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- 317年 司馬睿が晋王となり、愍帝が殺される
春、河西の張氏が長安を救わず自安する
【晉紀十二】 起強圉赤奮若,盡著雍攝提格,凡二年。中宗元皇帝上建武元年(丁丑,公元三一七年)
春,正月,漢兵東略弘農,太守宋哲奔江東。
黃門郎史淑、侍御史王沖自長安奔涼州,稱愍帝出降前一日,使淑等繼詔賜張實,拜實大都督、涼州牧、侍中、司空,承製行事,且曰:「朕已詔琅邪王時攝大位,君其協贊琅邪,共濟多難。」淑等至姑臧,實大臨三日,辭官不受。春正月、漢兵は東して弘農を略した。弘農太守の宋哲は、江東に奔る。
宋哲は華陰に屯した。漢兵は長安より東して略した。城を棄てて奔った。黄門郎の史淑、侍御史の王沖は、長安より涼州に奔った。「愍帝が出降したのは前1日」と称して、史淑らに詔を継がせ、張実に大都督、涼州牧、侍中、司空を拝させ、承制行事させる。また詔して「朕はすでに琅邪王のとき大位に摂いた。きみは琅邪の国政に協贊して、ともに多難を済った」という。史淑らは姑臧に至る。張実は、大臨3日、官を辞して受けず。
初,實叔父肅為西海太守,聞長安危逼,請為先鋒入援。實以其老,弗許。及聞長安不守,肅悲憤而卒。はじめ張実の叔父の張肅は、西海太守となる。長安が危逼と聞き、先鋒となり入援したい。張実は、張肅が老いたので許さず。長安が守れなかったと聞き、張肅は悲憤して卒した。
王莽は西海郡を老いたが、光武帝が廃止した。献帝の興平2年、武威太守の張雅は、西海郡を置けと請う。張掖から居延1県をわけて、西海郡とした。王莽のときと、場所がちがう。
實遣太府司馬韓璞、撫戎將軍張閬等帥步騎一萬東擊漢,命討虜將軍陳安、安故太守賈騫、隴西太守吳紹各統郡兵為前驅。又遺相國保書曰:「王室有事,不忘投軀。前遣賈騫瞻公舉動,中被符命,敕騫還軍。俄聞寇逼長安,胡崧不進,麴允持金五百,請救於崧,遂決遣騫等進軍度嶺。會聞朝廷傾覆,為忠不遂,憤痛之深,死有餘責。今更遣璞等,唯公命是從。」璞等卒不能進而還,張実は、太府司馬の韓璞、撫戎將軍の張閬らに、步騎1万で東して、漢軍を撃たせる。
ときに張氏は、河西を保拠する。太府司馬がある。太府・少府の主簿らの官職は、けだし都督府をもって太府と見なしたのだろう。涼州府を少府としたのだ。つまり、都督府と涼州府を、太府と少府という。討虜將軍の陳安、安故太守賈騫、隴西太守の吳紹は、それぞれ郡兵をすべて前駆する。相國の司馬保を遣わして書をおくる。
「王室は有事なり。投躯を忘れず。前に賈騫をやって、あなたの挙動を瞻た。符命に中被して、勅して賈騫に還軍させた。
不明とは、けだし司馬保の符で、張寔に下したもの。にわかに長安が寇逼したと聞くが、胡崧は進まず。麴允は金500を持して、胡崧に救いを求めた。ついに賈騫らは進軍・度嶺した。ちょうど長安の朝廷が傾覆したと聞き、忠は遂げず。憤痛の深は、死して余責あり。いま更めて韓璞らを遣わす。ただ韓璞は、あなたの命令に従う」韓璞らの卒は、進めなくて還った。
至南安,諸羌斷路,相持百餘日,糧竭矢盡。璞殺車中牛以饗士,泣謂之曰:「汝曹念父母乎?」曰:「念。」「念妻子乎?」曰:「念。」「欲生還乎?」曰:「欲。」「從我令乎?」曰:「諾。」乃鼓噪進戰。會張閬帥金城兵繼至,夾擊,大破之,斬首數千級。
先是,長安謠曰:「秦川中,血沒腕,唯有涼州倚柱觀。」及漢兵覆關中,氐、羌掠隴右,雍、秦之民,死者什八九,獨涼州安全。韓璞は南安に至る。諸羌が断路する。相持すこと1百余日。糧は竭き、矢も盡きた。韓璞は車中牛を殺して、士に饗う。泣いて「お前らは父母を念わぬか」という。士「念う」と。韓璞「妻子を念わぬか」と。士「念う」と。韓璞「生きて還りたいか」と。士「還りたい」と。韓璞「わが令に従わないか」と。士「従う」と。鼓噪・進戰した。ちょうど張閬が金城の兵を帥して継至する。夾擊して大破した。數千級を斬首した。
これより先、長安は謠した。「秦川の中で、血は腕を没す。ただ涼州のみ柱観が倚つ」と。漢兵が関中を及ぶと、氐羌は隴右を掠した。雍州と秦州の民は、8割-9割が死んだ。涼州だけが安んじ全うした。
2月、榮陽太守の李矩が、劉暢を破る
二月,漢主聰使從弟暢帥步騎三萬攻滎陽,太守李矩屯韓王故壘,相去七里,遣使招矩。時暢兵猝至,矩未及為備,乃遣使詐降於暢。暢不復設備,大饗,渠帥皆醉。矩欲夜襲之,士卒皆恇懼,矩乃遣其將郭誦禱於子產祠,使巫揚言曰:「子產有教,當遣神兵相助。」眾皆踴躍爭進。矩選勇敢千人,使誦將之,掩擊暢營,斬首數千級,暢僅以身免。2月、劉聡は從弟の劉暢に步騎3万で、榮陽を攻めさせる。榮陽太守の李矩は、韓王の故壘(新鄭)に屯する。漢兵との距離は7里。劉暢は使者をやり、李矩を招く。ときに劉暢の兵は猝至したので、李矩はまだ防備しない。李矩は使者をやり、詐って劉暢に降る。劉暢は設備をやめて、大饗した。渠帥は皆な酔った。李矩は夜襲したいが、士卒は皆な恇懼した。李矩は、將の郭誦禱の子・郭産祠に、巫して揚言させた。「子産は有教なり。神兵を遣わして相助する」と。衆は踴躍して爭進した。李矩は勇敢な1千人を選び、誦してひきいる。劉暢の営を掩擊させた。斬首すること数千級。劉暢は僅かに免れた。
3月、司馬睿が晋王となり、百官を置く
辛巳,宋哲至建康,稱受愍帝詔,令丞相琅邪王睿統攝萬機。三月,琅邪王素服出次,舉哀三日。於是西陽王羕及官屬等共上尊號,王不許。羕等固請不已,王慨然流涕曰:「孤,罪人也。諸賢見逼不已,當歸琅邪耳!」呼私奴,命駕將歸國。羕等乃請依魏、晉故事,稱晉王;許之。辛卯,即晉王位,大赦,改元;始備百官,立宗廟,建社稷。辛巳、宋哲は建康に至る。愍帝の詔を受けたと称して、丞相する琅邪王の司馬睿に萬機を統攝させる。
3月、琅邪王は素服で出次する。哀3日を挙げる。西陽王の司馬羕および官属らは、ともに尊號を上る。司馬睿は許さず。司馬睿は慨然と流涕した。「孤は罪人である。諸賢に逼られて已まず。瑯邪に帰りたい」と。私奴をよび、駕させ帰国しそう。司馬羕らは、魏晋の故事に依り、晋王を称させる。司馬睿は晋王は許す。辛卯、晋王の位に即く。大赦・改元した。始めて百官を備え、宗廟を立て、社稷を建てる。
有司請立太子,王愛次子宣城公裒,欲立之,謂王導曰:「立子當以德。」導曰:「世子、宣城,俱有朗俊之美,而世子年長。」王從之。丙辰,立世子紹為王太子;封裒為琅邪王,奉恭王后王太子を立てるとき、司馬睿は次子を立てたい。司馬睿「子は徳を以て立てるべき」と。王導に「世子は長子がいい」と。王導に従い、司馬紹を王太子とした。太子になりそびれた次子は、瑯邪王となった。
仍以裒都督青、徐、兗三州諸軍事,鎮廣陵。以西陽王羕為太保,封譙剛王遜之子承為譙王。遜,宣帝之弟子也。又以征南大將軍王敦為大將軍、江州牧,揚州刺史王導為驃騎將軍、都督中外諸軍事、領中書監、錄尚書事,丞相左長史刁協為尚書左僕射,右長史周顗為吏部尚書,軍諮祭酒賀循為中書令,右司馬戴淵、王邃為尚書,司直劉隗為御史中丞,行參軍劉超為中書舍人,參軍事孔愉長兼中書郎;自餘參軍悉拜奉車都尉,掾屬拜駙馬都尉,行參軍舍人拜騎都尉。人名と官職。はぶく。
官職などの胡注は、2844頁。
王敦辭州牧,王導以敦統六州,辭中外都督,賀循以老病辭中書令,王皆許之,以循為太常。是時,承喪亂之後,江東草創,刁協久宦中朝,諳練舊事,賀循為世儒宗,明習禮學,凡有疑議,皆取決焉。王敦は州牧を辞した。王導は王敦に、6州を統べさせ、中外都督を辞させた。賀循は、老病なので中書令を辞した。司馬睿はすべて許した。賀循を太常とした。
このとき、喪亂之後を承け、江東は草創する。刁協は、久しく中朝に宦え、舊事を諳練する。賀循は、世に儒宗であり、禮學に明習する。すべての疑義は取決された。
劉琨と段匹磾、慕容廆も司馬睿を支持する
劉琨、段匹磾相與歃血同盟,期以翼戴晉室。辛丑,琨檄告華、夷,遣兼左長史、右司馬溫嶠,匹磾遣左長史榮邵,奉表及盟文詣建康勸進。嶠,羨之弟子也。嶠之從母為琨妻,琨謂嶠曰:「晉祚雖衰,天命未改,吾當立功河朔,使卿延譽江南。行矣,勉之!」劉琨と段匹磾は、ともに歃血して同盟する。晉室を翼戴しようと期する。辛丑、劉琨は華夷に檄告する。劉琨は、兼左長史右司馬の温嶠をつかわす。段匹磾は左長史の榮邵をつかわす。奉表および盟文して、建康を詣でて勸進する。
胡三省はいう。漢魏革命のとき、魏臣は勧進した。魏晋革命のとき、何曽らが勧進した。このとき愍帝は塵をこうむり、四海に君なし。劉琨らは、それを正せと勧進したのだ。温嶠は、温羨の弟の子である。温嶠の從母は、劉琨の妻となる。
母の姉妹を従母という。劉琨は温嶠にいう。「晉祚は衰えたが、天命は未だ改まらず。私が河朔で立功し、きみは江南を延譽する。行って勉めろ」と。
王以鮮卑大都督慕容廆為都督遼左雜夷流民諸軍事、龍驤將軍、大單于、昌黎公,廆不受;征虜將軍魯昌說廆曰:「今兩京覆沒,天子蒙塵,琅邪王承製江東,為四海所繫屬。明公雖雄據一方,而諸部猶阻兵未服者,蓋以官非王命故也。謂宜通使琅邪,勸承大統,然後奉詔令以伐有罪,誰敢不從!」處士遼東高詡曰:「霸王之資,非義不濟。今晉室雖微,人心猶附之,宜遣使江東,示有所尊,然後仗大義以征諸部,不患無辭矣。」廆從之,遣長史王濟浮海詣建康勸進。司馬睿は、鮮卑大都督の慕容廆を、都督遼左雜夷流民諸軍事、龍驤將軍、大單于、昌黎公とした。慕容廆は受けず。征虜將軍の魯昌は慕容廆にいう。「いま両京は覆沒した。天子は蒙塵した。琅邪王が江東で承制して、四海は繫属される。慕容廆は一方に雄據するが、なお諸部が阻兵・未服なのは、慕容廆の官職に王命の裏づけがないから。司馬睿と通使して、大統を承げと勧めろ。その後にに詔令を奉して、有罪を伐てば、誰が従わないものか」と。
司馬睿を外から支持する者の典型的な意見。東晋の成立において、慕容廆は存在感が大きいのね。ちゃんと五胡十六国を読みたい。そのうち。處士たる遼東の高詡はいう。「霸王之資は、義でなければ済えない。いま晉室は微だが、なお人心は付す。江東に使者して、尊ぶと示せ。その後に大義を仗て、諸部を征せ」と慕容廆は従う。長史の王濟に浮海して建康に詣させ、勸進する。
漢主の劉聡が、実弟の劉義を殺す
漢相國粲使其黨王平謂太弟義曰:「適奉中詔,雲京師將有變,宜衷甲以備非常。」義信之,命宮臣皆衷甲以居。粲馳遣告靳准、王沈。准以白漢主聰曰:「太弟將為亂,已衷甲矣!」聰大驚曰:「寧有是邪!」王沈等皆曰:「臣等聞之久矣,屢言之,而陛下不之信也。」聰使粲以兵圍東宮。粲使准、沈收氐、羌酋長十餘人,窮問之,皆懸首高格,燒鐵灼目,酋長自誣與義謀反。聰謂沈等曰:「吾今而後知卿等之忠也!當念知無不言,勿恨往日言而不用也!」漢相國の劉粲は、党与の王平から太弟義に言わせた。「京師には変がありそうだ。衷甲して非常に備えろ」と。太弟義は信じて、宮臣に衷甲しろと命じた。
劉燦はもとより忌刻であり、太弟義も愚かである。甲を衣の中につけることを「衷甲」という。劉燦は、馳せて靳准と王沈に告げた。靳准は劉聡にいう。「太弟が乱をやりそうだ。すでに衷甲した」と。劉聡は大驚した。「そうなのか」と。王沈らは「前から太弟義の謀反を聞いており、なんども劉聡に言ったのに、信じてもらえなかった」と。
劉聡は、劉燦に東宮を囲ませた。劉燦は、靳准と王沈に、氐羌の酋長10余人を捕らえて、窮問させた。太弟義は大単于となる。氐羌の酋長は太弟義に属して、東宮に仕えていた。みなの首を高格に懸け、燒鐵・灼目した。酋長は「私たちは太弟義と謀反するつもりだ」と自らウソをつく。劉聡は王沈らにいう。「私はいま君らの忠を知った。いままで発言を用いなかったことを恨んでくれるな」と。
於是誅東宮官屬及義素所親厚,准、沈等素所憎怨者大臣數十人,坑士卒萬五千餘人。夏,四月,廢義為北海王,粲尋使准賊殺之。義形神秀爽,寬仁有器度,故士心多附之。聰聞其死,哭之慟,曰:「吾兄弟止餘二人而不相容,安得使天下知吾心邪!」氐、羌叛者甚眾,以靳准行車騎大將軍,討平之。
夏,四月,廢義為北海王,粲尋使准賊殺之。義形神秀爽,寬仁有器度,故士心多附之。聰聞其死,哭之慟,曰:「吾兄弟止餘二人而不相容,安得使天下知吾心邪!」氐、羌叛者甚眾,以靳准行車騎大將軍,討平之。ここにおいて東宮の官属および太弟義に親厚する者を誅した。靳准と王沈らは、ふだんから憎怨する大臣を数十人殺した。士卒を15千余人坑した。
埋められたのは、東宮の四衛の兵である。夏4月、太弟義を廃して北海王とする。劉燦は、靳准に太弟義を殺させた。太弟義は、形神は秀爽で、寬仁で器度あり。劉聡はその死を聞くと、哭慟した。「わが兄弟は2人しかいないが、相容れなかった。
劉淵の諸子は、このとき劉聡と劉義(太弟義)だけだった。なぜ天下の者は、私の心が分かるものか」と。氐羌で叛する者は甚だ衆い。靳准を行車騎大將軍として、氐羌を討平させた。
6月、祖逖が譙郡の塢を降し、晋軍を預かる
五月,壬午,日有食之。
六月,丙寅,溫嶠等至建康,王導、周顗、庾亮等皆愛嶠才,爭與之交。是時,太尉、豫州牧荀組、冀州刺史邵續、青州刺史曹嶷、寧州刺史王遜、東夷校尉崔毖等皆上表勸進,王不許。五月の壬午、日食あり。
六月の丙寅、温嶠らは建康に至る。王導、周顗、庾亮らは、みな温嶠の才能を愛して、争って交った。このとき、太尉・豫州牧の荀組、冀州刺史の邵續、青州刺史の曹嶷、寧州刺史の王遜、東夷校尉の崔毖らは、みな上表して(皇帝になれと)勧進する。司馬睿は許さず。
初,流民張平、樊雅各聚眾數千人在譙,為塢主。王之為丞相也,遣行參軍譙國桓宣往說平、雅,平、雅皆請降。及豫州刺史祖逖出屯蘆洲,遣參軍殷義詣平、雅。義意輕平,視其屋,曰:「可作馬廄。」見大鑊,曰:「可鑄鐵器。」平曰:「此乃帝王鑊,天下清平方用之,奈何毀之!」義曰:「卿未能保其頭,而愛鑊邪!」平大怒,於坐斬義,勒兵固守。逖攻之,歲餘不下,乃誘其部將謝浮,使殺之;逖進據太丘。樊雅猶據譙城,與逖相拒。はじめ、流民の張平と樊雅は、数千をひきいて譙郡で塢主となる。司馬睿が丞相になると、行參軍する譙國の桓宣をつかわし、説得した。2人は請降した。豫州刺史の祖逖は、蘆洲に出屯する。參軍の殷義をつかわし、譙郡の塢を詣でる。殷義は、塢主を軽んじて、その屋を視て「馬廄を作るがよい」という。大鑊(大鍋)を見て「(鋳つぶして)鉄器を鋳すがよい」という。
塢主はいう。「これは帝王の鑊だ。天下の清平に用いるのに、なぜ鋳つぶせというか」と。祖逖の使者・殷義「きみはその頭を保てなくても、鑊を愛するか」と。塢主は怒り、その場で殷義を斬った。勒兵・固守した。
祖逖は譙郡の塢を攻めたが、歲餘くだせず。部將の謝浮を誘って、塢主を殺させた。祖逖は進んで太丘(沛郡)に拠る。もう1人の塢主・樊雅は、なお譙城に拠り、祖逖と相拒する。
逖攻之不克,請兵於南中郎將王含。桓宣時為含參軍,含遣宣將兵五百助逖。逖謂宣曰:「卿信義已著於彼,今復為我說雅。」宣乃單馬從兩人詣雅曰:「祖豫州方欲平蕩劉、石,倚卿為援;前殷義輕薄,非豫州意也。」雅即詣逖降。逖既入譙城,石勒遣石虎圍譙,王含復遣桓宣救之,虎解去。逖表宣為譙國內史。祖逖は譙郡を攻めても克てず。兵を南中郎將に王含に請うた。桓宣は、ときに王含の參軍であったが、王含が桓宣に5百をつけて、祖逖を助けさせる。祖逖は桓宣にいう。「きみの信義は、すでに(譙郡の塢主に対して)著らかだ。いま復た私のために説得してくれ」と。
桓宣は單馬で2人を従え、塢主にいう。「祖逖は、劉氏と石氏を平蕩したい。きみに援けてもらいたい。前に殷義は輕薄だったが(殷義の軽薄な失言は)祖逖の意思ではない」と。塢主は祖逖に降った。祖逖は譙城に入る。
石勒は、石虎に譙郡を囲ませた。王含は復た桓宣をやって救った。石虎は解去した。祖逖は表して、桓宣を譙國内史とした。
己巳,晉王傳檄天下,稱:「石虎敢帥犬羊,渡河縱毒,今遣琅邪王裒等九軍,銳卒三萬,水陸四道,逕造賊場,受祖逖節度。」尋復召裒還建康。己巳、司馬睿は天下に傳檄した。「石虎は、敢えて犬羊を帥いる。渡河して縱ままに毒する。いま琅邪王の司馬裒ら9軍をつかわす。鋭卒3萬が、水陸4道からゆき、賊場を逕造する。祖逖の節度を受けろ」と。復た司馬裒を召して、建康に還す。
ぼくは思う。司馬裒は、なぜ還ってきたのだろう。がんばれよ。
秋、劉琨が鮮卑から大都督に推される
秋,七月,大旱;司、冀、並、青、雍州大蝗;河、汾溢,漂千餘家。
漢主聰立晉王粲為皇太子,領相國、大單于,總攝朝政如故。大赦。秋7月、大旱あり。司、冀、並、青、雍州で大蝗あり。河水と汾水があふれた。1千余家が漂った。
すべてが漢家と晋家の境界である。漢主の劉聡は、晋王の劉燦を皇太子にたてた。相國、大單于を領させた。劉聡が朝政を摂ること、もとのまま。大赦した。
ぼくは思う。西晋末の『通鑑』を読んでいると、趙漢の劉氏を主人公にして、記事を整理したくなる。でもその前に、八王をやるのだ。八王を確認するために『通鑑』を読んでいるのだから。西晋を読むのを13年内を目標にしたが、11月中でもいけそう。
段匹磾推劉琨為大都督,檄其兄遼西公疾陸眷及叔父涉復辰、弟末柸等會於固安,共討石勒。末柸說疾陸眷、涉復辰曰:「以父兄而從子弟,恥也;且幸而有功,匹磾獨收之,吾屬何有哉!」各引兵還。琨、匹磾不能獨留,亦還薊。
以荀組為司徒。段匹磾は、劉琨を大都督に推した。兄の遼西公の疾陸眷と、叔父の涉復辰と、弟の末柸らに檄して、固安で会して、ともに石勒を討つ。
固安県は、漢代は涿郡に属する。魏晋は涿郡を范陽と改める。固安とは、もとは故安である。末柸は疾陸眷と涉復辰に説く。「父兄をもって、從子弟とするのは恥である。幸いに功があれば、匹磾だけに功績を帰属させろ。われらは功績はいらん」と。おのおの引兵して還る。劉琨と匹磾は、彼らだけでは固安に留まれず、薊県に還った。
荀組を司徒とした。
八月,漢趙固襲衛將軍華薈於臨穎,殺之。
初,趙固與長史周振有隙,振密譖固於漢主聰。李矩之破劉暢也,於帳中得聰詔,令暢既克矩,還過洛陽,收固斬之,以振代固。矩送以示固,固斬振父子,帥騎一千來降;矩復令固守洛陽。
8月、漢将の趙固は、衛將軍の華薈を臨穎(頴川)で襲って殺した。
はじめ晋将の趙固は、長史の周振と仲がわるい。周振はひそかに趙固を劉聡にそしった。李矩が劉暢を破ると、帳中で劉聡の詔を得た。詔には「劉暢が李矩に勝ったから、洛陽に還過しろ。趙固を捕らえて斬れ。周振を趙固に代えろ」とあった。李矩はこの詔書を送って趙固に示した。趙固は周振の父子を斬った。騎1千を帥いて、趙固は晋家から漢家へ來降した。晋家は、李矩に復た洛陽を固守させた。
秋、晋将の周訪が、杜曾から荊州を奪回する
鄭攀等相與拒王廙,眾心不壹,散還橫桑口,欲入杜曾。王敦遣武昌太守趙誘、襄陽太守硃軌擊之,攀等懼,請降。杜曾亦請擊第五猗於襄陽以自贖。鄭攀らは、王廙と相拒する。衆心は一つでない。散って橫桑口に還り、杜曾に入りたい。
『水経注』は2848頁。王敦は、武昌太守の趙誘、襄陽太守の朱軌に撃たせた。鄭攀らは懼れて、請降した。杜曾もまた、第五猗を襄陽で撃って、自贖したい。
頻出する「うつ」を『漢辞海』で調べた。
【伐】たたく、相手を非として攻める。破壊する。自慢する。
【征】遠くにゆく、出征する。討伐する。奪うように取る。
【討】征伐する、出征する、公に非難して責める。罪を言い立てる。管理する。
【撃】たたく、攻める、突き刺す、殺す、断ちきる。強奪する。
廙將赴荊州,留長史劉浚鎮揚口壘。竟陵內史硃伺謂廙曰:「曾,猾賊也,外示屈服,欲誘官軍使西,然後兼道襲揚口耳。宜大部分,未可便西。」廙性矜厲自用,以伺為老怯,遂西行。曾等果還趨揚口;廙乃遣伺歸,裁至壘,即為曾所圍。劉浚自守北門,使伺守南門。馬俊從曾來攻壘,俊妻子先在壘中,或欲皮其面以示之。伺曰:「殺其妻子,未能解圍,但益其怒耳。」乃止。王廙は荊州に赴くとき、長史の劉浚を留めて、揚口壘に鎮させる。
『水経注』は2848頁。竟陵内史の朱伺は王廙にいう。「杜曾は猾賊である。外に屈服を示し、官軍を誘って西させ、のちに兼道して揚口を襲うのだ。軍勢を分けて、多くを西させるな」と。王廙の性は矜厲・自用である。朱伺は老怯だと見なして、ついに西行した。
ぼくは思う。王廙が失敗するパターンである。このとき西晋に反発した人々は、三国のとき、すでに生まれていただろう。父の代までゆけば、確実に孫呉とかに属している。西晋は、ほんとに「うわっつら」であった。
杜曾らは果たして還って揚口に趨る。王廙は、朱伺を伺歸させ、裁ちて壘に至る。朱伺は杜曾に囲まれた。劉浚は北門を自守し、南門を伺守させる。馬俊は、杜曾に従って壘に来攻する。馬俊の妻子は、先に塁中にいた。或者が、馬俊の妻子の顔面の皮膚をはがして、馬俊に示した。
朱伺「馬俊の妻子を殺したが、包囲が解けない。ますます怒らせただけ」と。皮膚を示すのを止めた。
曾攻陷北門,伺被傷,退入船,開船底以出,沉行五十步,乃得免。曾遣人說伺曰:「馬俊德卿全其妻子,今盡以卿家內外百口付俊,俊已盡心收視,卿可來也。」伺報曰:「吾年六十餘,不能復與卿作賊,吾死亦當南歸,妻子付汝裁之。」乃就王廙於甑山,病創而卒。杜曾は北門を攻陷した。朱伺は傷を受けて、船で逃げた。杜曾は人をやり、朱伺に説いた。「馬俊は(きみに妻子を殺されたにも関わらず)きみの妻子を生かす。会いにこないか」と。朱伺「私は60余歳で、もう杜曾や馬俊とともに賊をやる元気がない。私の妻子は殺していいよ」と。朱伺は、王廙を甑山に就け、病創で卒した。
戊寅,趙誘、硃軌及陵江將軍黃峻與曾戰於女觀湖,誘等皆敗死。曾乘勝徑告沔口,威震江、沔。王使豫章太守周訪擊之。訪有眾八千,進至沌陽。曾銳氣甚盛,訪使將軍李恆督左甄,許朝督右甄,訪自領中軍。曾先攻左、右甄,訪於陣後射雉以安眾心,令其眾曰:「一甄敗,鳴三鼓;兩甄敗,鳴六鼓。」趙誘子胤,將父餘兵屬左甄,力戰,敗而復合,馳馬告訪。訪怒,叱令更進,胤號哭還戰。戊寅、趙誘と硃軌と、陵江將軍の黃峻は、杜曾と女觀湖で戦う。晋将の趙誘らは、みな敗死した。杜曾は、勝ちに乗じて、告沔口にくる。江沔を威震させる。
地名の『水経注』について、2849頁。
ぼくは思う。世代の話。日本の高度経済成長を仕切ったのは明治生まれの人。イメージと異なるが、40代-50代になるまで時間がかかるから、生まれは前時代となる。魏晋革命を推進したのは、後漢に生まれた人々。西晋末に荊州や揚州で暴れた人も、東晋の建国を支えた人は、孫呉に生まれた人々。イメージが揺さぶられるなあ。
人間は空間を一覧して把握できるが、時間はムリ。天体や時計の針など、空間を等速運動するものに置換して換喩的に把握するのみ。でも自分が30歳を越えると「意識して過ごした10年」が初めて獲得され、時間の「感覚的な把握」ができるようになった。史料を読む者にとり、年齢を経るって素晴らしい。
司馬睿は、豫章太守の周訪に杜曾を撃たせた。周訪は衆8千がいて、進んで沌陽に至る。杜曾の銳氣は甚だ盛ん。周訪は、將軍の李恆に左甄を督させ、許朝に右甄を督させる。周訪は、自ら中軍を領する。
甄はケンと読む。戦陣には、左拒と右拒がある。「拒」とは方陣のこと。左甄と右甄とは、左翼と右翼のこと。
ぼくは思う。なぜここだけ、陣のことを「甄」と言い出したのだろう。
杜曾は左右の甄を先に攻めた。周訪は陣の後ろで、射雉して(余裕をかまして)衆心を安んじた。周訪は衆に言わせた。「1甄が敗れたら、3鼓を鳴らす。2甄が敗れたら、6鼓を鳴らす」と。趙誘の子・趙胤は、父の余兵をひきい、左甄に属して力戰する。敗れて、復た合さる。馳馬して周訪に告げる。周訪は怒り、叱って更進させる。趙號は哭いて戦場にもどる。
自旦至申,兩甄皆敗。訪選精銳八百人,自行酒飲之,敕不得妄動,聞鼓音乃進。曾兵未至三十步,訪親鳴鼓,將士皆騰躍奔赴,曾遂大潰,殺千餘人。訪夜追之,諸將請待明日,訪曰:「曾驍勇能戰,向者彼勞我逸,故克之;宜及其衰乘之,可滅也。」乃鼓行而進,遂定漢、沔。曾走保武當。王廙始得至荊州。訪以功遷梁州刺史,屯襄陽。旦から申刻まで、晋将の周訪の両甄は、どちらも敗れた。周訪は、精銳800人を選び、自ら行き酒を飲ませ、敕して妄動させない。鼓音を聞けば進ませる。杜曾の兵が、30歩の距離に至る前に、周訪は自ら鳴鼓する。將士は騰躍・奔赴して、杜曾を大潰させる。1千余人を殺した。周訪は夜に杜曾を追う。諸将は明日を待ちたい。周訪「杜曾は驍勇・能戰であるが、敗戦の衰に乗じれば滅せる」と。鼓行して進む。ついに漢沔を定めた。下層は走って武當(南陽)を保つ。王廙は(杜曾が片づいて)はじめて荊州を得た。
周訪は功により、梁州刺史に遷り、襄陽に屯する。
冬、西晋の愍帝が劉聡に使役・殺害される
冬,十月,丁未,琅邪王裒薨。十一月,己酉朔,日有食之。 丁卯,以劉琨為待中、太尉。冬10月の丁未、琅邪王の司馬裒が薨じた。11月の己酉ついたち、日食あり。
日食の日付について、2850頁。丁卯、劉琨を待中・太尉とした。
ぼくは思う。「317年の1年間は、中国世界には「正統」にも何にも、皇帝というものがなかった。これは中国史上、空前絶後の大事件であった」と。岡田英弘『世界史の誕生』正史の枠組の破綻より。西晋末の状況は、司馬遷が『史記』という正史によってで確立した「皇帝」「歴史」などの概念そのものを破壊したと。
征南軍司戴邈上疏,以為:「喪亂以來,庠序隳廢;議者或謂平世尚文,遭亂尚武,此言似之,而實不然。夫儒道深奧,不可倉猝而成。比天下平泰,然後修之,則廢墜已久矣。又,貴游之子,未必有斬將搴旗之才,從軍征戍之役,不及盛年使之講肄道義,良可惜也。世道久喪,禮俗日弊,猶火之消膏,莫之覺也。今王業肇建,萬物權輿,謂宜篤道崇儒,以勵風化。」王從之,始立太學。征南軍司の戴邈は上疏した。「太学をつくれ」と。司馬睿は太学を立てた。
漢主聰出畋,以愍帝行車騎將軍,戎服執戟前導。見者指之曰:「此故長安天子也。」聚而觀之,故老有泣者。太子粲言於聰曰:「昔周武王豈樂殺紂乎?正恐同惡相求,為患故也。今興兵聚眾者,皆以子業為名,不如早除之!」聰曰:「吾前殺庾鈱輩,而民心猶如是。吾未忍復殺也,且小觀之。」十二月,聰饗群臣於光極殿,使愍帝行酒洗爵,已而更衣,又使之執蓋;晉臣多涕泣,有失聲者。尚書郎隴西辛賓起,抱帝大哭,聰命引出,斬之。漢主の劉聡は、出畋した。愍帝を行車騎將軍とした。愍帝に戎服・執戟して前導させた。見る者が指さして「これはもとの長安の天子だ」と。聚は愍帝を見て、故老は泣く者がある。太子の劉粲は劉聡にいう。「むかし周武王は、紂王を殺すのを楽しんだか。正恐同惡相求患となった理由である。いま興兵・聚衆する者は、みな子業(愍帝)を名目とする。早く除くのがよい」と。劉聡「私は前に庾鈱らを殺した。
建興元年にある。だが民心は、なおこのようだ。私は復た愍帝を殺すのは忍びない。ちょっと様子を観よう」と。
12月、劉聡は群臣を光極殿で饗した。愍帝に行酒・洗爵させた。更衣してから、執蓋させる。晉臣は多くが涕泣する。失聲する者もある。尚書郎する隴西の辛賓は起ち、帝を抱き大哭した。劉聡は命じて引出し、辛賓を斬った。
胡三省はいう。愍帝に屈辱をあたえるのは、ここに極まった。戎狄の狡計は、晋の旧臣に見せつけたことだ。ぼくは思う。胡三省の「民族」の心が大いに発露している。
趙固與河內太守郭默侵漢河東,至絳,右司隸部民奔之者三萬餘人。騎兵將軍劉勳追擊之,殺萬餘人,固、默引歸。太子粲帥將軍劉雅生等步騎十萬屯小平津,固揚言曰:「要當生縛劉粲以贖天子。」粲表於聰曰:「子業若死,民無所望,則不為李矩、趙固之用,不攻而自滅矣。」戊戌,愍帝遇害於平陽。粲遣雅生攻洛陽,固奔陽城山。趙固と、河内太守の郭黙は、漢領の河東を侵す。絳県に至る。右司隸の部民で(晋将の趙固に)奔る者は3万余人。
絳県は、もとの晋都である。漢代は河東、晋代は平陽に属する。
劉聡は司隷を左右に分割した。
騎兵將軍の劉勳は追擊して、1万余人を殺した。趙固と郭黙は引帰する。
太子の劉粲は、將軍の劉雅生ら、步騎10万を帥いて、小平津に屯する。趙固は揚言した。「劉粲を生縛して、天子を贖おう」と。劉燦は劉聡に表した。「もし子業(愍帝)が死ねば、民は望みをなくす。李矩や趙固は役立たなくなる。攻めずとも自滅する」と。
12月の戊戌、愍帝は平陽で害に遇した。劉燦は、劉雅生に洛陽を攻めさせる。趙固は陽城山に奔る。
この歳、吐谷渾が死ぬ
是歲,王命課督農功,二千石、長吏以入谷多少為殿最,諸軍各自佃作,即以為稟。
氐王楊茂搜卒,長子難敵立,與少子堅頭分領部曲;難敵號左賢王,屯下辨,堅頭號右賢王,屯河池。この歳、司馬睿は農功を課督せよと命じた。二千石・長吏は、入れた穀物の多少によって、殿最となる。諸軍はおのおの自ら佃作して、稟(給)とする。
氐王の楊茂搜が卒した。長子の難敵が立つ。少子の堅頭と、部曲を分領する。長子の難敵は「左賢王」と号して、下辨に屯する。堅頭は「右賢王」と号して、河池に屯する。
下弁も河池も、どちらも武都郡に属する。
河南王吐谷渾卒。吐谷渾者,慕容廆之庶兄也,父涉歸,分戶一千七百以隸之。及廆嗣位,二部馬鬥,廆遣使讓吐谷渾曰:「先公分建有別,奈何不相遠異,而令馬有斗傷」吐谷渾怒曰:「馬是六畜,斗乃其常,何至怒及於人!欲遠別甚易,恐後會為難耳!今當去汝萬里之外。」遂帥其眾西徙。廆悔之,遣其長史乙那婁馮追謝之。吐谷渾曰:「先公嘗稱卜筮之言云:『吾二子皆當強盛,祚流後世。』我,孽子也,理無並大。今因馬而別,殆天意乎!」遂不復還,西傅陰山而居。屬永嘉之亂,因度隴而西,據洮水之西,極於白蘭,地方數千里。鮮卑謂兄為阿干,廆追思之,為之作《阿干之歌》。吐谷渾有子六十人,長子吐延嗣。吐延長大有勇力,羌、胡皆畏之。河南王の吐谷渾が卒した。吐谷渾とは、慕容廆の庶兄である。父の涉歸は、17百戸を分けて隸させる。
ぼくは思う。「吐谷渾」の「谷」は、『資治通鑑』317年で胡三省に「欲」と読むと書いてある。トヨクコン。でもなぜ「ヨク」なのか。高校世界史で習って以来、いまだに納得がいかない。『漢辞海』では「以燭の入」でyu4と。西晋のとき鮮卑が建国し、始祖の名を国号とし、633年に吐蕃に併合される。吐谷渾は60子がある。長子の吐延が嗣ぐ。吐延は長じて、大いに勇力あり。みな羌胡は吐延を畏れた。131027
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- 318年春、司馬睿が東晋の元帝となる
- 中宗元皇帝上太興元年(戊寅,公元三一八年)
春,正月,遼西公疾陸眷卒,其子幼,叔父涉復辰自立。段匹磾自薊往奔喪;段末柸宣言:「匹磾之來,欲為篡也。」匹磾至右北平,涉復辰發兵拒之。末柸乘虛襲涉復辰,殺之,並其子弟黨與,自稱單于。迎擊匹磾,敗之;匹磾走還薊。春正月、遼西公の疾陸眷が卒した。子が幼いので、叔父の涉復辰が自ら立つ。段匹磾は、薊県から喪に往奔する。段末柸は宣言した。「ここに匹磾が来るのは、簒奪のためだ」と。匹磾が右北平に至る。涉復辰は兵を発して拒む。段末柸は虚に乗じて涉復辰を襲って殺した。涉復辰の子弟・党与も殺した。段末柸は単于を自称した。匹磾を迎擊して敗った。匹磾は薊県に走還した。
三月,癸丑,愍帝凶問至建康,王斬縗居廬;百官請上尊號,王不許。紀瞻曰:「晉氏統絕,於今二年,陛下當承大業;顧望宗室,誰復與讓!若光踐大位,則神、民有所憑依;苟為逆天時,違人事,大勢一去,不可復還。今兩都燔蕩,宗廟無主,劉聰竊號於西北,而陛下方高讓於東南,此所謂揖讓而救火也。」王猶不許,使殿中將軍韓績徹去御坐。瞻叱績曰:「帝坐上應列星,敢動者斬!」王為之改容。3月の癸丑、愍帝の凶問は、建康に至る。司馬睿は、斬縗・居廬する。百官は尊號を請上する。司馬睿は許さず。
斬縗につき、2853頁。紀瞻曰「晉氏は統絕して、今で2年。陛下は當承大業。宗室を顧望すると、誰が復た與讓。若し大位を光踐すれば、神民は憑依する。もし天時に逆らい、人事に違えば、大勢は一去して、復還できない。
ぼくは思う。脅した!脅したよ。いま兩都は燔蕩し、宗廟は無主なり。劉聰は竊かに西北で号する。陛下は東南で高讓すれば、いわゆる揖讓して救火である」と。司馬睿はなお許さず。
殿中將軍の韓績に、御坐を徹去させた。紀瞻は韓績を叱った。「帝は坐上で列星に応じる。あえて動かす者は斬る」と。司馬睿はこのために顔色を改めた。
殿中将軍は二衛に属する。晋制で初めておく。朝会・宴饗で、戎服で左右に直侍した。夜に城門をひらくと、白虎幡を執って監した。
『天文志』によると、帝座は紫宮にある。
奉朝請周嵩上疏曰:「古之王者,義全而後取,讓成而後得,是以享世長久,重光萬載也。今梓宮未返,舊京未清,義夫泣血,士女遑遑。宜開延嘉謀,訓卒厲兵,先雪社稷大恥,副四海之心,則神器將安適哉!」由是忤旨,出為新安太守,又坐怨望抵罪。嵩,顗之弟也。朝請に奉り、周嵩が上疏した。
司馬睿は丞相となり、周嵩は参軍となる。司馬睿が晋王になるに及び、拝奉朝請した。『晋志』はいう。奉朝請とは、朝会に奉り、請召するだけ。「古の王者は、義は全うして、後に取る。讓成して後に得る。これで享世は長久となり、重光は萬載となる。いま梓宮はまだ返さず、舊京はまだ清からず、義夫は泣血し、士女は遑遑する。開延・嘉謀し、訓卒・厲兵して、先に社稷の大恥を雪ぎ、四海之心を副わせよ。さすれば神器は安適となるだろう」と。これにより旨に忤らい、周処は新安太守に出された。怨望に坐して抵罪とされた。周嵩は周顗の弟である。
ぼくは思う。周嵩は「司馬睿の即位は時期尚早である」と言ったのだ。みんなの意見と違ったから、追い出された。周嵩のロジックにこそ、見るべきものがあるよね。
丙辰,王即皇帝位,百官皆陪列。帝命王導升御床共坐,導固辭曰:「若太陽下同萬物,蒼生何由仰照?」帝乃止。大赦,改元,文武增位二等。帝欲賜諸吏投刺勸進者加位一等,民投刺者皆除吏,凡二十餘萬人。散騎常侍熊遠曰:「陛下應天繼統,率土歸戴,豈獨近者情重,遠者情輕!不若依漢法遍賜天下爵,於恩為普,且可以息檢核之煩,塞巧偽之端也。」帝不從。丙辰、司馬睿は皇帝の位に即いた(元帝)。みな百官は陪列した。元帝は王導を御床に升らせ、共に坐れと命じた。王導は固辞した。「もし太陽が下り、萬物を同じになれば、蒼生はなにを仰照するか」と。元帝は止めた。大赦・改元した。文武に2等爵を増やした。
ぼくは思う。王導はおもしろいことを言うけど。元帝は地上から昇って太陽になるべきだが、所詮は地上のものである。だから王氏との抗争が始まる。元帝は、諸吏の投刺・勸進した者に1等爵を加え、民の投刺した者を、みな吏に除したい。対象は20余万人となる。散騎常侍の熊遠はいう。「陛下は應天・繼統した。率土・歸戴する。なぜ近い者だけ情が重く、遠い者は情が軽いか。漢制の法のように、遍く天下に爵を賜り、恩を普(遍)とせよ。檢核之煩を息め、巧偽之端を塞げ」と。元帝は従わず。
ぼくは思う。使える!使えるぞ!
胡三省はいう。前漢の恵帝が嗣位したとき、民爵1級を賜る。官秩にある者は、それぞれ差あり。のちに諸帝が即位するとき、民爵1級を賜ることになった。
ぼくは思う。東晋の元帝「私の即位を勧進した諸吏に1等爵を賜う。付いてきた民は吏とする」と。熊遠「漢制のように、勧進の有無に関わらず民すべてに1等爵をあげろ」と。ぼくは思う。熊遠が敢えて漢制というのだから、曹魏や西晋の皇帝は即位のとき「みんな1等爵あげる」のばらまきはしなかったか。確認せねば。
庚午,立王太子紹為皇太子。太子仁孝,喜文辭,善武藝,好賢禮士,容受規諫,與庾亮、溫嶠等為布衣之交。亮風格峻整,善談老、莊,帝器重之,聘亮妹為太子妃。帝以賀循行太子太傅,周顗為少傅,庾亮以中書郎侍講東宮。帝好刑名家,以《韓非》書賜太子。庾亮諫曰:「申、韓刻薄傷化,不足留聖心。」太子納之。庚午、王太子の司馬紹を皇太子とする。太子は仁孝で、文辭を喜び、武藝に善く、賢を好み士を禮する。容は規諫を受ける。庾亮、温嶠らと布衣之交である。庾亮は風格は峻整、老莊を談じる。元帝は器を重とする。庾亮の妹を太子妃とする。
元帝は、賀循を行太子太傅、周顗を少傅、庾亮を中書郎を以て侍講東宮とする。帝は刑名家を好み、『韓非』書を太子に賜う。庾亮は諫めた。「申・韓は、刻薄・傷化である。聖心を留めるに足らず」と。太子は(庾亮を)納れた。
ぼくは思う。太子は、父・元帝に逆らってしまった。
帝復遣使授慕容廆龍驤將軍、大單于、昌黎公,廆辭公爵不受。廆以游邃為龍驤長史,劉翔為主簿,命邃創定府朝儀法。裴嶷言於廆曰:「晉室衰微,介居江表,威德不能及遠,中原之亂,非明公不能拯也。今諸部雖各擁兵,然皆頑愚相聚,宜以漸並取,以為西討之資。」廆曰:「君言大,非孤所及也。然君中朝名德,不以孤僻陋而教誨之,是天以君賜孤而祐其國也。」乃以嶷為長史,委以軍國之謀;諸部弱小者,稍稍擊取之。元帝は使者をだし、慕容廆に龍驤將軍、大單于、昌黎公を授けた。慕容廆は、公爵を辞して受けず。
胡三省はいう。慕容廆はそとでは謙譲するが、その志は、昌黎の地で、鬱々としているのを肯んじなかった。だからこの爵位を拒んだ。
ぼくは思う。封地に重点をおいた分析。おもろい。慕容廆は、游邃を龍驤長史として、劉翔を主簿とした。游邃に命じて、府朝の儀法を定めさせた。
裴嶷は慕容廆にいう。「晉室は衰微し、江表に介居する。威德は遠くに及ばず。中原之乱は、慕容廆でなければ拯せない。いま諸部はそれぞれ擁兵するが、みな相聚を頑愚する。並取して西討之資とせよ」と。慕容廆「君の言は大で、私は及ばない。きみは中朝の名德だ。私は僻陋だが、裴嶷が教誨してくれる。天が君を私に賜り、その国(中原)を祐けるのだ」と。慕容廆は裴嶷を長史として、軍国之謀を委ねた。諸部の弱小な者は、慕容廆に撃って取られた。
◆晋将が、漢の太子・劉燦を破る
李矩使郭默、郭誦救趙固,屯於洛汭。誦潛遣其將耿稚等夜濟河襲漢營,漢貝丘王翼光覘知之,以告太子粲,請為之備。粲曰:「彼聞趙固之敗,自保不暇,安敢來此邪!毋為驚動將士!」俄而稚等奄至,十道進攻,粲眾驚潰,死傷太半,粲走保陽鄉。稚等據其營,獲器械、軍資不可勝數。及旦,粲見稚等兵少,更與劉雅生收餘眾攻之,漢主聰使太尉范隆帥騎助之,與稚等相持,苦戰二十餘日,不能下。李矩進兵救之,漢兵臨河拒守,矩兵不得濟。稚等殺其所獲牛馬,焚其軍資,突圍,奔虎牢。詔以矩都督河南三郡諸軍事。李矩は、郭默と郭誦に、趙固を救わせ、洛汭に屯させる。ひそかに郭誦は、將の耿稚らに、夜に濟河させ、漢營を襲わせた。
『水経注』が2855頁に。李矩伝では、漢軍の劉燦は、このとき孟津の北岸にいた。漢の貝丘王の翼光はこれを覘知して、太子の劉燦に告げ、備えろという。劉燦「彼は趙固の敗北を聞き、自ら保する暇がないはず。なぜ敢えてここに来たか。將士を驚動させるな」と。
ぼくは補う。劉燦は、せっかく敵襲を報告されたのに、情報を信じなかったので、敗れてしまった。匈奴の劉氏は、これを主人公に、ひとつ物語になる。また後日。まずは八王なのだ。131027にわかに耿稚らは奄至して、10道で進攻する。劉燦の衆は驚潰して、太半が死傷する。走って陽郷を保つ。耿稚らはその営に拠り、器械を獲る。軍資は数えられないほど。旦の及び、劉燦は耿稚の兵が少ないので、更めて劉雅生に余衆をあつめさせ、耿稚を攻める。漢主の劉聡は、太尉の范隆に騎兵をつけて、劉燦を救わせる。耿稚と相持して、苦戰すること20余日。下せず。李矩は進兵して救う。漢兵は臨河・拒守する。李矩の兵はわたれない。耿稚は獲た牛馬を殺し、軍資を焚き、囲を突して、虎牢に奔する。詔して、李矩を都督河南三郡諸軍事とする。
河南、榮陽、弘農の3郡である。
漢螽斯則百堂災,燒殺漢主聰之子會稽王康等二十一人。
聰以其子濟南王驥為大將軍、都督中外諸軍事、錄尚書,齊王勱為大司徒。
漢の螽斯則百堂が災えた。劉聡の子・会稽王の劉康ら21人が焼け死んだ。
劉聡は、子の濟南王の劉驥を大將軍、都督中外諸軍事、錄尚書とする。齊王の劉勱を大司徒とする。
◆河西の張氏が独自の年号を継続
焦嵩、陳安舉兵逼上邽,相國保遣使告急於張寔,寔遣金城太守竇濤督步騎二萬赴之。軍至新陽,聞愍帝崩,保謀稱尊號。破羌都尉張誥言於寔曰:「南陽王,國之疏屬,忘其大恥而亟欲自尊,必不能成功。晉王近親,且有名德,當帥天下以奉之。」寔從之,遣牙門蔡忠奉表詣建康;比至,帝已即位。寔不用江東年號,猶稱建興。焦嵩と陳安は、挙兵して上邽に逼る。相國の司馬保は、張寔に急を告げた。張寔は、金城太守の竇濤に步騎2万を督させ、ゆかせる。新陽に至り、愍帝が崩じたと聞き、司馬保は尊號を称そうと謀る。
破羌都尉の張誥は張寔にいう。「南陽王は、国の疏属である。大恥を忘れて、自ら尊号を称しそう。
君父が属に殺されたので、司馬保は大恥がある。
司馬保は司馬懿の従曾孫である。ゆえに「疏属」という。
必ずしも成功できない。晋王の司馬睿は近親で、名德がある。天下を帥いて、司馬睿を奉ろう」と。陳式は従う。牙門の蔡忠に奉表させ、建康を詣でる。
このころ、すでに元帝が即位した。陳式は江東の年號を用いず、なお「建興」を使い続けた。河西の張氏は「建興」の年号を用いた。9世49年である。孝宗の升平5年、張天錫は、東晋の「升平」の年号を奉った。
夏、また後日 131027
夏,四月,丁丑朔,日有食之。 加王敦江州牧,王導驃騎大將軍、開府儀同三司。導遣八部從事行揚州郡國,還,同時俱見。諸從事各言二千石官長得失,獨顧和無言。導問之,和曰:「明公作輔,寧使網漏吞舟,何緣采聽風聞,以察察為政邪!」導咨嗟稱善。和,榮之族子也。 成丞相范長生卒;成主雄以長生子侍中賁為丞相。長生博學,多藝能,年近百歲,蜀人奉之如神。 漢中常侍王沈養女有美色,漢主聰立以為左皇后。尚書令王鑒、中書監崔懿之、中書令曹恂諫曰:「臣聞王者立後,比德乾坤,生承宗廟,沒配后土。必擇世德名宗,幽閒令淑,乃副四海之望,稱神祇之心。孝成帝以趙飛燕為後,使繼嗣絕滅,社稷為墟,此前鑒也。自麟嘉以來,中宮之位,不以德舉。借使沈之弟女,刑餘小丑,猶不可以塵污椒房,況其家婢邪!六宮妃嬪,皆公子公孫,奈何一旦以婢主之!臣恐非國家之福也。」聰大怒,使中常侍宣懷謂太子粲曰:「鑒等小子,狂言侮慢,無復君臣上下之禮,其速考實!」於是收鑒等送市,皆斬之。金紫光祿大夫王延馳將入諫,門者弗通。鑒等臨刑,王沈以杖叩之曰:「庸奴,復能為惡乎!乃公何與汝事!」鑒瞋目叱之曰:「豎子,滅大漢者,正坐汝鼠輩與靳准耳!要當訴汝於先帝,取汝於地下治之。」准謂鑒曰:「吾受詔收君,有何不善,君言漢滅由吾也!」鑒曰:「汝殺皇太弟,使主上獲不友之名。國家畜養汝輩,何得不滅!」懿之謂准曰:「汝心如梟獍,必為國患,汝既食人,人亦當食汝。」聰又立宣懷養女為中皇后。 司徒荀組在許昌,逼於石勒,帥其屬數百人渡江。詔組與太保西陽王羕並錄尚書事。 段匹磾之奔疾陸眷喪也,劉琨使其世子群送之。匹磾敗,群為段末柸所得。末柸厚禮之,許以琨為幽州刺史,欲與之襲匹磾,密遣使繼群書,請琨為內應,為匹磾邏騎所得。時琨別屯征北小城,不知也,來見匹磾。匹磾以群書示琨曰:「意亦不疑公,是以白公耳。」琨曰:「與公同盟,庶雪國家之恥,若兒書密達,亦終不以一子之故負公而忘義也。」匹磾雅重琨,初無害琨意,將聽還屯。其弟叔軍謂匹磾曰:「我,胡夷耳;所以能服晉人者,畏吾眾也。今我骨肉乖離,是其良圖之日;若有奉琨以起,吾族盡矣。」匹磾攻拔之。代郡太守辟閭嵩、後將軍韓據復潛謀襲匹磾,事洩,匹磾執嵩、據及其徒黨,悉誅之。
五月,癸丑,匹磾稱詔收琨,縊殺之,並殺其子侄四人。琨從事中郎盧諶、崔悅等帥琨餘眾奔遼西,依段末柸,奉劉群為主;將佐多奔石勒。悅,林之曾孫也。朝廷以匹磾尚強,冀其能平河朔,乃不為琨舉哀。溫嶠表:「琨盡忠帝室,家破身亡,宜在褒恤。」盧諶、崔悅因末柸使者,亦上表為琨訟冤。後數歲,乃贈琨太尉、侍中,謚曰愍。於是夷、晉以琨死故,皆不附匹磾。末柸遣其弟攻匹磾,匹磾帥其眾數千將奔邵續,勒將石越邀之於鹽山,大敗之,匹磾復還保薊。末柸自稱幽州刺史。 初,溫嶠為劉琨奉表詣建康,其母崔氏固止之,嶠絕裾而去。既至,屢求返命,朝廷不許,會琨死,除散騎侍郎。嶠聞母亡,阻亂不得奔喪、臨葬,固讓不拜,苦請北歸。詔曰:「凡行禮者,當使理可經通。今桀逆未梟,諸軍奉迎梓宮猶未得進,嶠以一身,於何濟其私難而不從王命邪!」嶠不得已受拜。 初,曹嶷既據青州,乃叛漢來降。又以建康懸遠,勢援不接,復與石勒相結,勒授嶷東州大將軍、青州牧,封琅邪公。
六月,甲申,以刁協為尚書令,荀崧為左僕射。協性剛悍,與物多忤,與侍中劉隗懼為帝所寵任;欲矯時弊,每崇上抑下,排沮豪強,故為王氏所疾,諸刻碎之政,皆雲隗、協所建。協又使酒放肆,侵毀公卿,見者皆側目憚之。 戊戌,封皇子晞為武陵王。
秋、また後日 131027
劉虎自朔方侵拓跋鬱律西部。秋,七月,鬱律擊虎,大破之。虎走出塞,從弟路孤帥其部落降於鬱律。於是鬱律西取烏孫故地,東兼勿吉以西,士馬精強,雄於北方。 漢主聰寢疾,征大司馬曜為丞相,石勒為大將軍,皆隸尚書事,受遺詔輔政。曜、勒固辭。乃以曜為丞相、領雍州牧,勒為大將軍、領幽、冀二州牧,勒辭不受。以上洛王景為太宰,濟南王驥為大司馬,昌國公顗為太師,硃紀為太傅,呼延晏為太保,並錄尚書事;范隆守尚書令、儀同三司,靳准為大司空、領司隸校尉,皆迭決尚書奏事。癸亥,聰卒。甲子,太子粲即位。尊皇后靳氏為皇太后,樊氏號弘道皇后,武氏號弘德皇后,王氏號弘孝皇后;立其妻靳氏為皇后,子元公為太子。大赦,改元漢昌。葬聰於宣光陵,謚曰昭武皇帝,廟號烈宗。靳太后等皆年未盈二十,粲多行無禮,無復哀戚。 靳准陰有異志,私謂粲曰:「如聞諸公欲行伊、霍之事,先誅太保及臣,以大司馬統萬機,陛下宜早圖之!」粲不從。准懼,復使二靳氏言之,粲乃從之。收其太宰景、大司馬驥、驥母弟車騎大將軍吳王逞、太師顗、大司徒齊王勱,皆殺之。硃紀、范隆奔長安。八月,粲治兵於上林,謀討石勒。以丞相曜為相國、都督中外諸軍事,仍鎮長安;靳准為大將軍、錄尚書事。粲常游宴後宮。軍國之事,一決於准。准矯詔以從弟明為車騎將軍,康為衛將軍。 准將作亂,謀於王延。延弗從,馳,將告之;遇靳康,劫延以歸。准遂勒兵升光極殿,使甲士執粲,數而殺之,謚曰隱帝。劉氏男女,無少長皆斬東市。發永光、宣光二陵,斬聰屍,焚其宗廟。准自號大將軍、漢天王,稱制,置百官,謂安定胡嵩曰:「自古無胡人為天子者,今以傳國璽付汝,還如晉家。」嵩不敢受;准怒,殺之。遣使告司州刺史李矩曰:「劉淵,屠各小丑,因晉之亂。矯稱天命,使二帝幽沒。輒帥眾扶侍梓宮,請以上聞。」矩馳表於帝,帝遣太常韓胤等奉迎梓宮。漢尚書北宮純等招集晉人,堡於東宮,靳康攻滅之。准欲以王延為左光祿大夫,延罵曰:「屠各逆奴,何不速殺我!以吾左目置西陽門,觀相國之入也;右目置建春門,觀大將軍之入也!」准殺之。
冬、また後日 131027
相國曜聞亂,自長安赴之。石勒帥精銳五萬以討准,據襄陵北原。准數挑戰,勒堅壁以挫之。冬,十月,曜至赤壁。太保呼延晏等自平陽歸之,與太傅硃紀等共上尊號。曜即皇帝位,大赦,惟靳准一門不在赦例。改元光初。以硃紀領司徒,呼延晏領司空,太尉范隆以下悉復本位。以石勒為大司馬、大將軍,加九錫,增封十郡,進爵為趙公。 勒進攻准於平陽,巴及羌、羯降者十餘萬落,勒皆徙之於所部郡縣。漢主曜使征北將軍劉雅、鎮北將軍劉策屯汾陰,與勒共討准。
十一月,乙卯,日夜出,高三丈。 詔以王敦為荊州牧,加陶侃都督交州諸軍事。敦固辭州牧,乃聽為刺史。 庚申,詔群公卿士各陳得失。御史中丞熊遠上疏,以為:「胡賊猾夏,梓宮未返,而不能遣軍進討,一失也;群官不以仇賊未報為恥,務在調戲、酒食而已,二失也;選官用人,不料實德,惟在白望,不求才幹,惟事請托,當官者以治事為俗吏,奉法為苛刻,盡禮為諂諛,從容為高妙,放蕩為達士,驕蹇為簡雅,三失也;世之所惡者,陸沈泥滓;時之所善者,翱翔雲霄。是以萬機未整,風俗偽薄。朝廷群司,以從順為善,相違見貶,安得朝有辨爭之臣,士無祿仕之志乎!古之取士,敷奏以言;今光祿不試,甚違古義。又舉賢不出世族,用法不及權貴,是以才不濟務,奸無所懲。若此道不改,求以救亂,難矣!」 先是,帝以離亂之際,欲慰悅人心,州郡秀、孝至者,不試,普皆署吏。尚書陳頵亦上言:「宜漸循舊制,試以經策。」帝從之,仍詔:「不中科者,刺史、太守免官。」於是秀、孝皆不敢行,其有到者,亦皆托疾,比三年無就試者。帝欲特除孝廉已到者官,尚書郎孔坦奏議,以為:「近郡懼累君父,皆不敢行;遠郡冀於不試,冒昧來赴。今若偏加除署,是為謹身奉法者失分,僥倖投射者得官,頹風傷教,恐從此始。不若一切罷歸,而為之延期,使得就學,則法均而令信矣。」帝從之,聽孝廉申至七年乃試。坦,愉之從子也。
靳准使侍中卜泰送乘輿、服御,請和於石勒,勒囚泰,送於漢主曜。曜謂泰曰:「先帝末年,實亂大倫。司空行伊、霍之權,使朕及此,其功大矣。若早迎大駕者,當悉以政事相委,況免死乎!卿為朕入城,具宣此意。」泰還平陽,准自以殺曜母兄,沈吟未從。十二月,左、右車騎將軍喬泰、王騰、衛將軍靳康等相與殺准,推尚書令靳明為主,遣卜泰奉傳國六璽降漢。石勒大怒,進軍攻明;明出戰,大敗,乃嬰城固守。 丁丑,封皇子煥為琅邪王。煥,鄭夫人之子,生二年矣,帝愛之,以其疾篤,故王之。己卯,薨。帝以成人之禮葬之,備吉凶儀服,營起園陵,功費甚廣。琅邪國右常侍會稽孫霄上疏諫曰:「古者凶荒殺禮,況今海內喪亂,憲章舊制,猶宜節省。而禮典所無,顧崇飾如是乎!竭已罷之民,營無益之事,殫已困之財,修無用之費,此臣之所不安也。」帝不從。 彭城內史周撫殺沛國內史周默,以其眾降石勒。詔下邳內史劉遐領鼓城內史,與徐州刺史蔡豹、泰山太守徐龕共討之。豹,質之玄孫也。 石虎帥幽、冀之兵會石勒攻平陽,靳明屢敗,遣使求救於漢。漢主曜使劉雅、劉策迎之,明帥平陽士女萬五千人奔漢。曜西屯粟邑,收靳氏男女,無少長皆斬之。曜迎其母胡氏之喪於平陽,葬於粟邑,號曰陽陵,謚曰宣明皇太后。石勒焚平陽宮室,使裴憲、石會修永光、宣光二陵,收漢主粲已下百餘口葬之,置戍而歸。 成梁州刺史李鳳數有功,成主雄兄子稚在晉壽,疾之。鳳以巴西叛,雄自至涪,使太傅驤討鳳,斬之;以李壽為前將軍,督巴西軍事。閉じる