-後漢 > 貝塚茂樹『孟子』より、孟子の時代背景

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戦国初の政治的な大事件に関わる孟子

貝塚茂樹『孟子』講談社学術文庫を読んだ。
おもしろかった。
諸子百家というと、春秋戦国期の人たちで、、という、高校世界史の一覧表レベルでしか認識してなかった。しかし貝塚氏の本は、孟子がどういう時代背景をもつのか、解説してくれた。高校生のときよりは、春秋戦国期について知っているので、自分の知識のなかに、孟子を位置づけることができた。

孟子は革命の肯定者だとか、『春秋』は孔子が歴史を批評して価値観を表現したものだとか、そういう概説的な知識はある。そんな孟子が、どういう状況から、それをいうに到ったのか、「通じた」ような気がしたので、嬉しかった。ここにメモをする。

尚論・尚友_250

『孟子』万章章句下はいう。
現存の人物との交際だけでは、飽きたらなければ、歴史上の人物と議論せよ。詩歌を暗誦し、書物を読解するだけで、著者のことを知らなくては、どうしてもダメである。その人物の生きていた時代ついて議論することが必要である。これが「尚友」である。つまり歴史上の人物と友達になるということである。

貝塚氏はいう。
この学術文庫『孟子』という書物を、孟子との人間的なふれあいの場として、役立てねばならないと考える。そのために、孟子の時代背景を重視して解説してきた。読者はどうか『孟子』を、孟子を尚友とする仕方で、読んでいただきたい。

ぼくは思う。この孟子からの引用と、貝塚氏の解説を読んだとき、まさに「ぽんと膝をうつ」ところだった。実際は、通勤電車の帰りに立って読んでおり、ボールペンをもって読んでいたので、膝をうてないのだが。
この尚友の引用と、貝塚氏の解説は、あとがきのものではない。文中にいきなり出てきた。あとがきであれば、いかにも書いてありそうなことなので、ここまで感銘を受けなかっただろう。奇襲のように、執筆の意図を教えられ、それがぼくの感想に一致していたので、「膝をうった」次第です。

孟子思想の時代背景

西周は祭政一致である。周王は宗家として、宗廟の祭祀をおこなう。分家たる諸侯をよび、神権政治をとりまとめた。祭祀がおわると、『詩経』の造詣を競うような饗宴が行われる。「饗宴」の文化である。
東周となると、異姓の貴族「卿」が権力をにぎる。宗教的な観念が失われ、他国を滅ぼすことに抵抗がなくなる。戦国七雄となる。
はじめに儒教文化が成功するのは、魏文侯である。斉威王、斉宣王は「稷下の学士」をあつめる。孟子はここに集まった。

孟子の生涯

孟子は鄒国にうまれた。魯国の南隣の小国である。魯国の首都・曲阜から、10キロから15キロしか離れない。
『左氏伝』前488、魯軍が邾国=鄒国に侵攻して、鄒国の人々は山ごもりした。鄒国の祖先・文公が、126年後に魯軍に攻められることを予測し、山のそばに首都をおいたおかげである。
『穀梁伝』冒頭の隠公元年3月、「魯隠公が邾儀父と、昧という地で盟約する」とある。『穀梁伝』は問う。邾国は子爵であるが、「儀父」というあざなで呼ぶのはなぜか。邾国の起源がはっきりせず、周王から子爵をもらった確認が取れないからだと。文字がなく、口頭のみの伝承だったのだろう。
魯隠公とは盟約するものの、鄒国はたびたび魯国に攻められた。

孟子の前半生は不明。『孟子』に出てくる後半生の孟子は、梁恵王にまねかれ、つぎに大きな斉国、小さな滕国で活躍する。最晩年に、故郷の鄒国で弟子を教育する。
はじめ、斉威王がつくった稷下の思想集団にまじわる。ここで、孔子の弟子・子貢を教師とする「斉学」に影響された。とくに、孔子が晩年に魯国の年代記を手に入れて、時代を風刺・裁判・予言したという『春秋』についての解釈学をまなぶ。孟子の先輩にあたる公明高が公羊学派の開祖である。

開封あたりに大梁を遷都したのが、魏恵王である。国名を改め、梁恵王とよばれる。『孟子』恵王章句上は、『孟子』と梁恵王の対面の言葉からはじまる。「わざわざ孟子さんが来てくれたからには、利益になる話を持ってきたのでしょう」と言われた。

ぼくは思う。『孟子』の篇名は、たびたびパソコンに入力していたのだが。梁恵王について、何も知らなかった。つながってきた。
梁恵王は、魏の3代目であり、魏王の1代目。まさに三晋が分裂した直後、孟子は生きていた。春秋期と戦国期のあいだだった。

魏恵王は、祖父の文侯・父の武侯のとき、戦国最初の覇者となった。しかし秦国を防げず、馬陵でやぶれた。

魏国を馬陵でやぶったのは、斉宣王である。この斉宣王の父・斉威王は、太公望の子孫から、斉国をうばった。まだ37年、1世代しか経過していない。太公望=呂氏は「亡国の社」として廃棄された。

ぼくは思う。孟子は、まさに「戦国期の開幕」に立ち会った人物である。革命の肯定は、斉国の事情を踏まえたものだそうだ。
ぼくは思う。いくら戦国が下克上だからといって、なかなか君主が入れ替わらない。大きなところでは、三晋が分裂し、斉国が入れ替わったぐらい。その斉国の入れ替わりという、歴史的に稀有な現場に、地理的・時期的に接近した孟子だからこそ、革命を肯定する思想をつくった。それが後世、ずっと参照された。

魏=梁恵王が死ぬと、斉威王のつぎの斉宣王につかえる。「孟子さん。斉桓公、晋文公の話をしてください」と言われた。孟子は「覇者のことなど知らん。王者の話ならしてあげる」という。
東方5国(魏・趙・韓・楚・燕)で秦国を攻めたが、やぶれた。燕王が禅譲をやるといい、国内を混乱させた。だから孟子は斉宣王に「燕国を攻めろ」と進めた。燕国の攻撃はできたが、占領に失敗した。孟子は挫折した。
燕国を攻めたのは、前316-315である。燕王噲が、大臣の子之に禅譲しようとした。堯舜の伝説にかぶれた。この混乱に乗じて、前314年に周宣王が燕国を占領した。孟子はこの攻撃に賛成した。途中で「占領を、燕国の百姓が歓迎しているなら、占領を継続して宜しい」と意見を修正した。
斉国を怨んだ燕国は、楽毅をつかい、斉国を攻撃した。

ぼくは思う。孟子の挫折は、楽毅によるもの。孟子は、戦国期の、わりに有名どころの事件に関係している。おいしい。なんだか、現実の政治とは遊離した思想家(例えば孔子、老子、墨子みたいに)だと思っていたのだが、ちがう。それこそ、管仲や楽毅なみに、現実世界に関わっている。


斉国から離れた孟子は、がっかりして小さな滕国にうつり、井田制の理想を語った。制度について、詳細に記されている。

『孟子』という著作

竹簡に漆で書くのが、このときの書物。公式文書、記録所や貴族がつかうだけ。コストのかかる書物に、孟子が意見や対話を書きつけることはあり得ない。本人が書いたのでなく、弟子が記憶によって書いたのだろう。無名時代の孟子の言葉が『孟子』にないのは、当然である。

ぼくは思う。テキストの中身だけでなく、外部の事情を抑えることによっても、テキスト批判がなりたつ。

以後、『孟子』の抜粋と要約、解説があるが、はぶく。130607

ぼくは思う。孟子は、孔子や老荘・墨子みたいに「思想家としては有名だが、現実の政治には縁がうすい」者でない。むしろ戦国初の歴史的事件に関与する。最初に仕えた梁恵王=魏恵王は、祖父の文侯のとき、戦国初の覇者となる。馬陵で、あの孫臏に破れた。つぎは周宣王に仕えた。太公望の子孫から斉国を奪った威王の子。
斉威王のとき、燕王カイが子之に禅譲を試み(禅譲研究で重要な事件!)燕国が混乱。その燕国を、孟子が攻めろという。燕国は斉国を怨み、楽毅を動員して斉国をあらかた占領。孟子は政治的に挫折して、小さな滕国で井田制の理想を語った。
孟子による王者の議論は、すでに覇者たる戦国魏を王者にする「現実的」な議論。革命の肯定は、大国たる田氏斉を正統化する「現実的」なもの。斉国の革命は三晋の分裂と並び、戦国初の大事件。禅譲史の大ネタ・燕王カイも同時代。漢魏の革命思想の一部は孟子にセットされたが、これは現実的な要請の産物。

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