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黄巾の波才は、党錮された外戚・竇武と同族

霜梓さんが波才を話題にする

@shimo_azusa さんはいう。『通鑑胡注姓譜波姓也其先事王莽為波水将軍子孫以為氏』 波才くんに……( ゚Д゚)
ぼくはいう。波姓は、王莽のとき波水将軍になった者の子孫です。波水将軍とは、竇融のこと。竇融は後漢の外戚になったが、もとは王莽軍として光武帝と戦い、やぶれた。その過去を抹消するため、わざと名前が伏せられる。この胡注でも、竇氏とは書いてない。ということは、波才は、外戚なのか。竇武や竇太后と親族なのか。世代も、2つと離れてないはず。
ぼくは思う。外戚のなかから、黄巾がでてくる。後漢が自壊作用を起こしていることが、ここからも分かる。黄巾のなかに、高位高官との連携を見つけるのは、史料からは難しいが、理性に照らせば易しいのですw

にゃもさんが問題を設定する

@AkaNisin さんはいう。波才って竇融の後裔だったんすか(;゚д゚)
ぼくはいう。「王莽の波水将軍は、竇融である」「波氏は、王莽の波水将軍の子孫である(胡注)」という2つは確実。ここから推論すると、波才は竇融の子孫かもです。生物学的にどうあれ、社会的にはそのような認識があったことは、わりに固そうですかねー。
@AkaNisin さんはいう。すると、波氏がいつ頃に(竇氏から?)波氏に改めたのかが気になります。それになぜ改姓の由来を(祖先の汚点であるはずの?)波水将軍に求めたのか、も。

ぼくは思う。この疑問が、あまりに難しくて、見当もつかなかったのですが。「わかりません」と逃げてしまっては、せっかくの芽が摘まれてしまうので、考えてみました。意外に、良さげな着地点があったので、すごい。会話は楽しいなあ。


ぼくはいう。難問なので、『後漢書』から「波」を検索。伏波将軍(馬援)、白波の谷や賊、富波県(王覇伝、楊震伝)、波斯匿王(車帥伝)などの固有名。方今四海波蕩(公孫述伝)、願赴湘沅之波(寇恂伝)、風騰波涌(馮衍伝)などの地の文のみ。波姓は波才のみ。
ぼくはいう。波才のほかの波氏が見当たらないので、困りました。竇氏は、外戚として2回もピークを迎えますが、どちらも敗北して散らかります。求心力が低下し、傍流が「波氏」に降ったのでしょうか。外戚の家であることが、政治的に不利な時期に、改姓したとか?
ぼくはいう。胡三省が「波氏は、波水将軍の子孫である」と言ったのは、三国以後の波氏が、遡及的に決めた設定かも知れません。すると、いくら後漢を掘っても、答えは出てきません。三国以後の波氏って、ぼくは心当たりがなくてダメなんですが。ご存知ですか?

@AkaNisin さんはいう。竇武以降の竇氏って記録にありましたっけ?あんま憶えてないのですが…
ぼくはいう。武孫輔(中略)後舉桂陽孝廉。至建安中,荊州牧劉表聞而辟焉,以為從事,使還竇姓,以事列上。會表卒,曹操定荊州,輔與宗人徙居於鄴,辟丞相府。從征馬超,為流矢所中死。『後漢書』竇武伝によると、竇武の孫が馬超に殺されて終わりですw
@AkaNisin さんはいう。僕も、遡及的な設定かなと思いました。あとは、波才は実は「竇才」で、波姓に改めたのは彼以降なのか、と(・∀・ )

仮説をつくる

ぼくはいう。竇武の孫の竇輔は、党錮のなかで政敵から逃げるために「胡」姓に改めてます。劉表の庇護のもと「竇」姓に戻しました。波才もまた「竇」姓を隠して、「波」姓にしたのかも。党錮された連中が、黄巾を指導した、という大きな話に接続しますねー。
@AkaNisin さんはいう。それは面白そうです。しかも改姓の由来が王莽に与した「波水将軍」とは、漢への叛骨が出てますね(゚∀゚ )

ぼくは思う。あー、楽しかった。きっと波才について、日本でも中国でも、いちばん詳しいサイトになったに違いない。わからないけど。130429

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