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- 編年体の史料『漢末二袁紀』をつくります
今週のツイートより。
『漢末二袁紀』つくります
くじけないように宣言します。初平元年(190年)から、建安7年(202年)までを、『後漢書』『後漢紀』『三国志』を網羅しつつ、編年形式にまとめる。『資治通鑑』より詳しく(史料を省略せず)、『春秋』三伝よりうるさく(自分の意見をさしはさんで)つくります。つくったら製本する予定!
『漢末二袁紀』とか。編纂物のタイトルだけは決めた(笑)。袁紹と袁術の洛陽出奔から、2人の死までを1つの時代と見て、こってり整理します。古代の碩学に比べて、ぼくはパソコンという道具があるから、史料を切り貼りしたら、わりに「使い勝手のよい」編纂物ができるはず。
『後漢紀』、『後漢書』献帝紀、『三国志』武帝紀、董卓伝、そして『資治通鑑』。このあたりを比較検討すれば、編年体の骨格はできるはず。もしくは「これ以上、骨格はしっかりさせることができない」という限界がわかるはず。年・季節・月を「章立て」として、史料を切り貼り。楽しい作業!
年月を特定する作業について
初平元年あたりの『資治通鑑』を再読すると、献帝の周囲(董卓がらみ)は、月日のわかる記事がおおい。だが、袁紹や袁術ら、関東の地方官たちの記事は、なんとなく散りばめられてるだけ。年単位に「この年の後ろ、この年の前。に記事を置かねば、前後で矛盾する」くらいの精度と確信しかなさそう。
編年体をつくるとき、本紀がたのみ。『後漢書』や『後漢紀』は、献帝のいる関西に詳しい。『三国志』武帝紀は、曹操のいる関東の時系列を整理するとき、おおいに助けになる。相補的です。もし『三国志』がなければ、長安は日単位で出来事がわかるのに、関東は月や季節どころか、年の特定すら覚束ない。
魏晋の史家が、袁紹と袁術から奪い去ったもの。それは、年月の記録。列伝を読むと、行動の事績はギリギリわかる。でも、何年の何月(欲をいえば何日)にやったのか、ほぼわからん。名誉の毀損よりも、ひどい仕打ちである。李傕は精緻な日付を与えられ、賊将?曹操も、献帝と合流することで日付を与えられる。
罪深き、編年体史料の「前日談」
年表のごとき『資治通鑑』にも、修飾や補足がおおい。事件の導入(前日談)は、とくに注意。例えば「AはBした。3月、AはCした」とあっても、Bの発生が2月とは限らない。Aの人物紹介だったりする。また司馬光が、月を特定して記事を置いてるのか、季節か、年か、メドなしか、の読み分けも必須。
年月の特定できない列伝の記事を、『資治通鑑』は、「まあこんなもんやろ」と適当に月や季節にバラして、前後関係にだけは留意し、配置している。史料をいろいろ読んできて、かつ『資治通鑑』を再々読しているから、「こんなもん」の恣意性がよくわかる。便乗するのも、魅力的な選択肢だが、、微妙!
ぼくは思う。『資治通鑑』と同じこと(前日談のせいで混乱させられること)は、『三国志』武帝紀にも起こる。ある年月の判明した事件をいうために、それまでの経緯が語られる。ひとつ前にある、年月の判明した記事から、シームレスに次の記事の前日談が始まる。罪深い。
「どれが前日談か」を区別するところから、史料の正確な読解がはじまる。編年体をつくることができる。
まかり間違っても、年月を示す言葉のところで「改行」してはならない。前日談が、宙に浮いてしまう。
范曄『後漢書』の献帝紀を背骨とする
『漢末二袁紀』をつくるために、『後漢書』献帝紀を、背骨とします。袁宏『後漢紀』は、記事が充実しているが、暦の誤りがおおかった。編纂史料、整理されたものとしては、范曄『後漢書』が、関連する諸史料への目配りの徹底度がまさると思うので、こちらを基礎にして、肉づけします。
そのために、まずは献帝紀を翻訳した。
以下、『漢末二袁紀』の中間生成物です。作業しつつ、メチャクチャになったら、ここに帰ってきて、記事を組み立て直します。閉じる
- 『漢末二袁紀』の序文 【新】
序文を書きました。
準備ばかりしてないで、本文に入らないと。130711
対象とする時期
これは、後漢末を主題とした編年体の編纂史料です。編年体とは、『春秋』、袁宏『後漢紀』、司馬光『資治通鑑』に採用されたた体裁であり、発生した年月の順序で、事件等を記述するものです。
対象とする時期は、霊帝が崩じた中平六年(一八九)夏六月から、袁紹が薨じた建安七年(二〇二)五月までです。この十三年間は、「二袁」と総称される、袁術と袁紹が天下の情勢を主導した時期だと考えられます。史料の標題は、この認識に由来します。西暦では、おもに一九〇年代にあたります。二袁の時代を理解することは、三国時代を理解する前提と言えましょう。
ぼくは思う。この編纂史料にちなみ、当該時期が「二袁期」と呼称されれば、と願っています。冗談ですw
二袁の時代の重要性
三国時代の基本的な構造は、陳寿『三国志』に端的に表現されます。陳寿は、曹魏(沛国の曹氏が皇帝である魏家)の皇帝を正統と見なし、曹氏のために本紀を設けました。曹魏の正統性の根拠は、『三国志』巻一 武帝紀、巻二 文帝紀に見られるように、曹氏が後漢の献帝を奉戴し、中原を武力によって平定したことでした。三国時代とは、後漢の献帝、沛国の曹氏、という二者の存在の重大さが前提とされた時期です。
曹魏の敵対者であった、蜀漢の劉備、孫呉の孫権は、曹氏の正統性に疑義を投げかけました。ただし劉備も孫権も、献帝と曹氏という二者を無視するには到りませんでした。むしろ、献帝と曹氏との関係を多弁的に批判することで、かえって二者の存在の重大さを、補強・傍証したとも見なせます。献帝と曹氏について盛んに言及するという点で、蜀漢と孫呉は、三国時代の立派な構成者なのです。曹魏は、蜀漢と孫呉に下から支えてもらい、『三国志』における正統性を確固たるものにしたとも言えます。
しかし、献帝と曹氏という二者の存在は、初めから重大なものではありませんでした。献帝が、後漢の正式な皇帝と見なされず、天下から無視される可能性は充分にありました。もしくは、将兵や異民族の暴力により、敢えなく献帝が殺害されるという結末も充分にありました。曹氏が、数多くの地方官や将軍のなかに埋没し、無名で終わる可能性は充分にありました。もしくは、後世の史家が特記するに値しない局地戦で、呆気なく曹操が戦死するという結末も充分にありました。
『三国志』の枠組が成立する以前、献帝と曹氏をものともせず、「後漢末の混乱にどのように対処すべきか」という命題に取り組んだのが、他ならぬ袁術と袁紹でした。袁術と袁紹の失敗ののち、献帝と曹氏の重大さが確定するわけですから、「二袁の失敗により、献帝と曹氏の重大さが確定された」という見通しを得られるかも知れません。
二袁が活躍する時期は、三国時代の直近の前史です。『三国志』を読解するにあたり、西暦の一九〇代前後について、巨視的に印象をつかみ、かつ微視的に情報を集めておきたいところです。
ただし、陳寿『三国志』は曹氏、范曄『後漢書』は献帝を主軸として編纂されています。二袁の事績を把握するとき、直接的には役立ちません。献帝の行動は日単位で記録されていても、二袁の行動は、記録の精度がいちじるしく低く抑えられています。合戦があっても、発生した日付どころか、月、さらには季節や年すら定かでないことがあります。ぼくたちは、諸史料を比較検討し、二袁の事績について、時期を推定する作業から始めねばなりません。
二袁にたいする史家の攻撃
歴史叙述の機能のひとつに、毀誉褒貶があります。いわゆる「春秋の筆法」です。例えば、動作を書き留める文字(動詞)の選択により、過去の人物への評価を仄めかすことができます。例えば、袁術の皇帝即位は、『三国志』巻六 袁術伝にて「僭号」と記されました。巻末の陳寿による「評」は、袁術の人格すら否定するもので、なかなか厳しいものがあります。
陳寿はいう。袁術は、奢侈・多淫で、欲望のままに振る舞った。栄華を維持できなかったのは、自業自得であると。(『三国志』巻六 袁術伝)ところが、文字の選択や「評」による攻撃は、二袁の読者にとって、あまり深刻な影響を与えません。「僭号」を「号」に置き換えれば、情報量を損なうことなく、史料を読み換えることが可能だからです。人格を否定するような「評」は、割り引いて読めばよいでしょう。
その一方で、二袁の読者にとって取り返しのつかない痛撃となるのが、先述した黙殺です。事績を省略する。省略しないまでも、年月を詳細に書き留めない。これだけで「実際にどうであったか」を探ることが難しくなり、実像が抹殺されます。歴史家は、語彙をつくして批判するより、記述を大胆に省略することのほうが、対象への辛辣な攻撃となるのです。
班固『漢書』は、漢家を終焉させた王莽を非難する。班固いわく、記録にのこる乱臣賊子のなかで、王莽ほど無道で、王莽ほど禍敗を味わった者はいない。王莽は、『易経』にいう、徳がないが高位にある者だ。天命も持たない者だと(『漢書』巻九九下)。しかしこの酷評にも関わらず、王元后伝(王莽のおばの列伝)を含めると、王莽のために列伝の四巻分が割かれた。東晋次氏が『王莽/儒家の理想に憑かれた男』で触れるように、班固の祖父の三兄弟は、王莽と交際した。班氏が単純に王莽をけなす意図のみで『漢書』を著述したのでないことは、列伝の字数の多さから窺うことができる。王莽の場合と異なり、二袁に同情もしくは親近感を抱いた者による歴史記述は、現存していないと思われる。
攻撃にたいする防衛策
ぼくの『漢末二袁紀』では、袁術と袁紹につき、語彙をつくして、彼らの偉大さを賞賛するようなことは行いません。二袁の事績を知るには、『三国志』や『後漢書』など、概して二袁に批判的な史料に基づくしかありません。この状況にも関わらず二袁を賞賛するのなら、それはただの妄想であり、ひどい場合は史実の捏造となりましょう。史料から遊離して、二袁の歴史的意義の大きさを強調しても、むなしい空理空論です。
編纂の方針には、なるべく既存の史料から踏み外すことなく、かすかに書き残された二袁の事績を、妥当性の許す範囲で復元することを掲げます。この作業こそ、二袁の実態を再構築するものであり、彼らの名誉を回復してくれるかも知れません。もしかしたら、彼らの歴史的な意義を、雄弁に主張してくれるかも知れません。そこに到って初めて、『三国志』の読解に資するという目標が果たされるはずです。
凡例のようなもの
史料を引用する場合、以下のとおり略称を使用します。
陳寿『三国志』は、引用する箇所に応じて、『魏志』、『呉志』、『蜀志』とします。范曄『後漢書』は、『范書』とします。袁宏『後漢紀』は、『袁紀』とします。司馬光『資治通鑑』は『通鑑』とし、司馬光『通鑑考異』は『考異』とします。
人物像や時代環境に対する印象を膨らませるため、適宜『三国演義』を参照します。『演義』とします。
大きな文字は、編年体の本文です。『魏志』武帝紀、『范書』献帝紀、『袁紀』を比較し、『通鑑』を参考にして作成しました。小さな文字は、編年体に対する注釈です。さらに小さな文字は、注釈に対する注釈(疏)です。
通常であれば、注釈と疏は、本文とは異なる者が付すものですが、この史料では同一の編者が記述しています。
本文と注疏を一人で書き分けるという、自作自演めいた叙述形式を採用する理由は、記述する事項の年月を明確にするためです。より厳密には、どの事項の年月が確定でき、どの事項の年月は確定できないのか、明確にする表示するためです。
情報量にあふれた、もっとも代表的な編年史料『通鑑』ですら、年表のように禁欲的に事件が羅列してあるわけではありません。年月が特定できる事件に先だち、予備知識や伏線(後日談をもじって「前日談」とでも呼ぶべき記事)と、事件ののちの経過(後日談)とが、境界を明確にしないで並んでいます。
例えば劉繇の、、(のちほど記す)『通鑑』を編纂した司馬光の時点で、史料的な制約により年月がわからない事件が多かったのでしょう。その結果、前日談と後日談とをあえて混合した、現在の形式になったことが推測されます。苦肉の策にも見える工夫の結果、『通鑑』を冒頭から読むことで、あたかも年表を読むように、事実の発生順で、記事が並んでいるように感じることができます。
今回の『漢末二袁紀』は、『通鑑』のような通読性よりも、史料の比較検討の厳密性を重視します。年月の確定できる記事を本文とし、その前日談と後日談を注釈に格下げする、という形式をあえて選びました。
などという序文のあとに、霊帝の崩御から始める予定。130711121126のむじんさんとの会話。記憶にひっかかっており、きちんと引用しておきたいので、ツイログから持ってきた。
ぼくはいう。『資治通鑑』は年表でない。主に年表風だが、登場する人物の「後日談」「前日談」「逸話」が豊富。機械的に年月の表記で区切ると、特に前日談で誤読する。例「元年冬、日食。A氏の逸話。二年春、A氏が就官」という記事なら、逸話は二年の前日談。元年冬の事件でない。中華書局も「二」の前で切るが。
@yunishio さんはいう。臧洪の籠城戦も1年ずれてますよね。
ぼくはいう。あえて司馬光を弁護すると、これは「そうそう、臧洪のことで有益な史料を思い出したから、採録するけどね」という、連想ゲーム的な記事だと思います。『通鑑』って、結構こういう時系列を前後させた、逸話の紹介って多いんです。
ぼくはいう。中華書局『通鑑』で、臧洪と袁紹の戦いは、興平二年のなかに記事があります。雍丘で曹操に囲まれた張超が「臧洪なら救ってくれる」と言った流れで、臧洪の記事へ以降。興平二年に張超が死に「洪由是怨紹,絕不與通。紹興兵圍之,歷年不下。」です。「歴年」が問題です?
@yunishio さんはいう。臧洪の場合、たしか籠城戦の始まりが興平二年(一九五)の冬、戦いが三ヶ月続いたのかな。『通鑑』が依拠しているのは『後漢書』献帝紀で、そこに「建安元年、臧洪が…」と書いてあるのは、落城して臧洪が殺された年なんですよね。でも『通鑑』だと建安元年に開戦としてる。
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- 中平、初平期を整理する
全文翻訳ではなく、『漢末二袁紀』につかうために、省略や入替、注釈への格下などの操作をしています。
霊帝紀のおわり
六年春二月,左將軍皇甫嵩大破王國於陳倉。
三月,幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。下軍校尉鮑鴻下獄死。
夏四月丙午朔,日有食之。太尉馬日磾免,幽州牧劉虞為太尉。丙辰,帝崩於南宮嘉德殿,年三十四。戊午,皇子辯即皇帝位,年十七。尊皇后曰皇太后,太后臨朝。大赦天下,改元為光熹。封皇弟協為渤海王。後將軍袁隗為太傅,與大將軍何進參錄尚書事。上軍校尉蹇碩下獄死。論曰:《秦本紀》說趙高譎二世,指鹿為馬,而趙忠、張讓亦紿靈帝不得登高臨觀,故知亡敝者同其致矣。然則靈帝之為靈也優哉!
贊曰:靈帝負乘,委體宦孽。徵亡備兆,《小雅》盡缺。麋鹿霜露,遂棲宮衛。中平六年、夏四月、孝霊皇帝(以下、霊帝という)が南宮の嘉徳殿で崩じた。三十四歳であった。
『范書』霊帝紀はいう。霊帝は、姓名を劉宏という。粛宗(章帝)の玄孫である。曽祖父は、河間孝王の劉開である。祖父は劉淑、父は劉萇という。世よ、解瀆亭侯に封じられた。劉宏は、亭侯の爵位をついだ。劉宏の母は、董夫人である。桓帝が崩じると、子がないため、竇皇太后とその父の竇武とが、つぎの皇帝を劉宏に選んだ。建寧元年(一六八)正月、劉宏は皇帝に即位した。十二歳であった。
『范書』霊帝紀にて范曄の論はいう。『史記』秦本紀において、宦官の趙高は、二世皇帝をだまして、鹿を馬といった。霊帝期の趙忠と張譲もまた、霊帝が高臨観に登るのをさまたげ、後漢の政治をそこねた。
皇子の劉弁が即位した(以下、少帝という)。十七歳である。 何皇后を尊んで、何皇太后とする。何皇太后が臨朝した。天下を大赦した。 改元して光熹とした。
皇帝の弟・劉協を勃海王とした。
後将軍の袁隗を太傅とする。袁隗は、何皇太后の弟である大将軍の何進とともに、録尚書事に参じた。 上郡校尉の蹇碩が獄に下されて死んだ。
五月辛巳,票騎將軍董重下獄死。六月辛亥,孝仁皇后董氏崩。辛酉,葬孝靈皇帝於文陵。雨水。
秋七月,甘陵王忠薨。庚寅,孝仁皇後歸葬河間慎陵。徙渤海王協為陳留王。司徒丁宮罷。五月、驃騎将軍の董重が獄に下されて死んだ。六月、霊帝の母・孝仁皇后の董氏が崩じた。霊帝を文陵に葬った。
秋七月、甘陵王の劉忠が薨じた。孝仁皇后を河間の慎陵に葬った。 勃海王の劉協を、陳留王とした。
八月戊辰,中常侍張讓、段珪殺大將軍何進,於是虎賁中郎將袁術燒東西宮,攻諸宦者。庚午,張讓、段珪等劫少帝及陳留王幸北宮德陽殿。何進部曲將吳匡與車騎將軍何苗戰於朱雀闕下,苗敗,斬之。八月、中常侍の張譲と段珪が、大将軍の何進を殺した。 ここにおいて虎賁中郎将の袁術は、東西宮を焼き、宦官を攻めた。 張譲と段珪は、少帝と陳留王をおびやかし、北宮の徳陽殿にゆく。 何進の部曲将である呉匡と、車騎将軍の何苗は、朱雀の宮門のもとで闘った。何苗が敗れ、呉匡に斬られた。
辛末,司隸校尉袁紹勒兵收偽司隸校尉樊陵、河南尹許相及諸閹人,無少長皆斬之。讓、珪等復劫少帝、陳留王走小平津。尚書盧植追讓、珪等,斬數人,其餘投河而死。帝與陳留王協夜步逐熒光行數里,得民家露車,共乘之。辛未,還宮。大赦天下,改光熹為昭寧。幷州牧董卓殺執金吾丁原。司空劉弘免,董卓自為司空。九月甲戌,董卓廢帝為弘農王。自六月雨,至於是月。司隷校尉の袁紹は、にせの司隷校尉の樊陵、にせの河南尹の許相を斬った。袁紹は、長幼の区別をつけず、宦官たちを斬った。 張譲と段珪は、ふたたび少帝をおびやかし、小平津ににげた。尚書の盧植は、張譲と段珪らを追って、数人を斬った。斬られなかった者は、黄河に投身して死んだ。少帝と陳留王は、夜道を数里あるいた。 少帝と陳留王は、董卓につれられ、洛陽の宮殿に帰った。天下を大赦した。光熹を改元して、昭寧元年とした。 并州牧の董卓は、執金吾の丁原を殺した。司空の劉弘を免じて、董卓が司空となった。
献帝紀のはじまり
孝獻皇帝諱協,靈帝中子也。母王美人,為何皇后所害。中平六年四月,少帝即位,封帝為勃海王,徙封陳留王。 九月甲戌,即皇帝位,年九歲。遷皇太后於永安宮。大赦天下。改昭寧為永漢。丙子,董卓殺皇太后何氏。
初令侍中、給事黃門侍郎員各六人。賜公卿以下至黃門侍郎家一人為郎,以補宦官所領諸署,侍於殿上。 乙酉,以太尉劉虞為大司馬。董卓自為太尉,加鈇鉞、虎賁。丙戌,太中大夫楊彪為司空。甲午,豫州牧黃琬為司徒。遣使弔祠故太傅陳蕃、大將軍竇武等。九月、董卓は少帝を廃して、弘農王とした。六月より九月まで、雨がふった。 陳留王の劉協が、皇帝に即位した(献帝という)。九歳である。 『范書』献帝紀はいう。劉協は、霊帝の中子である母は王美人である。王美人は、何皇后に殺害された。 何皇太后を、永安宮にうつした。天下を大赦した。昭寧を改元して、永漢元年とした。董卓は、何皇太后を殺した。
公卿より以下、黄門侍郎を輩出した家から、一名ずつをあげて郎官とした。郎官は、宦官が担当していた部署を補い、殿上に侍った。
『范書』献帝紀はいう。はじめ、侍中、給事、黄門侍郎は、それぞれ定員が六名ずつであった。 太尉の劉虞を大司馬した。董卓は太尉となり、斧鉞と虎賁を加えられた。 太中大夫の楊彪を司空とした。 豫州牧の黄琬を司徒とした。 もと太傅の陳蕃、もと大将軍の竇武を、弔って祭った。
冬十月乙巳,葬靈思皇后。白波賊寇河東,董卓遣其將牛輔擊之。十一月癸酉,董卓自為相國。 十二月戊戌,司徒黃琬為太尉,司空楊彪為司徒,光祿勳荀爽為司空。 省扶風都尉,置漢安都護。詔除光熹、昭寧、永漢三號,還復中平六年。冬十月、霊思皇后(何皇太后)を葬った。 白波の賊が河東を寇したので、董卓が牛輔に撃たせた。
十一月、董卓は相国となった。 ぼくは思う。『范書』献帝紀では、董卓が官職を上昇させるとき「自ら」という副詞がつく。董卓が後漢を主催しており、献帝に権限がない。董卓の任命が自作自演であることを、范曄がほのめかしている。おなじく、李傕と曹操も「自ら」官職を上昇させる。
十二月、司徒の黄琬を太尉とした。司空の楊彪を司徒とした。光禄勲の荀爽を司空とした。 扶風都尉をはぶき、安漢都護をおいた。 光熹、昭寧、永漢という年号をすべてやめ、中平六年にもどした。
初平元年
初平元年春正月,山東州郡起兵以討董卓。辛亥,大赦天下。癸酉,董卓殺弘農王。白波賊寇東郡。
二月乙亥,太尉黃琬、司徒楊彪免。庚辰,董卓殺城門校尉伍瓊、督軍校尉周珌。以光祿勳趙謙為太尉,太僕王允為司徒。丁亥,遷都長安。董卓驅徙京師百姓悉西入關,自留屯畢圭苑。壬辰,白虹貫日。
三月乙巳,車駕入長安,幸未央宮。己酉,董卓焚洛陽宮廟及人家。戊午,董卓殺太傅袁隗、太僕袁基,夷其族。夏五月,司空荀爽薨。六月辛丑,光祿大夫種拂為司空。初平元年春正月、山東の州郡が起兵して、董卓を討伐するという。天下を大赦した。 董卓は弘農王の劉弁を殺した。 白波の賊が、東郡を寇した。
二月、太尉の黄琬、司徒の楊彪を免じた。董卓は、城門都尉の伍瓊、督軍校尉の周毖を殺した。光禄勲の張謙を太尉とした。太僕の王允を司徒とした。 長安に遷都した。董卓は洛陽の百姓をかりたて、すべて長安に徙した。董卓は畢圭苑にとどまった。 白い虹が、日をつらぬいた。
三月、献帝の車駕は、長安にはいり、未央宮にゆく。 董卓は洛陽で、宮廟と人家を焼いた。 董卓は、太傅の袁隗、太僕の袁基を殺し、夷三族とした。夏五月、司空の荀爽が薨じた。六月、光禄大夫の种弗が司空となった。
大鴻臚韓融、少府陰脩、執金吾胡母班、將作大匠吳脩、越騎校尉王瓌安集關東,後將軍袁術、河內太守王匡各執而殺之,唯韓融獲免。董卓壞五銖錢,更鑄小錢。 冬十一月庚戌,鎮星、熒惑、太白合於尾。 是歲,有司奏,和、安、順、桓四帝無功德,不宜稱宗,又恭懷、敬隱、恭愍三皇后並非正嫡,不合稱後,皆請除尊號。制曰:『可。』孫堅殺荊州刺史王叡,又殺南陽太守張咨。董卓は関東に使者をだし、起兵した州郡を安集しようとした。使者とは、大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡母斑、将作大匠の呉脩、越騎校尉の王懐である。 『後漢書』献帝紀はいう。後将軍の袁術、河内太守の王匡は、それぞれ使者を捕らえて殺した。ただ韓融だけは、殺されずに免れた。 董卓は、五銖銭を壊して、小銭に改鋳した。 十一月、鎮星、熒惑、太白合於尾。
この歳、有司の上奏により、廟号が整理された。有司いわく、和帝、安帝、順帝、桓帝には、功徳がないため、「宗」の廟号をつけるべきでない。また、恭懷、敬隱、恭愍の三名の皇后は、正嫡ではないため「后」とよぶべきでない。ゆえに、「宗」「后」が除かれた。孫堅が、荊州刺史の王叡、南陽太守の張咨を殺した。
初平2年
二年春正月辛丑,大赦天下。二月丁丑,董卓自為太師。 袁術遣將孫堅與董卓將胡軫戰於陽人,軫軍大敗。董卓遂發掘洛陽諸帝陵。夏四月,董卓入長安。六月丙戌,地震。春正月、天下を大赦した。二月、董卓は太師となった。 袁術の将である孫堅は、董卓の将である胡軫と、陽人で戦った。胡軫は大敗した。董卓は、洛陽にある皇帝の陵墓を発掘した。 夏四月、董卓は長安に入った。六月丙戌、地震あり。
秋七月,司空種拂免,光祿大夫濟南淳于嘉為司空。太尉趙謙罷,太常馬日磾為太尉。九月,蚩尤旗見於角、亢。冬十月壬戌,董卓殺衛尉張溫。 十一月,青州黃巾寇太山,太山太守應劭擊破之。黃巾轉寇勃海,公孫瓚與戰於東光,復大破之。是歲,長沙有人死經月復活。秋七月、司空の种弗を免じた。光禄大夫する済南の淳于嘉を司空とする。太尉の趙謙を罷め、太常の馬日磾を太尉とする。
九月、蚩尤旗見於角、亢。 冬十月、太尉が衛尉の張温を殺した。
十一月、青州の黄巾が、泰山を寇した。泰山太守の応劭は、これを黄巾を撃破した。黄巾は、勃海を寇した。公孫瓚が東光で黄巾と戦い、黄巾を大破した。この歳、長沙の使者が、月をまたいで復活した。
初平3年
三年春正月丁丑,大赦天下。 袁術遣將孫堅攻劉表於襄陽,堅戰歿。袁紹及公孫瓚戰於界橋,瓚軍大敗。 夏四月辛巳,誅董卓,夷三族。司徒王允錄尚書事,總朝政,遣使者張種撫慰山東。 青州黃巾擊殺兗州刺史劉岱於東平。東郡太守曹操大破黃巾於壽張,降之。五月丁酉,大赦天下。丁未,征西將軍皇甫嵩為車騎將軍。初平三年春、天下を大赦した。
(春)袁術の将・孫堅は、襄陽で劉表を攻めたが、孫堅が戦没した。 袁紹と公孫瓚が界橋で戦い、公孫瓚が大敗した。
夏四月、董卓が殺され、夷三族となった。司徒の王允が録尚書事して、執政する。王允は、張種を使者にして、山東を慰撫した。 四月、青州の黄巾が、東平にて、兗州刺史の劉岱を殺した。東郡太守の曹操は、寿張にて、黄巾を大破して降伏させた。五月、天下を大赦した。 征西将軍の皇甫嵩を、車騎将軍とした。
董卓部曲將李傕、郭汜、樊稠、張濟等反,攻京師。六月戊午,陷長安城,太常種拂、太僕魯旭、大鴻臚周奐、城門校尉崔烈、越騎校尉王頎並戰歿,吏民死者萬餘人。李傕等並自為將軍。己未,大赦天下。李傕殺司隸校尉黃琬,甲子,殺司徒王允,皆滅其族。丙子,前將軍趙謙為司徒。
秋七月庚子,太尉馬日磾為太傅,錄尚書事。六月、董卓の部曲将が、長安を陥落させた。李傕、郭汜、樊稠、張済らである。九卿より以下が戦没した。戦没したのは、太常の种弗、太僕の魯旭、大鴻臚の周奐、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎である。吏民の死者は、万余人である。李傕らは将軍を自称した。
李傕は、天下を大赦した。李傕は、司隷校尉の黄琬を殺した。司徒の王允を殺して、王允の一族すべてを滅した。 前将軍の趙謙が、司徒となった。
秋七月、太尉の馬日磾を太傅とし、録尚書事させる。
八月,遣日磾及太僕趙岐,持節慰撫天下。車騎將軍皇甫嵩為太尉。司徒趙謙罷。 九月,李傕自為車騎將軍,郭汜後將軍,樊稠右將軍,張濟鎮東將軍。濟出屯弘農。甲申,司空淳于嘉為司徒,光祿大夫楊彪為司空,並錄尚書事。 冬十二月,太尉皇甫嵩免。光祿大夫周忠為太尉,參錄尚書事。八月、太傅の馬日磾と、太僕の趙岐とが、持節して天下を慰撫する。 車騎将軍の皇甫嵩が太尉となる。司徒の趙謙を罷めた。
九月、李傕が車騎将軍となり、郭汜が後将軍となり、樊稠が右将軍となり、張済が鎮東将軍となる。張済は、弘農に出屯する。 司空の淳于嘉を司徒とする。光禄大夫の楊彪を司空とする。淳于嘉と楊彪とが、録尚書事する。
冬十二月、太尉の皇甫嵩を免じた。光禄大夫の周忠が太尉となる。周忠が、録尚書事に参じる。
初平4年
四年春正月甲寅朔,日有食之。丁卯,大赦天下。三月,袁術殺楊州刺史陳溫,據淮南。 長安宣平城門外屋自壞。
夏五月癸酉,無雲而雷。 六月,扶風大風,雨雹。華山崩裂。太尉周忠免,太僕朱儁為太尉,錄尚書事。下邳賊闕宣自稱天子。雨水。遣侍御史裴茂訊詔獄,原輕繫。六月辛丑,天狗西北行。初平四年春正月甲寅ついたち、日食あり。天下を大赦した。三月、袁術が揚州刺史の陳温を殺して、淮南に拠った。長安にて、宣平の城門の外にある建物が、おのずから壊れた。
夏五月癸酉、雲がないのに雷がなった。 六月、扶風で大風がふき、雹がふった。華山が崩裂した。 太尉の周忠を免じて、太僕の朱儁を太尉とした。朱儁が録尚書事する。 下邳の闕宣が、天子を自称した。大雨がふった。侍御史の裴茂が詔獄にゆき、軽繋をゆるした。六月辛丑、天狗が西北にゆく。
九月甲午,試儒生四十餘人,上第賜位郎中,次太子舍人,下第者罷之。詔曰:『孔子歎「學之不講」,不講則所識日忘。今耆儒年踰六十,去離本土,營求糧資,不得專業。結童入學,白首空歸,長委農野,永絕榮望,朕甚愍焉。其依科罷者,聽為太子舍人。』九月、儒生の四十余人を試験して、成績のよいものを郎中とし、それに次ぐ者を太子舎人とし、それより劣る者を罷めた。
『范書』献帝紀はいう。献帝は詔した。「孔子歎「學之不講」,不講則所識日忘。今耆儒年踰六十,去離本土,營求糧資,不得專業。結童入學,白首空歸,長委農野,永絕榮望,朕甚愍焉。其依科罷者,聽為太子舍人。」と。
冬十月,太學行禮,車駕幸永福城門,臨觀其儀,賜博士以下各有差。辛丑,京師地震。有星孛於天市。司空楊彪免,太常趙溫為司空。公孫瓚殺大司馬劉虞。
十二月辛丑,地震。司空趙溫免,乙巳,衛尉張喜為司空。是歲,琅邪王容薨。冬十月、太学で儀礼をおこなう。献帝の車駕は、永福の城門にゆき、太学の儀礼をみた。博士より以下に、それぞれ賞賜した。 十月辛丑、京師で地震あり。星孛が天市にある。司空の楊彪を免じた。太常の趙温が司空となる。 (十月)公孫瓚が、大司馬の劉虞を殺した。
十二月辛丑、地震あり。司空の趙温を免じた。衛尉に張喜が司空となる。 この歳、瑯邪王の劉容が薨じた。閉じる
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興平元年
興平元年春正月辛酉,大赦天下,改元興平。甲子,帝加元服。 二月壬午,追尊謚皇妣王氏為靈懷皇后,甲申,改葬於文昭陵。丁亥,帝耕於藉田。 三月,韓遂、馬騰與郭汜、樊稠戰於長平觀,遂、騰敗績,左中郎將劉範、前益州刺史種劭戰歿。 夏六月丙子,分涼州河西四郡為廱州。丁丑,地震;戊寅,又震。乙巳晦,日有食之,帝避正殿,寢兵,不聽事五日。大蝗。秋七月壬子,太尉朱儁免。戊午,太常楊彪為太尉,錄尚書事。興平元年春正月、天下を大赦した。改元して、興平元年とした。 献帝に元服をくわえた。
二月、献帝の母である王氏を追尊して、霊懐皇后という諡号をおくった。王氏を文昭陵に改葬した。 献帝は籍田をたがやした。
三月、韓遂と馬騰が、長平観にて、郭汜と樊稠と戦った。韓遂と馬騰が敗れた。左中郎将の劉範と、さきの益州刺史の种邵とが戦没した。
夏六月、涼州の河西四郡を分割して、雍州をつくる。 六月丁丑、地震あり。六月戊寅、ふたたび地震あり。六月乙巳晦みそか、日食あり。 献帝は正殿をさけ、兵をやすませ、政治を五日きかない。 おおいに蝗害がある。秋七月、太尉の朱儁を免じた。太常の楊彪が太尉となり、録尚書事する。
三輔大旱,自四月至於是月。帝避正殿請雨,遣使者洗囚徒,原輕繫。是時穀一斛五十萬,豆麥一斛二十萬,人相食啖,白骨委積。帝使侍御史侯汶出太倉米豆,為飢人作糜粥,經日而死者無降。帝疑賦恤有虛,乃親於御坐前量試作糜,乃知非實,使侍中劉艾出讓有司。於是尚書令以下皆詣省閣謝,奏收侯汶考實。詔曰:『未忍致汶於理,可杖五十。』自是之後,多得全濟。三輔でおおいに日照あり。日照は、四月から七月までつづく。 献帝は正殿をさけて、雨乞をする。使者をおくり、囚徒を調査し、軽繋の者をゆるした。このとき、食物の価格が高騰しており、長安の人々は食いあい、白骨がつまれた。献帝は、食物を再配分した。
『范書』献帝紀はいう。献帝は、侍御史の侯汶に、太倉の米豆を出させ、飢えた者に給付した。だが数日しても、餓死者は減らない。献帝は、給付の方法に不正があると考え、みずから穀物を計量して、不正を明らかにした。侍中の劉艾が、有司の意見をきいた。尚書令より以下、省閣におもむいて献帝にわび、侯汶を取り調べよと上奏した。献帝は「侯汶を取り調べるのは忍びない。杖五十でよい」とした。これよりのち、飢えた者は、みな救われた。
八月,馮翊羌叛,寇屬縣,郭汜、樊稠擊破之。九月,桑復生椹,人得以食。司徒淳于嘉罷。冬十月,長安市門自壞。以衛尉趙溫為司徒,錄尚書事。 十二月,分安定、扶風為新平郡。 是歲,楊州刺史劉繇與袁術將孫策戰於曲阿,繇軍敗績,孫策遂據江東。太傅馬日磾薨於壽春。八月、馮翊で羌族がそむき、属県を寇した。郭汜と樊稠が、羌族を撃破した。 九月、桑復生椹、人は食べることができる。 司徒の淳于嘉を罷めた。 冬十月、長安の市門がおのずから壊れた。 衛尉の趙温が司徒となり、録尚書事する。 安定と扶風から分割して、新平という郡をつくった。
この歳、揚州刺史の劉繇は、袁術の将である孫策と、曲阿で戦った。劉繇が敗れ、孫策が江東によった。太傅の馬日磾が、寿春で薨じた。
興平2年
二年春正月癸丑,大赦天下。二月乙亥,李傕殺樊稠而與郭汜相攻。 三月丙寅,李傕脅帝幸其營,焚宮室。 夏四月甲午,立貴人伏氏為皇后。丁酉,郭汜攻李傕,矢及御前。是日,李傕移帝幸北塢。大旱。五月壬午,李傕自為大司馬。 六月庚午,張濟自陜來和傕、汜。建安二年春正月、天下を大赦した。二月、李傕が樊稠を殺した。李傕と郭汜が攻めあった。三月、李傕が献帝をおどして、みずからの軍営においた。長安での宮室を焼いた。
夏四月、貴人の伏氏を皇后とした。 郭汜が李傕を攻め、献帝の御前に矢がおよんだ。この日、李傕は献帝を北塢にうつした。 おおいに日照あり。 五月、李傕は大司馬となった。 六月、張済は陜県からきて、李傕と郭汜と和した。
秋七月甲子,車駕東歸。郭汜自為車騎將軍,楊定為後將軍,楊奉為興義將軍,董承為安集將軍,並侍送乘輿。張濟為票騎將軍,還屯陜。八月甲辰,幸新豐。
秋七月、献帝の車駕が東にむけて発った。郭汜は車騎将軍となり、楊定は後将軍となり、楊奉は興義将軍となり、董承は安集将軍となり、献帝の乗輿に同行した。張済は驃騎将軍となり、陜県にもどって屯する。八月、献帝は新豊につく。
冬十月戊戌,郭汜使其將伍習夜燒所幸學舍,逼脅乘輿。楊定、楊奉與郭汜戰,破之。壬寅,幸華陰,露次道南。是夜,有赤氣貫紫宮。張濟復反,與李傕、郭汜合。
十一月庚午,李傕、郭汜等追乘輿,戰於東澗,王師敗績,殺光祿勳鄧泉、衛尉士孫瑞、廷尉宣播、大長秋苗祀、步兵校尉魏桀、侍中朱展、射聲校尉沮儁。壬申,幸曹陽,露次田中。楊奉、董承引白波帥胡才、李樂、韓暹及匈奴左賢王去卑,率師奉迎,與李傕等戰,破之。
十二月庚辰,車駕乃進。李傕等復來追戰,王師大敗,殺略宮人,少府田芬、大司農張義等皆戰歿。進幸陜,夜度河。乙亥,幸安邑。是歲,袁紹遣將麹義與公孫瓚戰於鮑丘,瓚軍大敗。冬十月、郭汜の将である伍習が、献帝のいる学舎を焼いて、献帝をおびやかした。楊定と楊奉は、郭汜をやぶった。 十月壬寅、献帝は華陰にゆき、野外で宿泊する。この日の夜、赤気が紫宮をつらぬいた。 張済がふたたび献帝にそむき、李傕と郭汜とあわさる。
十一月、李傕と郭汜は、献帝に追いつき、東澗で戦った。献帝は敗れた。九卿より以下が殺された。殺されたのは、光禄勲の鄧泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、步兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射声校尉の沮儁らである。
献帝は曹陽にゆき、田のなかで露営した。楊奉と董承は、白波の帥である胡才、李楽、韓暹と、匈奴の左賢王である去卑をひきいれた。李傕らを破った。
十二月、献帝の車駕は、ふたたび出発した。李傕らに追撃され、少府の田芬、大司農の張義らが戦没した。陜県にゆき、夜に黄河をわたる。 安邑にゆく。 この歳、袁紹が麹義をつかわし、鮑丘にて公孫瓚と戦う。公孫瓚は大敗した。閉じる
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建安元年
建安元年春正月癸酉,郊祀上帝於安邑,大赦天下,改元建安。二月,韓暹攻衛將軍董承。夏六月乙未,幸聞喜。
秋七月甲子,車駕至洛陽,幸故中常侍趙忠宅。丁丑,郊祀上帝,大赦天下。己卯,謁太廟。建安元年春正月、上帝を安邑に郊祀した。天下を大赦した。改元して、建安元年とした。韓暹が、衛将軍の董承を攻めた。夏六月、献帝は聞喜にゆく。
秋七月、献帝の車駕は洛陽にいたる。もと中常侍の趙忠の家宅に入る。 上帝を郊祀し、天下を大赦した。太廟に謁した。
八月辛丑,幸南宮楊安殿。癸卯,安國將軍張楊為大司馬,韓暹為大將軍,楊奉為車騎將軍。是時,宮室燒盡,百官披荊棘,依牆壁間。州郡各擁彊兵,而委輸不至,群僚飢乏,尚書郎以下自出采穭,或飢死牆壁間,或為兵士所殺。八月、南宮の楊安殿にゆく。 安国将軍の張楊を大司馬とした。韓暹を大将軍、楊奉を車騎将軍とした。
『范書』献帝紀はいう。洛陽の宮室は焼き尽くされた。州郡から強兵がくるが、物資が輸送されず、群僚は飢えた。尚書郎が、みずから食糧を調達した。群僚は、餓死したり、兵士に殺されたりした。
辛亥,鎮東將軍曹操自領司隸校尉,錄尚書事。曹操殺侍中臺崇、尚書馮碩等。封衛將軍董承為輔國將軍,伏完等十三人為列侯,贈沮儁為弘農太守。庚申,遷都許。己巳,幸曹操營。
九月,太尉楊彪、司空張喜罷。冬十一月丙戌,曹操自為司空,行車騎將軍事,百官總己以聽。鎮東将軍の曹操が、司隷校尉を領し、録尚書事する。曹操は、侍中の台崇、尚書の馮碩を殺した。 衛将軍の董承を、輔国将軍とした。伏完ら十三人を列侯に封じた。沮雋に弘農太守を贈った。 許県に遷都した。献帝は、曹操の軍営にゆく。
九月、太尉の楊彪、司空の張喜を罷めた。冬十一月、曹操は司空となり、車騎将軍事を行する。
建安2年から4年
二年春,袁術自稱天子。三月,袁紹自為大將軍。夏五月,蝗。秋九月,漢水溢。是歲飢,江淮間民相食。袁術殺陳王寵。孫策遣使奉貢。建安二年春、袁術が仲家の天子に即位した。三月、袁紹がみずから大将軍となった。 五月、蝗害あり。九月、漢水があふれた。
この歳、長江と淮水のあいだで、人民が相い食む。 袁術が、陳王の劉寵を殺した。 孫策が使者をおくり、献帝に奉貢した。
三年夏四月,遣謁者裴茂率中郎將段煨討李傕,夷三族。呂布叛。冬十一月,盜殺大司馬張楊。十二月癸酉,曹操擊呂布於徐州,斬之。
四年春三月,袁紹攻公孫瓚於易京,獲之。衛將軍董承為車騎將軍。夏六月,袁術死。是歲,初置尚書左右僕射。武陵女子死十四日復活。建安三年夏四月、謁者の裴茂が、中郎将の段猥をひきいて、李傕を討った。李傕を夷三族とした。 冬十一月、盗賊が大司馬の張楊を殺した。十二月、曹操が徐州にて、呂布を斬った。
建安四年三月、袁紹は易京にて公孫瓚を捕らえた。 三月、衛将軍の董承を車騎将軍とした。 夏六月、仲家の皇帝である袁術が死んだ。 この歳、はじめて尚書に左右僕射をおいた。武陵にて、女子が死に、十四日後に復活した。
建安5年から7年
五年春正月,車騎將軍董承、偏將軍王服、越騎校尉種輯受密詔誅曹操,事泄。壬午,曹操殺董承等,夷三族。秋七月,立皇子馮為南陽王。壬午,南陽王馮薨。
九月庚午朔,日有食之。詔三公舉至孝二人,九卿、校尉、郡國守、相各一人。皆上封事,靡有所諱。曹操與袁紹戰於官度,紹敗走。冬十月辛亥,有星孛於大梁。東海王祗薨。是歲,孫策死,弟權襲其餘業。建安五年春正月、献帝の密詔をうけ、曹操を誅殺しようとした者が、曹操に計画を知られて、夷三族となった。曹操の誅殺を計画したのは、車騎将軍の董承、偏将軍の王服、越騎校尉の种輯である。 秋七月、皇子の劉馮を南陽王に封じた。同月、劉馮は薨じた。
九月庚午ついたち、日食あり。 献帝は詔して、三公に、至孝の者を二名ずつ挙げさせた。九卿と校尉と太守・国相に、至孝の者を一名ずつ挙げさせた。冬十月辛亥、星孛が大梁にある。東海王の劉祗が薨じた。
六年春二月丁卯朔,日有食之。 七年夏五月庚戌,袁紹薨。於窴國獻馴象。是歲,越巂男子化為女子。建安六年春二月丁卯ついたち、日食あり。建安七年夏五月、袁紹が薨じた。こうして、劉氏から袁氏への革命の可能性はなくなった。130630
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