-後漢 > 『史記』周本紀のうち『春秋』と重なる時期の周王

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周本紀:平桓荘釐恵襄頃匡定簡霊景悼敬

周平王〔-003〕が洛邑に東遷

平王立,東遷于雒邑,辟戎寇。平王之時,周室衰微,諸侯彊并弱,齊、楚、秦、晉始大,政由方伯。 四十九年,魯隱公即位。 五十一年,平王崩,太子洩父蚤死,立其子林,是為桓王。桓王,平王孫也。

周平王がたつ。洛邑に東遷する。戎寇をさける。平王のとき、周室は衰微した。諸侯は、強者が弱者をあわせる。斉、楚、秦、晋が、東周の初期におおきい。政治は、方伯がやる。
周平王49年〔001〕魯隠公が即位した。

ぼくは思う。いま『春秋』の時代が開幕した。魯隠公の元年を〔001〕と標記する。『春秋』の記事で、何年目にあたるのかを注釈しながら、『史記』周本紀を読むという試みです。

周平王51年〔003〕周平王が崩じた。太子の洩父は、はやくに死ぬ。洩父の子である姫林を周桓王とする。周桓王は、周平王の孫である。

周桓王〔003-026〕が鄭荘王に射られる

桓王三年,鄭莊公朝,桓王不禮。五年,鄭怨,與魯易許田。許田,天子之用事太山田也。

周桓王3年〔005〕、鄭荘公が入朝したが、周桓王は礼さず。

『史記』鄭世家に、鄭荘公27年、周桓王に入朝するとある。

周桓王5〔007〕鄭が周をうらみ、鄭は魯と許田を交換した。

『史記』魯世家はいう。魯桓公1年、鄭は天子の許田を易えると。
『史記』鄭世家はいう。鄭荘公29年、魯と許田を易えると。

許田とは、天子が泰山をまつる費用にあてる田である。

吉田賢抗『新釈漢文大系』はいう。鄭荘公は、天子の許田を(交換によって魯からもらって)周王に報復したのである。ぼくは補う。以後、吉田氏の補足などを『新釈』とします。


八年,魯殺隱公,立桓公。十三年,伐鄭,鄭射傷桓王,桓王去歸。 二十三年,桓王崩,子莊王佗立。

周桓王8年〔010〕魯国で、魯隠公が殺された。魯桓公がたつ。
周桓王13年〔015〕周桓王が鄭国をうつ。鄭国は、周桓王を射て傷つけた。周桓王は去り帰った。

ぼくは思う。『春秋』の初期は、周王と鄭公の対立が、わりに大きな事件なのか。注目して読まねば。

周桓王23年〔025〕周桓王が崩じた。子の周荘王の姫佗がたつ。

周荘王〔026-042〕を周王黒肩が殺したい

莊王四年,周公黑肩欲殺莊王而立王子克。辛伯告王,王殺周公。王子克奔燕。 十五年,莊王崩,子釐王胡齊立。

周荘王4年〔029〕周公黒肩という者が、周荘王を殺して、周荘王の弟・王子の姫克をたてようとした。大夫の辛伯が、周荘王に計画をおしえた。周荘王は、周公黒肩を殺した。王子の姫克は、燕国に奔った。
周荘王15年〔040〕、周荘王が崩じた。子の釐王・胡斉がたつ。

周釐王〔042-047〕斉桓公が覇者となる

釐王三年,齊桓公始霸。五年,釐王崩,子惠王閬立。

周釐王3年〔044〕、斉桓公が覇者となる。周釐王5年〔046〕周釐王が崩じた。子の恵王・姫閬がたつ。

周恵王〔047-071〕が国外追放からもどる

惠王二年。初,莊王嬖姬姚,生子穨,穨有寵。及惠王即位,奪其大臣以為囿,故大夫邊伯等五人作亂,謀召燕、衛師,伐惠王。惠王犇溫,已居鄭之櫟。立釐王弟穨為王。樂及徧舞,鄭、虢君怒。四年,鄭與虢君伐殺王穨,復入惠王。

周恵王2年〔048〕のこと。
はじめ周荘王は、姚氏を寵愛して、姫穨をうんだ。姫穨は寵愛された。周恵王が即位すると、大臣から園をうばって(禽獣を放し飼いにする)囿にした。大夫の邊伯ら5人が、周荘王にむけて、作乱した。燕国と衛国の師をめして、周恵王を伐つ。

ぼくは思う。周荘王は、燕国と衛国と戦ったのか!

周恵王は、温城に出奔した。つぎに周恵王は、鄭国の櫟城にうつる。周国では、釐王の弟・姫穨を周王とした。新たな周王の姫穨が、天子の音楽と舞踊をやる。
鄭国と虢国の君主は、姫穨に怒った。周恵王4年〔050〕、鄭国と虢国の君主は、周王の姫穨を討伐した。周恵王がもどった。

惠王十年,賜齊桓公為伯。二十五年,惠王崩,子襄王鄭立。

周恵王10年〔056〕、斉桓公に「伯」をたまう。
周恵王25年〔071〕、周恵王は崩じた。子の襄王・姫鄭がたつ。

周襄王〔071-104〕管仲を礼遇し、荘文公と衝突

襄王母蚤死,後母曰惠后。惠后生叔帶,有寵於惠王,襄王畏之。三年,叔帶與戎、翟謀伐襄王,襄王欲誅叔帶,叔帶奔齊。齊桓公使管仲平戎于周,使隰朋平戎于晉。王以上卿禮管仲。管仲辭曰:「臣賤有司也,有天子之二守國、高在。若節春秋來承王命,何以禮焉。陪臣敢辭。」王曰:「舅氏,余嘉乃勳,毋逆朕命。」管仲卒受下卿之禮而還。九年,齊桓公卒。十二年,叔帶復歸于周。

周襄王の母は、はやくに死ぬ。継母は、恵后という。恵后は、叔帯をうむ。叔帯は、周恵王に寵愛された。周襄王は、叔帯を畏れた。
周襄王3年〔073〕叔帯は、戎と翟とともに、周襄王を伐とうと謀る。周襄王は、叔帯を誅したい。叔帯は斉国にはしる。
斉桓公は管仲に、周国にいる戎を平らげさせた。斉桓公は隰朋に、晋国にいる戎を平らげさせた。周襄王は、管仲を上卿として礼したい。管仲は辞退していう。「私は賤しい。天子のもとには、国氏と高氏という2者の上卿がいる。もし春と秋の節目に、国氏と高氏が王命をうけたら(私より貴い国氏と高氏は、上卿よりも更に礼遇する必要があるが)国氏と高氏を、どのように礼遇したものか(上卿よりも礼遇のしようがない)」と。管仲は辞退して、下卿の礼をうけて、斉国にかえった。
周襄王9年〔079〕斉桓公が卒した。
周襄王12年〔082〕叔帯が周国にもどる。

十三年,鄭伐滑,王使游孫、伯服請滑,鄭人囚之。鄭文公怨惠王之入不與厲公爵,又怨襄王之與衛滑,故囚伯服。

周襄王13年〔083〕鄭国は、滑国を伐つ。

『新釈』はいう。滑は、姫姓の国。この戦いは『左氏伝』僖公20年にある。
『新釈』はいう。滑国は、鄭国にそむき、衛国に属した。鄭国はこれを怒った。

周襄王は、游孫と伯服を鄭国につかわし、「滑国を衛国にもどせ」という。鄭国では、2人の使者をとらえる。鄭文公は、周襄王を2つの点で怨む(から使者をとらえた)。1つ、周恵王を周国にもどしたとき〔050〕、虢国には爵(酒の器)を与えたが、鄭国には与えなかった。

『新釈』はいう。周恵王は鄭伯に、后の帯の飾りであった鏡を与えただけ。爵(酒の器)を与えなかった。
ぼくは思う。「爵位」のもとの用法である。

2つ、周襄王は滑国を、鄭国でなく衛国に与えてしまった。だから鄭文公は、周国の使者をとらえたのだ。

ぼくは思う。鄭文公〔050-095〕は、周国にさからう。キャラがたつ。まずは『史記』鄭世家を読みたい。


王怒,將以翟伐鄭。富辰諫曰:「凡我周之東徙,晉、鄭焉依。子穨之亂,又鄭之由定,今以小怨棄之!」王不聽。十五年,王降翟師以伐鄭。王德翟人,將以其女為后。富辰諫曰:「平、桓、莊、惠皆受鄭勞,王棄親親翟,不可從。」王不聽。十六年,王絀翟后,翟人來誅,殺譚伯。富辰曰:「吾數諫不從。如是不出,王以我為懟乎?」乃以其屬死之。

周襄王は鄭国に怒る。翟をひきいて、鄭国を伐ちたい。富辰が周襄王をいさめた。「周平王が東遷するとき、晋国と鄭国に依存した。姫穨の乱のとき〔050〕鄭国が鎮定してくれた。小さな怨みにより、鄭国との関係を破棄するな」と。周襄王はゆるさず。
周襄王十五年〔085〕周王は、翟の師をくだして、鄭国を伐つ。周襄王は、協力してくれた翟国を徳として、翟国の娘を后にしたい。富辰がいさめる。「周平王、周桓王、周莊王、周恵王は、みな鄭国の協力をもらった。周襄王は、翟国と親しみ、鄭国を棄てるな」と。周襄王はゆるさず。
周襄王16年〔086〕周襄王は(翟后をめとったが)翟后を退けた。

『新釈』はいう。翟后は、周襄王の異母弟である、叔帯と密通した。

翟人は、周国に来襲した。周臣の譚伯を殺した。富辰はいう。「なんども私は、翟国と付き合うなと諫言してきた。もし私が、翟国にむけ出兵しなければ、周襄王は私が(周襄王を)怨んでいると見なすだろう」と。 富辰は属兵をつれて、翟国を攻めて死んだ。

【懟】うらむ。


初,惠后欲立王子帶,故以黨開翟人,翟人遂入周。襄王出奔鄭,鄭居王于汜。子帶立為王,取襄王所絀翟后與居溫。十七年,襄王告急于晉,晉文公納王而誅叔帶。襄王乃賜晉文公珪鬯弓矢,為伯,以河內地與晉。二十年,晉文公召襄王,襄王會之河陽、踐土,諸侯畢朝,書諱曰「天王狩于河陽」。

はじめ周恵王の后は、王子の叔帯をたてたい。ゆえに叔帯は、翟人とむすんで、翟人を周国にひきいれた。周襄王は鄭国に出奔した。鄭国は、周襄王を汜城に住まわす。叔帯は周王となる。周襄王がしりぞけた翟后を、温城に住ませる。

ぼくは思う。周王の勢いを妨げるのは、周王の身内。べつに諸侯が周王を攪乱するのではない。近くにある鄭公は、密接に関わるが、巻き込まれている感じを否めない。鄭国が、周室をどうにかしてやろう、という野心は読み取りにくい。東遷した周室は、それ自体が安定しないのだろう。

周襄王17年〔087〕周襄王は、晋国に急を告げる。晋文公は、周襄王の依頼をいれて、叔帯を誅した。周襄王は晋文公に、珪玉、香酒、弓矢をあげて、伯(覇者)と認めた。河内の地を晋国にあたえた。
周襄王20年〔090〕晋文公を周襄王をめした。周襄王は、河陽の践土にゆき、晋文公と会見した。諸侯も、晋文公に入朝した。『春秋』では、晋文公が周襄王を使役したのを嫌って、「天王が河陽で狩る」と記す。

『春秋』僖公28年である。『左氏伝』によると、臣下である晋文公が、主君である周襄王をよびつけたのは、後世の模範とならない。だから、周襄王の主体的な行動としたのだ。
ぼくは思う。長谷川先生の論文にも出てきた。有名な事件は〔090〕におきた。ただし、周襄王の権力の不安定さからすると、晋文公に呼ばれたとしても、驚くに足らない。驚くべきは、実態を無視した周室の崇拝である。理念化の産物であり、いわゆる「歴史」ではない。
ぼくは思う。『史記』世家を見ていると、何がおもしろいのか分からない。人物が描かれない。キャラが立たない。歴史は人間がつむぐもの、という前提に立って読むと、ガッカリする。ときどき、たっぷり分量を割かれる人はいるが(管仲とか重耳とか)例外である。平気で、数十年をすっ飛ばす。司馬遷が、どういうモチベーションに基づいて、世家を編んでいたのか、ぎゃくに興味がある。よくモチベーションが維持されたなあと。”人間が実際に何をしたか”とは、異なる興味を持たねば、読むことはできないだろう。


二十四年,晉文公卒。三十一年,秦穆公卒。 三十二年,襄王崩,子頃王壬臣立。

周襄王24年〔094〕晋文公が卒した。周襄王31年〔101〕秦穆公が卒した。

ぼくは補う。2人とも覇者とされる人物。周襄王は、明確に周室がおとろえたので、覇者の役割がつよまった。斉桓公、晋文公、秦穆公の3人の覇者が、周襄王のときの人。ほかに、宋襄公も同時代の人である。

周襄王32年〔102〕周襄王が崩じた。子の頃王・壬臣がたつ。

周頃王〔104-110〕、周匡王〔110-116〕

頃王六年,崩,子匡王班立。匡王六年,崩,弟瑜立,是為定王。

周頃王6年〔104〕周頃王が崩じた。子の周匡王の姫班がたつ。周匡王6年〔116〕周匡王が崩じて、弟の姫瑜がたつ。周定王である。

周定王〔116-137〕楚荘王に鼎の軽重を問われる

定王元年,楚莊王伐陸渾之戎,次洛,使人問九鼎。王使王孫滿應設以辭,楚兵乃去。十年,楚莊王圍鄭,鄭伯降,已而復之。十六年,楚莊王卒。

周定王元年〔116〕楚荘王が、陸渾の戎を伐つ。洛邑に軍をおき、人に九鼎を問わせる。周定王は、王孫満に応対させた。

『新釈』はいう。陸渾は河南省。もとは伊川というが、戎が移住してきたので、陸渾といった。『左氏伝』僖公22年秋に記事がある。
【次】軍隊が2日以上、宿衛すること。じす。やどる。
『新釈』はいう。九鼎とは、夏室と殷室からつたえた、周室の重宝。その大小や軽重を問うことで、重宝の所有者を覆そうとする野心!を表明する。楚世家、『左氏伝』宣公3年などを見よ。楚世家に、このときの問答がある。

楚荘王は兵をひいた。

ぼくは思う。鼎の軽重を問う関羽。周定王元年(前116)楚荘王は陸渾の戎をやぶり、東周の洛邑に迫り、鼎の軽重を問うた。陸渾とは関羽に呼応した群盗がいた場所。つまり曹操のいう「関羽がきたから遷都しようか」は、周定王の故事をもじったシャレかも。陸渾がやぶられたら、首都がやばい(と相場は決まっている)のよと。遷都の是非をマジメに論じた連中は、機知を解さないヤボ。曹操のシャレを真に受け、関羽(荊州軍=楚軍)の強大さを読みとるなら、ぼくら後世の三国ファンも、機知を解さないヤボである。周定王の臣・王孫満のように「関羽を説得して、帰ってもらいましょう」が正解か。もしくは、100トンある重い鼎を見せつけ、「これを持ち上げたら、中原を差し上げましょう」といい、関羽に腰を痛めて帰ってもらうべきかw

周定王10年〔125〕楚荘王は、鄭国をかこむ。鄭伯は降伏した。

ぼくは思う。周室をおびやかし続けた、主役の鄭国が、ここで脱落する。このあたりで、楚荘王は覇者となる。

のちに、鄭伯は城を回復した。
周定王16年〔131〕楚荘王が卒した。

二十一年,定王崩,子簡王夷立。

周定王21年〔136〕周定王が崩じた。子の簡王・姫夷がたつ。

周簡王〔137-151〕晋厲公が殺される

簡王十三年,晉殺其君厲公,迎子周於周,立為悼公。 十四年,簡王崩,子靈王泄心立。

周簡王13年〔149〕晋厲公が臣下に殺された。子周を周国からむかえ、晋国の君主とした。これが晋悼公である。 周簡王14年〔150〕周簡王が崩じた。子の霊王・泄心がたつ。

周霊王〔151-178〕崔杼が斉荘公を弑する

靈王二十四年,齊崔杼弒其君莊公。 二十七年,靈王崩,子景王貴立。

周霊王24年〔174〕、斉の崔杼が、斉荘公を弑殺した。

『春秋』襄公25年夏5月、斉の崔杼が、主君の光を弑殺したとある。

周霊王27年〔178〕周霊王が崩じた。子の周景王の姫貴がたつ。

周景王〔179-203〕3子が王位を争う

景王十八年,后太子聖而蚤卒。二十年,景王愛子朝,欲立之,會崩,子丐之黨與爭立,國人立長子猛為王,子朝攻殺猛。猛為悼王。晉人攻子朝而立丐,是為敬王。

周景王18年〔196〕周景王の后と、周景王の太子(聖而=寿)が早死した。

『新釈』はいう。聖而ではなく「寿」が正しいか。

周景王20年〔198〕周景王は、子の姫朝を愛するので、周王にしたい。周景王が崩じるとき、子の姫丐の与党が、周王の地位を姫朝とあらそう。周人は、長子の姫猛を周王にしたい。姫朝は姫猛を殺した。姫猛とは周悼王である。晋人は、姫朝を攻めて、姫丐を周王にたてた。これが周敬王である。

ぼくは思う。鄭国が衰えてから、周王の争いに介入するのは、晋公である。この時期は、『史記』晋公世家をしっかり読まねば。


周敬王〔204-〕晋国を頼り、姫朝と周国を競う

敬王元年,晉人入敬王,子朝自立,敬王不得入,居澤。四年,晉率諸侯入敬王于周,子朝為臣,諸侯城周。十六年,子朝之徒復作亂,敬王奔于晉。十七年,晉定公遂入敬王于周。

周敬王元年〔204〕晋人が周恵王を、周国に入れた。姫朝は自立した。周景王は、周国に入れないので、沢城(周の邑)にいる。

ぼくは思う。カウントとしては、周敬王の時代だが、まだ周敬王は実効支配をしていない。むしろ兄弟の姫朝に、実権をうばわれている。晋国に助けてもらっているところだ。いまは晋頃公〔197-211〕の時代である。

周敬王4年〔207〕晋国は諸侯をひきい、周敬王を周国にいれる。姫朝を臣下とした。
(周敬王10年〔213〕)諸侯は周国に城をきずく。

『新釈』はいう。本文にないが、城きずくのは周敬王10年だ。

周敬王16年〔219〕姫朝は、ふたたび作乱した。周敬王は、晋国ににげる。

ぼくは補う。このとき晋公は、晋定公〔211-〕である。

周敬王17年〔220〕晋定公は、ついに周敬王を周国に入れる。

ぼくは思う。周敬王は、けっきょく晋国に助けられながら、ぎりぎり周王の地位だっただけ。実効支配はできず、姫朝とぶつかっている。史料の脚色をのぞくと、じつは姫朝の時代だったのでは。


三十九年,齊田常殺其君簡公。 四十一年,楚滅陳。孔子卒。

周敬王39年〔242〕斉の田常が、君主の斉簡公を殺した。
周敬王41年〔244〕楚国が陳国を滅ぼした。孔子が卒した。

おわりに

というわけで、『春秋』時代の特徴が、わかるような、わからんような、『史記』周本紀でした。あんまり周家が神聖ではない。鄭国や晋国の権勢を頼りながら、ピザの食べ残し(周王の地位)を奪いあっているだけに見える。130518

ぼくは思う。『春秋』に収録された時期の周王は、平桓荘釐恵襄頃匡定簡霊景悼敬の14代である。魯公の12代に近い。平均すると、1代20年。常識的である。後漢の皇帝が短すぎるのだ。
キャラだち周王のは、周襄王、周敬王ぐらいか。2人とも、後継争いがゴタゴタして、周辺の諸侯を巻き込んだから、記事が増えた。それだけのキャラだちであるw

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鄭世家:作成中

世家は、平凡社の『中国古典文学大系』を見ながらやります。

鄭荘公〔-022〕周桓王のひじをキズつける

◆弟の姫段、母の武姜とぶつかる

莊公元年,封弟段於京,號太叔。祭仲曰:「京大於國,非所以封庶也。」莊公曰:「武姜欲之,我弗敢奪也。」段至京,繕治甲兵,與其母武姜謀襲鄭。二十二年,段果襲鄭,武姜為內應。莊公發兵伐段,段走。伐京,京人畔段,段出走鄢。鄢潰,段出奔共。於是莊公遷其母武姜於城潁,誓言曰:「不至黃泉,毋相見也。」居歲餘,已悔思母。潁谷之考叔有獻於公,公賜食。考叔曰:「臣有母,請君食賜臣母。」莊公曰:「我甚思母,惡負盟,柰何?」考叔曰:「穿地至黃泉,則相見矣。」於是遂從之,見母。

鄭荘公元年、鄭荘公は、弟の姫段を京(鄭の邑)に封じて、太叔と号させた。祭仲はいう。「京邑は、鄭国より大きい。庶子(太子でない者)を封じるな」と。鄭荘公はいう。「母の武姜の要望だから、弟の姫段を京に封じる」と。弟の姫段は、京邑で武装して、母の武姜とともに、鄭国を奪おうとする。
鄭荘公22年〔001〕姫段は、はたして鄭国をおそった。

ぼくは思う。『春秋』の1年目である。いいタイミング!

武姜は、鄭国で内応した。鄭荘公は、姫段を伐った。姫段はにげた。鄭荘公が京邑をせめる。京邑は、姫段にそむく。姫段は鄢邑ににげた。鄢邑がつぶされ、姫段は共邑(鄭国そばの小国)ににげた。
鄭荘公は、母の武姜を(姫段に内応した罪で)城頴にうつす。「黄泉にゆかねば(生きている限り)もう会いません」と母に誓った。鄭荘公は母と会いたくなった。「地を掘って、黄泉を経由すれば(生きていても)母に会っても良いでしょう」という助言をきき、鄭荘公は母に会った。

ぼくは思う。ただのマザコンである。なぜ母は、鄭荘公でなく、同母弟である姫段のほうを愛したか。なんか屈節がありそうだが、これだけでは分からない。鄭国に「謀反」するほどの偏愛なのか。そして、限られた世家の字数を、こんな話で消費しないでほしいw


◆宋の後継争いに介入、周桓王と衝突

二十四年,宋繆公卒,公子馮奔鄭。鄭侵周地,取禾。二十五年,衛州吁弒其君桓公自立,與宋伐鄭,以馮故也。二十七年,始朝周桓王。桓王怒其取禾,弗禮也。二十九年,莊公怒周弗禮,與魯易祊、許田。

鄭荘公24年〔003〕宋繆公が卒した。宋の公子・馮が、鄭国に奔った。

ぼくは補う。宋は、殷家の末裔である。二王の後を重んじるためにも、宋世家をやらねば。

鄭国は、周国の領地をおかして、禾(いね)をうばった。
鄭荘公25年〔004〕衛の州吁が、主君である衛桓公を弑して、自立した。衛の州吁は、宋国とともに、鄭国を伐つ。宋の公子である馮が、鄭国にいるからである。
鄭荘公27年〔006〕はじめて鄭荘公が、周桓王に入朝した。桓王は、鄭荘公がいねを取ったことを怒って、鄭荘公を礼遇しない。

『史記』周本紀はいう。桓王三年,鄭莊公朝,桓王不禮と。このあたり、周王と鄭公は不仲である。周王にからむ、迷惑な荘公は、マザコンの鄭荘公なのね。物語として、つなげてゆきたい。

鄭荘公29年〔008〕鄭荘公は、周桓王の無礼にいかって、魯の許田を鄭国がもらい、鄭の祊田を魯国にあげた。

『史記』魯世家を参照。また『春秋』でも、さんざん論じられる。


◆周桓王のひじをキズつける

三十三年,宋殺孔父。三十七年,莊公不朝周,周桓王率陳、蔡、虢、衛伐鄭。莊公與祭仲、高渠彌發兵自救,王師大敗。祝聸射中王臂。祝聸請從之,鄭伯止之,曰:「犯長且難之,況敢陵天子乎?」乃止。夜令祭仲問王疾。

鄭荘公33年〔012〕、宋国は孔父を殺した。
鄭荘公37年〔016〕、鄭荘公は周国に入朝しない。周桓王は、陳国、蔡国、虢国、衛国をひきい、鄭国を伐つ。鄭荘公は、祭仲と高渠彌に防衛させ、周桓王のひじを射た。

ぼくは補う。祭仲と高渠彌は、あとで重要な役目がある。祭仲は、鄭荘公の子の代で、荘公に代わって国政をとり、鄭昭公を立てる。高渠彌は、鄭昭公を殺す。

追撃をもとめる臣下に「長者を犯してはならない。まして天子を陵すな」と禁じた。周桓王のキズを慰問させた。

◆斉釐公が、太子の忽に娘を与えたい

三十八年,北戎伐齊,齊使求救,鄭遣太子忽將兵救齊。齊釐公欲妻之,忽謝曰:「我小國,非齊敵也。」時祭仲與俱,勸使取之,曰:「君多內寵,太子無大援將不立,三公子皆君也。」所謂三公子者,太子忽,其弟突,次弟子亹也。

鄭荘公38年〔017〕北戎が斉国をうつ。斉国が救援をもとめた。鄭国は、太子の忽をゆかせる。斉釐公〔-025〕は、鄭の太子の忽にめあわせたい。太子の忽は謝した。「鄭国は小さい。斉国は大きい。釣り合わない」と。祭仲は太子の忽にいう。「鄭荘公は、寵愛する者がおおい。太子の忽は、斉国の援助がなければ、3公子の後継争いに勝てない」と。2公子とは、太子の忽、弟の突、次弟の子亹である。

ぼくは思う。この祭仲というのが、わりに重要なキャラっぽい。


鄭厲公〔022-026〕

◆鄭昭公(太子の忽)から公位をうばう

四十三年,鄭莊公卒。初,祭仲甚有寵於莊公,莊公使為卿;公使娶鄧女,生太子忽,故祭仲立之,是為昭公。

鄭荘公43年〔022〕、鄭荘公が卒した。
はじめ、祭仲は鄭荘公に寵愛され、卿にしてもらった。鄭荘公は、祭仲を使者にして、鄧国の娘をもらう。鄧国の娘は、太子の忽をうむ。ゆえに祭仲は、太子の忽を、鄭公にした。これが鄭昭公である。

ぼくは補う。鄭昭公が立ったと思いきや、これは正式な即位のカウントは始まらない。弟に公位をうばわれ、取り戻してから、昭公の時代のカウントが始まる。まだ鄭世家は、鄭荘公の後継あらそいを書いている途中である。


莊公又娶宋雍氏女,生厲公突。雍氏有寵於宋。宋莊公聞祭仲之立忽,乃使人誘召祭仲而執之,曰:「不立突,將死。」亦執突以求賂焉。祭仲許宋,與宋盟。以突歸,立之。昭公忽聞祭仲以宋要立其弟突,九月(辛)[丁]亥,忽出奔衛。己亥,突至鄭,立,是為厲公。

鄭莊公は、ほかにも宋の正卿である雍氏の娘をめとる。雍氏の娘は、厲公の突をうむ。雍氏は、宋国で権勢がある。宋荘公〔013-031〕は、祭仲をとらえた。「宋国と血縁にある突を、鄭公にしろ。さもなくば祭仲を殺す」と祭仲にいう。祭仲は、宋国と盟約をむすぶ。
祭仲は(祭仲が鄧国からその母親を連れてきた)太子の忽でなく、(宋国の血縁である)突を荘公に立てた。昭公(太子の忽)は、祭仲によって(昭公の弟の)突が荘公に立てられたと聞き、9月辛亥、衛国に出奔した。

ぼくは思う。鄭公を決めるのは、祭仲のようです。宋国も、それを知っているから、祭仲に対して交渉をしかけてくる。宋国が、わりに存在感を見せつける。世家を見るとき、覚えておこう。

9月己亥、突が鄭国にいたり、鄭厲公となった。

◆祭仲が厲公を廃して、昭公を立てる

厲公四年,祭仲專國政。厲公患之,陰使其婿雍糾欲殺祭仲。糾妻,祭仲女也,知之,謂其母曰:「父與夫孰親?」母曰:「父一而已,人盡夫也。」女乃告祭仲,祭仲反殺雍糾,戮之於市。厲公無柰祭仲何,怒糾曰:「謀及婦人,死固宜哉!」夏,厲公出居邊邑櫟。祭仲迎昭公忽,六月乙亥,復入鄭,即位。

鄭厲公4年〔025〕祭仲が国政をもっぱらにした。鄭厲公は、祭仲を殺せと、雍糾に命じた。雍糾は、祭仲の娘婿である。祭仲の娘は、夫の雍糾が、父の祭仲を殺す計画を知った。
祭仲の娘は「父は1人だが、夫は誰でも良い。父のほうが親しい」と判断して、父の祭仲に味方した。祭仲は(先手をとって)娘婿の雍糾を殺した。
鄭厲公は、「雍糾め、妻(祭仲の娘)にもらすなよ」といった。

ぼくは思う。孫呉でも似たような話があった。「夫婦の会話」というのは、いろいろモレると、相場が決まっている。でも夫婦は、仲が良いほうが、良いよねw


夏,厲公出居邊邑櫟。祭仲迎昭公忽,六月乙亥,復入鄭,即位。
秋,鄭厲公突因櫟人殺其大夫單伯,遂居之。諸侯聞厲公出奔,伐鄭,弗克而去。宋頗予厲公兵,自守於櫟,鄭以故亦不伐櫟。

鄭厲公4年〔025〕夏、鄭厲公は、鄭国の都をでて、辺境の櫟邑にいる。祭仲は、昭公の忽を迎えなおした。6月乙亥、昭公が鄭国に入り、即位した。

ぼくは思う。鄭厲公が、櫟邑にでた理由が分からない。祭仲が追い出したのか、宋国と結びつくための作戦だったのか。記述が断片的すぎるなあ。

秋、鄭厲公は、現地の大夫を殺して、櫟邑をのっとる。諸侯は、鄭厲公が出奔したと聞いて、(祭仲と鄭昭公が仕切る)鄭国を伐つ。鄭国に勝てない。宋国は、鄭厲公に兵をあたえ、櫟邑を自守させた。(祭仲と鄭昭公の仕切る)鄭国は、(宋国から兵備をもらった)櫟邑を伐てない。

鄭昭公〔026-028〕、子亹〔028-029〕

昭公二年,自昭公為太子時,父莊公欲以高渠彌為卿,太子忽惡之,莊公弗聽,卒用渠彌為卿。及昭公即位,懼其殺己,冬十月辛卯,渠彌與昭公出獵,射殺昭公於野。祭仲與渠彌不敢入厲公,乃更立昭公弟子亹為君,是為子亹也,無謚號。

鄭昭公2年〔027〕冬10月辛卯、鄭荘公が卿に登用した高渠彌が、鄭昭公を殺した。

ぼくは補う。高渠彌は、鄭荘公が周桓王に攻められたとき、祭仲とともに鄭国を守った者である。有力な臣下なので、鄭昭公とぶつかった。

子亹元年七月,齊襄公會諸侯於首止,鄭子亹往會,高渠彌相,從,祭仲稱疾不行。所以然者,子亹自齊襄公為公子之時,嘗會鬬,相仇,及會諸侯,祭仲請子亹無行。子亹曰:「齊彊,而厲公居櫟,即不往,是率諸侯伐我,內厲公。我不如往,往何遽必辱,且又何至是!」卒行。於是祭仲恐齊并殺之,故稱疾。子亹至,不謝齊侯,齊侯怒,遂伏甲而殺子亹。高渠彌亡歸,歸與祭仲謀,召子亹弟公子嬰於陳而立之,是為鄭子。是歲,齊襄公使彭生醉拉殺魯桓公。 13 鄭子八年,齊人管至父等作亂,弒其君襄公。十二年,宋人長萬弒其君湣公。鄭祭仲死。 14 十四年,故鄭亡厲公突在櫟者使人誘劫鄭大夫甫假,要以求入。假曰:「捨我,我為君殺鄭子而入君。」厲公與盟,乃捨之。六月甲子,假殺鄭子及其二子而迎厲公突,突自櫟復入即位。初,內蛇與外蛇鬬於鄭南門中,內蛇死。居六年,厲公果復入。入而讓其伯父原曰:「我亡國外居,伯父無意入我,亦甚矣。」原曰:「事君無二心,人臣之職也。原知罪矣。」遂自殺。厲公於是謂甫假曰:「子之事君有二心矣。」遂誅之。假曰:「重德不報,誠然哉!」 15 打開字典 鄭世家: 厲公突後元年,齊桓公始霸。 16 五年,燕、衛與周惠王弟穨伐王,王出奔溫,立弟穨為王。六年,惠王告急鄭,厲公發兵擊周王子穨,弗勝,於是與周惠王歸,王居于櫟。七年春,鄭厲公與虢叔襲殺王子穨而入惠王于周。 17 打開字典 鄭世家: 秋,厲公卒,子文公踕立。厲公初立四歲,亡居櫟,居櫟十七歲,復入,立七歲,與亡凡二十八年。 18 二十四年,文公之賤妾曰燕姞,夢天與之蘭,曰:「余為伯鯈。余,爾祖也。以是為而子,蘭有國香。」以夢告文公,文公幸之,而予之草蘭為符。遂生子,名曰蘭。 19 三十六年,晉公子重耳過,文公弗禮。文公弟叔詹曰:「重耳賢,且又同姓,窮而過君,不可無禮。」文公曰:「諸侯亡公子過者多矣,安能盡禮之!」詹曰:「君如弗禮,遂殺之;弗殺,使即反國,為鄭憂矣。」文公弗聽。 20 三十七年春,晉公子重耳反國,立,是為文公。秋,鄭入滑,滑聽命,已而反與衛,於是鄭伐滑。周襄王使伯服請滑。鄭文公怨惠王之亡在櫟,而文公父厲公入之,而惠王不賜厲公爵祿,又怨襄王之與衛滑,故不聽襄王請而囚伯服。王怒,與翟人伐鄭,弗克。冬,翟攻伐襄王,襄王出奔鄭,鄭文公居王于氾。三十八年,晉文公入襄王成周。 21 四十一年,助楚擊晉。自晉文公之過無禮,故背晉助楚。四十三年,晉文公與秦穆公共圍鄭,討其助楚攻晉者,及文公過時之無禮也。初,鄭文公有三夫人,寵子五人,皆以罪蚤死。公怒,溉逐群公子。子蘭奔晉,從晉文公圍鄭。時蘭事晉文公甚謹,愛幸之,乃私於晉,以求入鄭為太子。晉於是欲得叔詹為僇。鄭文公恐,不敢謂叔詹言。詹聞,言於鄭君曰:「臣謂君,君不聽臣,晉卒為患。然晉所以圍鄭,以詹,詹死而赦鄭國,詹之願也。」乃自殺。鄭人以詹尸與晉。晉文公曰:「必欲一見鄭君,辱之而去。」鄭人患之,乃使人私於秦曰:「破鄭益晉,非秦之利也。」秦兵罷。晉文公欲入蘭為太子,以告鄭。鄭大夫石癸曰:「吾聞姞姓乃后稷之元妃,其後當有興者。子蘭母,其後也。且夫人子盡已死,餘庶子無如蘭賢。今圍急,晉以為請,利孰大焉!」遂許晉,與盟,而卒立子蘭為太子,晉兵乃罷去。 22 打開字典 鄭世家: 四十五年,文公卒,子蘭立,是為繆公。 23 繆公元年春,秦繆公使三將將兵欲襲鄭,至滑,逢鄭賈人弦高詐以十二牛勞軍,故秦兵不至而還,晉敗之於崤。初,往年鄭文公之卒也,鄭司城繒賀以鄭情賣之,秦兵故來。三年,鄭發兵從晉伐秦,敗秦兵於汪。 24 往年楚太子商臣弒其父成王代立。二十一年,與宋華元伐鄭。華元殺羊食士,不與其御羊斟,怒以馳鄭,鄭囚華元。宋贖華元,元亦亡去。晉使趙穿以兵伐鄭。

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