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- 孫策が、袁術から預かった印璽をくばる
県令・県長の印璽をくばる袁術
興平3年春、袁術は孫策にいった。
「これは、県令・県長の印璽である。孫策に預ける。配布するがよい」
県令・県長を任命するのは、皇帝の権限である。任命は、印璽を手渡すことによって行われる。袁術はその権限を、孫策に委任したのである。袁術は孫策を、わが子のように愛していた。また武力と人望に優れた孫策であれば、印璽をひろい範囲に配布できると考えていた。
もしも県令・県長が、袁術から印璽を受けとれば、その県は漢家の支配を抜け出し、袁術の支配に入ることになる。
袁術は、漢家の天子が長安から脱出し、流亡していることを聞いた。天子が崩じたという話もあった。
「もう漢家の天子には、戦乱を鎮定する力がない」
袁術は、みずからが皇帝になることを考え始めていた。おのれの与えた印璽を流通させることは、皇帝になるための布石である。
「皇帝は、いかにして皇帝となるのか」
この難問を、袁術は自分に課していた。孫策に印璽を託したのは、この難問を、少しでも解決に近づけるためである。いまだ成算のない試みであった。
どれも同じ印璽だが、新旧を分類して管理
孫策は今月、3つを配った。先月は1つも配らなかった。先々月は、2つ配った。
毎月、3つずつ新しいのを袁術から渡される。配らないで手元に置いておけば、10以上が手元にのこる。だから溜めておき、まとめて配れば、1ヶ月で10以上を配ることもできる。すなわち、郡国の1つの広範囲にわたって、配布することが可能である。
「新たに1つの郡を統治下に組みこむ」
ことは、軍事上のおおきな事件である。
しかし孫策は、そんなに溜めたことはない。だから、まとめて配ったことはない。それどころか、1ヶ月に5つ配れば、これまでの最高記録となるのだが、最高記録を更新したいとは思わない。
印璽を配らないでおいて、そっくり袁術に返却しても、叱られることはない。しかし孫策は、期待を裏切りたくないので、1ヶ月に1つ以上は配った。
あるとき、進軍がかんばしくなく、印璽をすべて返却したことがあった。孫策は、袁術が怒るとばかり思っていた。
「そうか、では今月はどうしようかな」
と、袁術は蒼白い顔をした。
美食のわりには、栄養不良のような袁術が、やせた膝頭のうえで、やせた両手をつかって印璽を数えた。孫策は、
「たぶん叱られるな。今月はどうしようか、という意味は、今月は印璽をわたさないで、様子を見ようという意味だな」
と考えた。
孫策は、かねがね「袁術のような人になりたくない」と考えていた。それは袁術という人が、当世には何もおもしろいことがない、という顔つきと姿をしているからだった。袁術の富貴をもってすれば、当世のあらゆる快楽を獲得できるはずなのに、ちっとも楽しそうではない。
「天下のことを思っているのか」
と孫策が想像しないでもないが、聞いても分からないと思ったので、孫策は聞かないことにしていた。
袁術は、孫策が返した印璽を、ゆっくり向きをそろえて箱にしまい、べつの箱から、新しい印璽のたばを3つ取り出し、また別の箱に移した。袁術はいう。
「漢家の皇帝が与えたのでない印璽が、ほんとうに県を支配してしまう。董卓の乱より以前、思いもよらなかっただろう」
「ええ」
「世の中には、思いもかけないことが起こるものだ」
「ほんとうに、そうですね」
袁術の声は憂鬱なので、話の内容だけは合っていても、会話はちぐはぐである。じつは孫策は、袁術の話の内容よりも、印璽を箱に出し入れする袁術のやり方が気になっていた。印璽の接収と賜与(すなわち「出し入れ」)は、孫策の与えられた権限である。だから、こまかい印璽の取り扱いが気にかかる。
袁術の印璽は、少し古く見えるように細工されているが、製造されて間もないものばかりのはずだ。製造者も時期も同じものばかりなのだから、わざわざ出し入れをせず、孫策が返却した印璽と同じものを、そっくり孫策に委託してもよいのだ。そのほうが、手間も省けるだろう。いくつもの箱に分類して、新旧を厳密に管理する必要があるのか。孫策にはわからない。
また、ときどき袁術は、印璽を箱に入れるとき、まるで石ころを投げ込むような手つきをする。この印璽が、漢家の承認のないものであれば、石ころには違いないかも知れない。だがその印璽により、県を支配させようとしているのも、袁術である。
「きっと袁術の習慣なのだろう」
孫策は無理に納得しようとしたが、やはり納得できないので、質問した。
「あの、袁術さま。1つうかがいます。印璽を、いくつもの箱に出し入れすることに、なにか規則でもあるのですか。新しいのと古いのを区別していますか」
袁術は箱をさわって、かすれた声でいう。
「新しいものと古いものの区別など、しないよ。みな同じ印璽だからな」
玉璧には、保有者の来歴や逸話がつきものである。袁術のような権門に生まれた者は、そういった伝承を重んじる。しかし袁術の印璽は、たかだか県の長官の持ち物であり、そういった伝承とは無縁である。だから袁術は「みな同じ」と言うのだろう。
箱に印璽を分類する理由が、いよいよ孫策には見えてこない。
ニセ印璽の製造工程はわからない
孫策は印璽を配布するだけで、製造とは関係がない。
袁術がみずから文字を刻んでいるかも、知らない。孫策の目から見ると、袁術は、印璽に文字を「刻めそうな人物」であるが、袁術が印璽に製造に関与しているのか、話したことも聞いたこともない。
文字を「刻めそうな人物」とは、しっかり者で、頭もよく腕がたち、印璽のなんたるかを理解している人物のことである。さらには、天下と皇帝のこと、各地の統治のことについて、見識のありそうな人物のことである。
袁術は、弁舌も歩き方も、「しっかり者」には見えない。袁紹のまわりに集まった声望の徒から、袁術は敬意を払われていない。だが、1つのことを考え始めると、途中で投げ出さない根気がありそうな人物である。
「こういう印璽を1つ製造するにも、大変な労力がかかりますね」
と、孫策は袁術にたずねたことがある。
「洛陽の工房だかで、盗難を警戒しながら、おおくの熟練の工芸者が、莫大な費用をかけて、製造しているのでしょう。それなのに、皇帝ならざる袁術さまが、自分で作ってしまうとは。いったい、どこでどんな具合で製造するのか、想像もつきませんね」
「そうだろうか。想像もつかぬ、と言うほどかな。印璽というのは、つくりそうな者が、つくっているだけだ。手先が器用な工人なら、つくってしまうだろう」
と、袁術は嘆息しながら言った。
孫策はいう。
「官職がほしいから、みな漢家のために精勤する。まさか自分で、印璽を作ってしまうなんて、よほど志向の変わった人にしか思いつかないでしょう。印璽は、偽造が難しいように、細工が複雑にしてある。それを似せて製造するなんて、私は驚きます」
「志向が変わっていると言えば、なるほど変わっているかも知れない。しかし、驚くほどのことではなかろう」
と、袁術はこの問題について、細かく議論する気がないようである。
印璽の「偽造」は、漢家に対する謀反である。袁術は大逆を犯しているのであり、それに加担してる孫策もまた、大逆である。しかし袁術は、大逆にかんする罪悪感を、深く抱いていないようだ。
しかし袁術は、いつも淋しそうである。孫策から見ると、それは高級な淋しさである。孫策は、家柄を度外視しても、なお袁術が格上の人物に思えるので、袁術の淋しさが、いっそう高級なものに思えた。
印璽を配分するしくみ
孫策が、印璽を配布する任務を受けたのは、あまりに袁術が淋しそうだったからである。だが袁術は、ただ淋しそうなだけではない。袁術は、孫策の真価を見きわめ、愛寵してくれた。
「きみは、私の探し求めていた男だ」
と袁術は孫策に言った。
孫策の父・孫堅は、袁術の部将であったが、いまはない。孫堅の死後、孫策は徐州にいった。孫策が袁術に協力する必然性は、じつは乏しいのである。じつは孫策も、袁術のような英雄を探していたのかも知れない。
孫策は、父を失ったが、叔父の孫静らを頼れば、最低限の生活は部曲を養うことは可能であった。官職に対する憧れはあり、たびたび太守を袁術に請願するほどであったが、官職の偽造に関与するほど、官職に執着していなかった。父のように着実に武勲をたてれば、袁術を頼らずとも、太守に登ることはできたかも知れない。
孫策が印璽をあずかるにあたり、取り決めがあった。成果の折半である。孫策が印璽をくばり、威令を及ぼした県の半数に、袁術の門生故吏が送り込まれる。のこり半数は、孫策がみずからの人脈から、県の副官以下を置くことができた。人事の問題について、袁術と孫策の思惑がこじれる危険があった。
印璽の製造から配布までを、孫策が行っているなら、このような危険を抱える必要がなかった。つまり、孫策がまったくの独立勢力として、皇帝を自称しようと図れば、この危険を抱える必要がなかった。だが、製造者と配布者がちがい、成果を折半しようとするから、厄介である。
また孫策が、もっぱら袁術の私兵として動くなら、精算は簡単である。袁術から兵馬と糧秣をもらい、各地を転戦しているなら、成果の折半は難しくない。しかし、孫策が独自の判断で動き、県を獲得することもあった。孫策が征圧した地域では、董卓の乱以前、ほんとうに漢家の皇帝が発行した印璽があり、それが孫策の手元に献上されることもあった。よほど計算に労力をさかねば、帳尻があわない。
印璽を手渡すとき、袁術は、
「この印璽は、かならず孫策が配布せねばならん。この印璽を、さらに第三者に委託して、配布させてはならない」
といった。孫策の周りには、野心にあふれた者がおおい。もし孫策が、袁術の印璽を彼らに預託したら、袁術も孫策も、袁術の印璽がどこにどれだけ流通しているか分からなくなっただろう。
このような規則のもと、孫策は会稽を平定した。130601
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- 印璽の本質は授受で、それ以上はない
贋物の印璽だと疑われる
興平三年夏、孫策は、ある県を陥落させた。県令は、漢家の印璽を持ったまま、逃げ去ってしまった。
入城した孫策は、攻略の手助けをしてくれた同県の豪族に、袁術から預かっている県令の印璽を与えた。豪族は、
「この印璽は贋物ではないか」と疑った。 孫策は「納得いくまで調べなさい」と応じた。豪族は、じつは本物の印璽を見たことがない。また本物と外見の同じ印璽が、じつは袁術に由来するとも気づかない。豪族は孫策に謝り、印璽を受けとった。
べつのとき孫策は、降伏した県令から、漢家の印璽を没収した。その印璽を、同県の豪族にわたした。豪族は、
「この印璽は贋物ではないか」と疑った。
孫策は、この印璽は本物であるので、自信をもって「納得いくまで調べなさい」と応じた。豪族は判断にこまり、やはり孫策に謝ってから、印璽し受けとった。
なにが本物なのか、じつは誰にも分からないのではないか、と孫策は思った。贋物であっても、本物に見えるように作られている。また本物であっても、造作が粗雑だったり、経年により劣化している場合がある。
「本物の印璽とは、なんであろうか」
孫策は、こうした問題が苦手なので、いっそう討伐に励んだ。
仙界で印璽を授けられる夢
孫策が印璽を受けとりにいくと、袁術はいった。
「私の孫が、夢を見た。東方の仙界にゆき、そこで歓迎される夢だ」
孫策は適当に相づちをうった。
「孫は見送りのとき、贈物をもらったらしい。それが、金璽なのだそうだ。金製の印璽は、こちらの世界で皇帝が与えるものだ。仙界と金璽は、なんの関係もない。夢ではあるが、金璽をくれる仙人も仙人だが、それを仙人から受けとる、私の孫も同じくらい歪んでいる」
見ると、袁術は涙を流している。孫策はいう。
「そんな夢を見るのも、仕方がないのではありませんか。金璽は、天子が四方の夷狄に与えるものでもあります。私だって、おなじ夢をみれば、金璽をもらいますよ」
「私の幼い孫は、口にこそ出さないが、幼児のくせに、官職に対する執着をもっている。むやみに官職をほしがる者は、大人も子供も大嫌いなのだ」
孫策は頭が痛くなってきた。袁術は、四世三公の血筋である。袁術は5代目であり、孫は7代目にあたる。
いま袁術は、印璽をつくっている者の仲間(もしくは印璽をつくっている者)であり、孫策よりもずっと、中枢にいる。印璽の発生する源泉にちかい。それにも関わらず、なぜ袁術は、印璽をほしがる孫や、大人たちを嫌うのだろうか。袁術が印璽をつくるのは、印璽とそれに伴う力能がほしいからではないのか。ほしくもないのに印璽を密造して、配布しているのは、皇帝ぐらいである。もしくは、皇帝に対抗するべつの集団のなかで、野心をめぐらす姦賊くらいだ。
袁術は蒼白く、痩せ細っており、とても姦賊には見えない。
孫策が混乱した原因は、もう1つある。袁術の印璽を配布している孫策は、自分のことを、むやみやたらと官職を欲している者とは思えない。だから孫策は、官職に執着する者をきらう袁術から、嫌悪されなくてすむ。
袁術の孫だって、袁術に軽蔑される必要はない。袁術の孫は、与えられた金璽の権限をつかっていない。その孫を、袁術はきらっている。孫策は袁術に、よそよそしいような気持ちをもった。
孫策はいった。
「官職=印璽をほしがるのが悪いなんてことは、絶対ありません」
「むやみにほしがるのは、よくない。天下の秩序が乱れる」
「儒家の素養がありませんから、私には秩序のことは分かりません。でも無理にでも秩序について論じなければならないなら、誰がどうやって秩序を破っているのか知り得ない、と私は言いたいと思います」
印璽を授受するだけの関係
袁術がせきこんだ。孫策は、袁術の持病を知っていたから、南方で薬草を手に入れていた。袁術にさしだした。
「袁術さま、これを飲まれると、身体の秩序がなおります。もはや私は、印璽を媒介にして、袁術さまと一心同体のようなものです。袁術さまが健康を害されると、こまるのです」
「孫策は、そこまで私のことを心配してくれなくても良い。私ときみとの関係は、ただ印璽のことだけだと思ってもらって、支障はない。また、印璽だけのほうがよい」
「袁術さまは、決して冷たい方ではないのに、ときどき冷たいことを仰る。袁術さまが印璽をわたして、私が受けとる。私が返して、袁術さまが受けとる。私たちの関係は、このとおり簡単です。この授受が毎月つづくだけで、強大でも親類でもない。しかし印璽の授受は、なかなか重大なことですからね」
「重大だなんて思ってほしくない」
そう袁術に言われて、孫策は内省してみた。
たしかに孫策は、印璽の授受を、重大なことだとは思っていなかった。印璽の配布は、殺人でも窃盗でもない。恐喝や強奪でもない。贋物だと気づかれなければ、まるで漢家の印璽が流通し、政治を機能させているように、袁術の印璽が円滑に流通するだけだ。たとえ贋物だと見抜かれても、とくに何かを失うでもない。
天下には、功名にあせって、贋物の印璽を摘発したいと考えている者がいるかも知れない。純粋な正義から、贋物を撲滅したいと考えている者がいるかも知れない。功名のほしい者に発見されるのは、孫策にとって愉快でないが、正義の者に発見されるのは、仕方がない。いや、発見者の性質は、あまり関係がない。天下のみなが、漢家の印璽に服従するから、贋物をきらうのだ。もし印璽になんの権能もなければ、偽作した者がいても気にかけないだろう。
中断のメモ
いま中公文庫で246頁。袁術が演じているのは「源さん」で、孫策が演じているのは「私」である。このあとも、ニセ札をめぐって、いろんな事件や葛藤がおこる。貨幣とは、みんなが貨幣だと思っているから貨幣であり、貨幣そのものに本質が備わっているのではない。というような話がある。
原典で源さんは「ニセ札だよ」といって、定期的に私に紙幣をわたす。私の仕事は、その紙幣をつかうこと。ただし、渡された紙幣の半分の金額を、源さんに返さねばならない。つまり、1万円もらったら、2千円のものを購入し、8千円の本物の紙幣を手に入れ、そのうち5千円を源さんに返却する。おつりによって儲ける。
ふるい小説なので、ネタバレすると。
じつは源さんは、私に本物の紙幣を渡していた。ニセ札ではなかった。「ニセ札だよ」と言われた私が、そのセリフだけに踊らされて、いろいろ葛藤しているだけだった。こんな葛藤が可能になるほど、貨幣とは裏づけをもたないものである。という話。
袁術の話に置き換えると。袁術は李傕政権から、東南の郡県の任命権を与えられ、ほんものの印綬をごっそり預かっていた。袁術が孫策にわたす印璽は、じつは漢家によってオーソライズされたものだった。それを孫策は「袁術が偽造したものだ」と思って、葛藤しながら配布していた。
孫策のひとり芝居だった。だがこの芝居に踊った孫策がおろかなのではなく、人間はどんな状況でも、わりにこの芝居の役者なんだろう。たまたま孫策が、舞台に1人しかいなかっただけ。そういう意味での、ひとり芝居。
袁術の統治は、漢家のためなのか、漢家のためでないのか。つまり、献帝に対して忠なのか、不忠なのか。この問題に答えることが、とても難しいことがわかる。というか、そういう問題を立てることに意味があるのか、疑わしい。それを分からせてくれるのが、『ニセ札つかいの手記』である。
孫策がわたした印璽が、どのような由来を持つものだろうと、それが現実として機能すれば、それが正統なものである。献帝が手渡ししても、周囲が認めなければ石くれである。たとえば、日本銀行の品質管理が甘くて、失敗した貨幣が流通することがある。それは本物であるが、本物らしくない珍品なので、ぎゃくに額面以上の価値がつく。しかしそれは、貨幣としての価値じゃないよね。
袁術や孫策による東南の征圧は、李傕政権から委任されたものである。だから献帝に忠ともいえる。また李傕政権が滅びることで、袁術の行動と、献帝とのつながりが切れる。袁術の持っている印璽は、それ自身は何も変わっていないのに、ある日突然、贋物に化けてしまう。さすがに孫策は、そんなことに気づかず、振り回されるだけのコマである。
献帝が、李傕のもとにいるか、曹操のもとにいるかにより、袁術の同一の行動が、忠であったり、不忠になったりする。しかしこれは、李傕のもとにいる献帝と、曹操のもとにいえる献帝を、同等で代替・更新可能なものと、世間の大多数が見なすと、世間の大多数が見なした場合に限られるけど。同じ表現が2回でているのは、誤入力じゃないです。
貨幣と官爵はにている。という話をしています。130601閉じる
- 魯粛が印璽をけなし、漢家の終わりをいう
魯粛が印璽を「石ころの贋物」という
孫策のもとに魯粛がきた。孫策と魯粛は、酒屋に入った。
魯粛はいう。
「なんの人脈もなく、官職を得るなんて難しいね」
さらに魯粛はいった。
「太守といっても、2千石の印璽をもらうだけだ。それが、なかなか手に入らない。私は徐州から連れてきた義兵を養っているから、太守の府を襲撃すれば、きっと印璽が手に入るだろうが」
孫策は反論した。
「太守の官職は、漢家のために功績にある者が授与されるものだ。漢家の太守を襲撃したら、むしろ賊軍ではないか。印璽を得るために、印璽を遠ざける行動を起こしてどうする。見たところ、きみの器量ならば、太守は難しくとも、県令くらいにはなれそうだが」
「県令といっても、6百石の印璽。なかなか狭き門を勝ち抜かないと、得られるものじゃないよ」
と、魯粛は可能性を否定した。
「本物の印璽は、やはり得がたいものだ」と孫策。
「孫策よ。本物は難しいが、贋物の印璽を得ることは、さらに難しい。天下には、一千数余百の県が設置されている。つまり、本物の令長の印璽が、一千数余百ある。しかし贋物は、めったに流通しない。注意して探索したって、贋物の印璽なんて、見つかるものではない」
「贋物のほうが入手が困難か」
「当然だ。贋物は数が少なくて、めったに見つからない貴重品だから、贋物なんだろう。だから漢家の忠臣を自認する者は、必死になって探している。本物を探す愚者はいない。本物の印璽は、ありきたりの平凡な印璽だ。そこそこの経歴のある士人なら、もっているだろうよ。いくら朝廷に行って、贋物の印璽をくださいと願っても、くれるものではない。平凡な本物の印璽を、与えられるだけだろう。孫策だって、馬日磾に官職をもらったが、贋物の印璽ではなかっただろう」
「たぶん本物だ。印璽は印璽で、ありがたいものだと思い込んでいる。贋物ではないかと、余計な心配をして、調べたことはない」
「孫策は豪快だから、目を押し当てて、印璽を検分するような男じゃなかろう」
酒屋の店員が、料理を持ってきた。
「はい、この魚は、本物の魚。この菜は、本物の菜」
店員が念を押した。
「本物じゃなければ、誰が食べるものか」
孫策が笑った。魯粛は孫策にいう。
「食べるものには、贋物が通用しない。実体のあるものなら、贋物は通用しないのだ。だが印璽は、実体のあるものじゃないから、贋物でも通用する」
「印璽は実体がないのかね」
孫策は、自分の首にかかっている印璽を手のひらですくった。
魯粛はいう。
「なにがし校尉、なにがし令、という文字が刻まれた石ころや金属片じゃないか。こんなものに、実体があると言えるのか。石ころなら石ころと、はっきりしていれば、それは石ころという実物なのだ。だが石ころのくせに、印璽であるって重宝がられるから、ことが複雑になるのだ。石ころの贋物が、印璽なのだ」
「石ころの贋物が印璽だと。それはひどい」
「偽善者みたいなことを言うなよ、孫策。なにも孫策が、印璽の味方をする必要はない。そこまで印璽の味方をするのは、孫策が、印璽の発行者と親密だからか。まさかな。漢家は命数は尽きており、この揚州とは離れた場所で衰微している」
「印璽は印璽だ。あらためて印璽を軽蔑する、のは難しい」
孫策は煮え切らない。魯粛は声をあらげた。
「孫策は印璽の回し者だな。印璽が、私は石ころの贋物でありまするって、正直に白状するなら、私は印璽を批判したりしない。なぜ漢家の印璽は、こんなに偉そうにして、多大な労力と犠牲を支払った者に、任命してやる、ありがたく思え、なんて偉そうな調子で、手渡されるのだ。漢家の権威で、おどそうと言うのか。薄汚い石ころの有無で、士人たちからの評価が変化する。だれも印璽の根源なんて考えずに、名声が乱高下するのだ」
孫策は悩んだ。
「根源を考えるのは、難しいから避けたいものだ」
孫策は魯粛と別れてから、考えた。
孫策は、袁術の印璽を配布するようになって、印璽について考えるようになった。董卓の乱のあと、贋物の印璽がおおく出回っているらしい。袁術の配布する印璽も、その一部だろう。天下では、印璽への関心が高まっているようだ。これは、漢家の正統性にたいする疑問と同値である。孫策は、そんなことを考えて良いとは思わないし、考えるための思考力もない。
自分は不忠な人間なのか、と孫策は悩むことがある。
孫策は、自分を不忠だと思いたくないし、また他人から不忠だと思われたくない。不忠だと思われたら、天下での処世が不利になると思っている。袁術と結びついたのは、運命かも知れない。袁術との接点がなければ、贋物の印璽を配ることはなかっただろう。
袁術が降伏した豪族に印璽をわたす
寿春に降伏してきた豪族があった。袁術は階上にいて、孫策に「これを与えてやりなさい」といって、印璽を手渡した。
「これも例のものですか」
と孫策が聞くと、袁術は頷いた。
降伏した豪族は、その印璽をじっと見つめた。
袁術の左右にいる文官が言った。
「なにを心配しているのだ。袁術さまは、四世三公の名門であり、きみはそれを知って帰服したのだろう。正真正銘、漢家の印璽に決まっている。寿春にいて東南に号令しているのに、贋物の印璽を配布していたら、天下から信頼を失ってしまうだろう。贋物であるはずがない」
豪族は、「すみません。つい心配になってしまって」と赤面した。
豪族は、袁術の印璽とひきかえに、配下の勢力の名簿を差し出した。その名簿に応じて、影響力を見積もり、袁術は与えるべき印璽を選んでいる。
これまで豪族は、険しい山地にこもって独立を決め込んでいた。竹片に称号を記して配布し、山地のなかでの序列を決めていたらしい。機能は漢家の印璽と同じだが、印璽よりも簡素であった。袁術は報告を受け、その竹片を見たが、つまらなそうに捨てた。袁術にとって、彼らが独自に運用した竹片は、なんの意味もない。
べつの豪族が降伏してきた。「討越将軍」を自称するその豪族は、降伏したとき、その称号に見合った官職がほしいと要求した。
「討越将軍の印璽だってあるのだ」
豪族は、ひときわ大きな玉製の印璽を、顔の前にぶらさげた。
「この玉璽を、袁術さまに献上しよう。だから、それに見合っただけの印璽を、袁術さまは私に与えてほしい」といった。
またべつの豪族は、戦国期の越王の印璽、とやらを持参して、袁術に降伏した。彼もまた、越王の称号と釣り合うような爵位をほしがった。
孫策は彼らの降伏する光景を見て、「贋物のくせに」と思った。
それでも袁術は、降伏者たちの実力以上の官職の印璽を与えてやった。孫策は不必要な厚遇だと思い、反発した。だが豪族たちは、袁術への尽力を誓約した。
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- 袁術との関係が絶え、曹操の印璽が届く
袁術が孫策に印璽を預けるのを辞める
あるとき孫策は、袁術との酒の席で、うっかり言ってしまった。
「しかし袁術さまの印璽は、よく贋物と気づかれないものだなあ」
そんなことを言わないほうが良いことぐらい、粗忽な孫策でも知っていた。だが、言ってしまった。
袁術はいう。
「印璽のことなら、見破られないよ。もし見破られるとしても、孫策が逆賊と認定され、そのあとで、孫策に印璽をわたした私に対して、天下の批難が向けられるという順序だろうね」
「それなら、大丈夫ですね。私ですら、まだ疑われたことがありません。まして袁術さまに、大逆の疑惑が向けられることなど、ありません」
「孫策は全てを善意に解釈するのだね。楽天的とは言えないが、ものを信じる性格なのだろう」
「自分でも分かりません。士人としての信念はありますが、とくに言葉にできません。今さら、なにも信念がないとも言えませんが、信仰のようなものはありません」
袁術が突然、切り出した。
「孫策は、もう私の印璽を配らなくてよい」
そう袁術が言ったとき、孫策はあたりが急に暗くなったような気がした。「そんなむごいこと、言わないでください」
「誤解しないでほしい。孫策を信用しないから、これを言うのではない。孫策という人間を信用しているから、孫策を我が子のように思うから、これを言うのだ」
「おかしなことを言わないでください。袁術さまと私の組合せは、立派なものだと思っていました。少なくとも揚州は、私たちに靡きました。私の働きに問題があるなら、詳しく教えてください」
「これは私自身の都合なのだ。孫策の人格や働きとは、関係がない」
「でも袁術さまは、あの印璽を、私に持たせたくないのでしょう。遠回しに仰っているが、私を仲間はずれになさる。私とは無関係の他人になってしまいたい。そう仰りたいのでしょう」
「私と孫策が無関係になるなんて、あり得ない。そうだろう。きみ自身だって、そう思っているのだろう」
「そうです。袁術さまが私に印璽をわたす。それを持って、私が各地を平定する。武力に訴えることも、説得を働きかけることもあります。平定に成功したら、その県城の長官に、私が袁術さまの印璽をわたして、味方につける。それで、それだけの関係で良いじゃないですか。そうやって、2人が死ぬまで続けていったって、構わなかったはずではありませんか。おのずと天下が、袁術さまの味方となる。天下の情勢の変化とか、漢家の天子の流浪や交替とか、何が起ころうと、急に袁術さまと私の関係が切れるなんて、私は認めたくありません」
袁術が孫策に説明した「縁切り」の理由は、袁術の手持ちの印璽がなくなったことである。もう1つは、袁術が重大な政治的決断を行うということだった。その理由は孫策にとって、満足な理由だと思われなかった。
袁術はいう。
「孫策。きみは何かしら、私の印璽を配布したことで、とんでもない影響を受けるとか、変化を経験したわけではあるまいね」
印璽を持たせた者と、印璽を持たされた者は向き合った。
「影響を受けました。変化を経験しました」
孫策が大声で断言すると、袁術はぎくりとしたらしい。孫策はさらにいう。「影響がなく、変化もない。そんなこと、あり得ないではありませんか」
「それは、そうだろうが、たとえば、どんな」
「私の心理状態なんて、調べる必要がないでしょう。私に恩恵を施したかと思えば、その恩恵を断ってしまう。私を試したのでしょう。非人道的です」
「すまない、すまない。怒らせたのは、すまない。だけど孫策は、贋物の印璽を配ることを、望むようになったわけかな。贋物の印璽を、ほしいと思うわけかな」
「贋物の印璽など、もともと欲しくありません。ただ、袁術さまが託した印璽を、私が配ってあげたいと思っているだけです」
「私に同情して、私を激励するためにか」
「同情とか激励とか、そんな話は辞めましょう。あなたが私を信用した。私があなたを信用した。それだけで良いのだし、それだって口に出して言ってしまったら、嫌らしいじゃないですか。つきつめれば、輝かしくも忘れがたく存在した、貴重なる事実はですね。袁術さまの印璽が、私たち2人を結びつけたことです。だから、袁術さまの印璽は、永久に存在してくれねば、私が困るのです」
「袁術さまの印璽、と言うが、私が渡した印璽は、べつに大したものではない」
「知っていますよ、そんなこと。しかしながら、袁術さまと私の真の関係を知っているのは、あの印璽だけですからね。他の誰も、この関係について知りません。漢家の天子も、兄の袁紹さまも、まだ嗅ぎつけてはいません。ですから、あの印璽は、ただものではありません。天子に、私は会ったことがない。天子のもとから、印璽が発行されているらしいですね。だが、漢家が発行した、単なる本物の印璽なら、何十個を授受したって、私と袁術さまの関係はできなかったはずです。袁術さまの印璽があればこそですよ。あの印璽があってくれたことが、ありがたいことなんですよ」
あとで袁術は、孫策にいった。
「私は本物が好きだ。贋物はきらいだ」
袁術は苦しげである。だが孫策は、袁術が苦しい理由など、分かりたくもなかった。
「私の印璽は、これ1つしか残っていない。記念として、孫策にあげておく」
「ああ、そうですか。これは、本物の袁術さまの印璽ですよね」
孫策は、わざと余所余所しい口ぶりで、嫌がらせのように言った。
「これを配布したら、新たな所領はどのように報告しましょうか」
「それは、いずれ、あとで私から連絡するよ」
そう袁術は答えてくれたものの、孫策は、「ああ袁術さまは、もう私に会う気はないな」と予感した。暗澹たる気持ちになった。
袁術の印璽が、漢家の印璽だったと知る
天下に「贋物の印璽を配布する者」の存在が知れわたり、良心ある士大夫は、みな一斉に批判をした。それは孫策ではなかった。袁術でもない。
袁紹であった。
袁術と袁紹は、関係が良好ではない。また勢力範囲がちがう。袁術の印璽が、袁紹にわたされ、袁紹から天下に流布している、ということはあり得ない。
「袁紹は、贋物の印璽の配布者としては、贋者である」
孫策は、袁術のことを、なおも慕っている。孫策は、袁術の好敵手である袁紹のことを、英雄と認定することはできなかった。袁紹のように、公然と漢家を否定する者は、贋物の印璽を配る資格すらない。
孫策は思う。
「私もまた、本物の『偽物の印璽の配布者』ではない」
孫策は、ただ袁術を慕っている官人に過ぎない。もしも孫策の「悪事」が暴露されれば、袁術の所行が、いくらか明らかにあるだろうか。孫策は、袁術の印璽が、どのように入手され、どのように流通しているか、よく分かっていない。ただし孫策を配布者と指定できるのは、袁術のみである。その袁術は、孫策との関係を断ちたがっている。
孫策の行動がもつ意味や、袁術の思惑は、いよいよ分からなくなろうとしている。
孫策は思った。
「印璽は、いかに明確に文字が刻まれていても、製造者も所有者もわからない。所有者が、つぎから次への変わっていく品物が、ほかにあるだろうか」
袁術からもらった最後の印璽を、孫策は握りしめた。
すでに孫策が配布した印璽は、もはや孫策の手元から、永久に離れてしまった。もし孫策が「何十個、私が配布した」といくら叫んでも、なんの意味もない。どこにいくつあるのか、分からない。天下の情勢は、たえず変化している。いちど袁術に帰服した者が、離反することがあった。袁術から県令に認定された者が、べつの者に討伐され、新たな支配者が、袁術の印璽を権限の根拠として使っているかも知れない。
他人から分からなくても、構わない。いま孫策は、自分のやったことすら、信じられなくなり始めていた。
会稽に、漢家で高官を歴任したという人物が、戦乱を避け、隠棲しているという情報を得た。この隠者であれば、印璽を見慣れているはずである。真贋を判定できるに違いない。孫策は、その隠者をたずねた。
孫策は、袁術の最後の1つを隠者に見せた。
「この印璽、贋物だと思いますか」
「見せてご覧なさい」
隠者は、面倒くさそうに手にとった。
孫策は祈った。
どうぞ袁術との結びつきを、消し去らないでほしい。天下に流通している印璽が、それぞれの所有者の思いを押しとどめてくれますように。袁術の印璽が、おおくの本物の印璽にまぎれてほしくない。袁術が淮南に辿りつき、孫策と関係をむすび、揚州を平定したという痕跡を、この印璽が証明してほしい。もし隠者が、「何でもない、漢家の印璽じゃないか」と突き返したら、孫策は悲歎にくれてしまう。
隠者はいう。
「落ち着きなさい。贋物ではないか、と印璽を見せにくる、きみたちの心理状況を、知りたいと思っていたのだよ」
隠者はつづけた。
「きみはどうしても、この印璽が、ただの印璽ではないと言うのだね」
「はい」
「そうでなくては、こんな僻地まで来ないだろう。気持ちは分かる。しかし、洛陽の工房を管理した経歴のある私から見ても、これは明らかに本物の漢家の印璽だ」
「えっ、それは。そうすると私は、贋物でもない印璽を、贋物だと言いふらして、持ってきたということになりますか」
「そうなる。しかし私は、きみを咎めるつもりはない。いたずらだとも思えない。この印璽がきみのものなら、任じられた職務を果たすことだ。だが、本物の印璽を、贋物と思いたがる、きみの心理がわからない。まあ、これは返しておく」
「当局に届けなくても良いのですか」
「お気の毒だが、そうだ。届けるべきは、贋物の印璽だ。贋物は、漢家への謀反として、取り締まらねばならない。だが本物の印璽のなかに、本物の印璽をおいたところで、なんの検討ができる。印璽は、1つ1つは異なるが、本質はどれも同じものだから」
孫策の頭は働かない。隠者はいう。
「きみらの心理には、いつ贋物のつかまされるか分からぬという、不安や恐怖が潜んでいるのだろう」
「不安や恐怖など、ありません。それより、むしろ」
「むしろ、何かな」
「むしろ、特別の印璽がほしいのです」
「特別のものがね。いいか、若い官人よ。印璽には、本物と贋物の2種類しかない。もし本物が普通の品物なら、贋物が特別となる。もしも贋物が普通の品物なら、本物が特別となる。きみのいう特別とは、どちらか」
孫策は脱力した。
「私は、特別のものが欲しいだけなのです」
「それで、その特別のものとは」
「この印璽です」
孫策は、袁術が最後にくれた印璽を返された。
親切な隠者を、困らせてはならないと思った。また孫策は、自分が困るのもいやだった。だが、袁術のことを、全て忘れてしまうのも好まない。
「本物を、贋物だと称して、わたす。本物を、贋物だと偽って、配らせる」
袁術は、そんな男だったのだろうか。贋物を本物のふりをしてつかう者があるなら、本物を偽物のふりをしてつかう者がいても、不思議ではない。不思議ではないが、やはりそれは不思議ではないだろうか。人間の行動にはすべて、原因や理由があるはずである。原因や理由があれば、不思議とは言えない。もし袁術にそれがあるのなら、不思議ではないのかも知れなかった。
袁術の選んだ男。それは孫策だった。
いまとなっては、ほかに確かなことはなかった。
剣の柄で打ち砕いてやるか。淮河に投げこんでやるか。どうせ大切に保存したところで、だれも袁術の印璽とは認めてくれない品物だ。袁術を押しかけて、「これをどうしてくれるんです」と文句をつけようか。
曹操から孫策に、印璽がとどく
漢家の天子は、曹操に保護されたらしい。
曹操のもとから孫策に、印璽が届いた。箱を開けると、あきらかに素材や形がおかしく、文字が不鮮明である。かつて袁術と交際のあったころ、孫策は印璽をじっくり観察したことがなかった。いまも孫策は、品物を観察する習慣などない。そんな几帳面な性格ではない。しかし、曹操の印璽は、どうにもおかしい。
叔父の孫静に見せ、「私も会稽太守になりましたよ」といった。孫静は、印璽を手にとり、「おめでとう」と言った。孫静は、造形のおかしさを、ちっとも怪しがらない。
孫策は思った。
「これから先、どれだけ昇進して、高位の印璽を手にしても、袁術の印璽を託されたときの、踊ったような気持ちは味わえないだろう。属官を持てるようになり、どれだけ配下に印璽を与えても、あの気持ちは返らないだろう」
印璽についての理解が深まったように思えたが、孫策の一生がどうなるということもない。袁術の印璽が、贋物だろうと本物だろうと、あれを託されたことは、名誉なことであった、と思えてきた。
ニセ印璽つかいの結末
興平3年は、建安元年と改まった。
翌年(建安2年)正月、袁術は皇帝に即位した。130602
ぼくは思う。この結末は、武田泰淳にはない。つまり、ニセ札の元締めであった「源さん」が、「源さん銀行券」を立ち上げたりはしない。
ぼくは思う。袁術は「漢家の印璽でないもの」と言い含めながら、じつは漢家の印璽を、孫策に配布させていた。漢家の印璽がなくなったので、孫策との共同作業が終わってしまった。つぎに袁術がやったのは、みずから「袁術銀行券」を発行することだった。こうして孫策は、袁術から「離反」するのである。孫策が袁術を見限ったのではなく、袁術が孫策を、漢家のために働かせることができなくなったから、自然と関係が切れてしまった。袁術と孫策の関係は、あくまで漢臣同士の上司と部下だったから。
そういうことって、あるんですねえ。
という感じで、袁術と孫策のことを理解したら、わりにスッキリするんじゃないか。という後漢末を理解するための仮説です。「袁術は漢家の忠臣」という常識的な状況から、なぜ袁術は暴走して皇帝を自称したのか。孫策と袁術は、どのように密着し、どのように関係が悪化したのか。そのプロセスが、武田泰淳に見えるような気がしたから、こんな「小説」をアレンジしてみた。
袁術は、印璽が貨幣と同じで、それ自身に正統性が宿るものではないことを、この実験を通じて知ったのでしょう。そして、実験に付き合ってくれた孫策を除外して、独自の仲家の印璽を、新造して、配布したに違いない。「孫策を我が子と思っているから、仲家の計画に巻きこまない」と。屈節した親心だなあ!麗しいなあ!という話。
曹操の発行する印璽は、おそらく経済状況が厳しいので、粗雑である。粗雑だが本物である。袁術が新造する仲家の印璽は、きっと造形が精巧だが、贋物である。「贋物だよ(漢家の印璽じゃないよ)」と言って本物(漢家の印璽)を配ることに成功した袁術は、「本物だよ(仲家の印璽だよ)」と言って贋物(仲家の印璽)を配って失敗した。わからんもんだ。
わからんからこそ、袁術の『貨幣論』が立ち上がるのだなあ!閉じる