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『三国志』より、荀彧の登場を網羅

武帝紀、荀彧伝での登場は省きます。

文帝紀

時歲之 暮春,勾芒司節,和風扇物,弓燥手柔,草淺獸肥,與族兄子丹獵于鄴西,終日手獲鹿章鹿九,雉兔三十。後軍南征 次曲蠡,尚書令荀彧 奉使犒軍,見余談論之末, 言:「聞君善左右射,此實難能。」余言:「執事未覩夫項發口縱, 俯馬蹄而仰月支也。」 喜笑曰:「乃爾!」余曰:「埒有常徑,的有常所,雖每發輒中,非至妙也。若馳平原,赴豐草,要狡獸,截輕禽,使弓不虛彎,所中必洞,斯則妙矣。」時軍祭酒張京在坐,顧拊手曰「善」。余又學擊劍,閱 師多矣,四方之法各異,唯京師為善。

文帝紀の末尾に引用された『典論』に出てくる。


斉王紀

冬十一 月癸卯,詔祀故尚書令荀攸于太祖廟庭。
臣松之以為故魏氏配饗不及荀彧,蓋以其末年異議,又位非魏臣故也。至于升程昱而遺郭嘉,先鍾繇而後荀攸, 則未詳厥趣也。
曹芳のとき、功臣をどう祭るかという問題について。

劉表伝

荊州平,太祖與 荀彧書曰:「不喜得荊州,喜得蒯異度耳。」

蒯越のこと。下の『後漢書』と同じ。


荀攸伝

...荀攸字公達,彧從子也。祖父曇,廣陵太守。
...等號為八俊,位至沛相。攸父彝,州從事。彝於彧為從祖兄弟。
...顒既奇太祖而知荀彧,袁紹慕之,與為奔走之友。...
...後荀彧為尚書令,遣人迎叔父司空爽喪,使并置顒尸...
...太祖素聞攸名,與語大悅,謂荀彧,鍾繇曰:「公達,非常人也...
...魏書曰:時建安十九年,攸年五十八。計其年大彧六歲。...

荀彧伝の評など(賈詡伝のあと)

評曰:荀彧清秀通雅,有王佐之風,然機鑒先識,未能充...
世之論者,多譏彧協規魏氏,以傾漢祚;君臣易位,實彧之...
君臣易位,實彧之由。雖晚節立異,無救運移;功既違義,
彧豈不知魏武之志氣,非衰漢之貞臣哉?

田畴伝

疇上疏陳誠,以死自誓。太祖不聽,欲引拜之,至于數四,終不受。有 司劾疇狷介違道,苟立小節,宜免官加刑。太祖重其事,依違者久之。乃下世子及大臣博 議,世子以疇同於子文辭祿,申胥逃賞,宜勿奪以優其節。尚書令荀彧、司隸校尉鍾繇亦以 為可聽。

魏書載荀 彧議,以為「君子之道,或出或處,期于為善而已。故匹夫守志,聖人各因而成之」。鍾繇以為「原思辭粟, 仲尼不與,子路拒牛,謂之止善,雖可以激清勵濁,猶不足多也。疇雖不合大義,有益推讓之風,宜如世子議。」

邴原伝の裴註

太祖怪而問之,時荀文若 在坐,對曰:「獨可省問邴 原耳!」太祖曰:「此君名重,乃亦傾士大夫心?」 文若曰:「此一世異人,士之精藻,公宜盡禮以待之。」太祖 曰:「固孤之宿心也。」自是之後,見敬益重。

鍾繇伝

南陽陰脩為潁川太守,以旌賢擢俊為務,舉五官掾張仲方正,察功曹鍾繇、主簿荀彧 、主記掾張 禮、賊曹掾杜祐、孝廉荀攸、計吏郭圖為吏,以光國朝。

由是太祖使命遂得通。太祖既數聽荀 彧之稱繇, 又聞其說傕、汜,益虛心。後傕脅天子,繇與尚書郎韓斌同策謀。天子得出長安,繇有力 焉。

長安で、献帝と曹操を、鍾繇が結びつける話。


華歆伝

歆至,拜議郎,參司空軍事,入為尚書,轉侍中,代荀彧為尚書令。

華歆は荀彧の後任なのです。


程昱伝

太祖征徐州,使昱與荀 彧 留守鄄城。張邈等 叛迎呂布,郡縣響應,唯鄄城、范、東阿不動。布軍降者,言陳宮欲自將兵取東阿,又使氾嶷 取范,吏民皆恐。 彧 謂昱曰:「今兗州反,唯有此三城。宮等以重兵臨之,非有以深結其心, 三城必動。君,民之望也,歸而說之,殆可!」
魏書曰:昱少時常夢上泰山,兩手捧日。昱私異之,以語荀 彧 。及兗州反,賴昱得完三城。於是 彧以昱夢白太 祖。

兗州で曹操が根拠地を失いそうな話。


昱曰:「意者將軍殆臨事而懼,不然何慮之 不深也!夫袁紹據燕、趙之地,有并天下之心,而智不能濟也。將軍自度能為之下乎?將 軍以龍虎之威,可為韓、彭之事邪?今兗州雖殘,尚有三城。能戰之士,不下萬人。以將軍 之神武,與文若、昱等,收而用之,霸王之業可成也。願將軍更慮之!」太祖乃止。

曹操が袁紹を頼るのをやめる話。


郭嘉伝

太祖與荀彧 書曰:「自志才亡後,莫可與計事者。汝、潁固多 奇士,誰可以繼之?」 彧 薦嘉。

傅子曰:太祖與荀 彧 書,追傷嘉曰:「郭奉孝年不滿四十,相與周旋十一年,阻險艱難,皆共罹之。又以其通達, 見世事無所凝滯,欲以後事屬之,何意卒爾失之,悲痛傷心。今表增其子滿千戶,然何益亡者,追念之感深。且 奉孝乃知孤者也;天下人相知者少,又以此痛惜。奈何奈何!」又與 彧書曰:「追惜奉孝,不能去心。

荀彧が曹操に郭嘉を推薦し、郭嘉が早死にする話。


董昭伝の裴註

獻帝春秋曰:昭與列侯諸將議,以丞相宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勳;書與荀彧曰:「昔周旦、呂望,當姬氏之 盛,因二聖之業,輔翼成王之幼,功勳若彼,猶受上爵,錫土開宇。末世田單,驅彊齊之眾,報弱燕之怨,收城七 十,迎復襄王;襄王加賞于單,使東有掖邑之封,西有菑上之虞。前世錄功,濃厚如此。今曹公遭海內傾覆,宗 廟焚滅,躬擐甲冑,周旋征伐,櫛風沐雨,且三十年,芟夷羣凶,為百姓除害,使漢室復存,劉氏奉祀。方之曩者數 公,若太山之與丘垤,豈同日而論乎?今徒與列將功臣,並侯一縣,此豈天下所望哉!」
後太祖遂受魏公、魏王之號,皆昭所創。

董昭が曹操を魏公に進めるための文章。


孫資伝の裴註『別伝』

尚書令荀彧見資,嘆曰:「北州承喪亂已久,謂其賢智零落,今日乃復見孫計君乎!」

みんな荀彧にスカウトしてもらうのだ。


杜畿伝

傅子曰:畿自荊州還,後至許,見侍中耿紀,語終夜。尚書令荀 彧 與紀比屋,夜聞畿言,異之,旦遣人謂紀曰:「有 國士而不進,何以居位?」既見畿,知之如舊相識者,遂進畿於朝。

太祖謂荀 彧 曰:「關西諸將,恃險與馬,征必為亂。張晟寇殽、澠 間,南通劉表,固等因之,吾恐其為害深。河東被山帶河,四鄰多變,當今天下之要地也。 君為我舉蕭何、寇恂以鎮之。」 彧 曰:「杜畿其人也。」
傅子曰: 彧稱畿勇足以當大難,智能應變,其可試之。

荀彧は杜畿を太守に推薦した。


衛覬伝

覬書與荀彧曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者十 萬餘家,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧 弱,不能與爭,兵家遂彊。一旦變動,必有後憂。夫鹽,國之大寶也,自亂來散放,宜如舊置 使者監賣,以其直益巿犂牛。若有歸民,以供給之。勤耕積粟,以豐殖關中。遠民聞之,必 日夜競還。又使司隸校尉留治關中以為之主,則諸將日削,官民日盛,此彊本弱敵之利也。」 以白太祖。太祖從之,始遣謁者僕射監鹽官,司隸校尉治弘農。

衛覬の意見をきき、衛覬の任命を斡旋するもの荀彧。


『魏書』はいう。太祖使荀 彧 問覬,覬以為「西方諸將, 皆豎夫屈起,無雄天下意,苟安樂目前而已。今國家厚加爵號,得其所志,非有大故,不憂為變也。宜為後圖。 若以兵入關中,當討張魯,魯在深山,道徑不通,彼必疑之;一相驚動,地險眾彊,殆難為慮!」 彧以覬議呈太 祖。

劉劭伝

劭時 在尚書令荀彧 所,坐者數十人,或云當廢朝,或云宜卻會。劭曰:「梓慎、裨竈,古之良史,猶 占水火,錯失天時。禮記曰諸侯旅見天子,及門不得終禮者四,日蝕在一。然則聖人垂制, 不為變〔異〕豫廢朝禮者,或災消異伏,或推術謬誤也。」 彧 善其言。

杜襲伝

司隸鍾繇表拜議郎參軍事。荀彧又薦襲,太祖以為丞相軍祭酒。

張𠑊伝

乃書與荀彧 曰:「今陽安郡當 送綿絹,道路艱阻,必致寇害。百姓困窮,鄰城並叛,易用傾蕩,乃一方安危之機也。且此 郡人執守忠節,在險不貳。微善必賞,則為義者勸。善為國者,藏之於民。以為國家宜垂 慰撫,所斂綿絹,皆俾還之。」 彧報曰:「輒白曹公,公文下郡,綿絹悉以還民。」上下歡喜, 郡內遂安。

満寵伝

故太尉楊彪收付縣獄,尚書令荀彧 、少府孔融等並 屬寵:「但當受辭,勿加考掠。」寵一無所報,考訊如法。數日,求見太祖,言之曰:「楊彪考 訊無他辭語。當殺者宜先彰其罪;此人有名海內,若罪不明,必大失民望,竊為明公惜之。」 太祖即日赦出彪。初, 彧、融聞考掠彪,皆怒,及因此得了,更善寵。

楊彪をつないだとき、荀彧と孔融が抗議した。


方技・華佗伝

荀彧請曰:「佗術實工,人命所縣,宜含宥之。」

荀彧が華佗を助命したい。『後漢書』も同じ。


『蜀志』許靖伝

陳國袁徽以寄寓交州,徽與尚書令荀彧 書曰:「許文休英才偉士,智略足以計事。自流宕已來,與羣士相隨,每有患急,常先人後 己,與九族中外同其飢寒。其紀綱同類,仁恕惻隱,皆有效事,不能復一二陳之耳。」

陳国の袁徽と文通して、許靖をほめる。


『呉志』士燮伝

陳國袁徽 與尚書令荀彧書曰:「交阯士府君既學問優博,又達於從政,處大亂之中,保全一郡,二十餘 年疆埸無事,民不失業,羇旅之徒,皆蒙其慶,雖竇融保河西,曷以加之?官事小闋,輒玩習 書傳,春秋左氏傳尤簡練精微,吾數以咨問傳中諸疑,皆有師說,意思甚密。又尚書兼通古今,大義詳備。聞京師古今之學,是非忿爭,今欲條左氏、尚書長義上之。」其見稱如此。

陳国の袁徽とい文通して、士燮もほめる。
荀彧の全国的なネットワークがわかる。『蜀志』と『呉志』で。

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『後漢書』より、荀彧の登場を網羅

仲長統伝

尚書令荀彧聞統名,奇之,舉為尚書郎。後參丞相曹操軍事。每論說古今及時俗行 事,恆發憤歎息。因著論名曰昌言,凡三十四篇,十餘萬言。

荀彧が仲長統の名声を聞いて、曹操に推薦した。


荀爽・荀悦伝

兄子悅、 彧 並知名。 彧 自有傳。
悅字仲豫,儉之子也。儉早卒。悅年十二,能說春秋。家貧無書,每之人閒,所見篇 牘,一覽多能誦記。性沈靜,美姿容,尤好著述。靈帝時閹官用權,士多退身窮處,悅乃託 疾隱居,時人莫之識,雖從弟 彧 特稱敬焉。初辟鎮東將軍曹操府,遷黃門侍郎。獻帝頗好 文學,悅與 彧及少府孔融侍講禁中,旦夕談論。累遷祕書監、侍中。

ふつうに荀悦伝を読めと。


何顒伝

及黨錮解,顒辟司空府。每三府會議,莫不推顒之長。累遷。及董卓秉政,逼顒以為 長史,託疾不就,乃與司空荀爽、司徒王允等共謀卓。會爽薨,顒以它事為卓所繫,憂憤而 卒。初,顒見曹操,歎曰:「漢家將亡,安天下者必此人也。」操以是嘉之。嘗稱「潁川荀彧 , 王佐之器」。及 彧為尚書令,遣人西迎叔父爽,并致顒屍,而葬之爽之冢傍。

何顒「曹操が天下を安定させる」「荀彧は王佐の才だ」と。何顒が、2人を結びつけてくれるのだ。


何進伝

因復博徵智謀之士(龐)〔逄〕紀、因復博徵智謀之士逢紀、何顒、荀攸等,與同腹心。
校補引陳景雲說,謂據荀彧、袁紹傳均作「逄紀」,此作「龐」,誤。今據改。按:逄讀同龐,音近而譌。

校注のなかででてくる。逢紀、何顒、荀攸が何進のところにゆくのだから、荀彧が何進との接点を持っていても、おかしくない。袁紹の人脈のなかに、「ふつうに」位置づけられる。


袁紹伝

紹乃使外甥陳留高幹及潁川荀諶等。魏志云諶,荀彧之弟。

劉表伝

請南郡人蒯越、襄陽人蔡瑁與共謀畫。
傅子曰:「越字異度,魏太祖平荊州,與荀彧書曰:『不喜得荊州,喜得異度耳。』」

曹操が荊州を平定し、荀彧に「荊州より蒯越を得られてうれしい」という。荀彧と蒯越の人脈があるのでなく、曹操が荀彧にべったりなことを再確認するための逸話。


禰衡伝

衡曰:「文若可借面弔喪,稚長可使監厨請客。」

てめーは。


華佗伝

荀彧請曰:「佗方術實工,人命所懸,宜加全宥。」操不從,竟殺之。

荀彧は華佗の命ごいもしている。


『三国演義』

おまけです。『演義』で荀彧が出てくるのは、
10回、11回、12回、14回。22回、23回、24回、25回。
40回。60回、61回、66回。まとまって出てきて、ぱったり消えるのだ。

荀彧の文脈

渡邉先生の『構造と「名士」』の付表から、荀彧の関係を抜粋。545頁。

「◎」頴川の荀攸、頴川の陳羣

「○」頴川の戯志才、頴川の郭嘉、頴川の杜襲、頴川の鍾繇、頴川の張𠑊、東海の王朗、邴原の華歆、頴川の辛毗

「△」東郡の程昱、太原の孫資、陳郡の袁渙、南陽の許攸、京兆の杜畿、広平の劉劭、北海の邴原、山陽の王粲、京兆の韋康

「?」沛国の史渙、河内の韓浩、頴川の棗祗、東郡の陳宮、東平の畢端、清河の朱霊、東郡の薛悌、馮翊の楊沛、京兆の厳象、泰山の孫観、沛国の武周、扶風の王忠、沛国の劉岱、広陽の閻柔、漁陽の鮮于輔、鉅鹿の李孚、、はぶく。

「△」がついた人材までは、抑えたい。130923

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