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曹丕の年表

つくったところまで、あげて起きます。
つくっていることを、忘れてしまいそうなので。

187年(1歳)
11月、曹丕の祖父・曹嵩が太尉となる。
冬、豫州の沛国の譙県で生まれる。母の卞氏は、延熹3年(160)12月に斉郡の白亭で生まれ、ときに28歳。
33歳の曹操は禍乱を避け、病と称して故郷の譙県にいた。県の東50里に舎を築てて閑居した。
このとき、甄氏は6歳、郭氏は4歳。

曹丕の妻は、いずれも年上なんだ。

孔融は35歳、陳琳は31歳、阮瑀は21歳、繁欽は18歳、徐幹は18歳、楊脩は13歳、劉楨は13歳、応瑒は13歳、王粲は11歳、呉質は11歳。

曹丕と交友した人は、みんな年長。建安文学の人たちは、のきなみ曹丕より年上で、かつ同年代。かつ同時期に死にまくる。曹植にいたっては、もっと年齢の差がある人たちと付き合ったのね。楊脩も、若者のイメージがあったが、曹植よりだいぶ上である。


188年(2歳)
2月、黄巾の白波が、太原・河東をかこむ。
4月、曹嵩が太尉をやめる。8月、曹操が典軍校尉に。

189年(3歳)
4月、霊帝が崩じる。9月、董卓が献帝を立てる。
曹操を表して驍騎校尉とするが、曹操は東帰する。

190年(4歳)
正月、袁紹を盟主に董卓と戦う。曹操は行奮武将軍。
3月、献帝が長安にゆく。黄巾が青州に入る。
蔡琰が南匈奴の捕虜となり、左賢王の2子を産む。

191年(5歳)
2月、董卓が太師となり、諸侯の上。
7月、袁紹が表して曹操を東郡太守とする。
『典論』自序で、5歳のときに世が乱れて、射術を学んだとする。

「世が乱れた」の意味は、董卓と袁紹のせいである。


192年(6歳)
正月、曹操が頓丘に進軍する。 『典論』自序で、射術を知り、騎馬を学んだと。
曹操は兗州牧に任じられ、青州の黄巾を破って兵30万人を得る。曹植が産まれた。
王粲が荊州に乱を避け、劉表をたよる。

193年(7歳)
正月、曹操が鄄城に軍をとどめる。夏、定陶に進軍する。
6月、曹嵩が瑯邪に乱をさけ、董賢の部下に殺される。
秋、曹操が、彭城で陶謙を攻撃する。

194年(8歳)
2月、曹操が彭城から帰る。4月、陶謙を責めて、瑯邪・東海にいたる。同月、呂布と濮陽で戦う。9月、鄄城に帰る。

曹操が兗州を失いそうになるとき、曹丕は着々と教育を受けていたのだ。物心がついたときから、董卓以降の時代である。こんななかで献帝を尊重するのは、かなり「訓練」が必要である。後漢の治世を見ていないのだから。

『典論』自序で、騎射ができ、つねに曹操に従軍したとする。文帝紀 注引『魏書』で、8歳で文をつづれ、逸材があったと。
曹操が呂布に敗れて、兗州を失った。孫策が長江を渡って、江東を攻めとった。

195年(9歳)
正月、曹操が定陶で呂布をやぶる。8月、雍丘で張超をかこむ。10月、献帝が曹操を兗州牧とする。
甄氏が14歳で、袁煕の妻となる。

196年(10歳)
2月、曹操が建徳将軍となる。6月、鎮東将軍、費亭侯。
7月、献帝が洛陽にいたる。8月、曹操が洛陽にいたり、領司隷校尉、仮節鉞、録尚書事。 9月、曹操が献帝を許県に迎えて、大将軍・武平侯となる。
10月、曹操が袁紹に大将軍をゆずり、司空・車騎将軍となる。このとき曹操は屯田を興す。曹沖が生まれた。
曹操の家属が、鄄城から許県にうつる。

197年(11歳)
正月、曹丕は曹操にしたがい、宛城で張繍を攻めた。張繍が降ったが叛き、曹操は流矢をうけた。曹昂と曹安民が殺された。曹丕は騎馬がうまいので、逃げることができた。

『典論』自序では、10歳とするが、曹丕は11歳である。

曹操の正妻の丁氏が帰家してしまい、卞氏が正妻となる。

曹丕が10歳から11歳にかけて、家族歴の大きな転換期だ。兗州から豫州に引越があり、張繍への従軍があり、兄を失い、丁氏が去って卞氏が正妻となり。袁術が皇帝に即位したし。


198年(12歳)
12月、曹操が徐州を攻めて、呂布を殺す。

199年(13歳)
春、袁紹が公孫瓚を殺す。河北4州・兵10万を得て、南下して曹操を攻める。
阮瑀が曹操の司空軍謀祭酒となる。

200年(14歳)
10月、曹操が官渡で袁紹をやぶる。曹丕は従軍して、官渡に柳を植えて記念とした。『柳賦序』で回想される。
孫策が死に、孫権がついだ。

201年(15歳)
4月、曹操は袁紹を倉亭でやぶる。
9月、曹操が劉備を撃つ。劉備は劉表にはしる。
孫権が巨象をみつぎ、6歳の曹沖が重さを測る。

202年(16歳)
5月、袁紹が病死する。
9月、曹操が袁尚と袁譚に連勝する。
蔡琰が曹操に買い戻され、董祀にとつぐ。曹丕は『蔡伯カイの女の賦』をつくる。

203年(17歳)
4月、曹操が鄴城に進軍する。
曹丕は『黎陽作』の詩4編をつくる。

204年(18歳)
8月、鄴城をおとす。曹丕が甄氏をめとる。『典論』内誡がある。
孔融は曹操に文書をおくり、曹丕の嫁取りを皮肉った。
9月、曹操が冀州牧を兼任。陳琳くだる。劉楨は曹操に従軍して鄴城を攻めた。

205年(19歳)
正月、曹操は南皮にすすみ、袁譚を殺して冀州を平定する。曹丕は鄴城を留守する。
3月、曹丕と族兄の曹真が、鄴城の西で狩りをする。『猎游』の詩をつくる。
4月、曹丕が南皮にいたる。
5月、曹丕と、徐幹・応瑒・陳琳・阮瑀・劉楨・呉質・曹真・曹休らが、南皮で暢遊・歓会する。→文学

206年(20歳)
正月、曹操が并州に高幹をせめ、曹丕が鄴城を留守する。曹丕はしばしば狩りにでて、冀州別駕従事の崔琰に諫められる。『魏志』崔琰伝に諫めた記事がある。『崔琰に与ふる書』をつくる。曹叡が誕生する。

曹操が旧袁紹の領土を平定しているときに、曹丕の創作活動は、もっとも捗ったらしい。冀州で曹操が手に入れた文人と、遊んでばかりである。

前年8月に東征の管承が海島に至る。曹丕が『蒼海賦』をつくる。

207年(21歳)
曹丕が鄴城を守る。8月、曹操は塞外で烏桓をくだす。

「魏王」として鄴城にいる時間は、外征ばかりの曹操よりも、曹丕のほうが長いかも知れない。ちゃんと検証せねばならない。

曹丕は『燕歌行』をつくり、『弾棋賦』をつくる。また『有司 田畴の封を受けざるを劾めて、宜しく官を免じ刑を加ふべきの議』をつくる。
  遼東の公孫康が、袁尚・袁煕を殺す。劉備が諸葛亮をむかえる。
徐幹が曹操に帰して、司空軍謀祭酒掾属となる。

208年(22歳)
5月、曹沖が死に、曹丕が誄文をつくる。→文学
7月、曹操が荊州を攻め、冬に赤壁で負ける。
曹丕が『玄武陂に作る』をかく。荊州に従軍して、『征を述する賦』をつくる。『物に感賦』でも、荊州のことをうたう。『陌上桑』にも、荊州で王粲を得たことがある。

209年(23歳)
3月、曹丕が父に従って孫権を攻め、譙県で水軍を治める。

皇帝になってから執拗に曹丕が孫権を攻めるが、これが初回である。孫権との関係は、ここから始まる。皇帝になってから、初めて関係したのではない。曹操の生前は、曹操ばかり見てしまうので、気づかないけど。決して孫権について「経験不足」ではなかろう。

7月、渦水から淮水に入り、合肥に駐屯する。『浮淮賦』にある。
12月、父に従って譙県にもどる。

210年(24歳)
曹丕は父に従って鄴城にかえる。
鄴城で『劉勛の妻 王氏に代りて作る』、また『出婦賦』をつくる。
冬、曹操が銅雀台をつくれと命じる。
阮籍が生まれる。

211年(25歳)
正月、献帝が曹丕を、五官中郎将にして官属をおく。丞相の副手となる。
7月、曹操が関中を攻めて、曹丕が鄴城を留守する。卞氏に従って、孟津に留まる。『繁欽集の序』をつくる。曹植が『離思の賦』をつくる。曹丕が『感離賦』をつくる。
『離居賦』『鶯賦』、楽府の『猛虎行』『雑詩・漫漫 秋の夜長』をつくる。曹真、曹丹、阮瑀、呉質、陳琳、徐幹、王粲らと南皮であそび、『戒盈賦』『夏日詩』をつくる。『善哉行・有美一人』をつくる。
官属をあつめて、「君と父との先後問題」を議論する。

この議論を吹っかけたこと自体が、若気の至りだったと方北辰氏に批判されているが。25歳ではじめて全権を代行したら、そりゃあ舞い上がっちゃうよね。

劉備が益州に入りやがる。
曹植が平原侯となり、大軍に従い出征する。応瑒が関中にゆき、洛陽にもどって、転じて五官将文学となる(もとは平原侯庶子だった)。徐幹・劉楨が五官将文学となる。

212年(26歳)
春、曹氏の父子が銅雀台であそび、弟たちと賦頌をつくる。曹植のほうが優れていると判定され、曹丕がくさる。『登台賦』『銅雀詞』『芙蓉池作』詩、『雑詩・西北有浮雲』、楽府『善哉行・上山采薇』をつくる。
『繁欽に答ふる書』をつくる。
夏、曹丕は文学・侍従の属官をあつめる。劉楨と呉質が、甄氏を直視して礼を失する。呉質が朝歌長となる。曹操から懲罰される。
10月、曹丕は父にしたがって孫権を攻める。『典論』自序で、荀彧と弓術について話す。 阮瑀が病死する。曹丕は『寡婦賦』『寡婦』詩をつくる。
劉備が劉璋を攻める。

213年(27歳)
4月、曹丕は父に従って鄴城にかえる。
5月、曹操が魏公を受ける。魏国は建てられたが、太子は立てず。曹丕と曹植が、太子の地位をめぐって争奪を始める。
劉備が雒城をかこみ、龐統が戦死する。

214年(28歳)
7月、曹丕は父に従って孫権を攻める。曹植が鄴城を留守する。曹植の職務をたたえ、曹植を太子にしようと考える。

鄴城の留守を、曹丕も曹植も行う。「内政のために、孫権を攻める」という仮説は、荀彧を殺すため、曹丕が受禅するため、などいろいろあるが。後継者に留守させて、手腕を試すため、という話も作れそう。っていうか曹操の東征は、孫権その人を屈服させるためでなく、他にも東方に用件があったと考えねば、つじつまが合わない。曹操と孫権の、敵対もしくは協調という評価軸では、説明がうまくゆかないのだ。

劉備が成都を攻めとり、益州を得る。

215年(29歳)
3月、曹操が張魯を攻める。
5月、曹丕が父の命に応じて、孟津にゆく。官渡を通過して、『柳賦』をつくる。孟津に至り、『呉質に与ふる書』をつくる。→文学

216年(30歳)
5月、曹操が魏王にすすむ。太子はまだ立てず。
10月、曹丕は父に従って、孫権を攻める。11月、譙県にいたる。

曹操が関中を攻めるとき、張魯を攻めるとき、劉備を攻めるとき、曹丕は従軍しない。もっぱら孫権を攻めるときだけ、従軍する。曹丕は東半分、という計画があったのか。曹丕が皇帝になったとき、(諸葛亮が南征して関中に出てこないという事情があるにせよ)蜀漢を放置する。曹丕はなぜ西方に関心がうすいのだろう。っていうか、西方のほうが遠いのだから、曹操の息子たちがんばれよ。夏侯淵がつらいじゃん。


魏王の太子の時代

217年(31歳)
4月、曹操が天子の旌旗をもらう。
9月、曹丕は父に従って鄴城にかえる。
10月、曹操が12旒の王冠をもらう。同月、曹丕が魏王の太子となり、太子官属をおく。
大疫があり、王粲・徐幹・応瑒・陳琳・劉楨らが死ぬ。曹丕が『王朗に与ふる書』を提出して、建安文学の撰述をがんばる。→裴注

218年(32歳)
曹丕が、徐幹・応瑒・陳琳・劉楨・阮瑀・王粲らの文集を編定する。『又た呉質に与ふる書』をつくる。6人の建安文学を評論する。

219年(33歳)
9月、魏諷が鄴城を攻める。曹丕が、鄴城の留守として、魏諷らを殺す。ときに曹操は長安にいて、楊脩を殺す。
劉備が漢中王となる。関羽が襄陽・樊城を攻めて、中原を震わす。孫権が呂蒙をつかい、関羽から荊州をうばう。

魏王の時代

220年(34歳)
正月、曹操が洛陽にいたり、病死する。66歳。
曹丕が鄴県で魏王をつぎ、丞相となる。
2月、曹操を高陵でほうむり、諸侯を就国させる。
6月、曹丕が孫権を南征すると称する。7月、譙県にいたる。
10月、曲蠡にいたり、29日に皇帝となる。黄初と改元。
12月、洛陽にいたり、漢の北宮におり、建始殿にのぼり、郡臣と接見する。

魏帝の時代

221年(35歳)
正月、長安、譙、許昌、鄴、洛陽を五都とする。
6月、甄氏を鄴県で廃して殺す。
8月、使者をおくり、孫権を大将軍・呉王とする。
臨菑侯の曹植の爵位をおとす。劉備が成都で皇帝に。

222年(36歳)
2月、西域の諸国がくる。西域に戊己校尉をおく。
3月、はじめて宗室の封爵の制度を定める。
10月、みずから首陽山の東麓をえらび、陵墓の地とする。『終制』をつくる。同月、許昌から孫権を南征する。
孫権は黄武と改元して、曹魏を離脱して自立する。

223年(37歳)
3月、洛陽にもどる。
5月、諸王を京師に朝させる。
6月17日、相称が洛陽で死ぬ。
9月、曹丕が許昌にいたる。
劉備が死に、諸葛亮が丞相となり、呉蜀が修好する。

224年(38歳)
3月、洛陽にもどる。
7月、許昌にいたり、大軍を興して伐呉する。
9月、広陵にいたり、長江は水がみなぎり、風邪がつよい。船が渡れないので軍をひく。
10月、許昌にいたる。

225年(39歳)
3月、許昌から伐呉する。
5月、譙県にいたる。
10月、陸路から広陵にゆき、長江にのぞんで観兵する。ときに寒くて、川がこおる。船が長江に入れないので、軍をひく。

226年(40歳)
正月、許昌にいたる。南門がくずれる。

曹丕の動きは、曹操が存命のときと同じだ。ただ行動する経路に、洛陽というバリエーションが加わっただけ。

許昌に入らず、洛陽にゆく。
3月、九華台を築く。4月、『鮑勛を誅す詔』を発する。 5月16日、病気になる。曹真・陳羣・曹休・司馬懿に、曹叡をゆだねる。翌日、洛陽で死ぬ。『太子に遺詔す』をつくる。
6月9日、首陽山の東麓に葬られる。王弼が生まれる。140215

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