両晋- > 『資治通鑑』晋紀を抄訳 301年-302年 恵帝の後期

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301年春、司馬倫が孫秀に操られ、皇位を奪う

正月、司馬倫が簒位して官爵を濫発する

【晉紀六】 起重光作噩,盡玄黓閹茂,凡二年。
孝惠皇帝中之上永寧元年(辛酉,公元三零一年)
春,正月,以散騎常侍安定張軌為涼州刺史。軌以時方多難,陰在保據河西之志,故求為涼州。時州境盜賊縱橫,鮮卑為寇。軌至,以宋配、汜瑗為謀主,悉討破之,威著西土。

春正月、散騎常侍する安定の張軌を涼州刺史とする。張軌は、時方・多難なので、ひそかに河西を保據する志がある。ゆえに涼州を求めた。ときに州境の盜賊は縱橫する。鮮卑が寇をなす。張軌は至り、宋配と汜瑗を謀主とする。悉く鮮卑を討破して、西土に威著する。

胡三省はいう。竇融と張軌の比較など。どこかで読んだ。思い出せない。辺境で割拠することについて。2650頁。


相國倫與孫秀使牙門趙奉詐傳宣帝神語云:「倫宜早入西宮。」散騎常侍義陽王威,望之孫也,素諂事倫,倫以威兼侍中,使威逼奪帝璽綬,作禪詔,又使尚書令滿奮持節、奉璽綬禪位於倫。左衛將軍王輿、前軍將軍司馬雅等帥甲士入殿,曉諭三部司馬,示以威賞,無敢違者。張林等屯守諸門。乙丑,倫備法駕入宮,即帝位,赦天下,改元建始。帝自華林西門出居金墉城,倫使張衡將兵守之。

相國の司馬倫と孫秀は、牙門の趙奉に、詐って宣帝(司馬懿)の神語を伝えさせた。「倫は早く西宮に入るべし」と。

ときに司馬倫は東宮を相国府とする。東宮から見て禁中を「西宮」といった。

散騎常侍する義陽王の司馬威は、司馬望の孫である。司馬威は司馬倫に諂事して、侍中を兼ねる。司馬威は恵帝に逼って、璽綬を奪い、禅詔をつくる。尚書令の満奮が持節して、璽綬を奉じて司馬倫に禅位した。左衛將軍の王輿、前軍將軍の司馬雅らは、甲士を帥いて入殿する。三部司馬を曉諭して、威賞を示す。敢えて違う者なし。張林らはZ諸門を屯守する。
乙丑、司馬倫は法駕を備えて入宮する。帝位に即き、天下を赦し「建始」と改元した。

『考異』はいう。『三十国春秋』はいう。司馬倫は簒位するとき、司馬威は嵇紹に詔を示した。「聖上(司馬倫)は堯舜の挙に法る。あなたは同意するか」と。嵇紹は声を励まし「死あるのみ。終に二あらず」という。司馬威は怒って剣を抜いて出た。恵帝を金墉城に移しても、嵇紹だけは(簒位に)従わず、金墉に行く。司馬倫とは通じない。時の人は、嵇紹のことを(司馬倫の怒りを買わないかと)懼れた。
『晋書』忠義伝では、司馬倫が簒位すると、嵇紹は侍中となり、恵帝が復祚しても、侍中でありつづけたと。『通鑑』では2つとも採用しない。
ぼくは思う。だからって嵇紹の話をカットするのもなあ。

恵帝は、華林西門より出て金墉城に居る。司馬倫は張衡に金墉城を守らせる。

丙寅,尊帝為太上皇,改金墉曰永昌宮,廢皇太孫為濮陽王。立世子荂為皇太子,封子馥為京兆王,虔為廣平王,詡為霸城王,皆侍中將兵。以梁王肜為宰衡,何劭為太宰,孫秀為侍中、中書監、驃騎將軍、儀同三司,義陽王威為中書令,張林為衛將軍,其餘黨與,皆為卿、將,超階越次,不可勝紀;下至奴卒,亦加爵位。每朝會,貂蟬盈坐,時人為之諺曰:「貂不足,狗尾續。」是歲,天下所舉賢良、秀才、孝廉皆不試,郡國計吏及太學生年十六以上者皆署吏;守令赦日在職者皆封侯;郡綱紀並為孝廉,縣綱紀並為廉吏。府庫之儲,不足以供賜與。應侯者多,鑄印不給,或以白板封之。

丙寅、恵帝を太上皇として、金墉を永昌宮と改める。皇太孫を廃して濮陽王とする。世子の司馬荂を皇太子とする。司馬倫の子たちを郡王として、みな侍中として兵をひきいる。
梁王の司馬肜を宰衡とする。何劭を太宰とする。孫秀を、侍中・中書監・驃騎將軍・儀同三司とする。義陽王の司馬威を中書令とする。張林を衛將軍とする。奴卒まで、司馬倫の党与は爵位をくわえる。
朝会のたび、貂蟬が座に満ちる。ときの人は「貂が足らず、狗尾が続く」という。

冠について2651頁。高官の冠の材料が不足するほど、司馬倫が党与を高官につけまくった、という比喩である。こういうインフレは、やましい即位をした者が必ずやる。

この歳、天下から挙げられた賢良・秀才・孝廉は、みな試験がない。郡国の計吏・太學生で、年16以上の者は、みな署吏となる。

旧制では、賢良・秀才・孝廉は、みな策試の後で官職に補された。
ぼくは思う。これも官職のバラまきなのね。

守令・赦日して在職する者は、みな侯爵とする。郡綱紀は孝廉ともして、縣綱紀は廉吏ともする。

郡綱紀とは功曹の属である。県綱紀とは、主簿・録事の属である。廉吏とは、選挙の1科である。史書は、司馬倫と孫秀が、恩を濫し、衆心を収めたという。

府庫之儲は、賜與を供するに足らず。侯爵に応じる者は、鑄印が給らず、白板で封ぜらる場合もあった。

このバラマキは典型例として、論文に引用できるだろう。


初,平南將軍孫旂之子弼、弟子髦、輔、琰皆附會孫秀,與之合族,旬月間致位通顯。及倫稱帝,四子皆為將軍,封郡侯,以旂為車騎將軍、開府,旂以弼等受倫官爵過差,必為家禍,遣幼子回責之,弼等不從。旂不能制,慟哭而已。

はじめ平南將軍の孫旂の子は、孫弼である。弟子は孫髦、孫輔、孫琰である。みな孫秀に付会して、孫氏の一族は、旬月の間に致位・通顯する。司馬倫が皇帝を称すると、孫氏の4子は、みな将軍・郡侯となる。孫旂は車騎將軍・開府となる。孫旂は、孫弼らが司馬倫から官爵を受けすぎると、必ず家禍となると考えた。幼子の孫回はこれを責め、孫弼らは従わず(司馬倫の官爵を受けまくった)。孫旂は制せられず、慟哭するだけ。

ぼくは思う。このような暴走が『贈与論』の分析をそそる。また司馬倫だって、彼が天に対してどれだけの贈与をしているのか。司馬倫が『贈与論』的にどのようにアンバランスなのかを分析すると、楽しそう。
『晋書』によると孫旂の4子は、みな吏才で世に称された。非人=司馬倫にくっつき、族滅した。これは択木の難(主君選びのミス)である。父の孫旂が、さきに孫秀に近かったから、諸子も司馬倫にくっついた。諸子だけが判断をミスったのでない(原因をつくったのは孫旂だ)。孫旂が(危うさに気づいて)慟哭しても、どうにもならん。


孫秀が3王を官職で懐柔したい

癸酉,殺濮陽哀王臧。
孫秀專執朝政,倫所出詔令,秀輒改更與奪,自書青紙為詔,或朝行夕改,百官轉易如流。張林素與秀不相能,且怨不得開府,潛與太子荂箋,言:「秀專權不合眾心,而功臣皆小人,撓亂朝廷,可悉誅之。」荂以書白倫,倫以示秀。秀勸倫收林,殺之,夷其三族。秀以齊王冏、成都王穎、河間王顒,各擁強兵,據方面,惡之。乃盡用其親黨為三王參佐,加冏鎮東大將軍,穎征北大將軍,皆開府儀同三司,以寵安之。

癸酉、濮陽哀王の司馬臧を殺した。
孫秀は朝政を專執する。司馬倫が詔令を出すと、それを孫秀が改更・與奪する。孫秀が青紙に詔を書く。朝に行われ、夕に改まる。百官の轉易は流れるよう。
張林は孫秀と相性がわるく、開府できないことを怨む。潛かに太子の司馬荂に箋を与えていう。張林「孫秀は專權して、衆心は合わない。だが功臣はみな小人であり、朝廷を撓亂する。全て誅すべき」と。
司馬荂は、張林の文書を司馬倫に見せる。司馬倫は孫秀に見せる。孫秀は司馬倫に「張林を捕らえて殺し、夷三族にしろ」と勧める。

ぼくは思う。張林は、秘密で司馬荂に言ったつもりが、ダダ漏れした。司馬倫の政権が、じつは孫秀が仕切っていることがよく分かる。政治の処置で「司馬倫と孫秀が」というとき、司馬倫は何もしていない。ただし孫秀が単独でやったというと、形式や諒解において誤解があるから、名前を貸させられてる。

孫秀は、齊王冏、成都王穎、河間王顒が、みな強兵を擁して、方面に拠るので、3王を悪んだ。孫秀の親党を、3王の參佐とした。。司馬冏を鎮東大將軍、司馬穎を征北大將軍として、2王を開府・儀同三司とした。寵(官職のばらまき)を以て安じた。

ぼくは思う。西嶋定生の二十等爵の話を、極端に拡大したのは、孫秀のやりかたである。孫秀その人が、官爵にたいする返報のレートがすごく高いから、この政策を実態以上に有効だと思っているのでは。


李特が趙廞を破って、成都で自立する

李庠驍勇得眾心,趙廞浸忌之而未言。長史蜀郡杜淑、張粲說廞曰:「將軍起兵始爾,而遽遣李庠握強兵於外,非我族類,其心必異。此倒戈授人也,宜早圖之。」會庠勸廞稱尊號,淑,粲因白廞以庠大逆不道,引斬之,並其子姪十餘人。時李特、李流皆將兵在外,廞遣人慰撫之曰:「庠非所宜言,罪應死。兄弟罪不相及。」復以特、流為督將。特、流怨廞,引兵歸綿竹。

李庠は驍勇で、衆心を得る。趙廞は李庠を浸忌するが、まだ言わない。長史する蜀郡の杜淑と張粲は、趙廞にいう。「將軍は起兵したばかり。だが李庠に強兵を握らせ外におく(北道を断たせた)。わが族類でないから(李庠は漢族でない)、その心は必ず異なる。戈を倒して人に授けるようなもの。早く李庠を殺せ」と。
このとき李庠は趙廞に「尊号を称えろ」と勧める。杜淑と張粲は、「趙廞に大逆・不道をさせるな」といい、李庠と子姪10餘人を斬った。

『華陽国志』に従う。『国志』で李庠は去年冬に死ぬ。『晋春秋』ではこの年の春に死ぬ。

ときに李特と李流は、どちらも將兵して在外である。趙廞は人をやって李氏を慰撫した。「李庠は言うべきないことを言い、死罪にあたった。兄弟(李特と李流)に罪は及ばない」と。また李特と李流を督將とした。2人の李氏は趙廞を怨み、引兵して綿竹に帰る。

ぼくは思う。弟を殺されて「はい、そうですか」とは言えまい。趙廞は、氐族だかの李氏を、ただの道具として使っているが。李氏はやがて自立するのだ。西晋の反乱勢力のなかでも「異民族を使い損ねる」が起きている。


廞牙門將涪陵許弇求為巴東監軍,杜淑、張粲固執不許,弇怒,手殺淑、粲於廞閤閣下,淑、粲左右復殺弇。三人,皆廞之腹心也,廞由是遂衰。
廞遣長史犍為費遠、蜀郡太守李苾、督護常俊督萬餘人斷北道,屯綿竹之石亭。李特密收兵得七千餘人,夜襲遠等軍,燒之,死者什八九,遂進攻成都。費遠、李苾及軍祭酒張微,夜斬關走,文武盡散。廞獨與妻子乘小船走,至廣都,為從者所殺。特入成都,縱兵大掠,遣使詣洛陽,陳廞罪狀。

趙廞の牙門將する涪陵の許弇は、巴東監軍を求める。杜淑と張粲は固執して許さず。許弇は怒って、手ずから杜淑と張粲を趙廞の閤閣の下で殺す。2人の左右は、許弇を殺した。殺しあった3人は、趙廞の腹心だった。趙廞はこれにより衰えた。

なんというアホな展開だろう。まあ李氏の成蜀ができるまでの前座なのだから、仕方がない。

趙廞は、長史する犍為の費遠、蜀郡太守の李苾、督護の常俊に、1万余人を督させて北道を断たせる。綿竹の石亭に屯する。李特はひそかに兵を7千あつめ、費遠らを夜襲して焼く。8-9割が死ぬ。ついに李特は成都に進む。
費遠と李苾、軍祭酒の張微は、夜に関をやぶってにげる。文武は全て散った。趙廞は、妻子とだけ小船に乗って逃げた。廣都に至り、趙廞は從者に殺された。李特は成都に入り、縱兵・大掠する。洛陽に使者をだし、趙廞の罪狀を陳べた。

初,梁州刺史羅尚,聞趙廞反,表「廞素非雄才,蜀人不附,敗亡可計日而待。」詔拜尚平西將軍、益州刺史,督牙門王敦、蜀郡太守徐儉,廣漢太守辛冉等七千餘人入蜀。特等聞尚來,甚懼,使其弟驤於道奉迎,並獻珍玩。尚悅,以驤為騎督。特、流復以牛酒勞尚於綿竹,王敦、辛冉說尚曰:「特等專為盜賊,宜因會斬之;不然,必為後患。」尚不從。冉與特有舊,謂特曰:「故人相逢,不吉當凶矣。」特深自猜懼。

はじめ梁州刺史の羅尚は、趙廞が反したと聞き、表した。「趙廞に雄才がない。蜀人は付かない。すぐ敗れる」と。詔して、羅尚に平西將軍・益州刺史を拝させる。督牙門の王敦、蜀郡太守の徐儉,廣漢太守の辛冉らは、7千余人で入蜀する。

この王敦は、東晋の「あの」王敦とは別人だと。

李特らは羅尚が来ると聞き、甚だ懼れ、弟の李驤に道で奉迎させ、珍玩を並獻する。羅尚は悅び、李驤を騎督とする。李特と李流は、復た牛酒で羅尚を綿竹でねぎらう。王敦と辛冉は羅尚にいう。「李特らは專ら盜賊をなす。会して斬れ。さもなくば後患となる」と。羅尚は従わず。

羅尚はポンコツである。李特らも、羅尚と正面から対決せず、歓迎して同席してしまった。このあたりの度胸が、常人にはできないこと。

辛冉は李特と旧知である。李特にいう。「故人は相逢する。吉でなけば、凶たるべし」と。李特は深く自ら猜懼する。

ぼくは思う。辛冉が対立をあおっただけで、李特はまだ叛逆の意思がないのかも。ただ趙廞を除いて、西晋の官僚がふつうに治めてくれれば、従うのかも。


3月、司馬冏が起兵、成都・河間・常山がつく

三月,尚至成都。汶山羌反,尚遣王敦討之,為羌所殺。
齊王冏謀討趙王倫,未發,會離狐王盛、穎川處穆聚眾於濁澤,百姓從之,日以萬數。倫以其將管襲為齊王軍司,討盛、穆,斬之。冏因收襲,殺之,與豫州刺史何勖、龍驤將軍董艾等起兵,遣使告成都王穎、河間王顒、常山王乂及南中郎將新野公歆,移檄征、鎮、州、郡、肥、國,稱:「逆臣孫秀,迷誤趙王,當共誅討。有不從命者,誅及三族。」

3月、羅尚は成都に至る。汶山羌が反する。羅尚は王敦に討たせるが、王敦は羌族に殺された。

『帝紀』では8月にある。これは洛陽が結果を知った時期では。『華陽国志』に従って、3月とする。

齊王の司馬冏は、趙王倫を討たんと謀るが、まだ発さず。ちょうど離狐(済陰)の王盛、穎川の処穆は、濁沢に衆を聚める。百姓は従う。日に1万を数える。司馬倫は、部將の管襲を、齊王の軍司として、王盛と処穆を斬らせる。司馬冏は(司馬倫が送り込んだ)管襲を殺す。

『考異』はいう。司馬冏伝では、司馬冏はひそかに王盛と処穆とともに起兵して、司馬倫を誅そうとする。発する前に、ことがモレた。司馬冏は、管襲とともに、処穆を殺して、司馬倫に処穆の首をおくり、司馬倫の意を安じた。いま『三十国春秋』に従う。
ぼくは思う。王盛と処穆が、司馬冏にとってどのような関係にあるのか、差異があるのね。司馬冏が「言い訳」を報告したはずだから、余計に分からなくなるのだ。ついでに管襲の位置もズレてくる。

司馬冏は、豫州刺史の何勖、龍驤將軍の董艾らと起兵して、成都王の司馬穎、河間王の司馬顒、常山王の司馬乂、南中郎將する新野公の司馬歆に告げ、征、鎮、州、郡、県、國に移檄する。

四中郎将は、後漢におかれた。晋武帝より、四中郎将は、あるいは刺史を領し、あるいは持節した。
司馬歆は、扶風王の司馬駿の子である。
「征」「鎮」とは、四征と四鎮である。方面に居る。

司馬冏「逆臣の孫秀は、趙王の司馬倫を迷誤させた。まさに共に誅討すべし。命に従わねば、誅は三族に及ぶ」と。

使者至鄴,成都王穎召鄴令盧志謀之。志曰:「趙王篡逆,人神共憤,殿下收英俊以從人望,杖大順以討之,百姓必不召自至,攘臂爭進,蔑不克矣!」穎從之,以志為諮議參軍,仍補左長史。志,毓之孫也。穎以兗州刺史王彥、冀州刺史李毅、督護趙驤、石超等為前鋒,遠近響應;至朝歌,眾二十餘萬。超,苞之孫也。
常山王乂在其國,與太原內史劉暾各帥眾為穎後繼。

使者は鄴県に至る。成都王の司馬穎は、鄴令の盧志を召して謀る。盧志「趙王は篡逆し、人神は共に憤る。殿下は英俊を收めて、人望を従える。大順に杖して、趙王を討て。百姓は必ずや召さずとも自ら至る。」と。司馬穎は従う。盧志を諮議參軍として、左長史に補す。盧志とは、盧毓の孫である。

諮義参軍とは、晋代の公府がみな置いた。けだし軍事について、諮詢と謀議をとったのだろう。その地位は、ほかの参軍より上である。
盧毓は、魏明帝の景初元年にある。

司馬穎は、兗州刺史の王彦、冀州刺史の李毅、督護の趙驤、石超らを前鋒とする。遠近は響應した。朝歌(河内)に至り、軍衆は20余万。石超は、石苞の孫である。
常山王の司馬乂は国にいて、太原內史の劉暾とともに、帥衆を司馬穎の後継とする。

新野公歆得冏檄,未知所從。嬖人王綏曰:「趙親而強,齊疏而弱,公宜從趙。」參軍孫洵大言於眾曰:「趙王凶逆,天下當共誅之,何親疏強弱之有!」歆乃從冏。

新野公の司馬歆は、司馬冏の檄を得て(司馬倫と司馬冏の)どちらに従うか判断できない。嬖人の王綏はいう。「趙王は親で強、斉王は疏で弱。司馬歆は趙王の司馬倫に従え」と。參軍の孫洵は、衆前に大言した。「趙王は凶逆で、天下は共に誅すべし。なぜ親疏や強弱があろうか」と。司馬歆は司馬冏に従った。

胡三省はいう。司馬歆の父は、扶風王の司馬駿。司馬倫は司馬懿の子。司馬歆は司馬倫のおいであり「親」である。司馬冏は、司馬歆のおいであり「疏」である。
ぼくは思う。司馬倫は、司馬師や司馬昭の世代なのね。
ぼくは思う。彼らの史料の書かれたを見ると、趙王の司馬倫を否定することは、天下が一致した。やっぱり皇帝に即いたのが、いかんのだ。司馬冏が弱小だろうが、司馬冏が血縁が遠かろうが、支持をされる。


新野は司馬冏につき、揚州刺史の郗隆はつかず

前安西參軍夏侯奭在始平,合眾數千人以應冏,遣使邀河間王顒。顒用長史隴西李含謀,遣振武將軍河間張方討擒奭及其黨,腰斬之。冏檄至,顒執冏使送於倫,遣張方將兵助倫。方至華陰,顒聞二王兵盛,復召方還,更附二王。

さきの安西參軍の夏侯奭は、始平にいる。数千の衆を合わせ、司馬冏に応じる。使者をやり、河間王の司馬顒を邀する。司馬顒は、長史する隴西の李含の謀をもちい、振武將軍する河間の張方に、夏侯奭とその党与を討擒させ、腰斬した。

沈約はいう。振武将軍とは、前漢末に王莽が王況に命じた。
ぼくは思う。司馬顒は、めずらしく司馬倫に味方しそう。でも日和見して裏切る。さもなくば「三王の起義」と言えなくなるし。

司馬冏の檄が至ると、司馬顒は司馬冏の使者を執えて、司馬倫に送る。張方に兵をつけ司馬倫を助けしむ。張方は華陰に至る。司馬顒は2王の兵が盛んと聞き、復た張方を召して還す。更めて2王(司馬冏と司馬穎)に付す。

冏檄至揚州,州人皆欲應冏。刺史郗隆,慮之玄孫也,以兄子鑒及諸子悉在洛陽,疑未決,悉召僚吏謀之。主簿淮南趙誘、前秀才虞潭皆曰:「趙王篡逆,海內所疾;今義兵四起,其敗必矣。為明使君計,莫若自將精兵,逕赴許昌,上策也;遣將將兵會之,中策也;量遣小軍,隨形助勝,下策也。」隆退,密與別駕顧彥謀之,彥曰:「誘等下策,乃上計也。」

司馬冏の檄は揚州に至る。州人は皆な司馬冏に応じたい。揚州刺史の郗隆は、郗慮の玄孫である。兄子の郗鑑および諸子は、みな洛陽にいて、疑して決さず。すべて僚吏を召して謀る。
主簿する淮南の趙誘、前秀才の虞潭はいう。「趙王は篡逆して、海内に疾まる。いま義兵は四起する。司馬倫の敗は必至である。あなたにとって(司馬冏がいる)許昌に自ら精兵をひきいてゆくのが上策である。部将を許昌にゆかすのが中策である。小軍だけ遣わし、形勢によって勝った者につくのが下策である」と。

ぼくは思う。司馬冏につき、司馬倫を討つことの1択じゃん。どれほど深くコミットして協力するか、によって上中下を分けているだけだ。

郗隆は退き、ひそかに別駕の顧彦に謀る。顧彦「趙誘らの下策は、乃ち上計である」と。

また、混乱させるようなことを言うw


治中留寶、主簿張褒、西曹留承聞之,請見,曰:「不審明使君今當何施?」隆曰:「我俱受二帝恩,無所偏助,欲守州而己。」承曰:「天下,世祖之天下也。太上承代已久,今上取之,不平,齊王順時舉事,成敗可見。使君不早發兵應之,狐疑遷延,變難將生,此州豈可保也!」隆不應。潭,翻之孫也。隆停檄六日不下,將士憤怒。參軍王邃鎮石頭,將士爭往歸之,隆遣從事於牛渚禁之,不能止。將士遂奉邃攻隆,隆父子及顧彥皆死,傳首於冏。

治中の留宝、主簿の張褒、西曹の留承はこれを聞き、郗慮に請見する。留承「あなたは施策が審らかでないね」と。郗隆「私は2帝の恩を受けた。

胡三省はいう。2帝とは、司馬懿と司馬炎である。或者が恵帝と司馬倫だというが、それは誤りである。

偏助せず(片方に味方せず)揚州を守るだけにしたい」と。
留承「天下は世祖の天下である。太上は、代を承けて久しい。

世祖とは、文帝の司馬昭である。司馬昭は、諸葛誕を平らげ、蜀を滅ぼし、はじめて晋家の業を弘めた。恵帝の司馬衷が、帝位をついでから久しい。

今上(司馬倫)は帝位を取ったが、平らかならず。齊王は時に順い、事を挙げた。成敗は明らか。あなたが早く斉王に応じなければ、狐疑・遷延され、変難が生じる。揚州も保てなくなる」と。郗隆は応じず。

ぼくは思う。益州と揚州は、やはり中央の政局から、距離があるのだ。荊州だけは、司馬歆がわりと洛陽のそばに鎮するから、巻きこまれるけど。呉蜀が分立した「土地の記憶」は、上書されつづける。

虞潭は、虞翻の孫である。
郗隆は、司馬冏の檄を停めて、6日くださず。將士は(檄を握りつぶされ)憤怒した。參軍の王邃は、石頭に鎮する。將士は爭って往歸する。郗隆は、從事を牛渚におき(石頭に馳せ参じるのを)禁じたが、止められず。將士はついに王邃を奉じて、郗隆を攻めた。郗隆の父子と顧彦は死んだ。首は司馬冏に伝された。

平呉の後、揚州は鎮所を秣陵にうつす。いま牛渚において将士が石頭にいくのを禁じた。(位置関係からすると)このとき揚州の治所は、淮南にもどされたのだろうか。
ぼくは思う。揚州が淮南に戻っていたら、せっかく平呉をした意味がない。


安南將軍、監沔北諸軍事孟觀,以為紫宮帝坐無他變,倫必不敗,乃為之固守。

安南將軍、監沔北諸軍事の孟観は、紫宮の帝坐に、他変がないので、司馬倫は必ずしも敗れないと思い、司馬倫のために固守した。

『晋志』によれば、紫宮は、、胡三省はいう。孟観はいたずらに天象を見て、人事を察しなかった。だから死んだのだ。


司馬倫による迎撃の体制

倫、秀聞三王兵起,大懼,詐為冏表曰:「不知何賊猝見攻圍,臣懦弱不能自固,乞中軍見救,庶得歸死。」以其表宣示內外;遣上軍將軍孫輔、折衝將軍李嚴帥兵七千自廷壽關出,征虜將軍張泓、左軍將軍蔡璜、前軍將軍閭和帥兵九千自崿阪關出,鎮軍將軍司馬雅、揚威將軍莫原帥兵八千自成皋關出,以拒冏。

司馬倫と孫秀は、三王の兵起を聞き、大懼する。

斉王の司馬冏、成都王の司馬穎、河間王の司馬顒である。

詐って司馬冏のために表する。「なんの賊猝か知らぬが、攻め囲まれた。臣は懦弱で自固できない。中軍(禁軍)は救ってくれ。歸して死にたいものだ」と。

ぼくは思う。「3王が起兵したから迎撃するぞ」では、アカラサマである。

その上表は内外に宣示された。上軍將軍の孫輔、折衝將軍の李嚴に、兵7千を帥いさせ、廷壽関から出た。征虜將軍の張泓、左軍將軍の蔡璜、前軍將軍の閭和は、兵9千を帥い、崿阪関より出た。鎮軍將軍の司馬雅、揚威將軍の莫原は、兵8千を帥いて、成皋関より出た。以上で司馬冏を拒ぐ。

将軍号と地形について、2657頁。


遣孫秀子會督將軍士猗、許超帥宿衛兵三萬以拒穎。召東平王楙為衛將軍,都督諸軍,又遣京兆王馥、廣平王虔帥兵八千為三軍繼援。倫、秀日夜禱祈、厭勝以求福,使巫覡選戰日,又使人於嵩山著羽衣,詐稱仙人王喬,作書述倫祚長久,欲以惑眾。

孫秀は、子の孫会、督將軍の士猗と許超に、宿衛兵3万で司馬穎を拒がせる。東平王の司馬楙を衛將軍として、諸軍を都督させる。京兆王の司馬馥、廣平王の司馬虔に、兵8千を帥いさせ、3軍に継援させる。

3軍とは、孫会、士猗、許超である。

司馬倫と孫秀は、日夜に禱祈する。厭勝して求福する。巫覡に戦う日を選ばせた。人を嵩山に遣わし、羽衣を著にする。仙人の王喬に詐稱させ、作書して司馬倫の祚が長久だと述べさせる。衆を惑わせたい。

嵩山について2658頁。頴川の陽城県。劉向『列仙伝』にでてくる。この伝説にもとづいて、司馬倫たちは嵩山を頼り、衆を惑わそうとした。
ぼくは思う。神仙を動員して、祈祷によって勝とうとする司馬倫は「とても皇帝らしい」のだ。この技法によって、ぼくは司馬倫を正式な皇帝だと認定したいほどだ。


閏月,丙戌朔,日有食之。自正月至於是月,五星互經天,縱橫無常。

閏月の丙戌ついたち、日食あり。正月からこの月まで、五星は互いに天を経る。縱橫は常なし。

この解釈につき、2658頁、まあ予想の範囲内。

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301年夏-、三王起義、司馬冏の勝利、穎の帰藩

4月、孫会の軍で統制が乱れ、孫秀が殺される

張泓等進據陽翟,與齊王冏戰,屢破之。冏軍穎陰,夏,四月,泓乘勝逼之,冏遣兵逆戰。諸軍不動,而孫輔、徐建軍夜亂,逕歸洛自首曰:「齊王兵盛,不可當,泓等已沒矣!」趙王倫大恐,秘之,而召其子虔及許超還。會泓破冏露布至,倫乃復遣之。泓等悉帥諸軍濟穎攻冏營,冏出兵擊其別將孫髦、司馬譚等,破之,泓等乃退。孫秀詐稱已破冏營,擒得冏,令百官皆賀。

張泓らは、進んで陽翟に拠る。齊王の司馬冏らと戦い、しばしば破る。司馬冏は頴陰に軍する。

ぼくは思う。またまた「四戦」の頴川で戦うのだから。
と思ったら、陽翟は漢代は頴川に属するが、晋代は河南に属する。

4月、張泓は勝ちに乗じて逼る。司馬冏は兵をやり逆戰する。諸軍は動かず。だが、孫輔と徐建の軍が夜に乱れた。洛陽に逕歸して自首する。「斉王の兵は盛んだ。当たるべきでない。張泓らはすでに没した」と。

自分の軍を統制しそこねたから、全体の管理者である張泓のせいにした。

司馬倫は大恐して、これを秘した。子の司馬虔と許超を召して(司馬倫を守らせるため)洛陽に還した。たまたま張泓は司馬冏を破ったという露布が至った。司馬倫は、司馬虔と許超をもどす。張泓らは、すべての軍で穎水をわたり、司馬冏の軍営を攻めた。

頴水は頴川の陽城県の少室を出て、東南に流れ、陽翟県に北にゆく。だから頴水をわたったのだ。

司馬冏は出兵して(張泓の)別將の孫髦と司馬譚らを破った。張泓らは退いた。孫秀は「すでに司馬冏の営を破った。司馬冏を捕らえた」と詐稱して、皆賀に百官させた。

ぼくは思う。戦場で同じことをやってたら、手がつけられないが。情報にタイムラグがあり、かつ直接に戦うわけでない孫秀が、こうやって朝廷を景気づけるのは、誤りでないと思う。ウソから出たマコトだって、多いはずなのだ。戦いは水物だから。


成都王穎前鋒至黃橋,為孫會、士猗、許超所敗,殺傷萬餘人,士眾震駭。穎欲退保朝歌,盧志、王彥曰:「今我軍失利,敵新得志,有輕我之心。我若退縮,士氣沮衄,不可復用。且戰何能無勝負!不若更選精兵,星行倍道,出敵不意,此用兵之奇也。」穎從之。倫賞黃橋之功,士猗、許超與孫會皆持節,由是各不相從,軍政不一,且恃勝輕穎而不設備。穎帥諸軍擊之,大戰於湨水,會等大敗,棄軍南走。穎乘勝長驅濟河。

成都王の司馬穎の前鋒が、黃橋に至る。孫会、士猗、許超に破られた。1万余人が殺傷された。士衆は震駭した。司馬穎は退いて朝歌を保ちたい。
盧志と王彦はいう。「いま我軍は失利で、敵は新たに志を得た。我らを軽んじる心がある。もし我らが退縮すれば、士氣は沮衄して、復た用いられない。更めて精兵を選び、星行・倍道して、敵の不意に出ろ。これが用兵之奇である」と。司馬穎は従う。

黄橋とは、、2659頁。
「星行」とは、夜に(寝ないで)星を戴いて行くこと。

司馬倫は、黃橋之功(司馬穎の撃破)を賞し、士猗と許超と孫會に、3人ともに持節させた。これにより3者は相い従わず、軍政は1ならず。

ぼくは思う。おもしろいタイプの失敗だ。司馬倫は一貫して、官爵をバラまくことで支持を取り付ける、という政策を取ってきた。このもっとも重要な局面で、それが裏目に出るとは。

孫会らは、勝に恃み、司馬穎を軽んじて、設備しない。司馬穎は諸軍を帥い、湨水で孫会を大敗させた。孫会は棄軍・南走した。司馬穎は勝ちに乗じて、長駆して黄河をわたる。

湨水は、河内の[車只]県から出て東南にながれ、温県で黄河に合流する。『考異』はいう。司馬倫伝では「激水」とするが『帝紀』に従う。


自冏等起兵,百官將士皆欲誅倫、秀,秀懼,不敢出中書省;及聞河北軍敗,憂懣不知所為。孫會、許超、士猗等至,與秀謀。或欲收餘卒出戰;或欲焚宮室,誅不附己者,挾倫南就孫旂、孟觀;或欲乘船東走入海,計未決。辛酉,左衛將軍王輿與尚書陵公漼帥營兵七百餘人,自南掖門入宮,三部司馬為應於內,攻孫秀、許超、士猗於中書省,皆斬之,遂殺孫奇、孫弼及前將軍謝惔等,漼,人由之子也。

司馬冏らが起兵してから、百官・將士は、みな司馬倫と孫秀を誅したい。孫秀は懼れ、敢えて中書省に出ず。河北の軍が敗れたと聞き、憂懣として、どうしてよいか分からない。孫会、許超、士猗らが至り(洛陽に退いてきて)孫秀とともに謀った。
或者は「余卒を收めて出戰しよう」という。或者は「宮室を焚き、附さぬ者を誅せよ。司馬倫を挾み、南して孫旂と孟観に就け」という。

ぼくは思う。洛陽を使えなくして、そもそも司馬穎が何を奪いにきたのか、わからなくする。また司馬倫は、もう老人なのに、まるで幼帝のように「利用」されようとしてる。
胡三省はいう。孫旂は荊州にいて、孟観は宛県にいる。

或者は「乘船して東して走げ、海に入ろう」という。計は決さず。
4月の辛酉、左衛將軍の王輿と、尚書する広陵公の司馬漼は、営兵7百余人を帥い、南掖門より入宮する。三部司馬が内応した。孫秀、許超、士猗らを、中書省を攻めて斬った。ついに孫奇、孫弼、前將軍の謝惔らを斬った。司馬漼は、司馬伷の子である。

あ!孫秀が死んじゃった。もっとネバれよ。孫秀を殺して、司馬倫をお人形に戻したのが、司馬伷の子だったというところが、まだ「やるせなさ」を回避できるポイントかなあ。


王輿屯雲龍門,召八坐皆入殿中,使倫為詔曰:「吾為孫秀所誤,以怒三王,今已誅秀。其迎太上皇復位,吾歸老於農畝。」傳詔以騶虞幡敕將士解兵。黃門將倫自華林東門出,及太子荂皆還汶陽裡第,遣甲士數千迎帝於金墉城。百姓咸稱萬歲。帝自端門入,升殿,群臣頓首謝罪。詔送倫、荂付金墉城。廣平王虔自河北還,至九曲,聞變,棄軍,將數十人歸裡第。

王輿は雲龍門に屯する。八坐を召して、皆な殿中に入る。司馬倫に詔させる。「私は孫秀のために誤り、3王を怒らせた。すでに孫秀を誅した。太上皇を迎えて復位させる。私は農畝に歸老する」と。詔を傳えて、騶虞幡で將士に解兵を敕した。

恵帝が復位する。孫秀が死んだ途端に、乱は終わりだ。

黄門は司馬倫をひきい、華林東門より出る。太子の司馬荂らは、みな汶陽の裡第に還る。

洛陽の城中には、汶陽里がある。司馬倫の私第がある。

甲士の数千人が、金墉城へ恵帝を迎えにゆく。百姓は咸な萬歲を稱した。恵帝は端門より入り、升殿する。群臣は頓首・謝罪した。詔して司馬倫と司馬荂を送り、金墉城に付す。
廣平王の司馬虔は、河北より還る。九曲に至り、変を聞き、軍を棄てる。数十人をひきい、裡第に帰る。

ぼくは思う。みんな政治にコケたら、「裡第に帰る」ものなのね。


司馬倫を斬り、10万の戦死者を出した

癸亥,赦天下,改元,大酺五日,分遣使者慰勞三王。梁王肜等表:「趙王倫父子凶逆,宜伏誅。」丁卯,遣尚書袁敞持節賜倫死,收其子荂、馥、虔、詡,皆誅之。凡百官為倫所用者皆斥免,台、省、府、衛,僅有存者,是日,成都王穎至。

4月の癸亥、赦天下し(永寧と)改元する。大酺すること五日。使者をやり、3王を慰労する。梁王の司馬肜らが表した。「趙王倫の父子は凶逆である。宜しく伏誅すべし」と。丁卯、尚書の袁敞に持節させ、司馬倫に死を賜う。子の荂、馥、虔、詡を收め、みな誅した。
すべての百官のうち、司馬倫に用いられた者は、みな斥免された。台、省、府、衛に残る者は僅かである。

こういう「根こそぎ」の人事が、彼らの戦い方の特徴。
尚書、御史、謁者を「台」という。門下、中書、秘書を「省」という。府とは、諸公の府である。衛とは、二衛および六軍である。

この日、成都王の司馬穎が至った。

己巳,河間王顒至。穎使趙驤、石超助齊王冏討張泓等於陽翟,泓等皆降。自兵興六十餘日,戰鬥死者近十萬人。斬張衡、閭和、孫髦於東市,蔡璜自殺。五月,誅議陽王威。襄陽太守宗岱承冏檄斬孫旂,永饒冶令空桐機斬孟觀,皆傳首洛陽,夷三族。立襄陽王尚為皇太孫。

4月の己巳、河間王の司馬顒が至る。司馬穎は、趙驤と石超に、齊王の司馬冏を助けさせ、張泓らを陽翟で討った。張泓らは皆な降る。兵が興ってから60余日、戦闘で死んだ者は10万に近い。張衡、閭和、孫髦は、東市で斬られた。蔡璜は自殺した。
5月、義陽王の司馬威を誅した。襄陽太守の宗岱は、司馬冏の檄を承け、孫旂を斬った。永饒冶令の空桐機は、孟観を斬った。孫旂と孟観の首は洛陽に伝えられ、夷三族。

ぼくは思う。司馬倫に味方して、司馬倫の逃げ先の候補ともなった、孫旂と孟観。調べてみたい。

襄陽王の司馬尚を皇太孫とした。

ぼくは思う。まだ恵帝の孫は生き残っていたのか。


6月、司馬冏が執政し、司馬穎は鄴県に還る

六月,乙卯,齊王冏帥眾入洛陽,頓軍通章署,甲士數十萬,威震京都。
戊辰,赦天下。復封賓徒王晏為吳王。

6月の乙卯、齊王の司馬冏は、衆を帥いて洛陽に入る。通章署に頓軍する。甲士は数十万。京都を威震させる。
戊辰、赦天下する。復た賓徒王の司馬晏を吳王とする。

司馬晏は永康顔淵に貶められた。
『考異』はいう。司馬晏伝によると、賓徒から代王に徙されたと。いま『帝紀』は代王が抜けているが、こちらに従う。


甲戌,詔以齊王冏為大司馬,加九錫,備物典策,如宣、景、文、武輔魏故事;成都王穎為大將軍,都督中外諸軍事,假黃鉞,錄尚書事,加九錫,入朝不趨,劍履上殿;河間王顒為侍中、太尉,加三賜之禮;常山王乂為撫軍大將軍,領左軍。進廣陵公漼爵為王,領尚書,加侍中;進新野公歆爵為王,都督荊州諸軍事,加鎮南大將軍。齊、成都、河間三府,各置掾屬四十人,武號森列,文官備員而已,識者知兵之未戢也。己卯,以梁王肜為太宰,領司徒。

6月の甲戌、詔して、齊王の司馬冏を大司馬とする。加九錫・備物典策は、宣、景、文、武が輔魏した故事とおなじ。

ぼくは思う。司馬氏は、ほんとうに累代にわたり、曹魏をたすけてる。世代を重ねることは、それ単独では意味を持たないが。「期間が長い」とか「分量が多い」とかの指標になるかな。でもそれ以上に、何か特別な意味を負っているように思われてならない。「ねえパパ、どうして禅譲は1代でやれないの」と。

成都王の司馬穎を大將軍として、都督中外諸軍事,假黃鉞,錄尚書事,加九錫,入朝不趨,劍履上殿とする。

『考異』はいう。司馬穎伝では、盧志が司馬穎に「司馬冏とともに輔政しろ」という。司馬穎の功績は司馬冏より大きい。司馬冏だけ賞して、司馬穎を賞さないという状況はあり得ない。だから『帝紀』に従う。

河間王の司馬顒を侍中、太尉とする。三賜之禮をくわえる。

三賜について、2661頁。

常山王の司馬乂を撫軍大將軍,領左軍とする。廣陵公の司馬漼を王爵にすすめ、領尚書,加侍中とする。新野公の司馬歆を王爵にすすめ、都督荊州諸軍事,鎮南大將軍を加える。

司馬歆は、南中郎将に鎮南を加えられた。

齊王、成都、河間の三府は、それぞれ掾屬40人を置く。武號は森列するが、文官は備員のみ。

後漢より公府には掾属が置かれるが、武号は帯びなかった。いま帯びてる。

識者は「兵がまだ戦っていないだけ(必ず兵同士がぶつかる)」と知る。
6月の己卯、梁王の司馬肜が太宰となり、司徒を領する。

司馬肜は、太子を以て、丞相の職を領した。
ぼくは思う。みごとに皇族で要職が埋まってしまった。これは西晋の「完成」と見るべきか、「劣化」と見るべきか。西晋の「遊戯」を分析するのは、漢末の試行錯誤から、三国の結末を知る上でも、やはり楽しそう。


光祿大夫劉蕃女為趙世子荂妻,故蕃及二子散騎侍朗輿、冠軍將軍琨皆為趙王倫所委任。大司馬冏以琨父子有才望,特宥之,以輿為中書朗,琨為尚書左丞。又以前司徒王戎為尚書令,劉暾為御史中丞,王衍為河南尹。

光祿大夫の劉蕃の娘は、趙王の世子(いちどは皇太子)司馬荂の妻である。ゆえに劉蕃および2子・散騎侍郎の劉輿、冠軍將軍の劉琨は、どちらも司馬倫に委任された。大司馬の司馬冏は、劉琨の父子に才望があるので、特に宥した。劉輿を中書郎、劉琨を尚書左丞とした。

中書郎とは、中書侍郎である。
ぼくは思う。劉琨は、永嘉の乱のとき活躍するはず。

また、さきの司徒の王戎を尚書令とした。劉暾を御史中丞とした。王衍を河南尹とした。

ぼくは思う。あたらしい司馬冏の政権は、司馬倫と関係のある者を、すべて排除したわけじゃない。という段落です。


新野王歆將之鎮,與冏同乘謁陵,因說冏曰:「成都王至親,同建大勳,今宜留之與輔政;若不能爾,當奪其兵權。」常山王乂與成都王穎俱拜陵,乂謂穎曰:「天下者,先帝之業,王宜維正之。」聞其言者莫不憂懼。盧志謂穎曰:「齊王眾號百萬,與張泓等相持不能決;大王逕前濟河,功無與貳。然今齊王欲與大王共輔朝政。志聞兩雄不俱立,宜因太妃微疾,求還定省,委重齊王,以收四海之心,此計之上也。」穎從之。

新野王の司馬歆は(荊州に)出鎮する直前、司馬冏と同乘して謁陵した。司馬歆は司馬冏にいう。「成都王は至親(恵帝の弟)である。同じく大勲を建てた。いま洛陽に留めて、ともに輔政すべきだ。成都王に輔政させないなら、彼の兵権を奪うべきだ」と。
常山王の司馬乂と、成都王の司馬穎は、ともに拜陵した。司馬乂は司馬穎にいう。「天下は、先帝之業である。王はこれを正せ」と。この発言を聞き、憂懼しない者はない。

憂懼とは、司馬冏が、司馬乂と司馬穎と戦うことについて。

盧志は司馬穎にいう。「齊王の司馬冏は衆1百万と号するが、張泓らと相持して決せなかった。大王はさきに濟河して(司馬倫の討伐で)功績は劣らない。だがいま斉王は、司馬穎とともに朝政を輔したい。私が聞くに、両雄は俱に立たず。太妃は微疾なので、還を求め、省を定めろ。齊王に委重して、四海之心を收めろ。この計が上である」と。司馬穎は従った。

司馬穎の母は、程才人である。成都太妃である。
胡三省はいう。朝政を斉王に委任したので、四海の人は「司馬穎は司馬冏より功績がおおきいのに、司馬冏においしいところを預けた」として、司馬穎に心を寄せた。ぼくは思う。盧志のおかげで司馬穎は名声を得たが、その反面で司馬冏の暴走がはじまった。盧志は、司馬穎のために助言しただけで、司馬冏や晋家そのものまでは配慮していない。まあ司馬穎のブレーンだから、いいんだけど。


帝見穎於東堂,慰勞之。穎拜謝曰:「此大司馬冏之勳,臣無豫焉。」因表稱冏功德,宜委以萬機,自陳母疾,請歸籓。即辭出,不復還營,便謁太廟,出自東陽城門,遂歸鄴。遣信與冏別,冏大驚,馳出送穎,至七里澗,及之。穎住車言別,流涕滂沱,惟以太妃疾苦為憂,不及時事。由是士民之譽皆歸穎。

恵帝は司馬穎に東堂でまみえ、慰労した。司馬穎は拜謝していう。「大司馬の司馬冏の勲である。私は豫らない」と。因って司馬穎は、司馬冏の功德を称え、「司馬冏に萬機を委ねろ」という。司馬穎は「母が疾である。歸籓したい」という。即ち辭出し、復た還營せず。便ち太廟に謁し、東陽城門より出て、ついに鄴県に還った。
別れの文書を司馬冏におくる。司馬冏は大驚して、馳出して司馬穎を送り、七里澗で追いつく。

『水経注』が、、2662頁。

司馬冏は車をとめて、別れをいう。流涕・滂沱する。ただ母の疾苦を憂となし、時事には言及しない。これにより士民の誉は、みな司馬穎に帰した。

ぼくは思う。この帰藩のシーンを、誰が見ていたのよ。従者たちが(主人の司馬穎を誇りに思って)言いふらしたのだろうなあ。


冏辟新興劉殷為軍諮祭酒,洛陽令曹攄為記室督,尚書郎江統、陽平太守河內苟晞參軍事,吳國張翰為東曹掾,孫惠為戶曹掾,前廷尉正顧榮及順陽王豹為主簿。惠,賁之曾孫;榮,雍之孫也。殷幼孤貧,養曾祖母,以孝聞,人以谷帛遺之,殷受而不謝,直云:「待後貴當相酬耳。」及長,博通經史,性倜儻有大志,儉而不陋,清而不介,望之頹然而不可侵也。冏以何勖為中領軍,董艾典樞機,又封其將佐有功者葛旟、路秀、衛毅、劉真、韓泰皆為縣公,委以心膂,號曰「五公」。

司馬冏は新興の劉殷を辟して、軍諮祭酒とする。洛陽令の曹攄を記室督とする。尚書郎の江統、陽平太守する河内の苟晞を參軍事とする。

祭酒と記室と参軍について、2662頁。

吳國の張翰を東曹掾とする。孫惠を戶曹掾とする。前の廷尉正の顧榮および、順陽王の司馬豹を主簿とする。
孫恵は、孫賁の曾孫である。顧榮は、顧雍の孫である。

孫賁とは、呉主・孫権の従兄である。顧雍は、孫呉の宰相である。

劉殷は幼くして孤貧だが、曾祖母を養い、孝を以て聞こえる。人は穀帛をわたすが、劉殷は受けても謝さず。劉殷「後に貴くなれば、相い酬いる」と直言する。長じて、經史に博通する。性は倜儻で大志あり。儉でも陋さず。清くて介さず。頹然でも侵さず。

劉殷は、のちに劉聡につかえて貴顕となる。娘は劉聡の後宮に入る。

司馬冏は、何勖を中領軍とし、董艾に樞機を典じさせる。將佐の功績がある者を県公に封じる。葛旟、路秀、衛毅、劉真、韓泰らである。心膂を以て委ね「五公」と号する。

だれが、どの県の公なのか2663頁。


成都王の司馬穎が鄴県で、戦後を補償する

成都王穎至鄴,詔遣使者就申前命;穎受大將軍,讓九錫殊禮。表論興義功臣,皆封公侯。又表稱:「大司馬前在陽翟,與賊相持既久,百姓困敝,乞運河北邸閣米十五萬斛,以振陽翟饑民。」造棺八千餘枚,以成都國秩為衣服,斂祭黃橋戰士,旌顯其家,加常戰亡二等。又命溫縣瘞趙王倫戰士萬四千餘人。皆盧志之謀也。穎形美而神昏,不知書,然氣性敦厚,委事於志,故得成其美焉。詔復遣使諭穎入輔,並使受九錫。穎嬖人孟玖不欲還洛,又程太妃愛戀鄴都,故穎終辭不拜。

成都王の司馬穎が鄴県に至る。詔して使者をやり、前命を就申させる。司馬穎は大將軍を受けるが、九錫の殊禮を辞退する。司馬穎は表して興義功臣を論じ、みな公侯に封じる。また表して「大司馬は前に陽翟にあり、賊と相持すること既に久しく、百姓は困敝した。運河の北邸の閣米15万石を、陽翟の饑民に振給する」という。棺8千余枚を造り、成都国秩を衣服に代えて、黄橋の戰士を斂祭する。その家を旌顯し、常に戰亡した者に2等爵を加える。また温縣に命じて、趙王倫の戰士14千余人を瘞させる。みな盧志之謀であった。
司馬穎は、形美で神昏だが、書を知らず。

ぼくは思う。「書」とは『書経』ないし『尚書』のことで良いんだろうか。
西晋の趙王の司馬倫は「倫無学、不知書」であり、成都王の司馬穎は「不知書」である。いずれも『晋書』列伝29より。福原啓郎先生の『西晋の武帝』では、文盲という理解だった。「書を知らず」ってどのレベルなんだろ。『尚書(書経)』を暗記してない?応用して作文できない?それともマジで文盲?
@AkaNisin さんはいう。司馬氏は恵帝や安帝も輩出してますから、あるいは...
ぼくはいう。生物学的に「偏差値5」の文盲の誕生は防げません。潤沢な文化資本で教育しても、改善しない場合もあるでしょう。でも「偏差値5」を大藩に封じる西晋の爵制って、どんな思想に基づくのかなって奇妙に感じます。不自然で病的ですらあります。「偏差値40で大藩は可、35でもギリ黙認」くらいなら分かりますが。
皇帝の人選は、制約や抗争がつきものなので、「偏差値5」が即位するのも納得できます。0名でもダメ、2名でもダメなので、人選が不自然になることもあるでしょう。後漢の幼帝だって、その時点では文盲みたいなものです。でも西晋の大藩は、候補者が複数おり、必ずしも欠員も不可でもない。そこに、わざわざ文盲レベルを封じるって理解不能です。

だが氣性は敦厚で、盧志に委事する。ゆえにその美を成せた。詔して司馬穎に入輔せよと諭し、九錫を受けさせたい。司馬穎の嬖人の孟玖は、還洛したくない。また母親の程太妃は、鄴都に愛恋する。ゆえに司馬穎は、ついに辞して拝さず。

ぼくは思う。ここは袁紹と曹操がいたところ。のちの唐後期のように、割拠したほうが、ぎゃくに中央を制御できるのかも。


初,大司馬冏疑中書郎陸機為趙王倫撰禪詔,收,欲殺之。大將軍穎為之辯理,得免死,因表為平原內史,以其弟雲為清河內史。機友人顧榮及廣陵戴淵,以中國多難,勸機還吳。機以受穎全濟之恩,且謂穎有時望,可與立功,遂留不去。

はじめ大司馬の司馬冏は、中書郎の陸機が、趙王倫のために禪詔を撰したと疑い、收めて殺そうとした。大將軍の司馬穎は、陸機のために辯理して、陸機は死を免れた。表して陸機を平原内史とした。弟の陸雲を清河内史とした。陸機の友人の顧榮および広陵の戴淵は、中国が多難だから、陸機に還吳を勧めた。陸機は、司馬穎に全濟之恩を受け、また司馬穎に時望があるから、司馬穎とともに立功すべきと考え、ついに留まって去らず。

ぼくは思う。陸機と中原に留めて、陸機に残念な死に方をさせるのは、盧志のしわざ。「ぼくらの三国志」は、まだ続いているのだ。
胡三省はいう。陸機と陸雲が、司馬穎に殺される張本である。


秋、司馬乂、司馬繇、司馬楙に官爵を賜与

秋,七月,復封常山王乂為長沙王,遷開府,驃騎將軍。
東萊王蕤,凶暴使酒,數陵侮大司馬冏,又從冏求開府不得而怨之,密表冏專權,與左衛將軍王輿謀廢冏。事覺,八月,詔廢蕤為庶人,誅輿三族,徒蕤於上庸;上庸內史陳鐘承冏旨潛殺之。
赦天下。東武公澹坐不孝徙遼東。

秋7月、復た常山王の司馬乂を長沙王に封じる。遷して開府させ、驃騎將軍とする。
東萊王の司馬蕤は、凶暴である。酒に酔って、しばしば大司馬の司馬冏を陵侮する。司馬冏に従って開府を求めたが、できなくて怨んだ。密かに表して「司馬冏は専権する。左衛將軍の王輿とともに司馬冏を廃そう」という。発覚した。
8月、詔して司馬蕤を庶人とした。王輿の三族を誅した。司馬蕤を上庸に徙す。上庸内史の陳鐘は、司馬冏の旨を承け、潛かに司馬蕤を殺した。

『考異』はいう。『帝紀』では、6月庚午、司馬蕤と王輿は司馬冏を廃そうとして、発覚して罪を得た。甲戌、司馬冏は大司馬となったと。按ずるに、王輿を誅したとき、すでに司馬冏は大司馬だった。だから王輿を殺す前に、司馬冏は大司馬にならないとおかしい。『三十国春秋』に従って(司馬蕤の発覚と王輿の殺害を)8月とする。

天下を赦する。東武公の司馬澹は、不孝なので遼東に徙さる。

九月,征其弟東安王繇復舊爵,拜尚書左僕射。繇舉東平王楙為平東將軍、都督徐州諸軍事,鎮下邳。

9月、司馬澹の弟・東安王の司馬繇を、もとの爵位にもどし、尚書左僕射を拝させる。司馬繇は、東平王の司馬楙を挙げて、平東將軍、都督徐州諸軍事として、下邳に鎮させる。

司馬繇が廃され徙されたのは、元康元年。
『考異』はいう。『帝紀』では8月に司馬楙を平東として、徐州を督させる。9月、司馬繇の爵位をもどすと。司馬楙伝では、司馬繇は僕射となり、司馬楙を平東に挙げると。ゆえに司馬繇の爵位が戻ったあとに、司馬楙の任命をおく。


蜀地の流民を、秦州や雍州に強制帰還か

初,朝廷符下秦、雍州,使召還流民入蜀者,又遣御史馮該、張昌督之。李特兄輔自略陽至蜀,言中國方亂,不足復還。特然之,累遣天水閻式詣羅尚求權停至秋,又納賂於尚及馮該;尚、該許之。朝廷論討趙廞功,拜特宣威將軍,弟流奮武將軍,皆封侯。璽書下益州,條列六郡流民與特同討廞者,將加封賞。廣漢太守辛冉欲以滅廞為己功,寢朝命,不以實上,眾鹹怨之。

はじめ朝廷は、秦州と雍州に符下して、流民で入蜀した者を召還させた。また御史の馮該と張昌をつかわし、帰還を督させた。李特の兄・李輔は、略陽より蜀地に至り、「中国は乱れそう。復た還るに足らず」という。李特は同意した。累ねて李特は、天水の閻式を羅尚に詣でさせ、權停を求めて秋に至る。羅尚との馮該に賄賂をわたし、許してもらった。

ぼくは思う。「すぐに秦州と雍州に還るのはムリ。秋まで待って」と賄賂を用いて交渉して、時期を遅らせたのかな。

朝廷は、趙廞を討った功を論じ、李特を宣威將軍とする。弟の李流を奮武將軍とし、2人を侯爵とする。璽書は益州に下され、6郡の流民や李特とともに趙廞を討った者を條列して、封賞を加えようとする。廣漢太守の辛冉は、趙廞を滅ぼした功績を独占したいので、朝命を握りつぶし、実態を報告しない。6郡の衆は、みな辛冉を怨んだ。

そりゃそうじゃ。蜀地のほうは、情報が断絶もしくは歪曲されがち。そういう地勢なのだ。だから、ちょっとトラブルが起きると、二言目には「自立するか」となる。


羅尚遣從事督遣流民,限七月上道。時流民布在梁、益,為人傭力,聞州郡逼遣,人人愁怨,不知所為;且水潦方盛,年谷未登,無以為行資。特復遣閻式詣尚,求停至冬;辛冉及犍為太守苾以為不可。尚舉別駕蜀郡杜苾秀才,式為苾說逼移利害,苾亦欲寬流民一年;尚用冉、苾之謀,不從;苾乃致秀才板,出還家。冉性貪暴,欲殺流民首領,取其資貨,乃與苾白尚,言:「流民前因趙廞之亂,多所剽掠,宜因移設關以奪取之。」尚移書令梓潼太守張演於諸要施關,搜索寶貨。

羅尚は、從事督をつかわし、流民をつれて、七月に限って上道させた。ときに流民は、梁州と益州にひろがる。人のために傭力する。州郡が逼遣すると聞いて、人々は愁怨して、なすことを知らず。水はあふれそうで、まだ穀物の収穫はなく(秦州や雍州への行路で費やす)食糧もない。李特は、復た閻式を羅尚のもとに行かせ「冬まで待ってくれ」という。辛冉および犍為太守の李苾は「ダメ」という。

ぼくは思う。なぜ人口が、秦州や雍州から、梁州や益州をめざしたのか。その原因を解明・解決せずに、ただ戻れと言っても、それはムリな相談だろうなあ。どこで理想論が暴走したんだ。なぜ理想論の暴走を、うまく去勢できないんだ。西晋の中央と地方が、どのように壊れているんだろう。

羅尚は、別駕する蜀郡の杜苾を秀才に挙げた。閻式は杜苾に逼って、強制移住の利害を説いた。杜苾は、移住を1年遅らせても良いかもと考えた。羅尚は、辛冉と李苾の謀を用いて、延期を認めない。(延期を拒否られた)杜苾は、秀才の資格を放棄して、出て還家した。
辛冉の性は貪暴である。流民の首領を殺して、流民の資貨をうばいたい。辛冉は、李苾とともに羅尚にいう。「流民は前に趙廞之亂により、多くを剽掠した。関所を移設して、流民から資財を奪取しよう」と。羅尚は移書して、梓潼太守の張演に、諸要に関所を施け、宝貨を捜索した。

胡三省はいう。流民は蜀地で安じた。西晋の朝命で、もとの居住地に戻そうとしても、うまくいかない。まして関所をつくり財産を奪っては、乱を速めるだけである。
ぼくは思う。その通りであるw


特數為流民請留,流民皆感而恃之,多相帥歸特。特乃結大營於綿竹以處流民,移辛冉求自寬。冉大怒,遣人分榜通衢,購募特兄弟,許以重賞。特見之,悉取以歸,與弟驤改其購云:「能送六郡之豪李、任、閻、趙、楊、上官及氐、叟侯王一首,賞百匹。」於是流民大懼,歸特者愈眾,旬月間過二萬人。流亦聚眾數千人。

李特は、しばしば流民のために(羅尚に)蜀地に留まらせろと請う。流民は李特に感じて恃む。李特は綿竹に流民を集め、辛冉に「帰還の時期を延長してくれ」という。辛冉は大怒し、李特の兄弟に懸賞をかける。流民は(西晋の強硬さに)大懼し、李特と李流のもとに集まる。131025

ぼくは思う。なんでこんなにマズいんだろう。西晋の辛冉は。


冬、李特は流民の支持を受け、羅尚に対抗

特又遣閻式詣羅尚求申期,式見營柵衝要,謀掩流民,歎曰:「民心方危,今而速之,亂將作矣。」又知辛冉、李苾意不可回,乃辭尚還綿竹。尚謂式曰:「子且以吾意告諸流民,今聽寬矣。」式曰:「明公惑於奸說,恐無寬理。弱而不可輕者民也,今趣之不以理,眾怒難犯,恐為禍不淺。」尚曰:「然。吾不欺子,子其行矣!」式至綿竹,言於特曰:「尚雖云爾,然未可信也。何者?尚威刑不立,冉等各擁強兵,一旦為變,亦非尚所能制,深宜為備。」特從之。冬,十月,特分為二營,特居北營,流居東營,繕甲厲兵,戒嚴以待之。

李特は閻式をやり、羅尚に延期をもとめる。羅尚の軍営が整備されているのを見て「民は不安がり、乱をなす」と歎じた。羅尚「閻式から流民に、わが意思を説明してくれ」と。閻式「流民に強制帰還はムリだと思う」と。

閻式は緜竹にもどり、李特にいう。「羅尚は威刑が立たず、辛冉らは強兵を擁する。いちど変があれば、羅尚は辛冉を制御できない。李特は(辛冉の暴走に)備えておけ」と。李特は従う。
冬10月、李特は流民を2営に分ける。李特は北営、李流は東営にいる。武装して厳戒した。

『通鑑』のわりに、ひとつの話題でテキストが多い。だが単純に、強制帰還の時期をつなひきしているだけ。この益州の経営の失敗が、宋代の司馬光にとって、身に積まされるものがあったか。


冉、苾相與謀曰:「羅侯貪而無斷,日復一日,令流民得展奸計。李特兄弟並有雄才,吾屬將為所虜矣!宜為決計,羅侯不足復問也!」乃遣廣漢都尉曾元、牙門張顯、劉並等潛帥步騎三萬襲特營;羅尚聞之,亦遣督護田佐助元。元等至,特安臥不動,待其眾半入,發伏擊之,死者甚眾。殺田佐、曾元、張顯,傳首以示尚、冉。尚謂將佐曰:「此虜成去矣,而廣漢不用吾言以張賊勢,今若之何!」

辛冉と李苾は謀った。「羅尚は貪だが断なし。羅尚では李特に対抗できない」と。辛冉は(羅尚に指示を仰がず)李特を奇襲したが、李特に返り討ちにされた。羅尚「私の言うことを聞かず、李特に勢いづかせやがって」と。

羅尚は、典型的なダメ上司のフラグが立った。


於是六郡流民李含等共推特行鎮北大將軍,承製封拜;以其弟流行鎮東大將軍,號東督護,以相鎮統;又以兄輔為驃騎將軍,弟驤為驍騎將軍,進兵攻冉於廣漢。尚遣李苾、費遠帥眾救冉,畏特,不敢進。冉出戰,屢敗,潰圍奔德陽。特入據廣漢,以李超為太守,進兵攻尚於成都。尚以書諭閻式,式復書曰:「辛冉傾巧,曾元小豎,李叔平非將帥之材。式前為節下及杜景文論留、徙之宜,人懷桑梓,孰不願之!但往日初至,隨谷庸賃,一室五分,復值秋潦,乞須冬熟,而終不見聽。繩之太過,窮鹿抵虎。流民不肯延頸受刀,以致為變。即聽式言,寬使治嚴,不過去九月盡集,十月進道,令達鄉里,何有如此也!」

ここにおいて6郡の流民の李含らは、李特を行鎮北大將軍に推し、承制・封拜させる。弟の李流を、行鎮東大將軍とし、東督護を号させる。兵を進めて、広漢で辛冉を攻める。辛冉は敗れて、德陽に奔る。
李特は(辛冉から奪った)広漢に入り、李超を広漢太守とする。進兵して、成都で羅尚を攻める。羅尚は文書で(李特の使者をやる)閻式を諭した。閻式は復書した。「秦州と雍州に戻るのを、秋の収穫が終わった、10月に延期してくれないか」と。131025

ぼくは思う。この期に及んでも、まだ強制帰還に従うつもりで交渉をしている。これを許さないのだから、羅尚は厳しすぎる。バランスが悪いなあ。


特以兄輔、弟驤、子始、蕩、雄及李含、含子國、離、任回、李攀、攀弟恭、上官晶、任臧、楊褒、上官悖等為將帥,閻式、李遠等為僚佐。羅尚素貪殘,為百姓患。特與蜀民約法三章,施捨振貸,禮賢拔滯,軍政肅然,蜀民大悅。尚頻為特所敗,乃阻長圍,緣郫水作營,連延七百里,與特相拒,求救於梁州及南夷校尉。

李特は、兄の李輔、弟の李驤、子の李始、李蕩、李雄らを將帥とした。羅尚は貪殘であり、百姓は患いた。李特は、蜀民と法三章を約して、施捨・振貸した。禮賢は拔滯し、軍政は肅然とした。蜀民は大悅した。

ぼくは思う。建国するときは、うまくいくのだ。

羅尚は、しきりに李特に敗れた。李特と対陣しつつ、梁州および南夷校尉に救援をもとめた。

ぼくは思う。羅尚を美化していない。氐族のほうに善政させ、漢族の羅尚に悪政させる。司馬光の排外意識は、原理的ではない。というか、排撃すべき胡族は別にいるから、氐族には視線が緩やかなのかな。


12月、司馬冏の子たちを郡王とする

十二月,穎昌康公何劭薨。
封太司馬冏子冰為樂安王,英為濟陽王,超為淮南王。

12月、穎昌康公の何劭が薨じた。
大司馬の司馬冏の子・司馬冰を、樂安王とする。司馬英を濟陽王とする。司馬超を淮南王とする。131023

次の302年は、司馬冏が執政して繁栄し、その年のうちにコンパクトに敗死する。

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302年、李特が益州で自立、司馬冏が執政・敗北

春夏、益州で李特が自立し、司馬覃が皇太子

孝惠皇帝中之上太安元年(壬戌,公元三零二年)
春,三月,沖太孫尚薨。
夏,五月,乙酉,梁孝王肜薨。以右光祿大夫劉寔為太傅;尋以老病罷。

春3月、沖太孫の司馬尚が薨じた。

「沖」は諡である。

夏5月の乙酉、梁孝王の司馬肜が薨じた。 右光祿大夫の劉寔を太傅とする。老病で罷る。

河間王顒遣督護衙博討李特,軍於梓潼;朝廷復以張微為廣漢太守,軍於德陽;羅尚遣督護張龜軍於繁城。特使其子鎮軍將軍蕩等襲博;而自將擊龜,破之。蕩敗博兵於陽沔,梓潼太守張演委城走,巴西丞毛植以郡降。蕩進攻博於葭萌,博走,其眾盡降。河間王顒更以許雄為梁州刺史。特自稱大將軍、益州牧,都督梁、益二州諸軍事。

河間王の司馬顒は、督護の衙博に、李特を討たせる。衙博は梓潼に軍する。

梓潼について、2668頁。

朝廷は、張微を廣漢太守とする。張微は德陽に軍する。羅尚は、督護の張亀を繁城(蜀郡)に軍させる。李特は、子の鎮軍將軍・李蕩らに、衙博を襲わせる。李特は自ら張亀を破る。李蕩は衙博を陽沔で破る。梓潼太守の張演は、城をすてて逃げる。巴西丞の毛植は、巴西郡を以て(李特に)降る。張蕩は進んで衙博を葭萌でくだす。

地名について、2669頁。ぼくは思う。固有名詞が連発してツラいが、西晋の軍が、李特に全く勝てない。

河間王の司馬顒は、更めて許雄を梁州刺史とする。
李特は、大將軍・益州牧を自称して、都督梁益二州諸軍事という。

大司馬冏欲久專大政,以帝子孫俱盡,大將軍穎有次立之勢;清河王覃,遐之子也,方八歲,乃上表請立之。癸卯,立覃為皇太子,以冏為太子太師,東海王越為司空,領中書監。

大司馬の司馬冏は、久しく大政を専らしたい。恵帝の子孫はもういない。

太子の司馬遹が秦だ。司馬遹の子3人も死んだ。恵帝に孫はいない。

大將軍の司馬穎が、次立之勢である。

司馬穎は恵帝の諸弟のうち、恵帝のすぐ下。
ぼくは思う。司馬冏にとっては、司馬穎のほうが恵帝に近いので、脅威である。だから司馬穎に帝位が回らないように、べつの者を太子に立てたいのだ。

清河王の司馬覃は、司馬遐の子で8歳である。上表して「司馬遐を皇太子に立てろ」と請う。癸卯、司馬覃を皇太子とした。司馬冏を太子太師とした。東海王の司馬越を司空、領中書監とした。

秋、李特が成都に進み、李毅が寧州刺史となる

秋,八月,李特攻張微,微擊破之,遂進攻特營。李蕩引兵救之,山道險狹,蕩力戰而前,遂破微兵。特欲還涪,蕩及司馬王幸諫曰:「微軍已敗,智勇俱竭,宜乘銳氣遂禽之。」特復進攻微,殺之,生禽微子存,以微喪還之。

秋8月、李特は張微を攻めるが、張微が勝ち、李特の軍営に進攻した。李蕩は引兵して救う。山道は險狹で、李蕩は力戰して進み、ついに晋将の張微を破る。李特は涪県に還りたい。張蕩と司馬の王幸が李特を諫めた。「張微の軍はすでに敗れ、智勇ともに竭きた。銳氣に乗じて、張微を禽えろ」と。李特は張微を攻めて、張微を殺した。張微の子・張存を禽え。張微の死体を還した。

特以其將B120碩守德陽。李驤軍毘橋,羅尚遣軍擊之,屢為驤所敗,驤遂進攻成都,燒其門。李流軍成都之北,尚遣精勇萬人攻驤,驤與流合擊,大破之,還者什一二。許雄數遣軍攻特,不勝,特勢益盛。

張特は、部将の_碩に德陽を守らせる。李驤は毘橋に軍し、羅尚は李驤を撃つが、しばしば敗れた。李驤はついに成都に進行し、その門を焼く。李流は成都の北に軍する。羅尚は、精勇1万人で李驤を攻める。李驤は李流と合わさり、羅尚を大破した。羅尚の軍は、1-2割しか生還しない。許雄は、しばしば李特を攻めたが、勝てない。李特の勢いは、益盛である。

ぼくは思う。せっかく晋将の羅尚が戦っているのに、李特が勝っているという話。細かい戦局に興味がない。地図に乗せて、劉備とか鍾会と比べたら、楽しいのだろう。


建寧大姓李睿、毛詵遂太守杜俊,硃提大姓李猛逐太守雍約,以應特,眾各數萬。南夷校尉李毅討破之,斬詵;李猛奉箋降,而辭意不遜,毅誘而殺之。冬,十一月,丙戌,復置寧州,以毅為刺史。

建寧の大姓である李睿と毛詵は、建寧太守の杜俊を逐った。朱提の大姓である李猛は、朱提太守の雍約を逐った。李特に応じて、それぞれ数万。

西晋の太守が、現地の大姓に駆逐される。諸葛亮が「南征」して、支配した地域である。もともと中原の王朝の官僚が治めるのは、ムリがあるのだ。

南夷校尉の李毅は、毛詵を斬った。李猛は箋を奉じて降った。だが辞意は不遜である。李毅は、李猛を誘って殺した。
冬11月の丙戌、また寧州を置く。李毅を寧州刺史とした。

南夷校尉の李毅が、すこし西晋の支配範囲を押しもどした。この寧州の設置は「李毅が動きやすいように、一体を全任するから、益州の南方を平定してね」という措置だろう。寧州は晋武帝の太康5年に省かれていた。


斉王の司馬冏は執政し、驕って危うい

齊武閔王冏既得志,頗驕奢擅權,大起府第,壞公私廬舍以百數,制與西宮等,中外失望。侍中嵇紹上疏曰:「存不忘亡,《易》之善戒也。臣願陛下無忘金墉,大司馬無忘穎上,大將軍無忘黃橋,則禍亂之萌無由而兆矣。又與冏書,以為「唐、虞茅茨,夏禹卑宮。今大興第捨,及為三王立宅,豈今日之所急邪!」冏遜辭謝之,然不能從。

齊武閔王の司馬冏は、すでに志を得て、すこぶる驕奢・擅權である。府第を大起し、壊した公私の廬舍は百を数える。

ぼくは思う。登場した司馬冏に、諡まで付けて記述してある。ちょっと変なの。そして諡が「武」なのね。すごい。

西宮らとともに制し、中外は司馬冏に失望する。
侍中の嵇紹は上疏した。「存は亡を忘れず。これは『易』の善戒である。

2670頁。『易大伝』いわく、危は安にあり、亡は安にあり、、

恵帝は金墉を忘れず、大司馬は穎上を忘れず、大將軍は黃橋を忘れなければ、禍亂之萌は、由なく兆す」と。

胡三省はいう。斉桓公が、鮑叔牙と管夷吾と寧戚に言った台詞を踏まえている。斉桓公は、それぞれの辛かった過去について、今みたいに順番に3つ言及した。

また嵇紹は司馬冏に文書を与える。嵇紹「唐虞は茅茨、夏禹は卑宮(に粗末に住んだ)。いま司馬冏は大いに第舎を興こす。3王のために立宅する。この建設は、今日に急ぐことか」と。司馬冏は、遜辭して謝したが、アドバイスに従わず。

ぼくは思う。司馬冏は、つらかった過去を忘れ、禍乱をスキャンするアンテナが壊れた。緊急でないのに、豪華な役所や邸宅をつくった。嵇紹によると、もう司馬冏は滅びるしかない。そして滅びる。


冏耽於宴樂,不入朝見;坐拜百官,符敕三台;選舉不均,嬖寵用事。殿中御史桓豹奏事,不先經冏府,即加考竟。

司馬冏は、宴樂に耽けり、朝見に入らず。坐して百官に拜し、符して三台に敕す。

座ったまま百官の拝を受けたのだ。一説に、天子が三公や九卿や将軍を用いるとき、なお(座したままでなく)引いて拝した(司馬冏は天子よりも偉そうである)。いま司馬冏は、府第に安座したまま、百官を拝受した。
ぼくは思う。称号において「オレが天子」と言わなくても、態度によって天子レベルになる。定性的なので、わりに気づかれにくいが。恵帝がボケッとしているので、司馬氏の近親は、みんなが潜在的に自分を天子だと思っている。
胡三省はいう。私意によって人材を選用したのだ。『左氏伝』は人が敗れようとすると、敗れる原因を先に叙述する。『通鑑』の司馬冏もこれと同じである。ぼくは思う。この記述のパターンは、あまりに慣れすぎているが、『左氏伝』だと言われると、なるほどなあ!と改めて意識する。
ぼくは思う。死の直前に、やたらカッコ良くなるのは、『蒼天航路』や各種の小説である。『左氏伝』は、べつに死の直前に見せ場をつくってくれるのではない。

人材の選挙は不均で、嬖寵は用事する。殿中御史の桓豹は奏事するとき、先に司馬冏の府を経由させず、考竟を加えられた。

斉王の司馬冏を諫める人々

南陽處士鄭方上書諫冏曰:「今大王安不慮危,燕樂過度,一失也;宗室骨肉,當無纖介,今則不然,二失也;蠻夷不靜,大王謂功業已隆,不以為念,三失也;兵革之後,百姓窮困,不聞振救,四失也;大王與義兵盟約,事定之後,賞不□俞時,而今猶有功未論者,五失也。」冏謝曰:「非子,孤不聞過。」

南陽の處士・鄭方は、上書して司馬冏を諫めた。「司馬冏には5つの過失がある。1つ、燕樂が過ぎる。2つ、宗室が対立する。3つ、李特が梁州と益州を乱す。4つ、百姓が困窮する。

胡三省はいう。成都王の司馬穎が、米を運んで河南の人心を集めたが、司馬冏がこれ取り締まらなかった。鄭方はこれを言っている。

5つ、頴上の功績に報いていない」と。
司馬冏は謝した。「鄭方が言わねば、私は過失を聞かなかった」と。

孫惠上書曰:「天下有五難、四不可,而明公皆居之。冒犯鋒刃,一難也;聚致英豪,二難也;與將士均勞苦,三難也;以弱勝強,四難也;興復皇業,五難也。大名不可久荷,大功不可久任,大權不可久執,大威不可久居。大王行其難而不以為難,處其不可而謂之可,惠竊所不安也。明公宜思功成身退之道。崇親推近,委重長沙、成都二王,長揖掃籓,則太伯,子臧不專美於前矣。今乃忘高亢之可危,貪權勢以受疑,雖遨遊高台之上,逍遙重墉之內,愚竊謂危亡之憂,過於在穎、翟之時也。」冏不能用。惠辭疾去。冏謂曹攄曰:「或勸吾委權還國,何如?」攄曰:「物禁太盛,大王誠能居高慮危,褰裳去之,斯善之善者也。冏不聽。

孫恵が上書した。「長沙王の司馬乂と、成都王の司馬穎に政治をまかせて帰藩せよ。そうすれば、呉太伯と曹子臧と同じになれる」と。司馬冏は用いない。孫恵は辞疾して去る。
司馬冏は曹攄にいう。「或者が私に、政治を委ねて帰国せよという。どうかな」と。曹攄「盛ん過ぎるのは良くない。いま盛んな司馬冏が帰国するのは善いことだ」と。司馬冏は聴かず。

張翰、顧榮皆慮及禍,翰因秋風起,思菰榮、蓴羹、鱸魚鱠,歎曰:「人生貴適志耳,富貴何為!」即引去。榮故酣飲,不省府事,長史葛旟以其廢職,白冏徙榮為中書侍郎。穎川處士庾袞聞冏期年不朝,歎曰:「晉室卑矣,禍亂將興!」帥妻子逃於林慮山中。

張翰と顧榮は、どちらも禍が及ぶのを慮る。張翰は秋風が起つと、菰榮、蓴羹、鱸魚鱠を思って歎じた。

食べ物について、2672頁。

「人生は貴く志に適くのみ。富貴なんてなにさ」と。即ち引去した。
顧榮は、酣飲して、府事を省みない。長史の葛旟は官職を廃して、司馬冏に言って顧榮を中書侍郎にしてもらう。穎川の處士である庾袞は、司馬冏が朝さないと聞いて歎じた。「晉室は卑である。禍亂が興りそう」と。妻子を帥いて、林慮の山中に逃げた。

ぼくは思う。あからさまに、末世である。
【masse】ほとんど垂直にキューを持ち、突き玉を打つビリヤードのショット。


王豹致箋於冏曰:「伏思元康已來,宰相在位,未有一人獲終者,乃事勢使然,非皆為不善也。今公克平禍亂,安國定家,乃復尋覆車之軌,欲冀長存,不亦難乎!今河間樹根於關右,成都盤桓於舊魏,新野大封於江、漢,三王各以方剛強盛之年,並典戎馬,處要害之地,而明公以難賞之功,挾震主之威,獨據京都,專執大權,進則亢龍有悔,退則據於蒺藜,冀此求安,未見其福也。」因請悉遣王侯之國,依周、召之法,以成都王為北州伯,治鄴;冏自為南州伯,治宛;分河為界,各統王侯,以夾輔天子。冏優令答之。長沙王冏見豹箋,謂冏曰:「小子離間骨肉,何不銅馳下打殺!」冏乃奏豹讒內間外,坐生猜嫌,不忠不義,鞭殺之。豹將死,曰:「縣吾頭大司馬門,見兵之攻齊也!」

王豹は箋を致して、司馬冏にいう。「元康期から、全うできた宰相はない。

楊駿、汝南王の司馬亮、張華、裴頠。

河間王の司馬顒は関右にいて、成都王の司馬穎は旧魏にいる。新野王の司馬歆は江漢にいる。3王は要害の地で兵をもつ。洛陽にいる司馬冏は危ないよ」と。王豹は「周代の周公と召公のように、王侯に天子をはさんで補佐させる。司馬穎を北州伯として鄴県におけ。司馬冏は南州伯として宛県にゆけ」という。

周公と召公を、司馬穎と司馬冏になぞらえる。

司馬乂は、王豹の文書を見た。司馬冏は司馬乂にいう。「王豹は司馬氏を分裂させるつもり」と言って殺した。王豹は死にぎわに「私の頭を大司馬門に懸けろ。兵が司馬冏を攻めるのを見てやろう」という。

伍子胥の言葉のパクリである。
ぼくは思う。司馬冏は司馬乂に「王豹が司馬氏を分裂させる」と言って仲間意識を高める。だが、その司馬冏を殺すのが司馬乂である。王豹の死にぎわの言葉は、きわめてシンプルな皮肉・伏線になっているのだ。


李含が司馬顒に、司馬冏を殺すよう仕向ける

冏以河間王顒本附趙王倫,心常恨之。梁州刺史安定皇甫商,與顒長史李含不平。含被征為翊軍校尉,時商參冏軍事,夏侯奭兄亦在冏府。含心不自安,又與冏右司馬趙驤有隙,遂單馬奔顒,詐稱受密詔,使顒誅冏,因說顒曰:「成都王至親,有大功,推讓還籓,甚得眾心。齊王越親而專政,朝廷側目。今檄長沙王使討齊,齊王必誅長沙,吾因以為齊罪而討之,必可禽也。去齊立成都,除逼建親,以安社稷,大勳也。」顒從之。

司馬冏は、河間王の司馬顒が、もとは趙王の司馬倫に付いたから、心はつねに司馬顒を恨む。梁州刺史する安定の皇甫商は、司馬顒の長史の李含と不平である。李含は徵され、翊軍校尉となる。ときに皇甫商は、司馬冏の軍事に参じる。夏侯奭の兄もまた、司馬冏の府にいる。李含の心は自ずと安じない。

ぼくは思う。なんだこの「近親相姦」みたいな人脈は。まあ近親だから、この比喩は、比喩以前になんだけど。
胡三省はいう。司馬顒は司馬倫に付した。夏侯奭は司馬顒に殺された。永寧元年にある。

また李含は、司馬冏の右司馬の趙驤と仲が悪い。ついに李含は、単馬で司馬顒に奔った。詐って密詔を受けたと称して、司馬顒に司馬冏を殺させたい
李含は司馬顒に説く。「成都王の司馬穎は至親であり、大功がある。推讓して還籓し、甚だ眾心を得る。

ぼくは思う。帰藩することは「謙譲」であり、おおいに人気とりになる。洛陽に1人だけ残って、つかのまの繁栄をやった斉王の司馬冏は、ウッカリ者なのだ。だから、みんなが末世を嘆いて、諫めにきた。

齊王は、親しき者を越えて専政し、朝廷は側目する。いま長沙王の司馬乂に檄して、斉王の司馬冏を討たせよう斉王は必ず長沙王を誅する。私は斉王を、長沙王を殺した罪に基づいて討つ。必ず斉王を禽えらえる。

司馬乂は噛ませイヌなのだ。司馬乂が司馬冏を攻撃する。司馬冏が返り討ちにする。その司馬冏を李含が討つ。

斉王の司馬冏を去らせ、成都王の司馬穎を立てれば、逼を除き親を建て、社稷を安じる。大勲である」と。司馬顒は従った。

是時,武帝族弟范陽王虓都督豫州諸軍事。顒上表陳冏罪狀,且言:「勒兵十萬,欲與成都王穎、新野王歆、范陽王虓共合洛陽,請長沙王乂廢冏還第,以穎代冏輔政。」顒遂舉兵,以李含為都督,帥張方等趨洛陽,復遣使邀穎,穎將應之,盧志諫,不聽。

このとき、晋武帝の族弟・范陽王の司馬虓は、都督豫州諸軍事である。司馬顒は上書して、司馬冏の罪狀を陳べた。
かつ司馬顒はいう。「兵10万を勒し、成都王の司馬穎、新野王の司馬歆、范陽王の司馬虓と、洛陽で合わさろう。長沙王の司馬乂に、司馬冏を廃させ、司馬冏を還第させよう。司馬穎を司馬冏に代えて輔政させよう」と。
司馬顒は、ついに兵を挙げた。李含を都督とし、張方らをひきいて洛陽に趨る。また使者をやり、司馬穎を邀する。司馬穎は応じる。盧志が司馬穎を諫めたが、司馬穎は聴かず。

12月、長沙王の司馬乂が、斉王の司馬冏を斬る

十二月,丁卯,顒表至。冏大懼,會百官議之,曰:「孤首唱義兵,臣子之節,信著神明。今二王信讒作難,將若之何?」尚書令王戎曰:「公勳業誠大,然賞不及勞,故人懷貳心。今二王兵盛,不可當也。若以王就第,委權崇讓,庶可求安。」冏從事中郎葛旟怒曰:「三台納言,不恤王事。賞報稽緩,責不在府。讒言逆亂,當其誅討,奈何虛承偽書,遽令公就第乎!漢、魏以來,王侯就第,寧有得保妻子者邪?議者可斬!」百官震悚失色,戎偽藥發墮廁,得免。

12月の丁卯、司馬顒の表が至る。司馬冏は大懼して、百官と会して議する。司馬冏「私は義兵を首唱した。臣子之節、信は神明に著わる。いま2王の信は、讒を信じて難をなす。どうしよう」と。

「2王」とは、河間王の司馬顒と、成都王の司馬穎である。

尚書令の王戎「司馬冏の勳業は誠大だが、賞は労に及ばず。ゆえに人は弐心を懐く。いま2王の兵は盛んで、当たるべきでない。もし王が就第するなら、委權・崇讓せよ」と。
司馬冏の從事中郎の葛旟は怒った。「三台・納言(尚書)は、王事を恤わず。賞報の稽緩は、府(司馬冏の斉王府)に責任がない。讒言・逆亂する者(2王)は誅討すべきだ。なぜ虛承・偽書して就第させるのか。漢魏より、王侯が就第するとき、妻子を連れてきた者があるか。議者(王戎)は斬るべきだ」と。百官は震悚・失色する。王戎は、藥發・墮廁したと詐り、免れた。

李含屯陰盤,張方帥兵二萬軍新安,檄長沙王乂使討冏。冏遣董艾襲冏,乂將左右百餘人馳入宮,閉諸門,奉天子攻大司馬府,董艾陳兵宮西,縱火燒千秋神武門。冏使人執騶虞幡唱云:「長沙王矯詔。」乂又稱「大司馬謀反」。是夕,城內大戰,飛矢雨集,火光屬天。帝幸上東門,矢集御前,群臣死者相枕。連戰三日,冏眾大敗,大司馬長史趙淵殺何勖,因執冏以降。冏至殿前,帝惻然,欲活之。叱左右趣牽出,斬於閶闔門外,徇首六軍,同黨皆夷三族,死者二千餘人。囚冏子超、冰、英於金墉城,廢冏弟北海王寔。赦天下,改元。李含等聞冏死,引兵還長安。

李含は陰盤に屯する。

陰盤について、ながい胡注。2674頁。

張方は2万をひきい、新安に軍する。

新安は、漢代は弘農、晋代は河南に属する。

檄して、長沙王の司馬乂に司馬冏を討たせる。司馬冏は、董艾に司馬乂を襲わせる。司馬乂は、左右1百余人をひきい、馳せて入宮する。諸門を閉じ、天子を奉じて、大司馬府を攻める。董艾の陳兵は宮西にあり、千秋の神武門を焼く。

門について、2675頁。

司馬冏は騶虞幡を持ちだして「長沙王の司馬乂が矯詔した」という。司馬乂のほうでは「大司馬の司馬冏が謀反した」という。
この夕、城内で大戦する。飛矢は雨集し、火光は属天する。恵帝は上東門にゆく。矢は御前に集まる。群臣の死者は相枕する。連戦3日、司馬冏の衆は大敗した。大司馬長史の趙淵は、何勖を殺し、司馬冏を執えて司馬乂に降る。

何勖は、司馬冏とともに起兵して、ときに中領軍である。

司馬冏は殿前に至る。恵帝は惻然として、司馬冏を活かしたい。左右を叱って、促して牽き出し、司馬冏を閶闔の門外で斬る。

門について、2675頁。

首を六軍に徇える。同党はみな夷三族。使者は2千余人。司馬冏の子である、司馬超、司馬冰、司馬英は、金墉城に囚わる。司馬冏の弟・北海王の司馬寔を廃する。

ぼくは思う。八王はみな近親なのに。司馬寔だけが、特別に司馬冏に近かったのだろうか。同母とか?

(司馬乂は)天下を赦し(太安と)改元する。
李含らは司馬冏の死を聞き、引兵して長安に還る。

長沙王乂雖在朝廷,事無鉅細,皆就鄴諮大將軍穎。穎以孫惠為參軍,陸雲為右司馬。
是歲,陳留王薨,謚日魏元皇帝。

長沙王の司馬乂は、朝廷にあるが、事は鉅細なく、みな鄴県に就き、大將軍の司馬穎に諮る。司馬穎は、孫恵を参軍とする。陸雲を右司馬とする。

ぼくは思う。孫呉の人士が、西晋の秩序を回復させようと動きつつ、じつは「本人も無意識で、西晋の霍乱を狙っている」としたら。これはおもしろい!

この歳、陳留王(曹奐)が薨じた。魏元皇帝と諡する。

ぼくは思う。曹魏の最期の皇帝がくたばる前に、西晋のほうが、先にくたばってしまった。献帝が、曹丕よりも長生きしたのと同じである。王朝の変遷、政局の展開が速すぎるのである。


鮮卑寧文單于莫圭部眾強盛,遣其弟屈雲攻慕容廆,廆擊其別帥素怒延,破之。素怒延恥之,復發兵十萬,圍廆於棘城。廆眾皆懼,廆曰:「素怒延兵雖多而無法制,已在吾算中矣,諸君但為力戰,無所憂也!」遂出擊,大破之,追奔百里,俘斬萬計。遼東孟暉,先沒於寧文部,帥其眾數千家降於廆,廆以為建威將軍。廆以其臣慕輿句勤恪廉靖,使掌府庫;句心計默識,不案簿書,始終無漏。以慕輿河明敏精審,使典獄訟,覆訊清允。

鮮卑の宇文單于の莫圭は、部衆が強盛である。弟の屈雲に、慕容廆を攻めさせる。慕容廆は、別帥の素怒延をやぶる。素怒延はこれを恥じて、10万を発して、慕容廆を棘城に囲む。。慕容廆の衆は懼れた。
慕容廆「素怒延の兵は多いが、法制がない。すでに私の算中にある。諸君はただ力戰せよ」と。出撃して慕容廆が大勝した。

どこにどういう「算」があったのか、『通鑑』だけでは分からん。

遼東の孟暉は、さきに宇文部に没した。孟暉は数千家をつれ、慕容廆に降った。慕容廆は孟暉を建威將軍とする。慕容廆は、臣の慕輿句が、勤恪・廉靖なので、府庫を掌させた。慕輿句は、心計・默識して(頭のなかだけで情報処理して)簿書を案じないが、漏れがない。慕輿河は、明敏・精審である。慕輿河に、獄訟を典させた。覆訊は清允である。

慕輿氏は、けだし鮮卑の種族であり、べつに一姓をやす。史家は、慕容廆がうまく人材を使ったと示しているのだ。
ぼくは思う。固有名詞は一度きりだし、具体的な仕事のエピソードもない。胡三省のいうとおり、慕容廆を形容するとき、その表現を拡張しただけだろう。

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