読書録 > 『公羊注疏訳注』の隠公1、哀公14を抜粋

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『公羊伝』隠公元年の春

元年春、王の正月。

『春秋』の五始について

元年、春、王の正月。

ぼくは思う。経文は、紫色の網掛けとする。公羊注疏研究会『公羊注疏訳注』をこのページに限って『訳注』という。
何休はいう。疑義をたずねるとき「者何」という。
何休はいう。左氏学では、天子と諸侯をとわず、いずれも「元年」という表記をつかえる。『左氏伝』隠公元年の杜預注では、諸侯でも改元できるとある。それに対して公羊学では、天子に限って元年をつかえる。諸侯は元年をつかえない。魯隠公が「元年」というのは、魯を王国に見立てて、隠公を天命を受けた王と見なすから。
ぼくは思う。隠公って、天子の扱いだったのか!『左氏伝』のほうが、後漢末の群雄には、受けがよさそう。誰でも改元できるんだから。『公羊伝』を支持したら、「オレは天子じゃないだけど、魯隠公なみに天命を受けたから」と、長い説明が必要になる。
何休はいう。諸侯は元年をつかえない。隠公は、爵位は侯に過ぎないが、元年をもちいる。不審だから『公羊伝』が尋ねたのである。


元年者何?
元年とはなにか。
何休はいう。一般的な疑義をたずねるとき「者何」という。

ぼくは思う。経文は紫色の網掛け。『公羊伝』は緑色、その訳文は地の文。「注」は、一行あけて地の文。何休「疎」はグレーの枠内。という凡例で、まずは作ってみようと思います。
何休はいう。僖公5年秋、経文「鄭伯はにげて盟わない」について、『公羊伝』は「盟わないとは、どういうことか(者何)」という。注に「直前の経文に「諸侯」と書かれており、鄭伯も「諸侯」含まれる。これを踏まえて、弟子は不審に思ったのである」という。これは「者何」の用例である。また成公15年「仲嬰斉が卒した」とあるが、『公羊伝』に「仲嬰斉とはなにか(者何)」とある。「仲遂の跡継ぎではないかと、疑問に思ってたずねた」とある。「者何」の用例である。
何休はいう。一般的な疑義ではなく、他例をふまえて問難するとき、「曷為」「何以」「何」という。隠公元年に『公羊伝』で「どうして(曷為)先に王をいい、後に正月というのか」とあり、注で「「秋七月、天王」では、先に月をいい、あとに王という」のを踏まえて、と回答がある。『公羊伝』隠公元年「なぜ(何以)隠公が即位したといわないか」とあり、注に「文公は即位と記すが」と回答がある。『公羊伝』隠公元年「どうして(何)隠公の意志を成就させるか」とあり、注に「荘公が紀を救おうとして、結局なせなかったを譏るのを踏まえて」と回答がある。これらが用例である。
何休はいう。旧解はいう。『春秋』全編で、「曷為」「何」というとき、何かを踏まえているのだ。ぼくは思う。この用法は、絶対に覚えなければならない!ひとつ賢くなった。


君之始年也。
君の治世のはじめの年である。
何休はいう。 通例では、「元年春王正月」のつぎに「即位」が記述される。いま「即位」の文字がなくても、隠公の初年であることがわかる。

何休はいう。桓公、文公、宣公、成公、襄公、昭公、哀公には、すべて「元年春王正月、公即位」とある。隠公は例外だが、「元年春王正月」まで書けば、「即位」がなくても、即位したのだとわかる。

「君」とは魯隠公である。

何休はいう。春秋説によると、周の五等爵は、五精にのっとる。
『訳注』はいう。『礼記』王制に「元明包」の説として、ここの春秋説とおなじ内容がひかれる。
何休はいう。春秋説によると、公とは、ただしいの意味である。公正で私心を持たないという意味である。侯とは、したがうの意味である。王に対して恭順かどうか、しらべうかがう。また王命を待ちうかがう。伯とは、あきらかの意味である。徳をあきらかにわきまえる。子は、恩徳をましひろめる。男は職務をにない、業績をあげる。
『訳注』はいう。同音の漢字から、意味を連想してる。
ぼくは思う。へんに「ひらがな」がおおいが。『訳注』を踏まえている。漢字をあててしまうと、べつのニュアンスを持ってしまうので、退けているのだろう。
何休はいう。魯侯の「侯」とは、周王からもらった爵位である。隠公の「公」は、臣子が国内でもちいる呼称である。そこで「君とは、魯侯の隠公である」という、爵名のねじれそうな表現がされるのだ。
ひとつQ&A。
問う。五等爵のほか「附庸」というのはなぜか。
答える。春秋説はいう。庸とは通である。官がひくく、徳がすくないので、大国に付属するという意味だ。名をもって通じるのであると。
『訳注』はいう。「名をもって通じる」とは。a)国名を称して通行する。『公羊伝』荘公5年、「いまだ、その名を持って通ず能わず」を参照。b)国名を天子に通達する。『孟子』万章下「五十里に能わざれば、天子に達さず。諸侯に付すので、附庸という」と。『礼記』王制「五十里に能わざる者は、天子にあわず。諸侯に付して、附庸という」を参照。c)君主の諱によって、公式に通用する。d)君主の諱を他国に通告する。

孔子は「一」をかえて「元」とした。

何休はいう。「二年」「三年」と続くなら、「一年」で良さそうだが、「元年」という。その理由が書かれている。

元とは「気」である。無形からはじまり、有形となって分かれ、天地をつくりあげる。天地のはじめである。

何休はいう。春秋説に、元とは端(はじめ)である、気の泉である、という。水源に泉があるのと同じである。
何休はいう。春秋説に、無形が有形になってわかれる。見えない、聞こえないと。
『訳注』はいう。同じ表現は、『老子』14、『荘子』天運、知北遊にある。
何休はいう。宋氏はいう。無形から始まるとは、天空に日月星辰のかたちをなすこと。有形となって分かれるとは、山川草木のかたちをなすこと。有形と無形は、ともに元気から生じた。これを何休は「天地をつくりあげる。天地のはじめである」という。
『訳注』はいう。同じ表現は、『周易』繋辞上伝にある。

だから「春」を「元年」の前に位置づけるべきものはない。だから「元年、春」の語順になる。

春秋説はいう。王は天の運行にしたがい、紀年をさだめねば、治国済民ができない。ゆえに天の運行の始めである「春」をおき、そのあとに「王」という。
ぼくは思う。冬に1年がはじまる暦を使っている王朝は(漢家とは異なり)天の運行に従っていないことになる。

隠公なのに「公」でなく「君」というのはなぜか。王者も諸侯も「君」という。「君」を王者の意味で使うためである。

何休はいう。天子も諸侯も「君」を称せる。ただし天子は「公」を称せない。『儀礼』喪服の「君」について、鄭玄は注釈し、天子、諸侯、卿大夫まで、土地を所有する者はみな「君」と呼ばれるという。
何休はいう。いま魯国に依拠するのに、「公のはじめの年」といわず「君のはじめの年」というのはなぜか。諸侯は「元」を称せない。だが『春秋』では、魯を王国に見立てるので、「元」と書ける。『公羊伝』は暗に、魯公を王者とする道をひらこうとする。

王者だけが、あらたに元年を称して、紀年を定められる。

『訳注』はいう。ここは「魯侯を理念上の王者として、処遇するため」と解釈もできる。『訳注』72頁にある「春秋籍位、於魯、以託王義」の解釈を参照せよ。ぼくは思う。あとで参照する。まずは隠公元年をやって、感じをつかみたい。

『春秋』は新王の受命という理念を、魯に仮託してして表現する。そこで「元年」に関連して即位を記録する。王者とは、天衣を受け継ぎ、「元」を奉じて、万物を育成するものだと明らかにした。

春者何?
春とはなにか。
何休はいう。「春」だけが「王」の上にある。不審だからたずねた。

何休はいう。夏秋冬が「王」の上にこない。春だけなので、不審に思ったのである。


歲之始也。
1年のはじめである。

問う。元年、春、王、正月、公即位は、『春秋』の五始である。伝文は、元年、春、について「始めである」と記述するが、王、正月、について「始めである」といわない。なぜか。
答える。元は天地のはじめ、春は四季のはじめ。王、正月、公即位は、人事のはじめである。天道を尊重し、人事を簡略にあつかうことを示そうとしたのだ。

何休はいう。春は、天地が分かれたときのはじめ。

何休はいう。天地がわかれ、さらに分かれて四季となる。春がその4分割のはじめである。

生育のはじめ。法令が出されるとき。

何休はいう。『周礼』太宰職はいう。正月ついたち、法令がととのうと、諸侯や卿大夫にひろめる。法令を、王城の門にかかげ、10日後におさめると。つまり王城に掲げる法令は、決まった時期にだす。それが春なのだ。
ぼくは思う。へえ!

日没のとき、北斗の柄が東をさすのが、春である。南をさすのが夏。西が秋。北が冬。「歳」とは、四季の変化を総括した表現である。

何休はいう。王朝ごとに対比するなら。唐虞は「載」、夏室は「歳」、殷室は「祀」、周室は「年」とする。夏室の「歳」がよく使われるのは、夏室の暦法が、天の法則にかなうと考えるからだろう。

『尚書』堯典に、「閏月をもうけて四季をさだめ、歳を完成させる」とある。

鄭玄は『尚書』に注する。閏月をもうけて、四季が狂わないようにする。民衆に農時をしめす。出来事を記録できる。


王者孰謂?
王とはだれか。
何休は注する。経文の「王」を、ときの王と理解したくても、記述がない。

何休はいう。ときの王とは、周平王である。平王の行動は、この隠公元年秋7月に、「天王」として行動が記録される。

先王だと理解したくても、諡号を書いてない。だから『公羊伝』は、だれなんだと問うのである。

謂文王也。
文王のことをいう。
何休は注する。文王は、周室ではじめて受命した。だから天のはじめである。

何休はいう。文王ははじめに受命したので、「王」と「春」がつながっているのは、ふさわしい。どちらも始めだから。
何休はいう。『春秋』の道には、三王(夏殷周)の法がそなわり、天の三統に通じる。だが、なぜ周文王だけを指すのか。春秋緯『元命包』は、夏殷周をまとめて3代で認識する。なぜ周文王だけか。孔子が新王の法をつくったのは、周代である。文王の法を、孔子が用いるはずである。だから周文王だけなのである。
ぼくは思う。なんだか、よくわからん。「周代の記述だからね」という説明では、不足なのだろうか。
何休はいう。孔子は、新たな王が受命して、正月(暦)を制定することを、述べようとした。その手段として、文王が始めて受命して、暦を制定したことをもちいな。来るべきもののため、孔子が王法をつくった。じつは漢家のためである。

諡号をいわないのは、文王の生前にもとづき、死後には基づかないから。後王とともにするということである。

何休はいう。死ぬと諡をあたえるのが、周の制度である。文王は死んでいるのに「文」と諡をいわない。生きていたときの政治教化と暦とにもとづく。だから文王は(なお健在かのように)死後の諡をつけない。また「文」といわねば、「王」を後王に通用させることができる。「後王」とは、漢帝である。
ぼくは思う。このあたり、玩味すべきだなあ!


曷為先言王而後言正月? なぜ先に「王」といい、後に「正月」というか。
何休はいう。隠公元年で「秋7月、天王」とあるじゃないか。

ぼくは思う。王の正月と、(王の)7月に(天)王が、とでは、文の内容がちがう。不思議がる必要はないのだ。


王正月也。
王の正月だからである。
何休はいう。王者が受命して、制定した正月なのである。受命すれば、国都をうつし、暦法を改め、服色をかえ、徽号をべつにし、犠牲をかえ、器械を異にする。

何休はいう。堯は平陽、舜は蒲坂、文王は豊に都城を築いた。暦法をかえ、、以下は『礼記』大伝編にある。鄭玄注によると、徽号とは旗、器械とは楽器と兵器のこと。暦法を改めるとは、三種の暦が交替すること。
『礼記』明堂位に、変更する内容が記されている。その他、暦とか色について書いてある。はぶく。


何言乎王正月?大一統也。 なぜ、王の正月というのか。一統をとうとぶから。

何休はいう。正月をかく理由は、王者は天命をうけて、正月(暦)を制定し、それによって天下を統治し、万人万物が、この暦を尊重してしたがい、始め(活動の原点)にさせるためである。そこで「一統を重大視する」というのだ。
ぼくは補う。今後も何回も、何休は始まり(五始=元年、春、王、正月、公即位)の重要性をのべる。この始まりの記述を書くのは、よほど異常値であるという認識がある。

何休はいう。「統」とは、始めの意味である。すべてがつながること。新たな王者は、天命を受けるとすぐに制度を改め、政治教化を天下にひろめる。ゆえに、人は公侯から庶民まで、ものは山川から草木まで、それぞれ正月につながらないものはない。だから正月は、政教のはじめである。

隠公の「即位」が記されないこと

公何以不言即位?成公意也。
隠公はなぜ「即位」といわないか。

何休はいう。文公のとき「即位」とあるのに。即位は始まりなので、きちんと書かねばならないはずだから、このように『公羊伝』が問うのだ。
何休はいう。桓公元年春にも「即位」とあるが、わざわざ離れた、文公の記述と比較するのはなぜか。
何休はいう。文公の即位の記事こそ、正月に即位した最初の記事だから。桓公は簒奪して即位したので、比較の相手として適切でない。

隠公の意志を成就させるためである。

何休はいう。隠公11年、隠公が桓公に譲位しようと思ったとある。隠公2年以降、ずっと「正月」と記さない。隠公が譲位する意志をしめした。ただし元年だけ「正月」というのは、隠公が即位儀礼を行ったことを示すからである。隠公が、譲位するつもりなのに即位したのは、人民や臣下の心を満足させるため。
ぼくは思う。もし後漢の群雄が、献帝を入手できなくても、「献帝と合流したら、天子を取り下げる」と思っていたら。じぶんの王朝の歴史には、即位とか正月とか書かないだろう。まあ、同姓(隠公と桓公は兄弟)と異姓では、まったく違うが。また、季節をかくか、月をかくか、日まで書くかでも、『春秋』の義は異なる。あとでよめる。


何成乎公之意?
どうして隠公の意志を成就させるのか。
何休はいう。紀国を救おうとしたが、けっきょく達成できなかったことを、譏っているのを踏まえて。

何休はいう。荘公3年、「冬、公が郎で宿営した」とある。「宿営」というのは、紀国を救えなかったという意味である。紀国を救おうとしたのは善事である。救えなかったのは、善事の失敗である。隠公の譲位は、荘公の救援と同じである。かたや隠公をほめて、かたや荘公を譏るのは、どちらも同じ失敗なのに、一貫性がない。だから問難したのである。


公將平國而反之桓。曷為反之桓?桓幼而貴,隱長而卑,
隠公は、国を平らげて(安定させて)から、桓公に返そうとした。どうして桓公に返すのか。桓公は幼(こども)だが、身分がたかい。隠公は長(おとな)だが、身分がひくい。

ぼくは思う。みんなが勉強する『春秋』の冒頭の隠公が、「即位する意志はないけど、正当な弟(のちの桓公)が幼いので、仮に即位しました」という、ピンチヒッターである。また隠公も桓公も、母親の身分があまり変わらない。最後に隠公は、弟に放逐される。こんな話ばかり読まされるから、みんな兄弟で争うようになったのである。礼教が混乱した理由のひとつは『春秋』であるw

何休はいう。「長」とは20歳で正当な世継として、冠をつけたこと。

ぼくは補う。加冠の儀礼につき、鄭玄が書いてあるが、はぶく。
何休はいう。『左氏伝』襄公9年では、魯襄公は12歳で加冠した。『八代記』で少コウは12歳で加冠する。天子や諸侯で、年少で即位した者は、みな12歳で加冠した。だから『五経異義』の古文『尚書』はいう。周武王が崩御したとき、周成王は13歳。1年後に管蔡が反乱したので、周公は洛邑に難をさけた。同年、周成王は14歳で加冠した。
何休はいう。必ず20歳で加冠する理由は、『五経異義』の今文『礼載』に、男子は陽であり、陰により完成する、だから20歳で加冠して、正当な世継と示すと。庶子の場合、阼階で冠をつけないことを示すのだ。


其為尊卑也微,國人莫知。
隠公と桓公の尊卑は、わずかの違いに過ぎない。

何休はいう。2人の母は、いずれも媵である。
何休はいう。むかし諸侯は9人をめとる。嫡室1人、媵2人である。媵には左右がある。このように、尊卑の差異は明らかである。それなのに国人は、尊卑が明らかでないという。魯恵公が、きちんと表明しなかったのだ。

国人(魯国の一般)は、違いを知らなかった。

何休はいう。知らなかったとは、2人の父の恵公が、尊卑の区別をはっきりさせなかった。男子は60歳になると、房事を閉ざす。世継がなければ、身分のたかい(庶出の)公子を立てる。死期が迫ったときも同じだ。
何休はいう。公が60歳に満たねば、庶子を世継に立てられない。いちど庶子を立て、のちに嫡子が誕生して廃せば、道義を乱すからだ。
ぼくは思う。劉封の件で失敗した、劉備である。


隱長又賢,諸大夫扳隱而立之。
隠公は成人であり、顕明なので、大夫たちが隠公を立てた。
何休はいう。隠公の即位した経緯を記さないのはなぜか。『春秋』以前のできごとであり(『春秋』はこの隠公元年に始まる)さかのぼって裁かないのためである。

何休はいう。公子キが隠公を弑して桓公をたてた事例(隠公4年)、仲遂(公子遂)が子赤を弑して宣公をたてた事例(宣公8年)は、いずれも弑殺した者をおとしめ「公子」と取り去ることで、事実を示している。
何休はいう。桓公をたてず、かりに隠公をたてた大夫たちも、同じように不正である。どうして罪を示さないのか。『春秋』に収録する以前のことである。王者が受命すると、それ以前の事件はさかのぼって裁かないことを明確にしたいためである。
ぼくは思う。公子(袁逢の子)、仲(国号)、遂(術と同音)、赤(火徳)など。宣公8年の記事は、わりに味わい尽くせそうであるw そんな予言があったことにしても良い。ダメか。

孔子は「教育しないでおき、罪を犯すと殺すことを「虐」という。注意を与えないでおき、成果を調べることを「暴」という」という。

ぼくは思う。こういう会社の上司は、いるだろう。
『論語』堯曰からの引用である。
『訳注』はいう。何休は『論語』にも注釈したという。


隱於是焉而辭立,則未知桓之將必得立也。且如桓立,則恐諸大夫之不能相幼君也,故凡隱之立為桓立也。
隠公が位を辞したとしても、桓公が位につけるか分からなかった。

何休はいう。公子は1人ではなかった。
ぼくは補う。隠公がつかなければ、自動的に桓公に回ってこない。ほかの公子が、つまり隠公でも桓公でもない公子が、即位してしまう可能性があったと。

かりに(且如)桓公が位についたとしても、大夫たちが、幼君(桓公)を補佐しないのではないかと、心配だった。

何休はいう。隠公は、大夫たちが正当な後継者(桓公)に背を向けて、自分(隠公)を立てようとするのを、不正だと考えた。もし桓公が立っても、大夫が支持しないことを心配した。
ぼくは思う。道義をゴチャゴチャいうのを省けば。大夫たちから見て隠公は、いかにも有能そうな公子だったのだろう。最期が残念なので、諡号がきたないけど。まして隠公と桓公は、あんまり母親の身分が変わらないらしいじゃないか。

ゆえに、およそ隠公が位についたのは、桓公のためを思ったため(隠公なら桓公に譲る意志があるので)である。

何休はいう。「およそ」というのは、2つはいずれもダメだという意味である。2つとは、隠公が辞退しても桓公が即位できないかも知れないこと、桓公が即位しても補佐を得られないこと。 だから隠公は、まず自分が即位して、桓公が成長したら、桓公に位をまわそうとした。


隱長又賢,何以不宜立?
隠公は年長で賢明なのに、なぜ位についてはならないか。
何休はいう。秦繆公は賢明なので、秦の大夫から担がれた。

何休はいう。文公12年の経文で、「秦の大夫が遂を来聘させた」とある。『公羊伝』に「秦に大夫はいない。またどうして「遂」という名を書くのか。繆公を賢とするからである。なぜ賢なのか。改心できたからである」とする。その注に「繆公は改悛して、西戎の覇者となった。中華に正式に使節を派遣できたので、秦家をほめて、大夫がいるかのように記したのである」とある。
何休はいう。いまここも、隠公の譲位の意志をほめている。それなのに、なぜ隠公の即位をゆるさないのか。秦繆公がよいなら、魯隠公もいいじゃねえか。そう問難するのである。
ぼくは思う。秦繆公も「遂」というらしい。「遂=術」は、今日すでに2人目。特集したい。なにかの予言が見つかるかも知れない。
ぼくは思う。『春秋』は膨大に思えて、手を出しかねていた。でも孔子が見聞した君主12代だけの記録。ウィキペディアみたら、34代もいる魯の君主のうち『春秋』で扱うのは、14代目から25代目のみ。興味をしぼって、取り組むことができそう。収録は242年間だから、後漢+曹魏と同等の時間。かつ内容スカスカ。

カク且は年長ゆえに、位につくことができた。なぜ隠公だけが、ダメなのか。

何休はいう。文公14年、晋の世継を決定する記事がある。2人の候補は、身分の高さが同等であり、カク且が年長であった。カク且は、年長ゆえに即位を認められた。
何休はいう。年長なのは晋のカク且、賢者なのは秦の繆公を踏まえているのである。
ぼくは思う。晋のカク且(かくしょ)の漢字がでない。「なんでパソコンで漢字が出ないんだよ」と怒れる反面。『春秋』の漢字を、ほぼ網羅的にパソコンで使えることのほうが、よほど驚きではないかと気づく。文化の連続性って、すげー。科学のチカラよりすげー!


立適以長不以賢,立子以貴不以長。 適(嫡室の子)を世継に立てる場合、長幼にもとづき、賢愚にもとづかない。子(庶出の公子)を立てる場合、貴賤にもとづき、長幼にもとづかない。

ぼくは思う。『春秋』のはじめのテーマが、だれを後継者にすべきか。魯の歴史を、どこから切り取っても良かったのに、あえてここから。よほど孔子サマも、関心を持っていた(と認識された)のだろう。父の恵公は、死んだことにより免責され、嫡子なく残された者たちが、ゴタゴタする。これは、人類に普遍的なテーマなのでしょう。『春秋』の五始により、王者の始まりを強調する。王朝の難しさは、人間が運営するので断絶するが、それでも永続する(周文王の暦は永遠)というフィクションを共有すること。そのギャップに、『春秋』は冒頭から苦しむのだ。普遍的なテーマなんだなあ。

何休はいう。嫡室の子は、他に匹敵する者がないほど尊いので、年齢で選ぶしかない。庶出は、身分に貴賤がある。また同時に生まれた場合に混乱するから、母親の貴賤で決める。

ぼくは思う。なるほど。母親が複数なら、ほぼ同時ともあり得る。母親の身分なら、生物学的な事情=身体性に左右されない。
このあと何休は、質家(質朴を旨とする王朝)と、文家(文華を旨とする王朝)に場合わけして、世継をえらぶ優先順位をのせる。はぶく。
何休はいう。双子の場合、質家は出産の順序によって、先に生まれた子を立てる。文家は、本来性(本意)によって、後から生まれた子を立てる。いずれも偏愛による争いを防ぐためである。
ぼくは思う。質家と文家でも、ルールが異なる。これは、それぞれの規定が重要ではない。いかに孔子サマでも「ひとつに決められない」という事情がある。これを諒解すれば良いのである。
ぼくは思う。これはまさに、袁術と袁紹の論争につながるのだ。ただし、庶出の袁紹が上になるという結論は、いかに曲解しても導出できないけれど。
ぼくは思う。袁術と公孫瓚の教養。「子以母貴、母以子貴」は、『春秋』の冒頭だけを勉強した人でも知ることができる。これを引用したからといって、『春秋』を修得したと見なすことはできない。隠公元年正月なので、収録期間の3千分の1でも読めば登場する。『春秋』に一瞬で挫折しても、これはアタマに残るのだ。


桓何以貴?母貴也。母貴則子何以貴?子以母貴,母以子貴。
桓公はなぜ貴いのか(隠公も公子なのに)。桓公の母が貴いから(右媵だから)である。母が貴いと、その子はなぜ貴いのか。子は母の序列によって貴く、母は子によって貴いからである。130515

ぼくは補う。なぜ子は母によって貴いか。誕生の先後で決めてしまうと、複数の女性が接近した時期に出産した場合、区別がつかなくなるからである。正室は、腹が1つしかないので、この種類の混乱は起きない(例外としての双子の規定は、さっき書いてあった)。庶出について規定があるのは、腹が複数あるからである。
何休はいう。礼制では、妾から生まれた子が君主に立てられると、その母は夫人となれる。夫人の成風が事例である。文公4年「冬11月壬寅、夫人の風氏が薨じた」とあり、文公5年「3月辛亥、わが国の小君である成風を葬った」とある。
ぼくは思う。因果関係を間違えてはいけない。子の貴賤は、誕生した時点で先天的に、母の貴賤によって決まる。のちに、偶発的に子が即位したら、後天的に母が尊ばれる。


三月,公及邾婁儀父盟于眛。及者何?與也,會及暨皆與也。曷為或言會,或言及,或言暨?會猶最也;及猶汲汲也;暨猶暨暨也。及我欲之,暨不得已也。儀父者何?邾婁之君也。何以名?字也。曷為稱字?褒之也。曷為褒之?為其與公盟也。與公盟者眾矣,曷為獨褒乎此?因其可褒而褒之。此其為可褒奈何?漸進也。眛者何?地期也。
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隠公元年夏以降;作成中

夏,五月,鄭伯克段于鄢。克之者何?殺之也。殺之則曷為謂之克?大鄭伯之惡也。曷為大鄭伯之惡?母欲立之,己殺之,如勿與而已矣。段者何?鄭伯之弟也。何以不稱弟?當國也。其地何?當國也。齊人殺無知何以不地?在內也。在內雖當國不地也。不當國雖在外亦不地也。 4 打開字典顯示相似段落 隱公元年: 秋,七月,天王使宰咺來歸惠公仲子之賵。宰者何?官也。咺者何?名也。曷為以官氏?宰士也。惠公者何?隱之考也。仲子者何?桓之母也。何以不稱夫人?桓未君也。賵者何?喪事有賵。賵者蓋以馬,以乘馬束帛。車馬曰賵,貨財曰賻,衣被曰襚。桓未君則諸侯曷為來賵之?隱為桓立,故以桓母之喪告于諸侯。然則何言爾?成公意也。其言來何?不及事也。其言惠公仲子何?兼之,兼之非禮也。何以不言及仲子?仲子微也。 5 打開字典顯示相似段落 隱公元年: 九月,及宋人盟于宿。孰及之?內之微者也。 6 打開字典顯示相似段落 隱公元年: 冬,十有二月,祭伯來。祭伯者何?天子之大夫也。何以不稱使?奔也。奔則曷為不言奔?王者無外,言奔則有外之辭也。 7 打開字典顯示相似段落 隱公元年: 公子益師卒。何以不日?遠也。所見異辭,所聞異辭,所傳聞異辭。

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