重かったが、皇帝になると諸王を酷薄に待遇した。曹丕の伝記をつくることは困難で、ゆえに誰も着手しないのだろう」と。
このとき筆者は酒に酔っており、「そのように複雑に変化する人物だからこそ、真実を記述してやろう」と約束してしまった。曹丕は、政治において昏庸な者でなく、文学において卓越しており、生活において奇聞趣事がある。これらを読者に紹介したい。
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- 1-9 魏王の太子まで(作成中)
1 鄴城で艶を狩る
建安九年(204)秋8月のある日、鄴県の残酷な攻城戦に決着がついた。大将軍 兼冀州牧を自称する袁尚が敗れて、夜に中山郡に逃げた。袁氏は14年にわたり根拠地とした鄴県の城池を失った。
鄴城の南の漳水の方面から、司空 兼兗州牧の曹操が殺到した。数万の精兵で、鄴城を包囲すること半年、ついに勝利した。
後漢末、袁紹と曹操は、黄河の南北に割拠する最大勢力であった。建安五年(200)、袁紹は幕僚の陳琳に一千字の檄文を書かせ、祖父の代からの曹操の罪を州郡に告げた。兵十万と鉄騎一万で、袁紹は黄河を渡って兗州を攻めた。同年十月、曹操は兵糧を焼いて、袁紹を官渡で破り、七万余級を斬首した。翌年、袁紹は病死した。
袁紹の死後、袁尚が?城を継承した。建安九年二月、曹操が?城を包囲して、五月に北郊の?河を決壊させ、城内に流し込んだ。袁尚は八ヶ月苦しみ、ついに敗北した。?城は混乱した。真っ先に城内に進んだのは、張遼、楽進、張郃、徐晃らである。城内は泥まみれであった。
だが鄴城の西北に、大道があり、ここだけが平静であった。大道の東西に一隊ずつの騎兵が守る以外、誰も居ない。大道の両側には、朱門や高楼がならぶ。もとの袁紹の官府と私邸が、西の大街にあったのである。
鄴城が陥落したとき、曹操は侍従衛隊長の許褚に、密令を出した。陥落したら、衛兵1千人で、西の大街に警戒線をしけと。これで西の大街にある袁家の財産が掠奪されることなく、秩序が保たれた。
正午前、城中の混乱は収束した。このとい、城南の曹軍の軍営から、40-50人の騎兵が飛び出した。西の大街にある袁家の府邸に突入したのは、曹丕である。187年生まれで、このとき18歳。このとき曹丕は、袁氏の府邸を巡視・督察していた。
曹丕が西の大街の東口にくると、許褚に曹操の指示を伝えた。袁氏の府邸とは、大将軍府と冀州牧府である。文書や符節が、破壊や紛失されていないか、確認にきた。曹丕は、許褚がよく府邸を保存しているので、賞賛してから、袁氏の私宅に入った。
袁氏の成年男子はみな州外におり、奴婢もおおくが故郷に逃げた。だが数十人の婦女老幼は残っていた。曹丕は、4-5人の供と許褚を連れて、内院に入った。そこで甄氏を見つけた。曹丕は、袁紹の妻の劉氏らの命を救うことにした。甄氏は23歳であり、のちに曹叡を生んだ。
2 南皮に暢游する
曹操は、みずからを冀州牧とした。青州の袁譚は、領域が冀州の東北部(勃海、河間、安平、清河)に越境して攻めてくる。曹操は袁譚を攻め、曹丕が鄴城を留守した。
曹操が北伐するとき、ずっと本拠地の鄴県を守ったのは曹丕。つまり曹丕のほうが、「魏」に長くいた。武帝紀を読むと、曹操の後方を忘れそうになる。文帝紀を読むと、この時期について記述がない。だからぼくは、曹丕のお留守番を認識してなかった。曹丕が北上してから、半年で曹丕に良いことがあった。甄氏と心を通わせた。
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- 16 漢に代わりて受禅す
曹丕が鄴城を出て孫権を攻める
延康元年(220)六月、34歳の魏王の曹丕は、みずから6軍10余万をひきい、鄴城を離れて、孫権を南征するとした。受禅の活劇が開幕した。
ときに炎夏だが、なぜ曹丕は南征したか。多くの官僚には分からない。これは曹丕の「東に声して西を撃つ」計略である。途中で西に転換して、許都の献帝にむかう。計略が秘密なので、度支中郎将の霍性は上疏して、出陣を諫めた。曹丕は霍性を殺してしまった。
霍性の話は、文帝紀にそのまま書いてある。ときに夏末で、酷暑である。飾金の専車のなかで、曹丕は汗だくである。2日目の午後、大軍は黎陽県の白馬津についた。北岸から黄河を南渡する準備をした。渇き疲れた士卒と戦馬が、黄河を見て秩序を乱したが、鎮定した。曹丕の前に、洛陽で魏王の璽綬を(曹彰から)保護した、賈逵が現れた。曹丕は笑って、賈逵に南征の本当の目的を伝えた。
渡河してからも南進を続けた。鴻沟水を離岸して、豫州に入ってから、東して渦水に入り、流れに沿って移動した。進んでは停まり、停まっては進み、七月下旬に豫州の州治である譙県の城下にきた。
譙県につくと、曹丕は賈逵を召した。曹丕「豫州は私の腹心の地である。きみは私の腹心の臣である。私はこの州で游猎(狩猟)をする。きみの管轄地域に面倒をかけるが良いか」と。
賈逵は聡明であるから、魏王が孫権を南征せず、豫州に留まって、何を狩るのかを把握した。豫州の頴川の許県には、献帝がいる。曹丕は賈逵に、献帝を狩るあいだ、安全を維持せよと命じたのだ。賈逵は、「殿下は四海の百姓のために、上は天、下は民の期待を裏切られませんように」と答えた。
曹丕は、賈逵が帝位を勧めていると気づいた。笑って多くを語らなかった。賈逵は、豫州刺史の州府に帰った。
賈逵のこの役割は、文帝紀を読むだけでは気づけなかった。賈逵伝を読むべきだ。この譙県は、州治であるだけでなく、曹氏の故里でもある。曹丕は幼少のとき故里を離れて、成人してからも戻れなかった。魏王として帰郷して「錦を着て昼に歩く」心地だった。漢高祖が称帝してから郷里の沛県に戻り、光武帝が称帝してから南陽郡に戻ったのを、マネしたい津郷だった。曹丕はここで六軍の将士をねぎらい、現地の父老・百姓もねぎらった。酒に酔ってから、従軍の芸人が伎楽・百劇を演じた。
父の喪中のはずなのに、バカ騒ぎする。孫盛に批判される。しかし魏王として帰郷したのだから、騒がずにはいられない。政治が喫緊だから、服喪に時間を費やすなといった曹操の遺言を、曹丕はきちんと守っている。曹丕は譙県の租税を2年間 免除した。夕方になり、曹丕は行宮にもどった。
祖宗の陵墓を祭り、郷里の親族をたずねて、曹丕は9月に譙県を離れた。江東を撃つといい、東南にむかい、渦水から淮河に入った。ふたたび芍陂を通り、合肥の前線に向かおうとした。だが曹丕は、孫権の討伐を忘れたかのように、西に向かって、10月4日(丙午)、頴川郡の頴陰県の曲蠡にきた。曹丕の伝令は、各軍に安息を伝えた。1ヶ月も留まった。
禅譲の第1幕 勧進・詔書と辞譲
曲蠡は頴水の北岸にある小さな郷鎮であるが、どうして曹丕はここに留まるか。歴史地図を見ると、奥妙が明らかとなる。曲蠡の正北には50里も離れず、許県がある。曹丕は10万を率いて、献帝の眼下にいた。進むようで進まず、退くようで退かず、献帝は食べても味わえず、寝ても安らげない。
曹丕は曲蠡に3日間いたが、心中を明らかにしない。左中郎将の李伏が「勧進」してきた。つまり曹丕に皇帝となれと言った。李伏が祥瑞を理由に、魏が漢に代わるべきだと述べた。曹丕は、外部にこれを伝えて見せた。「私は徳が薄いので、祥瑞には該当しない」と。
もし曹丕が本当に「徳が薄くて該当しない」と思っていたなら、李伏の上表を握りつぶせば良い。だが、なぜ外に示したのか。郡臣に上表を見せたのは、曹丕が李伏と同意見だからではないか。曹丕が上表を示したところ、郡臣たちは勧進を始めた。この政治的な旋風は、孟冬の朔風をおこして、献帝の許都に吹きこんで心胆を寒からしめた。40歳の献帝は、9歳のときから32年間、傀儡の皇帝であった。董卓、李傕、のちに曹操、曹丕に脅かされた。献帝は侍従について、漢室の官僚を召集した。10人ほどの文武の臣僚がきた。献帝は禅譲の詔書を発した。
皇帝の詔書は、一般的に代筆する。これを書いたのは、漢の詔書の衛覬である。衛覬が書いたこの文書は「禅詔」とよばれる。礼義を主管する太常の張音を特使として、禅詔と天子の璽綬を曲蠡に届けた。これは10月13日(乙卯)である。
献帝が禅詔を発するより前に、文武の臣僚たちが勧進した。曹丕は辞退してから、頴水の両岸で狩りをしており、ゆったりしていた。張音が禅詔を届けると、魏王は行宮にもどった。「私は狩りをしているから、帰ってから回答しよう」と言い、馬を飛ばした。張音は5日も待たされ、結局 曹丕は受禅しなかった。
曹丕に官属は、禅譲はすでに定まったと考えて、儀式につかう壇場をつくった。このとき120名の官属が勧進をした。曹丕はまだ従わず、「なぜそんなに強要するか」と断った。
10月18日(庚申)、魏王は毛宗を派遣して、献帝に天子の璽綬を返還した。伝国璽は方寸(一辺が24ミリ)ある。映画では、子供の頭ほどの大きさで描かれるが、歴史とは異なる。袁術の死後、徐璆が献帝に返却した。伝国璽は、先に張音が曲蠡に持ってきて、あとで毛宗が許県に返却した。
伝国璽の往復は、1回では終わらない。10月20日(壬戌)、献帝は禅譲の詔書を曲蠡に運び、毛宗が許都に戻した。10月25日(丁卯)、張音が三度 曲蠡に運び、二日後(10月27日)に毛宗が辞譲の上書を許県に持って行った。だが伝国璽は返却されなかった。
10月28日(庚午)、献帝は禅譲の詔書を代筆している衛覬を、曲蠡に送った。曹丕は断ったが、押し切られて「可」と答えた。
ぼくは思う。曹丕を最終的に説得したのは、禅譲の詔書を3通も書いた、衛覬その人だった。衛覬の圧力に曹丕は屈した。衛覬が、口頭で曹丕に何を言ったのか、すごく気になる。これまでに献帝は、4回の禅詔をだし、臣僚の勧進は17回だった。曹丕が謙譲したのは20回である。中国の「禅譲」の歴史で、ここまで回数を重ねた記録はない。
これ以前には、曹丕のやった意味での禅譲はなく、これ以後には、曹丕の模倣しかないから。以上が禅譲の第一幕である。
禅譲の第2幕 天を祭る
曹丕が「可」と言った次の日、10月29日(辛未)、即位・告天の儀式をやった。数日前、すでに臣僚は壇場を築いて、完成させていた。壇場は曲蠡郷に属する繁陽亭の界内にあった。平坦な原野で、数万人を収容でき、2つの高台を築いた。北面にあるのは燎柴の台である。燎柴とは、柴を焼く祭祀の儀式である。台は正方形で、一辺は50歩、高さは7丈である。台の下には、皇天・后土の神位があり、その外には五岳と四瀆の神位がある。燎柴の壇の真南に、受禅の壇がある。壇は正方形で、一辺が30歩、高さは2丈である。広さも高さも、燎柴の壇よりも小さい。この壇上で皇帝の位を受禅した。壇の四周には、一万名以上の兵士が粛然と立って護衛した。
この日の朝、受禅の儀式が正式に始まった。曹丕は文武百官をひきい、行宮から受禅台にきた。数万の軍民が受禅台を囲む。皇帝の冠服をきて、曹丕はゆっくり登壇した。皇帝の位につき、北面して立った。公卿、列侯、諸将、匈奴単于、各州郡の代表、辺境の少数民族の代表が、序列ごとに登壇して、北面して曹丕に従う。静寂のなか、燎祭台の上で柴に点火された。黒焔がのぼる。曹丕は「告天地神祇文」を読んだ。
読み終わると、儀礼を司る官が曹丕の前にひざまづき、曹丕の手から文件を受けとった。受禅台から降りてから、燎祭台にのぼり、文件を柴の火に放り込んだ。青い煙がのぼり、神明が曹丕の報告を承諾した。
ここで、魏国の三公である相国の華歆が、金盤に天子の璽綬を載せて、曹丕の面前に提出した。曹丕は璽綬を受けとってから、煙の消えるのを見て、受禅台を降りた。万歳を叫ばれながら、傍らの臣僚に、「虞舜と夏禹の受禅の故事を、いま私は完全に理解した」と言った。
曹丕は献帝を寛大に扱った。宋武帝の劉裕、斉高帝の蕭道成、梁武帝の蕭衍らとはちがう。山陽公1万戸をあたえ、郊祭と天子の自称をゆるした。曹丕に上書するとき、臣を称さない。14年後、54歳で献帝は死んだ。
鄴県は北に寄りすぎ、許県では狭いので、洛陽を天子の所居とした。都城の5座を設定した。洛陽、譙県、許昌、長安、鄴県。5座の皇宮をつくった。天下が未統一なのに、土木工事をやった。140219
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