読書録 > 尾形勇『中国古代の「家」と国家』より抜粋

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2章 自称形式より見たる君臣関係_117

尾形勇『中国古代の「家」と国家―皇帝支配下の秩序構造』岩波書店 1979 より抜粋します。

皇帝と対面した際において、臣下たる者は必ず「臣」と自称し、しかも自らの「姓」を言わず、「名」のみを称するという、「臣某」形式と名づけたもの。
何故に「姓」は称されないのか。

「臣某」形式と訓新秩序_118

◆上書・奏言のばあい
蔡邕『独断』に、「凡そ郡臣の天子に上書する者 四あり。・・・「表」なれば需頭せず(冒頭に空所を設けず)上に「臣某言ふ」と言ひ、下に「臣某誠惶恐稽首頓首死罪死罪」と言ふ。左方上に附して「某官臣某上(まう)す」と曰ふ。・・・公卿校尉諸将は姓を言はず。大夫以下、姓を同じくして官は別なる者あれば姓を言ふ」
とある。_118
『後漢書』列伝19 鮑昱伝 注引『漢官儀』、『後漢書』列伝34 胡広伝 注引『漢雑事』に、「郡臣 上書するに、公卿校尉諸将は姓を言はず」と見える。
下級官僚であっても、この形式に依ったことは次の具体例からわかる。
かつて小吏であり現在は爵を奪われて「士伍」の身分となっている者も、『漢書』巻74 丙吉伝に「元帝の時、長安の士伍尊 上書して言ふ。臣、少き時 郡邸の少吏と為り・・・丙吉、常に臣尊を従へ」とある。
大庭脩が紹介しているように、『蔡中郎文集』外伝に、「臣邕」とある。蔡邕は刑徒の身分になっても、「臣某」の形式を変更していない。

諸侯王といえども、皇后や皇太子と同様に、皇帝に対峙するときには「臣某」を守るのであり、皇帝以外の者に対してはこの形式は用いられない。
『漢書』巻51 枚乗伝に、呉王に対して「臣乗」と称している事例があるが、例外である。

◆儀礼のばあい_120
『続漢書』礼儀志中に、皇太子・諸侯王は、その地位を拝すると同時に、改めて「臣某」という形式の中に置かれるのである。皇后は、『続漢書』礼儀志中の劉昭注引 蔡質所記より、明確に「臣妾」たることを表示する。上奏のばあいと一致する。

皇帝侍臣による「臣某」形式_129

『隋書』巻6 礼儀志一に、「嗣天子臣堅、敢へて皇天上帝に昭告す」とある。文帝楊堅は、郊祀における板(祝版)のいて、「嗣」という冠称を附した「天子」の称号を用いて「臣」と称し、しかも「姓」 を省いて「名」のみを唱している。
たとえば『宋書』巻16 礼志3に、劉備が「皇帝臣備」とあるように、王朝交替時の即位儀礼において、天帝・地神に対して皇帝は「皇帝臣某」の形式を踏んで自称する。ただし、天地のその他の諸神を祠る際には「某」形式をとることもあり、宗廟の祭りにおいても時として「某」形式の採用が認められる。すなわち、「臣某」形式は、前項で述べておいた(ぼくが引用を省いた)器物銘文のばあいと同様に、「某」形式と並行出現するのである。
第2表は、漢~唐における皇帝の自称形式についての諸実例を、一般天地祭のばあい、宗廟や社稷の祭のばあい、即位儀礼のばあい、の3欄に大別して整理したものである。_131

コピーして手許に持っておく。

皇帝の自称形式としては、「天子臣某」「天子某」「皇帝臣某」「皇帝某」の四種があり、儀式の内容、ないしは祭祀の対照の相違に応じて、いずれかが用いられている。唐代に関しては史料は豊富なのであり、とりわけ「開元年間の礼制」という、組織化された制度において、皇帝の自称形式の使用例を見出すことができる。第3表のごとくなる。_131

注目されるのは、何よりも、皇帝といえども「臣」と称することがある、という事実であろう。すなわち、「臣某」形式は、天地(表中のA欄)、および宗廟(a欄)の祭祀において用いられているのであって、天地・宗廟の神霊と皇帝とのあいだは、まさに君臣関係であるとされていたことが、新たに発見されるのである。
つぎに注目されるのは、「天子」と「皇帝」という二つの称号が存在し、使い分けがなされていることである。すなわち、「天子」は天地の鬼神に対して用いられ、「皇帝」は祖霊をはじめとするいわばより現世的な地上の諸霊に対して使われている。「天子」と言えば「天の子」、つまりこの称号は家族秩序の範疇に属するものと通念化されているにもかかわらず、少なくとも三国期以降においては、 家族倫理の中核たる「孝」字がその「天子」にではなくて「皇帝」のほうに冠称として採用されていることである。「天子」「皇帝」という二つの称号が礼制において法則的に区別されて機能していたこと、またそのばあい、「家」の秩序に直結する「祖霊」に対しては「天子」ではなくて「皇帝」が用いられていたこと、および、「天子」という称号と「孝」という冠称の非相関性――等は、いずれも当時の国家秩序の特質を解明する上での重要な手懸かりたり得るものと思われる。

下線は引用者による。ここを引用してくて、このページをつくった。


「臣某」形式が「某」形式と並行して機能しており、しかも両形式の使用法が、祭祀の種類とその序列に応じた法則的なものであった。すなわち「臣某」形式は、当時に最も重大な国家的儀式「大祀」のばあいに用いられ、ついで「某」形式は、次ぐ位置にある「中祀」において採用され、残る「小祀」においては、「天子」または「皇帝」とのみ称するのであった。_133
「臣某」形式こそは、最も深い敬虔と遜譲の意思を表現する恰好の自称形式であったはずである。神霊に対する最大の敬虔性、極度の隷属性を表明する手段として、「某」形式ではなくて、「臣某」形式が用いられていたことからすれば、「臣」と称することの効力は予想以上のものであったと認識されてくる。

「臣某」形式の制度的位置_135

班固『白虎通(徳論)』巻6 王者不臣において、王者たる者には「「臣」とすべきでない者」がおり、それは「二王之後」「妻之父母」「夷狄」であると述べ、ついで「祭尸」「受授之師」「(用兵中の)将帥」「三老」「五更」は、王者が「蹔(しばらく)は「臣」とせざる者」であり、「諸侯」は、衆臣とは異なって、「純(もっぱら)には「臣」とせざる者」であるという。
右のごとき「不臣者」とは別に、「王者の臣の不名者」つまり「臣」とは称するが、「名」を唱さない者がおり、それは「先王の老臣」「貴賢者」「盛徳之士」「諸父」「諸兄」とする。
班固の叙述は、規範を「古礼」に則して主張したものであって、実情をそのまま述べたものではない。ところが、「不臣」「不名」の事例も多く認められる。

「不臣の礼」と「賓客の礼」_136
漢魏革命では、『魏志』文帝紀に、劉協は「上書して臣と称せざらしむ」とあり、『白虎通』に見える「二王の後」を「不臣」とする「古礼」が現実化したところのものであると理解できる。
『後漢書』巻9 献帝紀に、「位は諸侯王の上に在あらしむ。事を奏して臣と称せず」と見え、優遇の一環であったことがわかる。
『晋書』武帝紀にも踏襲され、越智重明が指摘するように、詔は『通典』巻74 礼34 三恪二王の条に詳しく記録されており、「賓礼の如し」とある。「不称臣」は「賓礼」の一環であった。以下はぶく。

この本は、鶴舞図書館に入っているので、借りやすい。140302

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6章 古代帝国の秩序構造と皇帝支配_280

西嶋定生は、「天子」と「皇帝」という二つの称号があり、別に対応した二つの即位儀礼があり、その儀式はやがて、「天子」即位(凶礼)→「皇帝」即位(嘉礼)という形に定式化したことを明らかにした。皇帝の権威の拠所としては、受命者である王朝の創業者の祖霊が関わることを述べた。
本書(尾形)において紹介してきた、皇帝は、天神(上帝)および祖霊に対しては「君臣」の関係を結ぶといった諸事実についても、「家」と国家という課題に沿う範囲内において、論旨を発展させられる。

「天子」「皇帝」の区分と国家秩序_281

『大唐開元礼』に見える制度によれば、皇天上帝をはじめとする天地の鬼神にたいしては「天子臣某」、宗廟の祖霊に対しては「皇帝臣某」という自称形式を採用した。ところが、三国~唐の具体的事例によれば、皇帝はまた「皇帝」と自称しつつ天地の祭祀に臨んでいる。
何故に交替期の即位儀礼のばあいにおいてのみ、「皇帝」の称号が用いられたのか。比較的材料の豊富な漢魏交替の折の事情を中心として考察する。

曹丕受禅のばあい1_282
禅譲が具体化したのは、延康元年(220) 10月初頭のことであり、同月中に曹丕が受禅即位する。曹丕が即位したのは、十月の幾日であったのか。欧陽脩等が指摘しているように、

欧陽脩『集古録跋尾』巻4 魏受禅碑(『欧陽文忠公集』巻137)、『隷釈』巻19「魏受禅表」跋尾、『資治通鑑考異』巻3。

日付は、乙卯(13日)、庚午(28日)、辛未(29日)がある。
乙卯は、『後漢書』献帝紀に、位を遜るとある。『献帝伝』によると、4回のうち最初の禅詔がでた。曹丕の即位した日ではなく、考察の対象から外せる。
庚午は、「誤記」とされてきた。その理由は、「十一月」と誤って記す陳寿の本文にあること。石文「魏公卿上尊号奏」の内容と一致している『献帝伝』に、「今月の二十九日(辛未)、登壇して受命すべし」とあること。『献帝伝』に辛未の祭天記事が記載されており、「魏受禅表」の冒頭に「十月辛未、皇帝、漢氏より受禅す」と明記されていること。以上の3点に集約できる。

『献帝伝』の「禅代衆事」によれば、庚午(28日)、最終的な献帝の冊詔が発せられる。ここにおいて尚書令の桓階等が、「天に応へて受禅士、上帝を柴燎すべし。今月二十九日、登壇して受禅すべし」と上奏する。魏王は「可なり」とする。

石文「魏受禅表」では、より詳しく、「於是皇帝乃回思遷慮、旁観庶徴。上在瓊璣、筮之周易、卜以守亀。亀筮襲吉、五反靡違。乃覧公卿之議、順皇天之命、練吉日□□□□」と見える。
ぼくは思う。筮と亀で占ったことは、告天文に「過去形の事後報告」として出てくる。曹丕の占いは、「可なり」とする直前とすべきだろう。もしくは、この「魏受禅表」が、告天文から遡って(解凍して)作られた可能性もあるけど。

翌日の辛未に、『献帝伝』で「登壇受禅」「燎祭天地」が挙行されたことは否定できない。この儀式の目的は、「禅代衆事」に「登壇して受命すべし」とあった如く、「受命」であった。

『太平御覧』巻652 刑法部18 赦にひく『王隠晋書』に、「武帝 咸熙二年十二月丙寅、上乃設壇、受命于郊」とある。ぼくは補う。これは司馬炎。司馬炎は曹丕に準拠したのなら、曹丕も同じだったのだろう、という推論をはさんだ傍証である。同意です。

『献帝伝』には、辛未に奉読された祭文がある。

尾形氏の書き下しを載せる。

皇帝臣丕、敢へて玄牡を用ひて皇皇たる后帝に昭告す。漢は世を歴ること二十有四、年を践むこと四百二十有六、四海困窮し三綱立てられず。……漢主、神器を以て宜しく臣に授くべく、有虞を憲章し、位を丕に致さんとす。丕、天命を震畏し、休むと雖も休めず。羣公庶尹六事の人、外は将士に及び、蛮夷の君長に洎(およ)ぶまで僉(みな)曰く、……と。丕、皇象を祗承するも、敢へて欽承せず。之を守亀に卜し、兆は大横に有り。之を筮して三たび易するに、兆は革兆に有り。謹みて元日を択び、羣寮と壇に登りて帝璽綬を受く。爾(なんぢ)大神に告類す。唯(これ)爾有神、永吉を兆民の望に尚饗し、有魏の世享を祚(よみ)せんことを。

皇帝臣丕、敢用玄牡昭告于皇皇后帝、漢歴世二十有四、践年四百二十有六、四海困窮、王〔三〕綱不立、(五緯錯行、霊祥並見、推術数者慮之古道。咸以為天之歴数、運終茲世、凡諸嘉祥民神之意、比昭有漢数終之極、魏家受命之符。)漢主以神器宜授於臣、憲章有虞、致位于丕。丕震畏天命、雖休勿休。羣公庶尹六事之人、外及将士、洎于蛮夷君長、僉曰、(天命不可以辞拒、神器不可以久曠、羣臣不可以無主、万機不可以無統。)丕祗承皇象、敢不欽承。卜之守亀、兆有大横、筮之三易、兆有革兆、謹択元日、与羣寮登壇受帝璽綬、告類于爾大神。唯爾有禅〔神〕、尚饗永吉、兆民之望、祚于有魏世享。
尾形氏が省略したところは、カッコに入れました。

注目されるのは、「皇帝臣丕」という自称形式と、祭文の役目が、祭天儀式に至るまでの具体的経過を上帝に告類(報告)することである。
天帝と対峙する形で催されるこの燎祭とは些か性格を異にする、群僚とともに登壇して「帝璽綬」を拝受するという儀式が認められる。

蜀漢の場合も、即位儀礼における祭文中に、「謹んで元日を択び、百寮と登壇し、皇帝の璽綬を受く」とある。先主伝 章武元年。

この儀式は、『後漢書』献帝紀 延康元年十月条 李賢注『献帝春秋』に、「帝)太常の張音に詔して節を持たしめ、璽綬を奉策せしめて位を魏王に禅る。すなはち壇を繁陽の故城に為り、魏王、登壇して皇帝璽綬を受く」とある。
では、皇帝璽綬の受け渡しという儀式は、辛未の当日に祭天儀礼の一環として行われたことなのであろうか。それとも祭文の奉読より以前のことなのであろうか。祭文中、曹丕が卜筮したのが、燎祭の当日であるはずがなく、前日(庚午)と考えられるところから、卜筮に直属する「帝璽綬」の儀式も、「庚午」と解釈されるのである。
皇帝璽綬の受け渡しも完了し得ていない段階で上帝に対峙して、どうして「皇帝」を自称できたのであろうか。曹丕はすでに「皇帝璽綬」を正式に、儀式を以て受領しており、すでに「皇帝位」に即いた上で祭天儀礼に臨んでいたのであり、「皇帝」として祭文を奉読し得たのである。事後報告である。

曹丕受禅のばあい2_285
陳寿本文には、「庚午、王、升壇即阼し、百官陪位す。事訖り、壇を降り、燎を視て礼を成して反(かへ)る」とある。 「辛未」に行われたはずの柴燎祭天の儀式を「視燎成礼」とのみ記す一方、「庚午」に「即阼」したと明記する。
袁宏『後漢紀』は、「庚午、魏王、皇帝位に即く」と記す。『後漢紀』の禅詔は陳寿と同じであるが、「朕、在位三十有二歳・・・」の部分は陳寿より多いため、陳寿の引き写しではない。『後漢紀』は、陳寿以外の根拠に基づいているものと考えられる。
『続漢書』郡国志二 頴川条 梁の劉昭注には、陳寿や袁宏とも異なった、また「辛未」関係の諸史料にも記されない記事が認められる。「庚午、壇に登り、魏の相国の華歆、跪きて璽綬を受け、以て王に進む。王すでに受け畢(をは)りて、壇を降りて燎を視、礼を成して反る」とある。「庚午」の華歆の記事は、沈約『宋書』巻16 礼志三にも見える。
「辛未」の祭天儀礼とは別に、その前日の「庚午」の日に、献帝から張音、張音から華歆、華歆から曹丕へと伝達される、という儀式が存在していたとしなければなるまい。さらにここで、陳寿「即阼す」、袁宏「庚午、魏王、皇帝位に即く」とあるため、庚午の日の儀式こそ「皇帝」即位の儀式であったと見なされるのである。_286

庚午、曹丕は受禅を決意し、同日に璽綬の拝領をする儀式を挙行して「皇帝」となる。ついで翌日(辛未)、皇帝として上帝に対峙して、燔燎告天をした。
「禅代衆事」によると、辛未は「受命」を目的とした。
『芸文類集』巻10 符命部 所引文「魏の傅カの皇初(黄初)頌」の一節に、「上皇に拝して受位を告げ」とある。儀式は、皇帝の位を受けたことを上帝に「告」することを目的とした。承認を求め、その上で改めて「天命」を拝受せんことを乞うものであった。
この「天命」によって保証される地位は、より直接的には「皇帝」ではなくて「天子」であるとすれば、辛未の燎祭は「天子」即位に関わる儀式であった。石文「魏受禅表」には、辛未の段落に「皇帝すなはち天子之籍を受け」とある。受命の礼、天子即位を目的とした儀式と見なされる。

ぼくは思う。のちに壇場で、璽綬の受け渡しと祭天がまとめて行われたので、曹丕のときにも遡って、受け渡しの記述にくっつけて、登壇を記した。しかし曹丕の場合は、登壇してないかも。この方向で仮説を広げたい。松浦氏がいうように、2回も登壇するのはおかしい。


王朝交替時の即位儀礼_287
晋以降の禅譲は、両日にわたる記事は見当たらず、すべて一日で完了した。だが「皇帝」即位、「天子」即位の両種の儀礼が、その順序で行われたらしい痕跡は認められる。
『宋書』巻3 武帝紀下、「壇を南郊に設け、皇帝位に即く。柴燎して天に告げ、策して曰く、皇帝臣裕・・・」とある。『南斉書』『梁書』『陳書』『北斉書』は、いずれも「即皇帝位」→「柴燎告天」の順序で述べられる。
北周から隋への交替のとき、『隋書』巻1に、「皇帝位に臨光殿にて即く。壇を南郊に設け、使を遣はして柴燎し天に告ぐ」とある。皇帝即位が宮中に変更される。即皇帝位と柴燎告天(即天子位)が区別され得ている。『旧唐書』も同じ。

王朝交替時の即位式は、皇帝→天子という過程を踏む。天子→皇帝という過程を踏む同一王朝内継承のばあいとは、見事なる対蹠を示す。
祭文を奉読する段階にあっては、皇帝は未だ「天子」たり得ておらず、「皇帝」たるのみであった。皇帝と「天(地)」との間の関係については、つぎのように結論することができよう。皇帝は天地鬼神に対しては、「天子」として「臣」従していた。

帝位継承における「家」の問題

異性間継承と「天子」位_300 「禅代衆事」は3つの段階に整理し得る。
第一段階は、李伏らの勧進で、曹丕は「不徳」「薄徳」から辞退する。代人段階は、献帝が禅譲の以降を表明する。大三段階、庚午に曹丕が桓階の勧進を承諾し、即日に献帝は張音に「皇帝璽綬」と禅位の「冊」をやり、同日に皇帝即位する。翌日、天子即位する。
最終段階の「冊」は、天命のこと、尭舜の故事がもっぱら語られ、帝位についての直接の言及はない。「禅代衆事」の第一次冊詔に、「皇帝璽綬を奉ぜしむ。王、それ永に万国の君たれ」とあり、第二次も璽綬と「帝位」をいう。第三次、第四次も同じ。第五次にも、献帝が曹丕を「皇帝」に「冊(任命)」したものでありと理解し得る。

献帝、魏王、郡臣の主張は、『隷釈』巻十九等に所録「魏公卿将軍上尊号奏」に、「漢帝奉天命以固禅、郡臣因天命以固請、而陛下違天命以故事」と集約されるように、「天命」の帰属をめぐっての三者三様の論議。天命は神秘的範疇に属するが、具体的な事物や現象を通して察知し得るものであると、認識されていた。祥瑞、災異、天文、図讖、符命、緯書である。

禅詔→冊(策)→璽書→勧進→天文符瑞 として定着する。

易姓革命というときの「姓」とは。『後漢紀』に「行運は曹氏に在り」、武帝紀 建安元年注引 張璠『漢紀』に「天下を安んずる者は曹姓なり」、『献帝伝』に「曹」の字謎があるように、天命を受けた至徳の「私家」の「姓」である。
「魏」という王朝名ないしは国号も一つの「姓」であった。漢魏交替は、劉氏から曹氏への易姓であると同時に、漢氏から魏氏への易姓でもあった。
「漢」「魏」のごとき「姓」が、「皇帝」ではなくて「天子」に係るものであった。「禅代衆事」10月乙卯の桓階に、「漢氏、天子の位を以て」とある。皇帝は劉氏から曹氏へ「冊」を媒介として禅位され、つぎに天子は「天命」の移行を前提として、漢氏から魏氏へと譲位される。

漢の天子、劉氏の皇帝、という構図は、尾形氏のこの本に書いてある。このページでは引用してませんが。

至徳者が天命によって「天子」となり、新たな王朝(「某家」)を創設する。天命とは、直接くだった王朝創立者個人のものであるに留まらず、その者が構築した「某家」の保有物として、一定期間・一定世代 継承され売る。
天命に期間があることは、「禅代衆事」に暦数(寿命)があることが語られる。『漢書』巻11 哀帝紀に、「漢家の暦数は中衰す」とある。暦数が「漢家」の保有にかかる。
「天命」およびそれに直結する「天子」位は、歴代の「某家」に帰属する。この構造は、同姓内における天子位の継承を可能とし、正当化している。決闘的継承を正当化する。

とりあえず、関係しそうなページをコピっとこう。140302

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