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現代思想の実演販売
難波江和英、内田樹『現代思想のパフォーマンス』
のうち、内田氏の書いたラカンの解説(5章に相当)になぞりながら、漢魏革命を中心とした、禅譲について分析します。
いきなり、支離滅裂でごめんなさい。順に説明しましょう。
まず『現代思想のパフォーマンス』とは、どんな本か。おびに「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」と書いてある。つまり、現代思想の著者や著作について、細かくバラして、「難解だ、難解だ」と苦しむのは、ひとまず止しましょう。現代思想を道具として、使ってみましょうと。内田氏にいわく、自動車が走る原理を知らなくても、自動車で移動することはできる。自動車を使いこなして、利益を得ることができる。これを現代思想でもやりましょうと。
本のなかでラカンは、カミュ『異邦人』を読解するための道具として、使われていた。その分析の切れ味を「実演販売」して、ほら!ラカンは便利でしょ!と内田氏が興奮している。ということは、わかる。しかし、
えーと、つまらなかった。というか、よく分からなかった。
なぜならぼくが、カミュの読者ではないから。「カミュを分析したい」という欲望がなかったから。例えば、大根がキライな人が、「この包丁で、大根がスパスパ切れます」と実演販売されても、その包丁を欲しくならないでしょ。それと同じだ。ぼくは、内田氏の実演販売によって、「ラカンを使いたくて、ウズウズする」とはならなかった。
しかし、前半のラカンの解説において、分析したい対象がみつかった。また、唐突に結論をいえば、「天子の地位とは、シニフィアンである」と、ラカンに引きつけて言いたくて、ウズウズしています。会社の昼休みに、この着想が降りてきて、ウズウズしっぱなしだった。「天子の地位とは、『盗まれた手紙』における手紙である」とも言いたくて、ウズウズしている。
先走らずに、思考を文書に定着させてゆきましょう。
この頁の態度について
天才が、文字どおり天から降ってきて、超人的な知性を発揮する。ということは、ほぼない。全くない。絶対にない。
ぼくが思うに、すべての知性は、前後の文脈から、左右との関係のなかから、オリジナリティを発揮する。だから、おもしろい話を詳しく検討していくと、系統的に(イモヅル式に)ほかの知性が引きずり出されてくる。
ラカンにしたって、同じだ。
まず、ポウが『盗まれた手紙』という小説を書いた。フロイトが精神分析を「発明」した。ラカンが、フロイトの読解をスローガンにして、『盗まれた手紙』を題材として、フロイトの思想を『エクリ』で説明した。またべつに、ヒッチコックが映画をつくった。ラカン派のジジェクは、ラカンでヒッチコックを理解するだか、ヒッチコックでラカンを理解するだか、そんな曲芸をやった。その曲芸をみた内田氏が、ジジェクの振る舞いを、自分なりにやって、『盗まれた手紙』を再びなぞりながら、『エクリ』を解説した。こうして生まれた1冊の本が、ぼくのもとに届いた。
ぼくは内田氏の曲芸をまねて、内田氏による解説を模倣しながら、漢魏革命について分析したいと思う。「Aを題材にBの読解をする解釈者C」という方程式をつくると、どれだけでも組合せをつくれる。また、等式の左辺と右辺を入れ替えることにより、また新たな発見がある。
ぼくも、この円環のなかに、飛びこんでみたい。
この頁のなかで、ぼくは内田氏の文書を書き写すこともある。内田氏の文書を、かってに改編することもある。ぼくなりの考察を挿入するし、ぼくなりの分析対象に、かってに置き換えることもあるでしょう。主語と述語が、参照先が、とくに断りなく混戦することが必至です。しかし、いちいち注記せずに、「ひとすじの物語」を書いてゆきます。
どこがオリジナルで、どこがパクりなのかは、ぼくがあとから『現代思想のパフォーマンス』を読み返せば、わかることだから。わりに主語(だれが何を言っているのか)を区別せずに、ぼくが全体の話者となって書いてゆきます。
本のどこを参照しているか、分からなくなると、始末が悪いので。節のタイトルは、本に忠実になぞります。
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- 『盗まれた手紙』と漢魏革命
難解だからこそラカンである
ラカンの解説者は、みな「ラカンが、よくわからない」と告白する。岸田秀は、周囲の精神分析者も『エクリ』が分からないのだと聞いて、安心した。
たまたま岸田秀『唯幻論』という本がでた。ぼくが岸田氏を知ったタイミングと、総集編がでて、手に入りやすくなったタイミングが一緒だった。もしかしたら、傾倒すべき論者との出会いか!と喜んだ。
岸田氏は、フロイトを土台にして、日本人だてらに(失礼)独自の思想を構築した人なのだそうだ。3部構成だった。母親への怨み節。米国ぎらいな日本兵。男女のセックス。以上の3部だった。母親の件は、岸田氏の個人的な体験や、精神分析そのものへの情熱がよくわかって、おもしろかった。米国ぎらいな日本兵の話は。「精神分析とは、集団心理学である。個人を精神分析するように、国家を精神分析することができる」という話だった。岸田氏が自覚しているように、おもしろいが、どうとでも言える、というタイプの議論だと、世間から見なされているようだ。そういった意味で(これもまた岸田氏が言うように)フロイトと同じ種類の議論である。
しかしぼくは、「おもしろくないし、あまり自由な議論になっていない」と思った。つまり、世間の評価とは逆だった。つまりは。建国の当初にうけた原初的な経験が、あとの国家の命運を左右すると。幼少期の受けた性犯罪のトラウマが、大人になっても回帰して、精神病をつくりだす。そういう意味で、個人の精神分析と、国家の集団心理は同じなのだと。なんだかねー。せっかく「精神分析の理論家が、歴史を語る」という、大いなる事業に、片手だけでも引っかけているのだから、もっと奮闘してほしかった。
アメリカは建国当初に、先住民を殺しまくったから、野蛮である。日本は、アメリカに恫喝と罵倒を受けて、開国した。だから真珠湾を攻撃せずには、いられなかった。かんたんにまとめると、そういう議論だった。精神分析の理論、いらんじゃん。むしろ矮小化しているよ。職業歴史家でない人が歴史の話をするなら、「史料にない、おもしろい話」を、ウソでも良いからするべきだ。史料よりも単調な話にして、どーするの。最低だった。
最後のセックスの話は、とくに関心にヒットしなかった。600頁もある本だから、持って読むのがしんどかった。という、岸田秀の感想文になってしまった。内田氏が、岸田氏の名前を出すから、いけないのだ。
物語のなかの精神分析
ラカン『エクリ』は、分からないことが運命づけられる。内田氏がやるのも、「ラカン誤読」の一例である。だが、「ラカンを誤読することこそが、ラカンへの唯一の接近法である」とラカンがいう。だから内田氏も誤読を試みる。
このヒット・アンド・アウェイな、気持ちわるい感じが。付きあいにくい感じが。まさにラカンの手触りです。ついでにいうと、内田氏も、当事者のように語りながら、じつは一度も当事者だったことがない人だ。なんだか、いつも巧妙にはぐらかす。はぐらかしかたが、なかなか興味ぶかい。だからぼくは、内田氏と利害関係がない限りにおいて、内田氏を楽しむことができる。そして幸いなことに、ぼくは内田氏と利害関係がない。もし同じ共同体の成員だったら、イライラ!とするんだと思うけど。ラカン『エクリ』の冒頭にあるセミネールは、フロイト『快楽原則の彼岸』の注解を、ポウ『盗まれた手紙』を導きの糸として行うものである。「精神分析とはなにか」という本質的な問いに、ラカンは答えようとしている。
そして、そのラカンの答えを、内田氏を代表とするぼくらは、つねに受け取り損ねる。失敗が運命づけられているのだと。しかし、受信に失敗するような仕方でしか、発信しなかったラカンを、ぼくらは責める権利がない。ビジネスだったら、「読めないような字で」「見つけにくい場所に」「タイミング悪く」メモを置いた場合、そのメモを置いた者が、必ず叱られるんだけどね。ラカンは、その叱責をまぬがれる。
なぜか。精神分析とは何かという答えとは、「不親切な発信に対して、努力しても受信に失敗する者ばかりがいる。という一連のプロセスを第三者の視点から見おろしたこと」の総体なんだから。単純に答えを教えるのでなく、生徒に試行錯誤させて、そのプロセスから気づかせるのだ。ほーら、ぼくの書くことも、なんだか秘技めいてきたけど。わりに確信して書いているのだから、罪深い。
秘技めいた書き方は、内田氏によるラカンの解説を、会社帰りの電車で読み終えたから、いま獲得されているものだ。つまり、この頁を最後まで読めば、最後まで内田氏をなぞれば、閲覧者の方々も同じように、秘技的なことを書きたくなるにちがいない。
わたしたちは原型的な「物語」を語りつぐ。フロイトのいう「原空想」である。神話、民話、都市伝説など。すべて人間の宿命をかたる。精神分析は、この宿命を知る手がかりになる。「人間が壊れたとき」にこそ、人間の成り立ちがわかる。建物が壊れることで、建物の構造が見えるように。
ジジェクは『ヒッチコックによるラカン』を書いた人だが。『あなたがラカンについて知りたいと思いながら、ついぞヒッチコックに聞きそびれたこと』という副題をつける。ジジェク曰く、ヒッチコックによるラカンであって、ラカンによるヒッチコックでない。映画を題材として、ラカンを読み解くのだと。
ラカンがやったのは、「あなたがフロイトについて知りたいと思いながら、ついぞポウに聞きそびれたこと」であろうか。
質問があるとき、なぜだか本人に直接その回答を求めないほうが、かえって分かることがあるのかも知れない。もしくは、全ての問題は、こういう解法しか用意されていないのかもしれない。だって、もしぼくがフロイトを読んでも、理解できなかったとして。フロイトのところにゆき、「分からないんですが」と言ったとする。もしフロイトが、邪悪な心で著作を「わざと分からなく」するように手抜きしていたら、話はべつですが。大抵の場合、フロイトはすでにベストを尽くしている。だから、どれだけフロイトに聞いても、分からないことを再確認するだけかも知れない。ラカンに聞きに行けば良いだろう。そしたらラカンは、ポウに聞けという。このたらい回しは、役所仕事だったら、イライラするが。じつは、人間の知性のありかたにおいて、本質的なのかも知れない。辞書の循環参照とおなじく、1周まわってみると、なんだか分かったような気分になる。いや「気分」ではなく、分かることとは、そういうことなのである。トーラスのように構造化されてる。
ヒッチコックは、「人間はどのようにして壊れるか」のみを描いた。だからヒッチコックを理解すれば、人間の壊れ方、ひいては、人間の成り立ちについて分かるはずである。
ポウの『盗まれた手紙』もまた、人間がどのようにして壊れるのか、人間がどのように成っているのか、わかるはずだ。
ここで内田氏は、ポウ『盗まれた手紙』の内容を紹介する。重複する。はぶく。
ポー『盗まれた手紙』を曹魏に換骨奪胎する
さすがにポウを丸写しするだけでは、ぼくが飽きるので。曹魏の物語に置換して、書いてみました。書くことによって、ぼくの物語に対する理解が深まったので、めでたしめでたし。そのあとに、いま話題のラカン『エクリ』の該当部分を抜き書きしたが。案の定、さっぱり意味がわからなかった。ただし、「シニフィアンが人間を振り回したあげく、人間をぶち壊す」ということは、理解できた。内田氏の今後の解説とも一致した。そういう意味で、いちおう「読めてる」じゃんと思う。いやこの確信もまた、数ある誤読のなかの1つなんだろう。それであっても(それだからこそ)正解なのだ。うーむ。
知が抑圧を読み解く
主人公は沈黙のまま、15分間、散歩をした。デュパンは、15分のうちに主人公が考えたことを見抜く。「こういうことを考えていたでしょう」と、連想ゲームをやる。見事に、あたっている。顔つきや姿勢だけから、思考を読み取ったという。
デュパンは「分析的知性」をもっている。丁半ばくちが上手な少年の話が、事例にあがる。相手がどれほど「愚者」なのかを見て、丁半の予想を裏返す回数をきめる。相手の身体的な特徴をトレースすることで、相手の心的過程と同調する。
人間の行動を統御するのは、内面にある意思でない。外部の状況である。
ぎゃくに、ろくに分析できない知性とは、ぜんぶ自分のペースで考えること。相手の「身」になって、思考することができない者。警視総監は、自分の頭の良さだけを考えるから、手紙を見つけられない。「私が思考するように、相手も思考するだろう」と考える。「私が隠すように手紙を隠すだろう。私が見つけにくいと思う地名を、地図のなかに見つけろと出題するだろう」と。
これは構造的無知である。
もはや、「相手のことなんか、知りたくない」という欲望が働いているとしか思えない。このように、無意識的な過程を、フロイトは抑圧と名づけた。
探偵=精神分析家は、無意識を聞きとることができる。なぜ聞きとれるか。無意識が心の奥でなく、なまなましく表層に露出しているから。『盗まれた手紙』は、抑圧とそれを読み解く分析的知性の物語である。
流れ出す死の衝動
本題に入る前に、精神分析の基礎概念を確認する。
分析の過程で、無意識から意識に引きずり出そうとすると、「検閲」によって押し戻されることがある。症候の原因が潜んでいる。自我に許容されないもの、つまり自我に苦痛をもたらし、社会的人格と整合しないものが、抑圧される。抑圧の心的過程は、エネルギーを失わない。せきとめられた水が、べつの流路を見出すように、でてくる。夢、妄想、神経症として、再帰する。
フロイトは『精神分析入門』にて「症候とは、抑圧によって阻止されたものの代理物である」という。抑圧のために、病因は意識化されず、べつのものに、すり替えられる。くり返しでてくる。フロイトは「行ってはいけない」娼婦街に、道に迷って3回も足をむけてしまった。この体験は不気味である。不気味とは、「隠されたままであるべきだが、表に出てきてしまったもの」である。
さらには、「何が抑圧されているか分からないままに、執拗に反復されるもの」である。理由は分からないが、やたらと同じ数字が目につき、それが自分の寿命を暗示している気がする、のように。誰もならしていない楽器なのに、楽器の残響だけが耳に付くような。
抑圧されたものが、代理物によって再帰することを「反復強迫」という。これは「快楽原則」に背馳する。外傷的神経症が、災害の場面をなんども夢に見るのは「快楽原則」と異なるはずなのに。
フロイトいわく、人間には、死の欲動=タナトスがあるから、快楽でないにも関わらず、「反復強迫」を呼びよせる。
反復強迫の一例は、糸巻の「オー」「ダー」である。これは母親の不在を、子供がくり返して再演したもの。子供は、自分の手が届くもので、苦痛な体験をあえて遊戯にして、くり返した。受動者であるコトもが、遊戯においては能動者となる。能動者として状況を支配することで、母親に復讐する。この復讐に快楽を見出す。
糸巻の話は、ぼくもフロイトの翻訳を読んで知っていたのだが。内田氏が「新しい」のは、子供が能動者になると考えるところ。つまり、子供-糸巻の関係は、子供-母親の関係と同じではない。子供-母親、糸巻-子供である。子供の位置が移動していることに注意。
ぼくは、レヴィ=ストロースの神話の公式で、トリックスターが居場所をスライドさせて、物語を反転していることを、思い出さずにはいられない。いや、分かりにくい比喩はやめよう。もっと「おなじみの」理解をもってこよう。ここが、この頁を書こうと思ったキモなのだから。曹魏は、後漢に禅譲をせまる者であったが、すぐに禅譲をせまられる者に移行した。「やったことを、やり返される」という、復讐が起きている。これがまさに、能動者と受動者の入れ替わりである。
あとで内田氏をなぞるのだが。『盗まれた手紙』において、大臣(ぼくは奇しくもこれを丞相の曹操になぞらえて、物語をアレンジしたのだが) の位置が、曹魏の位置に等しい。つまり、手紙を奪う立場として登場するが、後半では手紙を奪われる立場に移行する。大臣は、自分が手紙を持たないときは、手紙の持主=王妃の隠し方を的確に見抜くだけの力量があるのに。自分が手紙の持主になった途端に、王妃と同じような行動をして、デュパンに出しぬかれてしまった。
糸巻で「オー」「ダー」する子供は、能動性の回復だけでは、説明しきれない。つぎつぎと裏切られる人、つぎつぎと務めた会社が倒産する人がいる。結婚するたび、夫の死を看取る人がいる。どうやら、同一の体験を反復すること。それ自体が快楽の源泉となっていると、フロイトは考えた。
ぼくは思う。我慢ができなくなってきたので、「直接的で具体的」な漢魏革命の話をしましょう。
フロイトによると、そしてフロイトをディフォルメした岸田秀が強調するように。人間は本能が壊れた動物である。つまり、動物ができることを、しない。代わりに、動物がしないようなことを(無理に文化を形成して)実行する。典型的なのはセックス。動物は、もっぱら繁殖のためだけにセックスをする。人間は、繁殖でないセックスもする。というか、繁殖のためのセックスのやり方を忘れているので、文化的に性的な興奮を作り出して(男性は子孫をのこすために興奮するのでなく、いろんな文脈に基づいて興奮する)たまたま子孫を残すことに、成功しているに過ぎない。経緯や動機はどうあれ、物理的に「受精」さえすれば、結果オーライだから。
本能が壊れた人間がやる、もっとも原初的な行為は、父を作ること。ノン(否=名)をする父を設定する。このことは、あとで内田氏が、ラカンの話をなぞってくれる。父の延長には、国家や体制がある。国家や体制の過剰な創出は、まさに父の機能である。いわば、国家や体制の創出は、程度の差こそあれ「精神病」に分類されるべきだ。この精神病の原初は、言語の獲得なんだが。これも内田氏を待ちましょう。言語が国家をつくる。
いま、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を読んでいるが、これは言語(と言語を流通させる出版業)によって、国家という「想像の共同体」が形成されるという話だ。まだ全部読んでないけど。
フロイトにもどる。「漢家は永続する」というのは、実態にあわない主張だ。あわないからこそ、主張される。ここには抑圧が働いている。だって、あらゆる人間が死ぬように、国家だって死ぬはずなのだ。これは、ぼくが2008年くらいから考えていること。この抑圧が、かたちを変えて、再帰的に症例として出てくるのが、政治の腐敗や、軍事の衝突なんだろう。国家を滅ぼすようなことを、敢えてやってしまう。
中国の王朝が、勃興と滅亡を「強迫的に反復」するのは、フロイトが見つけた糸巻の遊びと同じなんだろう。王朝が永続すべきだ、王朝は正統である、というメッセージには、抑圧がある。この抑圧を、うまく飼い慣らすため、つまり「忍耐することを可能ならしめるため」、わざと王朝は興亡をくりかえす。「禅譲を迫る者」が、「禅譲を迫られる者」の立場に移行することで、トラウマを解消していく。この解消の理路は、あとで詳しく書くことになるでしょう。
以上の意味で、「万世一系」という約束のある日本史は、さらに大きな抑圧が働いている。王朝が変遷する中国史に対する視角は、1回ひねりの精神病である。万世一系の日本は2回ひねりの精神病である。抑圧が多層的なのだ。万世一系の日本が、ひねりが0回の歴史を持つのではない。裏の裏はオモテなのだと、丁半博打の得意な少年が、『盗まれた手紙』のなかで、主張していたではないか。
(日本が万世一系でないと言いたいのではない)
ぼくは思う。この3週間くらい、経理の決算業務で忙しかった。経理というのは、会社という「父のノン」が端的に表れる場所だ。ゴーイング・コンサーンなんて、空想だしね。人間の営為という、連続した行為を、ある期間でバツンと切断して、成績表にまとめる。切れるはずのないものを、無理に区切る。ここにも抑圧が働いている。だから経理部員は、「区切れないものを区切るという、まさに人間らしい(ヒトを人間たらしめる)営為に関わる興奮」を味わいつつ、死の衝動から逃れられない。「なんだか歪んでいる」と直感しながら、業務をまわさずにはいられない。
「そもそも会社って何だっけ」という根源的な問いが惹起する。とかね。
フロイトはいう。本能の水準では、変化と発展を求めつつ、均衡と安定を求める。前者は「生の衝動」であり、エロスである。後者は「死の衝動」であり、タナトスである。無生物の原状(均衡と安定)に帰還したがる。興奮の分量を、抑えたい。ニルヴァーナ=涅槃を理想とする。
内田氏による、フロイトの復習は、ここまで。
移動する手紙
ラカンは『盗まれた手紙』で、「構造的無知と分析」、「反復強迫」という、精神分析の根本概念を提出している。
ぼくは思う。この298頁の内田氏の一文だけで、内田氏の解説が言い尽くされてしまった。お得だなあ。王妃が大臣に手紙を盗まれる場面と、大臣がデュパンに手紙を盗まれる場面は、「間主観的なもの」と「3つの視線」によって担われている。
3つの視線とは。1つは、何も見ていない視線。国王と警察。2つは、第1の視線が何を見ていないため、「自分が隠したものは、見つからない」と思いこんでいる視線。王妃と大臣である。3つは、第2の視線が隠した者が、じつは剥き出しのままに放置されていることを知っている視線である。物語の前半では大臣、後半ではデュパンである。
なんの話だか、『盗まれた手紙』を読まないと分からないと思います。そしてぼくは、読んだので分かっております。大臣の役割が、第3から第2の視線に移行することに注意。
前後半2つの場面の反復は、「間主観的なもの」に統御されている。統御する者とは「盗まれた手紙」である。
ラカンは手紙を分析する。
手紙の差出人も、手紙の内容も、物語のなかで明らかにされない。手紙の所有者がわからない。手紙の内容は、それが秘匿されている限り、手紙の保持者(たとえば大臣)が王妃に影響をあたえる。だが内容が公開されると、保持者はなんの力も引き出すことができない。使わない限りは有効であり、使うと無効になる力。これが手紙の力能である。
手紙は、だれにも決定的に帰属しない。どこにも定住的に帰着しない。内容が確定されない。「横領/迂回し続ける手紙」であり、「引き延ばされた、配達が遅延された手紙」であり、「引き取り手がない、受難する手紙」である。このような性格の手紙が、短編小説『盗まれた手紙』の「真の主題/主体」である。迂回することが、手紙の本来の旅程である。
ぼくは思う。冒頭で先走って書きましたが。手紙とは、天子の地位なのだ。天子の地位とは、元来の所有者がわからない。始皇帝なのか、違うよなあ。劉邦なのか。いや戦闘のすえに奪っただけだろ。天子の内容とは、なんだ。なかなか定義が難しいぞ。定義が百出することが、定義の難しいこと(下手すると定義が不可能なこと)の証拠じゃないのか。
天子の地位、王朝の正統性とは、秘匿されている(言語化に失敗している)限り、有効である。しかし、正統性を言い尽くしてしまうと、その効力はなくなる。だってその言語化した部分を否定しまえば、王朝は終わるのだから。「正統性を言い立てる」ことは、王朝の体制を強化することに有効だから、たびたび試みられる。白虎観会議など。しかし、すべてを整合的に言い尽くしてしまっては、その瞬間に王朝の命運がおわる。『白虎通』が、タテ糸とヨコ糸を、あえて混乱させて並置するのは、言い尽くしの回避かも知れないなあ!
天子の地位は、複数の姓のあいだで、横領され、迂回をせまられるが、どこに行きつくという目的地が、共通諒解されているわけでもない。配達が遅延された、ただパスを回すためだけに存在するものである。言語と同じ。そりゃ贈与の対象となるよね。退蔵したら失墜するよね。
たまに、即位の期間が、やたらと長い「王朝を中興した名君」が出てくるが。やっていることは、退蔵に過ぎませんよ。彼1代は栄えるかも知れないが、途端に王朝がかたむく。それよりも、幼君の早死が続いて、天子の地位が1人に留まらない状態が、天子の地位のありかたとしては、本来的なのだ。バスケットボールで、ボールを保持したまま、数歩しか歩けないのと同じだ。ドッジボールで、誰かがボールを持っている時間が「ムダ」なのと同じだ。手放して、ボールが中空を待っている時間にこそ、ゲームの意味がある。
手紙に支配されるすべての運命
『盗まれた手紙』の登場人物を統御する手紙を、ラカンは「シニフィアンの影響力」とよぶ。シニフィアンは、位置をずらしながらでなければ、保持され得ない。位置ずらしは、原理的に次々と場所を入れ替えることで機能する。一巡して、もとの場所に帰ってくるために(これを目的として!)シニフィアンは、最初の場所を離れなければならない。
シニフィアンの位置ずらしは、主体がどういう行動をするかによって、主体の運命を決定する。なにを拒絶するか、なにを見誤るか、なにに成功するか、どんな運命に従うか、どんな幸運を引き当てるか、どういう生得的な才能があるか、どういう後天的な形質をつくるか、を決定する。すべて、位置のずれるシニフィアンが決定する。主体の性格や性別は、まったく関与しない。
『盗まれた手紙』の登場人物は、自分を手紙を支配できる主体だと見なす。手紙を扱おうとする。だが、手紙に「支配される/受難する」のは、主体たちのほうだ。手紙のカゲ(陰)に入ると、主体たちはカゲ(影)になる。手紙を所有すると=手紙に所有されると(これは言語の驚嘆すべき両義性だ)、主体は手紙の意味に所有される。
劉氏も群雄も、天子の地位を「取り扱い可能なもの」と見なす。だが天子の地位というものに、振り回されるのは、劉氏や群雄である。天子の地位を保有してしまうと、その「天子」というフィクションによって、行動を統御されてしまう。吉川忠夫『劉裕』は、皇帝になった途端に、いきなり精彩を欠くようになった、南朝宋の初代皇帝の話。まさに天子という役職によって、劉裕は行動を統御されてしまった、のだろう。吉川氏は、精神分析の話なんか、していないが。
これは、「言語を操っている」と思っている人間が、じつは思考を言語に規定されていることに似ている。ある言語を使うようになると、必然的に、その言語にあつらえむきな思考になる。人間の主体性を否定するのだから、ラカンは構造主義者なんだ。
手紙が行動を統御する。これは『盗まれた手紙』で、同じ場面が反復されることによって、明らかになる。主体的に手紙を奪いあっているつもりだが、手紙に振り回されている。動作を規定されている。いつも勝つのは、第三者として漁夫の利を得るもの。つまり、王妃が王に対して手紙を隠すと、大臣が手紙を見つける。大臣が警察に対して手紙を隠すと、デュパンが手紙を見つける。大臣は、第三者であったとき、手紙を盗む勝利者であった。だが防戦に回ると、負けざるを得ない。
大臣は、王妃が「わざと手紙を人目にさらす」という隠し方をしているので、手紙を見つけた。だが大臣もまた、手紙を手に入れてしまえば、「わざと手紙を人目にさらす」という隠し方を反復してしまう。大臣は、自分が何をしているのか(自分に見つけられてしまった王妃と、同じ方法で失敗しようとしていることを)理解していない。大臣は、双数的な関係に巻きこまれた。
大臣は、自分が「見られていない」ことは分かっている。だが、自分が「見ていない」ことを第三者に見抜かれている ことは、わかっていない。見落としている。大臣が物語の後半で見落とすものはなにか。それは象徴的な状況である。大臣は、王妃が「自分は見られていない」と自認する王妃を、第三者(象徴的な立場)から見おろすことができた。だが大臣は、「自分が見られていない」と自認してしまい、第三者(象徴的な立場)から見おろすデュパンに敗北した。
『盗まれた手紙』を禅譲になぞらえるなら。はじめ漢家は、自王朝の正統性を、天(天下の人々)に対して隠蔽した。正統性を『白虎通』で主張するというかたちで、堂々と開陳することで、ぎゃくに天を欺こうとした。第三者として、あとから登場した曹魏は、「漢家が正統性を主張することで、かえって正統性のなさを隠していること」を見抜くことができた。だから禅譲が成立した。だが、いちど禅譲をうけた曹魏は、漢家と同じことを反復せざるを得なかった。つまり、正統性を堂々と主張することで、ぎゃくに正統性のなさを隠そうとした。あとから登場した司馬氏は、曹魏に敵対する呉蜀をだしぬき、曹魏の打倒に成功した。あたかもデュパンが、大臣を捜索する警察をだしぬき、手紙を獲得したように。その司馬氏だって、禅譲したのちは、行動を統御されてしまった。司馬昭までの精彩を欠くようになった。
第三者ならば万能だが、当事者になると無能になる。だから王朝は変遷する。だが、誰かが天子の地位を、一時的に保持して、パス回しに参加しなくてはならない。向こうからボールが飛んできたら、受けざるを得ない。ただ1つの保身方法は、飛んできたボールをよけることではない(よけることは許されていない)。いくら鄭重に辞退しても、ムダである。それこそ虚礼だと思われる。そうでなく、ボールをできるだけ迅速につぎに回してしまうことだ。自分の永続、自族の永続を願わないことによってのみ、自分や自族は繁栄を約束される。パラドキシカルだが、そういうことだ。
なぜ曹操は人間らしく魅力的か。なぜ劉邦や劉裕は、晩年が冴えないか。劉秀の晩年は、「失態がなかった」ことぐらいで、賞賛されるか。それは、天子になる前は精彩のあることが構造的に強制され、天子になる後は精彩のないことが構造的に強制されるからだ。単純化して対句を整えるために、ちょっとウソをかいた。精彩ある者が天子となり(はじめから精彩ない者は、天子の地位をめぐる競争にエントリーすらしない)、天子となったあとに精彩を欠くのだ。『盗まれた手紙』の前半で大臣が手ごわく、最後はデュパンに負けてマヌケなのだが、これは構造的な必然なのだと。
曹操は、天子にならずに「死ぬことができた」ので、魅力がある。劉備も孫権も、皇帝になるまでは、魅力的な人物だったが。即位してから、劉備は夷陵で自爆し、孫権もムチャをした。袁術、曹丕や曹叡についても、司馬炎についても、同じことが言えるだろう。袁紹の余韻が美しく、河北で慕われ続けたらしいというのは、皇帝にならなかったから。「皇帝は重責な立場だから、そのせいで失敗しやすくなる」というのは、へんに思いやりのある、それゆえに本質を見落とした分析だろう。人間は、たかが「手紙を保持する」 だけでも、というか、保持したことによってこそ、精彩を欠く。第三者的な視線の高さを失うのだ。
これが手紙の力だ。「それを所有すると、その所有者は麻痺する。ついには、心ならずも身動きできなくなってしまう」のが手紙である。手紙は、使った途端に効力を失うものである。だが大臣は「手紙の効力を発動する」用途しか、思いつくことができない。大臣は、手紙を使わなければ効力を手にできるが、使って効力を失う以外に用途を知らない。
みずから天子にならなければ、権勢を高めることができるが。天子になった途端に、権勢が墜ちるリスクがある。だが天子の地位に迫ってしまった以上の、この進退の窮まった状況から、逃げ出すことができない。つまり「天子って、なに、美味しいの」と、とぼけることができない。大臣は、手紙を使いたくても使えない。手紙の力は潜在的なものであるしかない。手紙の潜在的な力は、顕在化したと何に消え失せるから。ゆえに手紙は、パスして回されるしかない。いつまでも遠回りさせるしかない。もしくは、手紙を破棄するしかない。破棄こそが、「本質的にそれが意味するものの取消を意味することを宿命づけらているもの」と縁を切る唯一の方法である。
手紙を盗んだ大臣は、手紙によって王妃を脅かすのでない。大臣が気づいていなかろうが、手紙が大臣に割りふっている役割によって、王妃を脅かしているのだ。手紙の内容を振りかざして、王妃を威圧することはできない。大臣は、手紙が与えた役割に、たまたま一時的に座っているだけ。
ずっと空虚な中心であった献帝は、もしかしたら、これに気づいていたかも知れない。もしくは、献帝のキャラを造形するとき、このラカン的な洞察に到達した者として設定すると、おもしろいかも知れない。
すり替えることの効果
内田氏なりにラカンを説明すると。
「分析的知性は、反復強迫を通じてその仕事をする」のだ。
ラカンは3つを言った。1つ、物語のなかで3種類の視線が交錯する。2つ、同一場面の反復を強いる力に、登場人物はだれも抵抗できない。3つ、同一場面の反復によって「治療」が果たされる。
ぼくは思う。3つめは、ラカンは言ってなかったと思うぞ。ともあれ、内田氏の「誤読」に寄り添うことで、漢魏革命への理解が深まる。順になぞろう。
1つ、3種類の視線のこと。
フロイトの糸巻あそびと同じく。同じ場面が反復されると、それにともなって、受動者と能動者の位置が交替する。糸巻が幼児の位置に入りこみ、幼児は押し出されるように母親の位置にずれ込んだ。つまり幼児は、「自分を置いて出かけてしまった母親」になることができた。母親が自分を捨てたように、自分が糸巻を投げ捨てることで、受動者から能動者に変容した。
『盗まれた手紙』では、盗んだ大臣が、盗まれた王妃の位置にずれた。あとからきたデュパンが、最初の大臣の位置にずれた。大臣は、能動者から受動者になった(糸巻の幼児とは逆の過程である)。
2つ、登場人物が抵抗できないこと。
大臣はデュパンの前で、手紙を「つまらぬものだと、ヒトに信じこませたいという意図が、暗示されすぎ」の隠し方をした。手紙は、内容が秘密のうちだけ、効力をもつ。盗まれた手紙が発信するメッセージとは、「私を読んではならない」と。抑圧されたものは、名指されることができぬまま、代理物を迂回する。反復強迫の症候として回帰する。「意味するものの取消を意味する」盗まれた手紙こそは、抑圧の心的過程と、それによって引きおこされる精神病を指している。
天子の正統性とは、「正統性について厳密に論じてはならない」と命じる力である。正統性については、その具体的な内容が、あるかも知れないし、ないかも知れない。だがそんなの関係ねえ。「論じてはならない」という封印こそが、封印する力能こそが、正統性の全てである。
正統性について、誰にもうまく論じられないから。「漢家の天命は終わったのではないか」という議論が、反復強迫として再帰する。正統性が明らかであり、それが揺らいだから、「天命が終わったのでは」という議論がでるのではない。たとえば、ガソリンの残量が減ったとメーターが示したから、「ガソリンを補給すべきでは、いやまだ補給は尚早では」と考えることとは、根本的に議論の種類が違う。真正面から論じられないから、くり返し、日食やら地震やら邪教やら、暴君やら暴臣やら、のよく分からない仄めかしによって、天命への不安が立ち現れる。
永続すべき王朝の正統性、そのものが抑圧なんだからね。
そしてこの抑圧の前では、誰もが同じような行動をとらざるを得ない。ゆえに紀伝体という、あまりに定型的で完成された史書のなかに、中国史の営みを納めることが可能になった。『盗まれた手紙』で手紙が人々を縛るように、中国史は縛られている。ぼくらは、その縛り方に興味がある。もしくは、縛られるように構造化されている人間というもの自体が、研究の対象になるのだ。精神分析と、その問題設定は同じですよ。岸田秀のように「政敵への復讐を原動力とした、国家の歴史」なんて仕方では、精神分析も歴史も、どちらも台無しだよ。
3つ、反復が治療を果たすこと。
分析家が患者を症状から解放するとき、なにが起きているのかを、フロイトは説明する。無意識のかわりに、意識的なものをたてる。無意識を意識に翻訳する。意識にうつすことで、抑圧を解除する。症候を形成している葛藤を排除する。
この翻訳という行為は、「転移」である。ドイツ語の原義では、譲渡、転用、中継、翻訳、すり替えなどの意味がある。
分析が進むと、患者は分析家に「特別な関心」をいだく。医者に感謝や愛情を示したり、ぎゃくに敵意(陰性転移)を向ける。これは偶有的なことでない。分析治療の山場で、かならず生じる。転移は、治療上の決定的な転機である。転移とは、患者と分析家の関係を通じて、あらたに生み出された「できたての症候」だからである。
分析家は、患者が以前からもつ精神病ではなく、新たに作り替えられた精神病=転移を、治療の対象とする。新たな神経症は、治療しやすい。なぜなら分析家は、新たな神経症が生まれる過程を、すべて見ているからだ。新たな精神病=転移を媒介にして、古い精神病(古いシニフィアン)を治療する。
デュパンは、大臣から手紙を盗んだ上で、「誰に出しぬかれたのかを大臣が察知できるようなメモ」を大臣の部屋に残してくる。これは分析家に似ている。はじめ大臣、あとデュパンが演じた、手紙を見つける第三者の居場所は、シニフィアンとシニフィアンのすり替えが行われる場所=無意識の境域である。そこの身を置くことで、分析者は「転移をとおして、外傷経験の反復と象徴的な置き換えとを果たし、かくして劇の最終的解決をもたらすのである」と。
これはフェルマン『ラカンと洞察の冒険』からの引用。内田氏のラカン解説は、このフェルマンからの引用がおおめ。よほど参考になる本なんだろう。買いましょう。
され、天子の議論にひきつけると。
献帝のなかには、漢家の正統性をめぐる、抑圧されまくって取り扱い不能な議論がある。献帝は、漢家の正統性を論じたくても、400年の歴史が長すぎて、うまく取り扱うことができない。そこでだ。献帝は、自分と漢家の歴史が抱える問題を、自分と曹氏の関係性に置き換える。曹魏のブレーンが、精神分析家の役割を演じて、献帝の心持ちを整理したんだろう。献帝は、劉邦や劉秀との関係をかたる言葉を持てないが(抑圧が激しいから)、董卓や曹操との関係なら語ることができる。なぜなら、新しい症例だから。禅譲は、精神分析家が、漢室の正統性を、「献帝と曹氏との関係性」にすり替えることによって、扱いやすくなり、実行が可能となった。
分析家は、患者の問題を抱えてしまって、苦しむことがあるらしい。患者が「先生、好きです」と言ったら、それを本気にして、恋愛関係に巻きこまれると。曹操は有能な(患者との距離のとりかたがうまい)分析家だった。だが曹丕は、患者との人間関係に巻きこまれてしまった、ダメなほうの精神分析家だ。そのせいで、第三者としての地位を失ってしまった。
王莽が、最後の最後で、なんだかよく分からないけど、皇帝になってしまうのも、きっと同じである。途中までは、漢家のよき精神分析家だったのに。「手紙」を握りしめてしまって、威信を失墜させていった。
なぜ『盗まれた手紙』でデュパンは、反復強迫の影響を受けなかったか。デュパンは、警視総監から、高額の礼金を受けとるからだ。手紙を持ちつづけない。
レヴィ=ストロースはいう。「貨幣は、それをなにかと交換してくれる人に『もう一度出会わない』限り無価値である。貨幣を退蔵している限り、それは無価値である。できるだけ早く、別のなにかと交換しなければならない。貨幣は、このような性格をもった商品である」と。
貨幣の機能は、「盗まれた手紙」と類比的である。手紙を保持する者は、すり替えてくれる人物を待望することしかできない。保持する者は、目の前で手紙が盗まれることを、「むざむざと見過ごす」機会を待ち続けている。デュパンは、貨幣を扱うときと同じく、手紙を手放したから、巻きこまれなかった。退蔵する者は石化する、というルールを免れた。交換を起動させ、継続させた。
分析家のところにくる患者は、石化している。会話できない、経済活動できない、愛が成就しない、などの停止=退蔵が起きている。治療とは、患者をその停止状態から動かして、交換の運動に巻きこむこと。それだけのこと。
分析医は、転移をつくりだして、患者がもつ古いシニフィアンを、新しいシニフィアンにすり替える。分析家は、必ず治療代をとる。患者の古いシニフィアンを、治療代という貨幣にすり替えることで、症例は寛解する。治療される。
ぼくは思う。皇帝に迫るほどの功績がありながら、皇帝にならなかった者は、賞賛される。霍光は、実態はともあれ(ぼくは『漢書』霍光伝の読み込みが足りない)、皇帝の地位を退蔵しなかった者として、後世から引き合いに出される。
つぎは、313頁から鏡像段階論の話なのだが。
これは袁術を事例にすると、「パフォーマンス」が発揮されるので。場所を改めて、書いていこうと思います。そろそろ会社に行かねば。130412閉じる
- 鏡像段階論と袁術
ねじれる鏡像の「私」
鏡像段階は、ある種の自己同一化として理解される。主体が、ある像(鏡像)を自分であると引き受けるとき、主体の内部に生じる変容として理解される。
この気ぜわしい統一像の騙取は、取り返しのつかぬ「裂け目」を私の内部に取りこませる。鏡像は「私そのもの」ではない。私でないものを、「私だ」と誤認することによって、「私」という自己イメージを獲得する。「私」の起源は、「私ならざる者」に担保される。「私」の原点は、「私」の内部にない。
袁術(袁術に限らず、すべての人間は)は、確固たる「私」を、原理的に知ることができない。それこそ(乳児のように)寸断された場面を、寄せ集めるしかない。いや、いくら寄せ集めても、「とりあえず収集できる部品の集合」であっても、「私」ではない。では袁術は、自分を把握不可能なものとして、畏れているか。自我のイメージの獲得を、断念しているか。
まさかね。そんなはずはない。
袁術が皇帝即位を語るときに。「私は四世三公の生まれだから」という。これが袁術にとっての「鏡像」である。袁氏が、四世三公でないと言うのではない。袁術が袁氏の子でないと言うのでもない。しかし、袁術という人間と、「四世三公」という属性が、過不足なくイコールであることは、あり得ない。つまり袁術が、自己イメージを「四世三公」と要約するとき、そこに内田氏のいう「だましとり=騙取(ヘンシュ)」が起きている。
自己イメージの始原において、このようにウソがあるのだから。いざという局面で、その裂け目から、ガラガラと自画像が崩壊して、政治声明が終わったとしても、不思議ではない。というか、崩れて滅亡するよね。
しかし、自己イメージの形成を断念すると、人間は自殺するほどの恐怖に襲われるだろうから。この「誤解」をすすんで行った袁術は、標準的な人間と言えるでしょう。
「私」の外部を、「私」の内部にねじりこむようにして、自己同一性は確立される。これは「状況による主体の略取」である。つまり「私」は、状況に乗っ取られている。「狂気のもっとも一般的な定式」が、人間の起源のうちにある。
袁術は、主体を「四世三公の生まれ」という状況に対して、明けわたしてしまった。「四世三公」が、袁術の主体を乗っ取ったのだ。ラカン=内田に即せば、これが言えるでしょう。いい・わるい、の議論ではありませんよ。フロイトはいう。われわれは、みな病気である。神経症である。なぜなら症候形成の諸条件は、正常者にあっても指摘できるのだから。『精神分析入門』より。
分析的会話に入りこむ「第三者」
「私」という中枢を根拠にする人間は、みな狂人である。「私は正気だ、それが前提だ」「私は透明で安定的な学知を持っている」というひとは、起源にむしばんでいる狂気に気づいていない。ラカン的には、反省がたりない。
分析家は、患者(ラカン派では分析主体という)の無意識を、仮説的に「物語」に読みこんでいく。ただし分析家もまた、その物語に巻きこまれる。
たとえば。患者が分析家に、トラウマ的な体験を語ろうとする。トラウマなのだから、言語化に抑圧が働いているはずだ。体験の核心に近づくと、(無意識的に)経験を言い換えてしまう。だが分析家が、微妙な反応を示してくれる。核心に近づくように、軌道修正のシグナルを出してくれる。
この語りにおいて、体験を語ったのはだれか。患者だけなのか。患者は、分析家(聴き手)の欲望にしたがって喋ったのだ。患者は、「患者なりに考えた、分析家が聞きたがっていること」を話しただろう。これは、患者の意見でもないし(分析家の顔色を窺っているから)、分析家の意見でもない(語ったのは患者だから)と。
分析的対話を推進した者は、患者でも分析家でもない。ラカンは、いちだん高みから対話を形づくった者を「他者」とよぶ。
「私」が「私」に嫉妬する
鏡像段階を経由した人間は、おのれの自己同一性を「視角像的=想像的」に先取りする。幼児は、鏡と自分の区別がつかない。友達をなぐっては「自分がぶたれた」という。友達が転ぶと、自分も泣き出す。
「原初的嫉妬」がおこる。つまり、皆が欲しくないものは、だれも欲しくない。誰かが欲しがると、皆が欲しがる。嫉妬する。しかし、最初の子があきて、ちがうものに関心がいくと、雪崩をうって飽きる。「私」の欲望は「私」の内部に存在しない。「私」が想像的に同一化してしまった、他者の欲望を媒介として、外部から到来する。
(私の欲望は、他者の欲望である。とラカンが言うのだからね)
でました。四世三公による声望も、同じでしょう。袁術がひとりで「四世三公って、すごいでしょ」と宣伝したのでない。周囲が「四世三公はすごい。皇帝に即位してもよい」というから、袁術は「四世三公はすごい。皇帝に即位してもよい」と考えた。やがて、周囲がたてまつる調子と、自尊する調子が、みょうに一致してしまった。「かんちがい」した。
というか、四世三公という一族が他にないのだし(僅差で弘農の楊氏が追いつくけれど)、四世三公という資格と、乱世における振る舞いとのあいだに、なんのルールブックもない。袁術の勘違いは、ひとえに彼の独断のせいだと思われがちだが。そんな独断を働かせるほど、袁術は創造的な人間なのだろうか。いや、違うだろう。というか、あらゆる人間は、そのような種類の創造性を持っていない。
ぼくは思う。よくいる「勘違い野郎」というのは、まれな人種として排斥できない。ラカンによれば、ぼくらはみんな「勘違い野郎」である。つまり、自分が心底そう思っているわけじゃないのに。みんなが合意するから、自分もそうだと思いこむ。この逆はない。むしろ、自分が心底そうだと思っていても、みんなが違うというなら、その意見には、まったく実効性がない。意味がない。おだてられて、指摘されて、「いやあ、それほどでもあるのかな」と、自画像を形成する。
鏡像段階論において、人間の自画像は、不可避的にすべてが「勘違い」であることが明らかにされた。内田氏のいう「裂け目」がある。自画像がライフプランに破滅的なダメージを与えないとするならば。それは「裂け目」がないことを意味しない。たまたま「裂け目」に、指をつっこむことがなかっただけだ。
袁術の場合は、まったく周囲の評価に乗っかっただけなのに。そこから裂け目が広がってしまった。「袁術は戦争に負けたから、残念だった」という片づけ方は、きっと正しいのだが(とても残念なことに正しいのだが)これで片づけてはならない。袁術が曹操に一勝していれば、全ては覆ったのだが、それは言うまい。これを言っても、知性がドライブしない。
精神分析家は、精神病の患者が「いかに人間として壊れるか」をもとに、人間の精神の構造を明らかにした。袁術は壊れることによって、後漢末の構造を明らかにしてくれるのだ。鏡像段階論が指摘した「騙取」が、いかに人間の弱点になるのか、明らかにしてくれたのだ。「壊れたから、分析の価値なし」ではなく、「壊れたから、格好の分析対象である」と発想するのがよい。
鏡像段階論で確保された、想像的な自己同一化(外部からの視点を自分のなかに取りこむ)と、反復強迫についての知見(手紙を保持した人は免れず同じ行動をくり返す)とを照合すると。わたしたちは、ラカン理論の核心である「想像界と象徴界」に到達する。
『盗まれた手紙』で大臣が王妃の部屋をおとづれたとき。大臣と王妃は「想像的な関係」を結んでいる。つまり、大臣は王妃に自分を映しだし、王妃は大臣に自分を映しだす。手紙を盗んだ大臣は(よせばよいのに)王妃のマネをして、手紙をかくす。デュパンに見つけられる。
「想像界」の領域には、「私」と鏡像しかない。「私」の前に立つものは、すべて「私」の鏡像として認識される可能性がある。幼児は母親を「他者」として認識しない。未分化で、自分の一部分だと思っている。症例エメは、自分の鏡像である女優の権利を簒奪するため、女優にナイフをふるった。
王朝を新設しようとする者は、たいていの場合、前の王朝の創始者を、自分に重ねるのだろう。後漢末の人々は、劉邦もしくは劉秀を、自分の鏡像とした。エメが女優を殺しにいったように、創始者を「殺害」しにゆく。王莽が劉邦を目の敵にしたのが、好例でしょう。
もちろん時代は隔たっていますが。天命を受信するという資格において、たった1つの椅子を奪いあっている。これが「症例エメ」でなくて、なんなのだ。「症例袁術」と言い換えても良いのかも。想像的な関係は、いずれが「本体」で、いずれが「コピー」なのかを決定してくれる審判がいない。両者は文字どおり、ゼロサムの関係に巻きこまれる。私と鏡像の関係を、ラカンは「双数的=決闘的関係」という。コーディネータのいない決闘のように、いずれが勝者なのか、いずれが主人なのか、いずれが本体なのか、相克的な戦いをするしかない。
袁術と袁紹、もしくは袁術と劉秀。の話をしていると思って、内田氏のラカン解説を読んでいると。なるほど、そうか。と理解することができるでしょう。袁術と袁紹のほうが、おもしろいのかも。「2人で1人」「2人なのに1人」という、想像的な関係の癒着。アイデンティティのゆらぎ。想像界のドラマは、いつも相克する悲劇がおこる。このドラマを決着させるためには、「私」と鏡像を一望に俯瞰してくれる、一次元たかい審級が必要である。「決闘」を停止させて、「裁判」を行う者である。
無力なくせに、後漢末の献帝が曹操に「重宝」されたのは、この裁判官としての機能だろう。いや裁判官じゃなくて、天子であることは、よく分かっていますが。群雄の「双数的=決闘的関係」を調停するために、やはり必要なのだ。「権威があるから」なんて説明では、さぱり納得できないです。
注意すべきなのは。「皇帝を奉戴した者が、利益を引き出せる」という皇帝に対する理解は、ラカン的には誤りになるということ。それでは皇帝は、「私」と鏡像の戦いと次元の高さが同じである。というか、「私」が皇帝を担げば、鏡像の私も皇帝を担ぐだろう。董卓が献帝をかつげば、袁紹が劉虞をかつごうとしたように。曹丕が皇帝を称すれば、劉備が皇帝を称したように。鏡像との死闘は、鏡像が私の分身であるから困難なのであって。構造的に鏡像を出しぬけないから、困難なのであって。
すなわち、皇帝を「双数的=決闘的な関係」に利用しているうちは、一見すると頭ひとつ抜けられそうで、じつは解決に近づかない。李傕と郭汜は「双数的=決闘的な関係」の典型だろう。李傕が皇帝を奉戴して、郭汜を圧倒すれば。郭汜もまた皇帝を奉戴して、李傕を圧倒できるという、あまりに当然な事実を意味する。これじゃあ、収束するわけがない。
『三国演義』における曹操と劉備も、同じ関係だろう。天下に号令したければ、皇帝を奉戴しつつも、皇帝を自分のために使わない、というアクロバティックな自制心を発動させないと。曹操が成功した要因は、ここに求められるのか。皇帝の次元を、ズラしたことに勝因があるか。
曹操の問題を考えるとね、陰に陽に織田信長が出てくるのだが。曹操と織田信長を比較することは、もはや「教科書的な姿勢」なので、これをぬぐい去ることは難しい。考えごとをするときは慎重にやらねばね。
裁判官は、双数的=決闘的当事者たちをひきはなす。理非について、公共的な裁定をくだす。「第三者」は、禁止と制裁をおこなう。これが「象徴界」の構造である。
ぼくは思う。群雄割拠から抜け出すには。想像界の双数的=決闘的な関係のなかから、象徴界にのぼらねばならない。同じ土俵の上で、軍隊を並べて戦っているうちは、ただの想像界の泥沼な長期戦である。
「私はもう死んでいる」
フロイトの糸巻あそびは、象徴界の営みである。
糸巻きを自分に、自分を母親になぞらえて、「オー」「ダー」した。幼児は、「私」という曖昧で無力な存在を、糸巻きに置換した。糸巻きは、堅牢であり、輪郭をもち、操作できる。すり替える、間違える、というのは、想像界にいる幼児にとっては、むずかしいことではない。
この遊びにより、想像界の幼児は、象徴界にテイクオフする。
糸巻きの消失と出現が、「オー」「ダー」という分節した音声をともなう。「オー」と叫んだ瞬間に、私の消失/糸巻きの消失/糸巻きの消失に伴う分節音声、という3項よりなる記号システムを立ち上げる。言語学でいえば、指示対象/シニフィエ/シニフィアンである。
子供は「オー(私は消えた)」という。だが、消えたはずの私がいて、「私が消えた」と言っている。おかしいやないか。つまり、「消えた」と言われた私と、「私は消えた」という私とは、ちがう審級に属している。私が二重化して、分裂する。この分裂により、私は世界に登録される。なにかを象徴的に存在させるためには、「それは存在しない」と宣言することだ。
フロイトは『否定』でいう。患者が夢でだれかに会ったという。「誰だか分からないが、少なくとも母ではない」と患者がいう。これは患者が「夢で母に会いました」と言うに等しい。否定の打ち消しをつうじて、そのものに迂回的に注意を差しむけさせる。抑圧されている表象や思考内容は、否定されるという条件のもとで、はじめて意識の世界に入りこんでくる。
袁術が皇帝になりたいとき、「漢家の天命は終わった」という。否定することにより、かえって漢家への関心を再燃させ、漢家の天命を存続させてしまう。もし袁術が、漢家についてまるで言及せずに、しれっと皇帝になっていれば、それはそれで、用事がすんだかも知れないのだ。
上で書いたように、「漢家は永続する」というのは、精神病的な仕方で抑圧の働いた上で出てきた、おかしな言葉である。本能にそぐわない言葉である。袁術はこれを否定しても(もちろん肯定しても)漢家をさらなる象徴界の高みに押し上げてしまう。「献帝なんて、正統じゃないもんね」というほど、献帝の存在がおおきくなる。もし漢家を無視できないなら(漢家を無視もしくは否定するという戦略により、勝てると思わないなら)献帝を取りこむしかないなあ。
ブランショは、言葉が「存在しないものを存在させる力」について論じる。神を見た者は死ぬ。ことばに生命を与えた者は、ことばのなかで死ぬ。ことばとは、死せるものの生命である。ことばとは「死をもたらし、死のうちに生きながらえる生命」である。驚嘆すべき権力だ。なにかがそこにあった。それが今はない。ナニカが消え去ったのだ。と。
言葉は「そこにないもの」を「あるじゃん」と言って、幻影的になにかを現前させる魔術ではない。そうでなく言葉は、「それは消え失せた」と言うことによって、なにかの痕跡を存在させる魔術なのだ。
漢家のことを言っているようにしか、聞こえない。フロイトは、人間の発するメッセージは最終的には、すべて「私はすでに死んでいる」という一言に集約されるという。「私という機能」は、そのような魔術によって、はじめて達成される。
「死んでいる」ということが、象徴界への参入である。想像界にいる、あやふやな「私」は、「私は消えた」 と宣言することによって、そう宣言できる存在として、堅牢に基礎づけられる。
幼児は、母親の不在という不安から、記号操作をやむなく習得する。母親との離別を、記号におきかえて、書き換える。「オー」により、母の不在という物語=記号にすり替える。なまなましさを、無害化する。去勢である。去勢とは、言語、法律、国家、貨幣など「代理表象するもの」によって行われる。
人間が「私」になるためには、2回の命がけの跳躍をする。まずは鏡像により、想像界に自画像をえがく。つぎに記号操作により、「私は死んだ」と宣言することで、象徴界に自分を登録する。
現実界にいる袁術は、董卓のつくった混乱により、周囲に期待されて、想像界に入った。四世三公というイメージを、周囲の反応から写しとった(1回目の跳躍)が、袁紹との死闘は免れない。想像界にいる袁術は、袁紹との鏡像的な死闘におちいった。
だから袁術は、袁紹から抜け出るために、みずからを皇帝として、象徴界に参入しようとした。袁紹との死闘に勝つためには、皇帝に即位するしかなかった。ちょうど献帝が流浪して、既存の死闘がどちらに転ぶか分からないときに、袁術は2回目の命がけの跳躍をした。袁紹と等号で結ばれただけの状況で、この時勢を勝ちぬくのは、無理だと思ったのだろう。
そして「父」が立ちはだかる
エディプスとは、記号操作を習得することを通じて、「近親相姦的な欲望のシニフィアン」が、「欲望を代理するシニフィアン」にすり替えられ、象徴界が形成されることである。
ジャーゴンの嵐なので、何これ、と思うが。しかし、内田氏とラカンに読み親しんでいるので、見事にカチッと理解することができる。ラカンは、エディプスにおける父性の威嚇的な介入を、父の否=父の名という。母親との想像的な癒合を禁止する。名辞を学習させる。この2つの掛詞である。
アナログにデジタルな切れ目をいれる。
父を受け入れる。主体を構成するのは、象徴的な秩序だ、と学ぶこと。これがエディプスの意味である。ラカンが『盗まれた手紙』で説明したことだ。ラカンはいう。どんな作り話でも、思いつきで作られるものほど、象徴的なものの必然性を、純粋な仕方で明らかにする。つまり、あえて確信犯的に直感からズラすことをしなければ、どんな「でたらめ」も、同一のパターンに回収されてしまうと。いや、下手にズラそうと小細工するほど、より同一のパターンに回収されてしまうのだろう。この同一のパターンへの重力が、父の名=父の否なのですね。こぶとり爺さんの話は、良い爺さんも、悪い爺さんも、踊りが下手である。だが鬼(父)は、良い爺さんにだけ、踊りへの報酬をくれる。これは「芸は身を助ける」という教訓ではなく、「私の外部には、私が理解不能なジャッジを下す存在がいる」という教訓である。鬼(父)が、父の名=父の否である。
豚のパロール
命がけの跳躍は、2回ある。私の外部にある母を、私と同定する想像界。私の外部にある父により、母と切りはなされる。「母の不在」を記号化して、すり替えて、状況に耐える。象徴界。
このように跳躍する人間を、レヴィ=ストロースは「交換」と捉えた。財貨やサービスの交換。メッセージの交換。女の交換。何かを受けとったら、別のものにすり替えて、次にパスする。これが人間の宿命だ。起源は分からないが、宿命だ。
こうして、天子の地位は、起源がよく分からないまま、パスだけが回される。たしかに地位の起源は、書物にある。しかし伝説的に文飾された思想書は、何も言っていないのと同じだ。言語で表現され、伝承されている時点で、すでに「すり替えられたもの」だろう。心を病んでいる状態とは、上記のいずれかのパスが滞っているとき。
禅譲とは、きちんとキャッチボールによって天子の地位を譲られ、キャッチボールの良きハブになることで成功するのだ。いつもの話である。分析家は患者に、理解ではなく、返事をする。パスを促進してあげる。オデュッセウスの仲間が豚に変身させられたとき。仲間が豚の鳴き声を、仲間達の訴えだと気づくためには、「この鳴き声がなにを言いたいのか」と誰かが問いを立てるときだけ。パスを受けとろうという姿勢を、用意してくれるときだけ。
もし魯粛が、「袁術は私に何を期待するのだろうか」と問いを立ててくれたら、袁術が与えた官職がなんであれ、魯粛と袁術の関係は起動された。袁術は精神病になることを免れただろう。官職を拒否するとは、袁術をパスから除外して、精神病に追いこむことであった。
魯粛が袁術を断ったのは、綱紀がないから。言い換えれば、「袁術が良きパスのプレイヤーでない」ことを見抜いたからだ。パスというのは、いきなり自分から投げ始めても、うまくつながらないものだ。受ける、渡す、受ける、渡す、を機械的に反復していなければならない。
患者が知るのは、あなたが欲しいものを手に入れるためには、他者からそれを贈られなければならない。という人類学的な真理である。_335
フェルマン『ラカンと洞察の冒険』はいう。買え。
知とはすでにそこにあるが。つねに他者のうちにある。知は実態ではなく、構造的力動性である。知はいかなる個人にも占有されない。自分が知っていること以上のことを語る、2つの部分的に無意識的な発話のあいだの、相互的な学びあいの成果として出現する。
「知」を「女」と言い換えると、レヴィ=ストロースとなる。
分析家はセッションの終わりに治療費を請求する。無料で治療してはならない。精神分析の原則である。デュパンが手紙を「売った」ように。分析家と患者は、言葉を交換する。愛を交わす。そして貨幣を取り交わす。こうして精神分析の診察室において、レヴィ=ストロースのいうコミュニケ-ションが達成される。これが、治癒あるいは成熟である。
かくして袁術は、袁紹という鏡像のいる想像界から抜け出すべく、天子という象徴界に入った。そのとき、漢家のことを否定したせいで、象徴界における漢家の地位/次元を、高めてしまった。結果、袁術が象徴界に参入して行おうとした、すり替えは失敗した。受取手があまりたくさん出現しなかった。象徴化に失敗した。父としての力能を発揮しそこねた。ちゃんと流通するように、すり替えることができなかった。ゆえに退蔵して、袁術は滅亡しましたとさ。
というのが、後半のまとめでした。おしまいです。散らかったメモですみません。130411
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